第7話


 だめだ……今夜はもう、時間の無駄かも。

 麻衣はノートパソコンを閉じると、背後のベッドに寝転がった。

 枕を掴み、腹いせにパンパンと叩く。服は、すでにパジャマ代わりのジャージに着替えていた。狭いワンルームに押しこんだベッドの上では、一度寝返りをうっただけで目の前に壁が現れる。続けてそれを力一杯殴りたくなり、麻衣はどうにか自制した。

 いくら書いてもろくなメールは来ないし……皆、ちゃんとプロフ読んでるのかしら。

 先月から、麻衣は『だけこん』メンバーの助言もあって、ネットの結婚情報紹介サービス一本に婚活の場を絞っていた。

『なまじ見栄えが良すぎるとね、外見だけで寄ってくる相手の応対で一杯一杯になっちゃうから、実際に出会う婚活パーティ系は効率が悪すぎるでしょ』

 水沼も過去に同様の状況に陥った経験があるらしく、麻衣の苦労を知ると、お互い他人からみたら贅沢な悩みだよねぇ、と笑いながらそうアドバイスしてくれた。

『大手の真面目な、写真のアップが任意のサイトを選んで、プロフィールだけしっかり登録して相手を募ってみれば、少しはマシになるはずよ。根本的な解決策には遠いけど、少なくとも、美人だ、ってだけで寄ってくるどうしようもない輩は減るはずだから』

 水沼の助言どおりにしてみると、確かに麻衣の容姿に惹かれた男は現れなくなった。

 だが、状況は大きく改善はしなかった。

 麻衣の結婚相手に求める条件は多くない。譲れないのは子供を絶対につくらない、研究生活は続ける、という二点だけで、あとは生理的にどうしても受け入れられない男はちょっとなぁ、というくらいだ。完全な無職をもう一人養うのは収入的にいささか厳しいかもしれないが、完全無職の男性が登録できるサイトはほとんど無い。

 だが、それらを正直に記し、プロフィールと希望を記載していくと、できあがったのは出産に関する件以外、異様に間口の広い、ほとんど誰でもOKと言わんばかりの女性データだった。

 やっぱり適当に、条件を加えるべきだったのかな。でも、望んでもいない要求を増やして、本当に子供が居なくていい、って人を逃したら勿体ないしなぁ。

 当然、登録するなりメールは沢山押し寄せた。スパムまがいのコピペメールを片端から削除しても、それでもなお多数残った。

 それらを読んで麻衣が真っ先に知ったのは、世間には、女性の容姿が気になって仕方がない男性が想像していた以上に多い、という現実だ。

 クリスマスを過ぎたとはいえ、まだ二十代半ばの麻衣が、実質的に、子供を産まないという要求一点だけで、あとは男性にとって都合の良い、ほぼ制約の存在しない条件で婚活をおこなってみると、返ってきたメールには、麻衣が容姿に恵まれない……ありていに表現すれば不美人だろうと決めつけたものが大多数だった。

 身元確認が必要なサイトだから、さすがに露骨に侮辱的なメールを送ってきた者は少ない。しかしどのメールも真っ先に写真の送付を求め、頻繁に『自分は他人の外見には気にしない性格ですので』といった自己紹介を読まされると、気にしないならそもそも書くな、写真を要求するな、と反論したくなったのは事実だ。『どんなに不細工でも子供は可愛いものですから、外見など気にせず子供を』などというメールを読んだ時には、発作的に写真を添付して返信するところだった。

 しかし、憤り以上にいろいろと考えさせられた。過半の男性にとって、気にする気にしないを含めると、結婚を決めるなにより大切な条件はまず容姿なのか。子供の有無は、結婚における重要な要素だと麻衣は思っていたが、そんな自分が滑稽な気さえしてきた。

 もっとも、多数のメールがあれば、その中には少数ではあっても常識的な内容の、ちゃんと誠意の込められたメールも混じっていた。

 それらには麻衣もきちんと返事を送り、その中のさらに何割かとは、その後幾度かメールのやりとりをした。

 とくに熱心な何人かからは、実際に会いませんか、との提案もうけた。

 気になる相手が存在しなかったわけではない。

「一人でこんな事してても……どうにもならないよね」

 呟きながら、枕をギュッと抱えつつ、天井を見あげる。

 だが、

 結局麻衣はそれらの誘いを、一度も会うことなく全て断った。



「ごめんね、わざわざ呼びだして。仕事、平気だった?」

 平日の夜、麻衣はあのコーヒーショップにいた。今日は『だけこん』の日ではないから、店内のテーブル席だ。『だけこん』のない日にこの店にくるのは初めてだった。

「いえ、大丈夫です」

 済まなそうな水沼に、麻衣は笑って頷いた。

 『だけこん』は特に決まりのない、姓名不詳でも参加の許される緩い集まりだ。

 だから連絡先を告げる義務はないが、同時にそれを禁止してもいない。実際には、ある程度以上親しくなった同性同士なら、メアドを伝えあうくらいは普通だった。人数の不足した合コンに誘い合ったり、極端な例では婚活パーティの会場から『条件に完璧に一致した男発見、いますぐ来て』などと呼びだして会場外で紹介したりすることもある。

「最近、姿を見なかったけど、康本くんはいろいろ順調だったのかな? ネットを使うようにした、とは聞いたけど。それなら、なによりなんだが」

 麻衣とは久しぶりに顔をあわせる岸田がたずねる。

「わたしはまぁ、なんとなくで。……岸田さんこそ、その後女医さんとはどうなったんですか? あれから、またしばらくいらっしゃいませんでしたけど」

 あまり追求されたくなくて、麻衣は問いかえした。

 『だけこん』が日曜日の夕方なのは、婚活はやはり土日が活動のメインになるからだ。日曜の夕方、誰かと夕食を共にする予定が入っていない者が集まり始めたのが起源らしい。

 つまり交際が順調な場合、当然相手との予定を優先すべきで、『だけこん』の場にはあまり顔を出せなくなる。

「うん。忙しい女性で、なかなか直接会う機会が作れなかったんだけどね……確かに収入は豊かなんだが、何回か話してみると、予想以上に古風な価値観の人だった」

「つまり、ダメだったんですね」「ちょうど、康本さんとは入れ違いで戻ってきたのよ」

 水沼が笑うと、岸田は照れくさそうに頭をかいた。

「いや、やはりなかなか難しいなぁ。そろそろ諦めて適当な相手で手をうつか、とも考えるんだが、諦めての結婚というのも相手に失礼な気がするしなぁ」

「また随分と上から目線ですね」

 麻衣はからかうように指摘すると、周囲を見回した。

 テーブルに囲む中に、密かに恐れていた相手が含まれておらず、安心と、残念とが入り交じった複雑な気分のままたずねる。

「それで、水沼さんと岸田さんと佐伯さんのお三方が、わざわざわたしになんの用でしょう」

「いや、俺も呼びだされた側だよ」

 麻衣の質問に、岸田は付け加える。

「話は康本くんが来てから、との事だった。つまりこれで全員なんだろう?」

 岸田が首をかしげる。

 その前では、佐伯が一人、麻衣が現れる前からひどく緊張した面持ちで、せわしなく紙コップを幾度となく口に運んでいた。もうとっくに、中身は空になっている。

「ええ。これで……ねぇ、ちょっと」

 水沼はそう呟くと、肘で黙ったままの佐伯の脇腹をつついた。

 ……ああ。

 その姿を目の当たりにした瞬間、麻衣は今日呼びだされた話の一部始終が理解できた気がした。

 つまり、お二人はそういう関係になったんだ。

 それは、岸田も同様だったのだろう。

「なるほど。……水沼さん、佐伯くんに任せているといつまでも話が進まないんじゃないのかな。我々の間で、いまさらつまらん配慮も面子も必要あるまい。さっさと君が説明してくれないか」

「は、はい……もしかしたら二人とも、もう雰囲気で感づいてるかもしれないけど」

「すみません、自分たち、結婚することになりました!」

 水沼の言葉を遮り、佐伯はそう勢いよく告げると、突然深々と頭を下げた。

「え、どうしたんですか佐伯さん」「そうだよ佐伯くん、顔を上げたまえ」

「そうよ。ちょっと、なんでいきなり謝りだしてるわけ?」

 テーブルに顔を伏せたままの佐伯の隣で、水沼が、不満げに頬を膨らませる。

「事と場合によっては、わたしもいろいろと考え直さなきゃならなくなるんだけど」

「えっ? ど、どうして?」

 佐伯は顔をあげて、慌てて水沼へと向き直る。

「だって、この場であなたが頭を下げなきゃならない理由があるとしたら、康本さんと以前関係があった、くらいしかないでしょ」

「もしくは、俺と水沼さんが、そういう仲だった場合だね」

「いや、もちろんそんなわけでは全然なくて」

 佐伯は勢いよく首を横に振った。いかにも真面目な佐伯らしい狼狽えぶりだった。

「ただその、なんていうか……情報交換と交流の場である『だけこん』で、直接結婚相手をみつけるのは、ルール違反な気がして」

「まさか。そんなはずはないさ。確か、過去にも何組かいらした筈だよ」

 岸田を穏やかに答えると、やおら椅子から立ちあがり、二人にゆっくりと頭を下げた。

「この度はご婚約、おめでとうございます。お二人がどれほど良い人で、そして真剣にこれらの人生を共に歩める相手を求めていたか、その姿の一端なりとも眺めていた者として、この結婚はとても嬉しい。どうか、末永くお幸せに」

 日頃の気安い態度が嘘のような、岸田の改まった、そして心のこもった挨拶に、佐伯は改めて深々とお辞儀をし、水沼の目元が微かに潤む。

 麻衣も慌てて立ちあがり、二人に挨拶した。

「この度は本当におめでとうございます。あの、すごく嬉しいしお二人からのご報告が聞けて幸せです。それに、その……すみません、人生経験の差ですかね。なんか岸田さんのようにとっさに上手いお祝いの言葉が出て来ないんですけども、とにかく、よかったです」

「他人の結婚報告を聞く側ばかりの人生、ってことだから自慢にはならないよ」

 岸田は苦笑いを浮かべながら椅子に座りこんだ。

「でも、その経験から言わせてもらえば、今どき、婚約と結婚は別だからね。とくに佐伯くんは先程のようなうかつな言動を注意するように」

「は、はい」「佐伯さんの人柄を水沼さんはよくご承知ですから、大丈夫ですよ」

 麻衣が取りなすと、残念ながらそうかもねぇ、と水沼は微妙に照れる。その様が愛らしくて、岸田と麻衣は大いに冷やかした。

「それで、肝心の用件は? この報告のためだけに我々を呼びだした訳じゃないんだろう?」

 岸田の問いに、佐伯と水沼は態度を改めて頷いた。

「はい。結婚を決めてから二人で相談したんですが、やはり、『だけこん』の場が出会うきっかけだった以上、正式な式や披露宴とはまた別に、『だけこん』の皆様に、簡単にでもいいから直接ご報告する機会がつくれないものか、と思いまして」

「いつものこの店の一角を借り切っての、ただのお茶会でいいんです。一言、皆さんにお礼だけ……その集まりの幹事を、今日はお二人にお願いしたくて」

「結婚報告のお茶会、おめでたくていいじゃないですか! わたしはたいした事は出来ませんけど、ぜひ、お手伝いさせてください」

 麻衣は二人の頼みを聞くなり、嬉しさのあまり即答した。

 けれど、岸田は黙って腕を組んだままだった。

「……あの、岸田さん?」

「二人ともよく承知していると思うが……これは、そう簡単な話じゃないぞ」

「はい。自分も岸田さんほどではないとはいえ、ある程度の期間、『だけこん』に居着いていた人間です。危惧されている部分は理解しているつもりです」

 佐伯は頷いた。その横で、水沼が麻衣に説明する。

「いつだったか、宇渡さんが、一般的な婚活をしている人の成婚率について説明したこと、あったわよね」「……ありましたね、そんなことが」

 不意にその名前を出され、麻衣は僅かに動揺したが、表情には表さずに答える。

「『だけこん』に誘われて来る人は、社交的で基本ステータスが高い人が多いから、個性的な相手を求めているわりには成婚率は高めだけど、それでも恐らく二、三〇%……理想の相手と結ばれて現れなくなった人より、結婚を諦めて去った人の方が、ずっと多いわ」

「何も言い残さず去った全員が、良縁に恵まれなかった、とは考えたくないがね」

 岸田は付け足した。

「要は関係した全員が、素直に他人の結婚を祝える心境とは限らない、ということだ。その意味ではいきなり謝りだした佐伯くんの心情もわかる。面とむかって罵倒こそせずとも、どうしようもなく、二人を羨ずにはいられない者もいるだろう」

「現役であの場に出入りしているのは、基本、まだ婚活中の人だしね」

 水沼の説明に、麻衣は事情を理解したが、それでも言い返した。

「でも、やっぱり仲間が誰かと結ばれたのは嬉しいですよ。それに、お二人の結婚に希望を見いだす人だっているはずです」

 麻衣は力説した。

「もうご結婚がお決まりなので、失礼を承知で言わせて頂きますけど、あの佐伯さんでさえ相手が見つかったなら、自分だって、と勇気づけられる方もきっといらっしゃいます」

「……女性からそこまで言われたのは、久々だな」

 佐伯はぼやいたが、残りの二人はそうね、と力強く頷いた。

「そうだな。俺はつい悲観的な心配をしてしまったが、康本くんの意見にも一理ある。『だけこん』は決して狭量な人間の集まりじゃない。二人の結婚を素直に喜んでくれる者の方がずっと多いだろう。事前連絡を徹底しての自由参加、いつもと同じ店で、簡単なお茶会形式ならいいんじゃないか?」

 岸田がそうまとめると、二人はありがとうございます、と再び頭を下げた。

「それで、幹事に俺たちを選んだ理由は? まぁ、自分については予想はつくが」

「結婚後も残ってくださっているあのお二方を除けば、おそらく岸田さんが最古参です。すでに去られた、昔の方に連絡をとっていただくには適任かと」

「康本さんは、逆にもっとも最近現れた一人として、現役の方たちを誘ってほしいの。婚活中の人には先程みたいな配慮も必要でしょ。でも、全員の本音を確かめるのは無理だから……いっそ康本さんに、まだ何も気づいてません、って顔で誘って貰おうかな、と」

「また、わたしには随分な無茶振りですね。適役ですけど」

 それはかなり強引で図々しいお願いだったが、水沼には何かと世話になっている。麻衣は快く了承した。

「日程とかはまた改めて……皆さんの婚活の邪魔をしないよう、いい日を探します」

「どうせなら、新たな出会いの場にもなるようにしたいね」「それはもう」

 やがて、岸田の提案に佐伯が頷くと、主な話はすべて終わった。

「いつもならナシですけど、今夜は『だけこん』じゃありませんから、もしお時間がよろしければ、このあとご一緒に夕食でもいかがですか?」

 四人、そろって店を出たところで、佐伯が提案する。

「なに、奢ってくれるの?」

「はい。岸田さんにも康本さんにも、これからお世話になるので」

「バカ、冗談だよ。めでたい二人に払わせられるか。お祝いしなきゃならんのはこっちだろ」

 岸田は振り向くと、七三でいいか? と麻衣にたずねる。

「わたしは折半でも大丈夫ですけど。とんでもない寿司屋とかに繰りだすわけじゃないですよね? それに、岸田さんはプータローじゃなかったんですか?」

「そうだな、近くにパスタ屋があるからそこにしよう。特別美味い、ってわけじゃないが、俺が加わってすぐに、同じようにメンバー同士の結婚を祝った縁起のいい店だ。……生活費くらいは稼いでるよ。おそらく時給は康本くんよりずっと良いから心配するな」

「では、お言葉に甘えて六四で」

 七三では、自分の分だけを払っているのとあまりかわりがない。かといって折半を強く主張したら年上の岸田の顔を潰すことになる。そんなところが妥当か、と岸田も納得した。

 少し歩くぞ、と先頭に立つ岸田のすぐ脇を佐伯が追いかけ、麻衣と水沼が並ぶ形になる。

「あの、プロポーズの言葉とか、聞いてもいいですか?」

 麻衣は隣の水沼にそう問いかけた。

「ダメ!」

「えっ?」

 だが、真っ先に返答したのは前を歩く佐伯だった。

「そんなぁ、いろいろこれからの参考にさせてください」

 からかうように麻衣が抗議すると、佐伯は振り向いて真顔で手を振る。

「プロポーズされる状況にたどり着けたら、もう参考なんて必要ないだろ」

「こら、女同士の会話になに亭主面して顔挟んでるんだ。百年早い。俺にだっておまえに問いただしたいことが沢山あるんだよ」

 だが、佐伯は岸田に強引に肩を抱きかかえられ、そのまま前方へと連れ去られてしまう。

「康本さん、本当に聞きたいの?」「もちろんです」

 恥ずかしそうに照れる水沼は、年上であるにもかかわらずとても可愛らしかった。

「もしかして、あの日、一緒に車で帰ったことがきっかけですか? 水沼さんだけ違う路線だったから、わたしたちが下りてからは二人きりでしたよね」

「そうね。今振り返ると、たしかにあの日が分岐点だったかなぁ。あれ以来なんとなく二人でよく合うようになって……じゃ、ここだけの話にしておいてね」

 水沼は頷くと、照れくさそうに……でもその実、密かに誰かに自慢したくてたまらなかったのでは、と感じずにはいられない態度で、その言葉を口にした。

「仕事やめてきました、だって」「はい?」

 えへへへ、と頬を赤らめる水沼の横で、麻衣はおもわず問いかえした。

「あの……すみません、それってプロポーズですか?」

「そうよ。康本さんは、あの人が結婚しなければ、と思い詰めていた理由、知ってるでしょ」

 佐伯さんが結婚を希望していた理由は確か……

「それは……あっ!? えっ? だってそれじゃ……」

 以前、本人から聞いた説明を思いだし、麻衣はつい声をあげた。

「結婚してなきゃ評価されない会社だから、って触れられないほど苦手な女性と結婚しようとしていたのに……仕事をやめてきた、なんてそれは」

「『だけこん』のメンバー同士がね、ちょっといい雰囲気になったのは、わたしも過去に見たことがあるの……でも、わたしたちはそれ以前に、相手にそれなりの理由があって婚活の対象を限定していることを、知ってしまっているでしょ?」

「佐伯さんでいえば、出世のため、ですか」

「そう。たとえば目の前の相手にふと関心を抱いても、結婚に条件をつけている具体的な理由を知っていると、どこか気分が萎えちゃうのよ」

「判ります。しょせんは出世のためかぁ、って思っちゃいますよね」

「でも、あの人はわたしにプロポーズするために、その仕事を辞めてきてくれた」

 頬を染めて、幸せそうに水沼ははにかんだ。

「そんなのまったく想像外で……だから気がついたら、なにも考えずに『はい』って答えてたの」

 それは確かに……女心に刺さるかも。

 麻衣は納得した。

「完璧な不意打ちで……本当にずるいなぁ、って何度も思ったけど、もう後の祭りよね」

「まったく後悔などない笑顔で言われても。だけど、佐伯さんは一体どういう心境の変化だったんでしょうね」

「会社にはもともと、しばらく前から愛想がつきはじめていたみたい。今どき結婚しなきゃ出世させない、なんてオーナーの元で頑張ったって先が見えてるでしょ。それに、本当にただの偽装結婚でいいなら、お金さえあれば以外と簡単らしいわよ」

 それでは嫌なのは何故なのか。考え続けたら、やっぱり自分は誰かとちゃんと恋愛したいと望んでいるんだ、と気づいたんだって。と水沼は説明した。

「自分の将来や、これからの人生。婚活って、否応なくそれらと向きあうじゃない」

「それで、佐伯さんの恋愛相手の選択は水沼さんですか」

「今のところ、家族以外で触れる異性はわたしだけらしいから。結局選択肢がなかったんでしょ」

 どうみても照れ隠しだったが、浮気の心配がなくて楽だわ、と水沼は笑った。

「でも、水沼さんの方はそれでよかったんですか?」

 麻衣はもう許されるだろう、と気がかりだったことをたずねた。

「これまで水沼さんは、自分の求める理想の結婚相手像を『だけこん』の場でほとんど誰にも語っていませんよね。だからよほどの事情がおありかと……もし佐伯さんがお眼鏡にかなっていたなら、もっと以前にアプローチしていても良いと思うんですけど」

 公言しない、ということはそれ相応に厳しい条件なのだろう、と麻衣は予想していた。

「わたしの希望は、他愛ないことだったの」

 水沼は軽く肩をすくめた。

「両親と仲良く暮らせる人。孫を見せてあげられる人。逆に言えば……わたしに執着しない人。わたしの前で亭主面しない人。……表向きだけの夫婦でいられる人」

 前半はともかく、後半の条件に麻衣は目を見張った。

「わたし自身は、人生の伴侶は必要ないと考えていたから。でも両親には感謝してる。いい人たちだし。けれど二人の兄は未婚で、人生の晩年に孫くらいは抱かせてあげたくて」

「それならば、未婚の母でもよいのでは?」

「そういうのはダメな、田舎の古い人なのよ。娘の婿は下にもおかぬ扱いをするような……歳も歳だし、そろそろ同居も考えてる。だから、それを全部受け入れてくれて……でも、家族の前では良い旦那でも、わたし個人の前で亭主面されるのはまっぴらゴメンなの」

「……それは相当に、というか一方的な要求すぎて、いささか苦しいのでは?」

 予想していた以上の条件を聞かされて、麻衣はやや腰が引けていた。

「『だけこん』にしても、親族の前は親密な名目だけの旦那、というのは」

「でも、家庭内での地位は高いわよ。それに、相応の見返りは用意したつもりだから」

「見返り?」

 水沼はフフン、と細い腰をひねり豊かな胸を強調した。

「表向きだけとはいえ、一般的な夫婦生活を営む意思はあるってこと。康本さんも、結婚したい男がどれだけ女性の容姿や身体に執着しているか、身をもって知ったでしょ。どうせ孫も必要だし……わたしの希望を了承させる代償として、大概の性的な要求には応じる覚悟をしていたわ。多少病的や猟奇的でも構わない。精一杯、奉仕するつもりだったの」

 ……そうね。水沼さんは、わたしよりずっと胸元も豊かで、スタイルがいいし。

 けれどもし、自分が婚活をはじめる以前だったら、麻衣はそんな水沼の返答を嗤ったか、さぞかし軽蔑しただろう。自分の身体で埋め合わせができる、だなんて。

 しかし、実際に男性が自分を求める際の視線を知ってしまっては、水沼の返答を簡単に否定することはできなかった。

「日常生活で亭主面されるのは嫌だけど、ベッドの中でなら、多少のことは刺激と割り切って楽しめばいいんだもの。そういうことが決して嫌いな訳じゃないし……でも、ねぇ」

 そこまで口にしてから、妙に照れたような、乙女な口調で水沼は呟く。

「なのにどうしてわたし、セックスレス確定みたいな男にコロッといっちゃたのかなぁ」

 なんと返答したらいいのだろう。麻衣は悩んだ。

「自分が淫猥なつもりはないけど、まぁ、年相応のごく一般的な欲求はあるもの。まさか指一本しか触れられない男と結婚するとは、想像だにしたことがなかったわ」

「そういう面では、あれから状況は変わっていないんですか? その、慣れればこれから、二本三本と次第に触れられるようになるかと。そうすればいずれ」

 どうにか励まそうと麻衣の選んだ台詞に、返ってきたのはかなりアレな一言だった。

「まぁ、肝心なところには、一本でべつに用は足りるんだけど」

「……コメントしません」

 麻衣は呆れながら呟くと、前を歩く男二人の背中を眺めた。一旦は距離の離れた二人だったが、歩くのが次第にゆっくりになっていた。もうじき追いついてしまいそうだ。

 あちらの男性二人は一体なにを語り合っているのだろうか。

 水沼もその姿に気づいたのか、ふと歩調をゆるめ、話題をかえた。

「そういえば、康本さんの少し前に現れた渡久地さん、先日抜けたわよ、知ってた?」

「いえ。最近は足が遠のいていて……じゃ、意中のお相手が見つかったんですか?」

「ううん、そうじゃなくて、渡久地さんはこの四月から、国際NGOで途上国での公衆医療啓蒙活動に参加することに決めたんですって。だから二年間は、ここには来られません、って皆さんに挨拶していったわ」

 水沼の返答に、麻衣は一瞬驚き、なるほどなぁ、と納得した。

「そういえば、そもそもそういった活動に理解のある旦那さんを探していたんでしたね」

「『だけこん』に来て、沢山の人と話して、自問自答している間に気づいたそうよ。自分は本当は結婚したいんじゃなくて、新たな世界に飛びこむのが不安なだけなんだ、って。未知の世界への不安から、誰かに一緒にいて欲しいと望んでいるだけ。それなら、勇気を出して先に進めば、すぐにそんな存在は必要なくなる、って……彼女らしい選択よね」

「そうですね。……自分の心を理解できても、それを実行できる決断力はまた別ですし。素晴らしいと思います」

「……そうだな、決断力は重要だ」

 麻衣の言葉に、ついに追いついた岸田が振り向いた。

 よほど話が熱かったのか、岸田の手は佐伯の肩にまわされたままだった。

「こいつの決断力も、まぁ今回は認めてやろう」

「岸田さん、素面のうちから酔っぱらいみたいにからまないでください」

「『だけこん』は、決して意地をはる場じゃない。自分の望む条件を今一度見つめ直す場でもある。本当に結婚したいのか? その条件は譲れないのか? ……そしてもし違う答えにたどり着いたら、躊躇わず自分に正直になるべきだ。その意味で、渡久地さんも水沼さんも偉い」

「トラウマが原因で、譲れない条件がある場合もある。そんな心の傷を癒す場でもありますよね」

 麻衣が指摘すると、岸田は大きく頷いた。

「そのとおり、康本くんもよくわかっているじゃないか」

「だったら、そういう岸田さんはどうなんです。そろそろ、年収六百万稼いでいる女性、なんて意地は捨てたらどうですか?」

 それまで二人きりでいろいろと言われていたのだろう。反撃するぞ、とばかりに意気込んで佐伯は岸田を問いただした。

「何かと気もきくし懐も深いし、もちろんそれ以外の条件にも恵まれている。わざわざ無理難題をつきつけさえしなければ、岸田さんなら相手は選び放題でしょう。どうしてそこまで、理想の女性捜しに頑ななんです。そんなにも働きたくないんですか?」

 岸田は悔しげに拳を握りしめる。

「ぼくより、ずっと岸田さんのほうが男として上等なのに、いつも最後には自分からわざと話を壊すような真似を……納得いきませんよ」

「そりゃ、年収六百万はあくまで表向きだよ」

 佐伯の糾弾に、岸田はあっさり自分の条件が名目でしかないことを認めた。

「絶対プータローで居続けたいわけでもない。この時代、結婚相手がいくら高収入でも翌年には失職しているかもしれないからな。そうなったら、俺だって働くさ」

「だったら!」「康本さんになら、理解してもらえるかな」

 岸田は佐伯を無視して、麻衣を見た。

「おそらく他人は羨む。けれど美人に生まれて、人生損をしたな、って感じることはない?」

「損した、とは違いますが、余計な苦労が多いな、と感じることは確かにありますね」

 麻衣は頷いた。

「特に、婚活のようなその、容姿が大いに関係するような場では。いかにもトロフィーワイフ扱いされるは不愉快です」

「そうだろう。顔に惹かれたバカばっかり集まってくるだろうからな。……俺も、康本さんほどじゃないが、似たようなもんだよ」

 岸田は自嘲した。

「俺は純粋に自由に生きていきたくて、手に職をつけるために、司法試験を受けただけなんだぜ。ある程度の金がなきゃ、自由は守れないからな。なのに普通の婚活をしていると、東大卒の弁護士、って自己紹介に一行記してあるだけで、見事に『よし、こいつと結婚すれば働かなくていい!』って決めつけた女しか寄ってこない。自分はもう、一生仕事なんかしないつもりでな」

 それは……確かにそうなるかも。

 麻衣は直接的には、容姿に目がくらむ男性陣しか知らない。だが、女性の側では、男性にとっての容姿と同じ価値をもつのが、年収と社会的地位だというのは百も承知だ。

 そのアプローチ方法が男性以上により狡猾で、より粘着質だろう、とも想像がつく。

「一方で、仕事を続ける意思のある女性からの評価は大概こうだ。『うわ、この男って絶対に妻を家政婦扱いしそう』……なんだって、その二つしか反応がないんだよ?」

 岸田は両手を広げ、芝居がかった仕草で嘆いた。

「俺はただ、男に依存せず、かといって反発するのでもない、対等に互いを支え合える相手に出会いたいだけなんだ。それってそんなにもハードルの高い『だけこん』か?」

「専業主婦は、相手を支えていないわけではないと思いますけど?」

「でも、そんな女と結婚したら俺は仕事を辞める自由がなくなるだろ。俺は主夫だってこなせるのに。立場を逆にしたら成立しない、は決して対等な関係じゃないんだ。……対等でないと、人はどこかで卑屈になる。本音をいえば、多少条件がアンバランスだって構わないけど、妻から卑屈に接されるのだけは勘弁だ」

 岸田は大仰に嘆いた。

「もちろん、互いの得意分野がまったく違う凹凸の関係でも、対等の関係を築くことはできる。だから経済的な稼ぎがなくたって、なんらかの形でつり合ってくれるなら、それで充分なんだが。……料理が得意です、って大まじめに言われても、そんなのは俺だって得意だからなぁ」

「東大卒弁護士とつり合う特技ですか? それも大概無茶振りですが」

「世間の評価はどうだっていいんだよ。極端な話、いつも俺が安眠できる子守歌を歌える、なんてのでも構わない。俺には不可能だからな。だけど家事一切は不自由していないしむしろ好きだ。綺麗なお嬢さんには仕事の接待で飽き飽きしてる。よく居る専業主婦志願のアピールポイントは俺にとって大概的外れなんだ。しかもそういう連中は決まって、こいつは好条件とばかりに妙に下手に出てくるからな。それが嫌だ」

 理屈はわかる。その気持ちも。けど……おそらくはわたしも、端から見るとこうなのかな。

 麻衣は嘆く岸田の姿を眺めながら、我が身を省みずにはいられなかった。

「結局、卑屈にならず、自然に接してくれる相手を探していたら、ある程度年収のある女性にたどり着いた、ってわけだ。俺の両親は高卒で、バイトと奨学金で大学出たんだぜ。贅沢する趣味はないし、実際、年収なんて世帯で四百もありゃ充分暮らしていけるよ」

 岸田の話を聞いて、佐伯ははぁ、とため息をついた。水沼もだ。

 まったくこまった人だ。だからこそ、『だけこん』の現役最古参なんだろうけど。

「ならいっそ、遠回りでも一から恋愛結婚をしてみては? きっかけが恋愛なら誰も条件にこだわらないんじゃ」

「試してみたけど、この歳になるとそれももう一緒だなぁ。職業がバレるなり結婚を迫られたよ。歳がいってから、先を考えずに恋愛できる女性は少数みたいだな」

「まぁ、やんごとなき方々の結婚も学生恋愛の延長でないと難しいようですし、性別関係なく、打算抜きで恋愛のできる歳は限られているってことなんですかね」

 顔を見合わせる岸田と佐伯の後ろから、佐伯が軽い口調で声をかける。

「女性として言わせてもらえれば、ぶっちゃけ婚活の場では下手に出ている彼女たちも、実際に結婚してから後は、また態度がかわるとは思いますけど」

「かもな。環境が変われば関係も変わる……そのうち俺が慣れるのかもしれないし、稼ぎのない相手だって堂々と図々しくなるのかもしれない。よく、ピンとこない見合い結婚でも長年一緒に暮らしていれば愛情がわく、って言うからな」

 水沼の意見に岸田は頷いた。

「だけど、それは限定された家庭という環境で、目の前の存在を愛さなければ自分の存在価値はない、と追い込まれての生物的な反応でもある。つまり人として抱いた感情ではなく、動物としての環境への適応を愛情と錯覚しているわけだ。いわば、ストックホルムシンドロームと同じ構図なんだよな。そういう変化は、俺にはなんとなくなぁ……」

 そうぼやいてから、ハッと何かに気づいたように、岸田は立ち止まった。

「すまん、バカ話をしていたら肝心の店を通り過ぎる所だった。ここだよ、入ろう。……何より、せっかくのめでたい日に辛気くさい話をしてすまなかったな。さっきからの件はここまでだ」

 地下への階段を下りながら、岸田は振り向いた。

「佐伯くんが心配してくれる気持ちは嬉しいよ。だが俺は、長い人生結婚してみるのも面白そう、と思ってはいるが、絶対に結婚しなければ人としてダメだ、なんて感じたことは一度もない」

 岸田は笑った。大人の笑みだった。

「だからせいぜい自分のペースでのんびりとやるさ。これでも、けっこう婚活を楽しんでいるんだぜ。そういう『だけこん』だってアリだからな」



 飾らない、家庭的な雰囲気のイタリアンレストランだった。料理はリーズナブルで量も豊富で、美味だった。麻衣たち四人は二本目のワインを開けていた。

「それじゃ、以前希望なさっていたように、ご実家で同居はしないんですか?」

「無職になった男を、旦那です、って家に連れて帰るのも、なんかバツが悪いでしょ。次の仕事を探すにも、東京にいたほうが都合がいいし」

 ぶっきらぼうに水沼は答えたが、その真意は容易に透けてみえた。

「それに、いつの間にか長男もいずれ田舎に帰る気になっていたから……お前らに心配されるほど耄碌しとらん、って父には怒られちゃったし」

 佐伯が仕事を辞して誠意を示した以上、水沼が一方的に自分の希望を押し通すつもりはないのだろう。律儀な水沼らしい、と麻衣は感心した。

「ま、しばらくは二人で暮らすわ。リハビリにつきあう覚悟でね。……さて、それじゃそろそろ康本さんの恋バナに移ってもいいかしら」

「ほう」「待ってください」

 素早く食いつき、身を乗りだす岸田に、麻衣は慌てて手をふる。

「康本くんにも有望な話があるのかね。それはなによりだ」

「ありません。水沼さん、なにいってるんですか」

「あら、本当にないの? ……それなら別に、わたしもしつこく追求する気はないけど」

 水沼は意味ありげに笑うと、これみよがしに指を折った。

「康本さんが日曜日に現れなくなったのっていつからかしら。あら、宇渡さんがお見合いをして姿を見せなくなった時期と重なっているわね。……偶然って不思議ねぇ」

「そうですね、偶然ってありますよね」

「今日、しばらく外から店内の様子をうかがっていたのは何故かしら……もう一人くらい幹事が居ると、岸田さんも助かると思うのよね。宇渡さんとか、適任だと思うんだけど」

「やめてあげなよ、そういう言い方」

 追いつめられた麻衣に、助け船を出したのは佐伯だった。

「あの日、康本さんたちは二人並んで車の後部座席に座ったよね。ごく自然に。だから水沼さんが助手席になって、ぼくはとても感謝してるんだけど」

 佐伯の謝意に、麻衣は自分の頬が熱くなるのがわかった。

「改めて振り返ると、康本さんは最初から、宇渡さんに一番心を許していた。反発する気持ちも含めてね。それは親しさの証明だから。無論、自分を連れてきた、あの場では一番つきあいの古い相手なんだから、ごく当然なんだけど……本当にそれだけかな、って」

「それは、その……正直、自分でもよく判りません」

 麻衣はグラスに手を伸ばすと、残っていた赤ワインを一息に飲み干した。

「それが判るくらいなら、こんなに悩んだり迷ったりしていません」

「裏切られた、と感じなかった? 彼がお見合いをした、と聞いた瞬間」

 先程とは一転して、真剣な口調で、佐伯がたずねた。

「更に、それが上手くいってると知らされて、ショックじゃなかった?」

「婚活が目的の集まりですよ。お見合いをするなんてごく当然じゃないですか」

「自分をさしおいて知らない女性とよ。悔しくなかったの、って訊ねてるの」

 空になったグラスにワインを注ごうとしている麻衣を制して、佐伯はなおもたずねた。

「自分とは関係ない、って何度も言い聞かせなかった? 心の中で」

 ワインのおかわりを諦めた麻衣は、渋々頷いた。

「……言い聞かせました」

「わたしも同じよ。佐伯くんの存在を意識し始めた時、最初はとにかく自分に命じたわ。考えるな、彼は自分とは関係のない相手なんだから、って」

「まぁ、あの時はぼくに、ちょっといい話があったからね」

「この男はそれを平然とわたしに相談してくるし……もしあのタイミングでこっちに男が現れたら、絶対にそいつを選んでたのに」

 水沼は佐伯を軽く睨みつけると、麻衣へと向き直った。

「というわけで、意識しまいとしている、はもう、惹かれ始めている、って事なのよ」

「『だけこん』のメンバー同士で結ばれた例を、俺は他に三組ほど知っているが」

 岸田が、グラスのワインを回しながら語る。

「そのうち二組は、最初に自分を『だけこん』に誘った相手と結婚しているんだよな。婚活パーティや合コンのような特殊な場で、同性はともかく異性をこういう集まりに誘えるのは、よほど互いの相性が良かった場合と……縁に恵まれた場合だけだ」

 岸田は手を止める、ワインを一口飲んだ。そして労るように、麻衣を見つめる。

「康本くんも、あまり頑なにはならない方がいいと思うがな」

「……かも、しれません」「あっ!」

 麻衣は空になった自分のグラスのかわりに、水沼のグラスに手を伸ばした。たっぷりと注がれていた赤ワインを、再び一息に飲み干す。

「わたしはあの人が気になっている。確かにそうかもしれない。いつの間にか、あの人はわたしにとって初めて、自然体で向き合える男性になっていた。研究をしていてもお風呂に入っていても、気づくといつもあの人のことばかり考えているし、せっかく自分の条件に一致した誠実そうなメールが幾つも届いたのに、なにひとつ頭に入ってこない。あげくには、見知らぬ相手との交際メールに朋香ちゃんの話を書いていたりする。まったくわけがわからない。だからおそらく、皆さんの指摘どおりなんだろうとは思います」

 空になったグラスをドン、とテーブルに置くと、麻衣はどこか座った眼差しで、テーブルの上を見回した。

 さりげなく、岸田が自分の残っていたワインを差しだす。

「わたしはあの人がどうしようもなく気になっている。もしかしたら惹かれている、ひょっとすれば好きなのかも知れない、理不尽なことに。……けれど、それだからどうした、っていうんです」

 椅子から腰をうかせ、ひったくるようにそれを掴むと、麻衣は一瞬でそれを飲み干した。

「あの人はとっくに見合いをして、話はすでに進んでいる。朋香ちゃんの反応からしても、お相手はよく出来た素晴らしい女性のようです。だったら、いまさら自分の気持ちを認めてもなにひとつ意味がない。わたしになにをしろと? 朋香ちゃんを籠絡して味方に付けて、あることないことを吹き込んで狡猾に話を破談に持ちこむんですか? それとも結納の席に直接乗りこんで、過去に捨てられた女の芝居でもして泣けばいいんですか?」

 麻衣は一息にまくしたてた。

 ゼェハァ、と荒れた吐息が、他に物音一つないテーブルに響く。

 水沼と佐伯が、一瞬、互いの顔を見合わせた。そして、

「康本さん、ゴメン!」「申し訳なかった」

 次の瞬間、二人はそろって麻衣に頭をさげた。水沼など手をあわせて麻衣を拝んでいる。

「自分たちが上手くいったから、ってつい余計なお節介を」「そりゃ自分のことだもの。他人のわたし達に指摘されるまでもなく、ちゃんと考えてるわよね」

 二人の謝罪に、麻衣は拍子抜けしたかのように、トン、と椅子に腰を下ろした。

「ただ、一つだけ言い訳をさせてもらえば、見合い話がその後、順調に進んでいるとは知らなかったんだ」「てっきり、いつも同様に破談してると決めつけてたの。だって、正式な見合いをするようなお嬢さんが、血縁のない娘と暮らす男なんて選ぶ筈がない、と」

「……とてもできた、素晴らしい方のようですよ。詳しいことは何一つ知りませんけど、あの朋香ちゃんの反応だけで判ります。……いえ、いいんです。顔を上げてください」

 ゆっくりと、強ばっていた麻衣の表情が和らいでいく。

 やがて、麻衣は微笑んだ。

「お二方が、心からわたしを心配し、助言してくださったのは承知しています。自分でも気づいていましたけど、でも、今の今まで認めたくなかった……こうしてご指摘いただかなかったら、今後も、わたしはずっと強がっていた思います。自分には関係ないと……だから、助かりました」

 麻衣が謝罪を受け入れると、二人はホッとしたように息をつく。

 岸田が、すっかり空になった全てのグラスに、残っていたワインを少しずつ注いだ。

 ちょっと飲み過ぎちゃいました、と笑いながら、麻衣はそれにわずかに口をつける。

「だけど宇渡さん、そんな状況になってたんだ。知らなかった。近頃はてっきり、年度末で忙しくて顔を出さないものだとばかり」

「ええ。ですから……わたしは、どうしたらいいんでしょうね」

 そう呟くなり、突然、麻衣は顔を伏せる。

「だって……あの人は、あの家は何もかも違ったのに」

 そう……今なら認められる。わたしが子供を欲しくなかったのは、本当はただ親になるのが怖かったから。母親のようにはならないと、あんな家庭にはしないと、信じられなかったから。

 自分を、そして相手を。

 ウッ、とどうしようもなくこみ上げてくる嗚咽をこらえながら、麻衣は途切れ途切れに言葉を絞りだす。

「もっと早く……そうだと気づいていれば……わたしが……どうして……子供はいらない、なんて宣言を、あの人にさえしなければ……」

 それきり、

 三人の目の前で、麻衣はテーブルに突っ伏して、声もなく静かに泣いた。

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