第6話


 待ちあわせ場所に指定されたのは、圭人の家にほど近いホテルの地下にあるバーだった。

「ごめんなさい。急にお呼び出ししたのはわたくしなのに、遅くなってしまって」

「いえ、俺も少し前に来たところですから」

 圭人の前のグラスは、まだほとんど減っていなかった。

 スプリングコートを預けると、沙耶子は圭人の隣のスツールに滑りこむように座った。少しぎこちない口調で、バンブーを、と注文する。

「本当にお仕事帰りなんですね」

 そんな沙耶子を眺めて、つい圭人は正直な感想をもらした。今日の沙耶子は、ごく普通のOLのようなパンツスーツだった。

「やだ、宇渡様までそんな事を仰るんですか? わたくし、そんなに箱入りじゃありませんって何度も説明したのに。今日だって、上司に頼まれて少し残業してからきたんですよ」

「そりゃ判っているんですけど、なにしろ俺が日頃よく接するのは、沙耶子さんを目の中に入れても痛くないほど可愛がっている所長なので」

 笑いながら、圭人は軽くグラスを掲げた。沙耶子もあらたに置かれたグラスを手に、形ばかりの乾杯をする。

 本当に祝えるような結論は、二人の間にはまだ何一つない。

「先日、父から命じられました。今週末、宇渡様が結論を伝えにみえるから、お前もそれまでに気持ちを決めておくように、と」

 カクテルを一口飲むと、沙耶子は前を向いたまま、淡々と口にした。

「ですがその前に、一つだけおたずねしたい件があって、朋香ちゃんには申し訳ないけど、お時間を作っていただきました。……それに、宇渡様が結論を出された後にこういう話をするのも、フェアではないと思ったので。それほど、お時間はとらせませんから」

「朋香は大丈夫だよ。俺の帰りが遅くなる日はどうすればいいかよく判っている。……なんだろう、その質問っていうのは」

 余計な話題を挟まず、圭人は素直に水をむけた。沙耶子との間に、そのくらいの信頼関係はすでに生まれていた。

「もちろん、お見合いに関することなんだろうし。俺に答えられる内容ならなんでも」

「それに付随する、朋香さんについてですわ……お言葉に甘えて、率直にお伺いさせていただきますが」

 いったん言葉を切ると、沙耶子は自らを鼓舞するかのように、カクテルを一口飲む。

「宇渡様は、朋香さんを今後、一体どのようになさるおつもりですか?」

 ……たしかに、このうえなく率直に質問してきたな。

 圭人は軽く目を見開いた。さすがに、ここまで単刀直入にたずねられるとは予想していなかった。

「俺が、朋香の今後について決めているのは、本人の意思を優先する、それだけです」

「まったく優等生的な回答ですね」

 圭人の返事に、沙耶子はどこか不満そうに顔をしかめた。

「わたくし、そんな建前論を聞きたくて、わざわざお呼び立てしたわけではないんですけど」

「そう責められても、他に答えようがないんだ。俺は、あくまで朋香の後見人であって同居人だ。こうしろと、あれこれ指図していい保護者じゃない」

「しかし現実的には、あなたが言って聞かせれば、あの子は大概の内容をおとなしく受け入れるはずです。……わたくしは、酷なようですが、朋香ちゃんは私立中学を受験し寮に入るか、さもなくばお祖父様の家に移り住むべきだと思います」

 ……なんだって?!

「寮については心当たりがあります。わたくしの出身校は地方からの進学者と、家庭に問題を抱えた生徒のために寮を併設していました。学力的には朋香さんは大変優れていますし、卒業生であるわたくしの推薦があれば、問題なく入寮は認められるでしょう」

 おもわぬ提言に驚く圭人の前で、沙耶子はグラスに残っていたカクテルを一息に飲み干した。ショートの辛めのものをお任せで、とすぐさまおかわりを注文する。

「宇渡様には、身勝手で薄情な女だ、と幻滅されてしまったかもしれませんが」

「いや、そんなつもりはないけど」

 一瞬の動揺から立ち直った圭人は、小さく首を横に振った。

「わざわざ沙耶子さんがそう言いだすからには、理由があるんだろ?」

「ええ、もちろん。……宇渡様はこれまでに、自分があの子、朋香さんにとってどんな存在か、想像したことはあります?」

 沙耶子は新たなグラスを手に、スツールに座ったまま、圭人へと上半身をひねった。

「朋香さんと一緒にお買い物をした際、少しうかがいました。言葉では可愛らしくご不満を述べていらっしゃいましたが、態度は正直でしたわ。優しくて自分を大切にしてくれる信頼できるおじさま……彼女がそう感じるのも当然ですわね。おそらく事実ですもの」

「ありがたい評価ですね」

「ということはもし、彼女がこれから更に女性として成長し、恋をした時……その時彼女の前にあらわれた男性が、仮想敵として競わなければならない相手は、完全無欠で無償の愛を注いでくれるおじさま……つまり、宇渡様になります」

 ……えっ?

 思いがけない沙耶子の指摘に、圭人はグラスを手にしたまま固まった。

「それが同世代の彼氏にとって、どれほどタチの悪いライバルだか想像がつきますか? そもそも人生経験の差があるうえに、思い出補正まで。並の男子が太刀打ちできるはずありません。……無論、宇渡様に相応の覚悟がおありでしたら、それでも良いのですが」

「俺に一体どんな覚悟があればいいのでしょう?」

「十数年後、淑女に成長した彼女を自ら娶る覚悟があおりでしたら、結構だと思います」

 どうにか動揺を押し殺して問いかえした圭人だったが、沙耶子の容赦ない追撃に、今度こそ絶句した。

「宇渡様好みの女性に育つかもしれませんわね。朋香さんが二十五歳の時に、宇渡様は四十三歳ですか。世間では決して成立しない話ではないかと」

「いや、俺はそんなつもりは決して!」

「そんな情けない表情をなさらないでください。宇渡様が、そのような意図で朋香さんを養っているわけでないのは、よく承知しています」

 圭人の表情を横目で確認して、沙耶子はクスッと笑った。

 我に返った圭人は、気が動転しているのを誤魔化そうと、グラスを口に運んだ。だが、もう中身はとうに空だった。

「わたくしと同じでもよろしいですか? ……マスター、先程の一杯、とても美味しかったのでもう一度……ええ、宇渡様にも味わっていただきたいので」

 話し始めは緊張していた沙耶子だったが、狼狽える圭人の相手をしているうちに、随分落ちついてきたようだった。余裕の態度で、圭人の分のおかわりも注文する。

「ご安心ください。将来娶る愛娘の世話役として、適当な時期がきたら別れる予定で婚活をなさっている……宇渡様が、そんな人非人だと考えたことは一度だってありません」

「だったら、そんな心臓に悪い例は持ちださないでくれ」

「しかし、事実としてそういう一面もある、ということです。……特に男性が、血縁関係の存在しない娘を丁寧に養育する、という場合には」

 今の時代、母息子だって、可能性は零ではありませんけどね、と沙耶子は微笑んだ。

「宇渡様はその意図をお持ちでない。それはお会いした際のご様子を眺めていれば明らかです。朋香さんもまだ、意識しないよう、自ら注意して振る舞っていらっしゃいます」

 朋香に関する微妙な言い回しが気になったが、圭人にそれを追求する余裕はなかった。

「宇渡様にとって、現状はとても理想的で幸せな家庭かもしれません。適切な距離のある、親子ではないけれど親子のような愛らしい娘。彼女だって決して不幸せではないでしょう。しかし、これから彼女がもっと成長したら? 無論、宇渡様は美しく育ったその姿を瞼を細めて眺めていればよろしい。たとえばわたくしの父のように」

 そこまで一息に言いきると、沙耶子はそっと顔を伏せた。

 そして、おもむろに声を落とし、哀しげに呟く。

「ですがその時、理想の相手の元から突然、突き放された彼女は、一体どうすればいいというのです。わたくしのように、お見合いを繰り返させるのですか?」

 ……そういう事か。

 そこまで説明されれば、圭人にも冒頭の提案の意味はよくわかった。

「遅くにできた娘だったからか、両親はわたくしを可愛がってくれました。いささか溺愛気味に。それならせめて共学校に通わせてくださればよかったのですが……家を出たくて、本当の親離れを成し遂げたくて、お見合いの場ではじめて同世代の男性と幾度もお会いしました。自分でも不思議だったのです。見合いをしたいと望んだ時、独り立ちするためなら、よほど問題のある相手でない限り自らは断らない覚悟でした。なのに、お会いするのはいつも良い方ばかりなのに、心がまったく動かないのは何故なんだろう、と。自問自答しているうちに気づきました。いつも、自分が相手を父と比較していることに。……血の繋がった、いったん離れたいと望む父とでさえ、時によって娘というのはそうなのですよ」

 そう語る沙耶子はどこか苦しそうで、そして誇らしげでもあった。

「ましてや朋香さんとは血縁がなく、籍も別。障害は何一つ存在しません。……あれほど賢い朋香さんが、気づいていない筈がない。将来、自らがあなたと結ばれる可能性に」

「朋香に求められる、ですか。自分は、それほど大層な人間じゃありませんけどね」

「実像は問題ではありません。彼女からはそう見えている、という点が問題なのです」

 つい、言葉を返した圭人に、沙耶子は苛立たしげに反論した。

「むしろ、それが幻想だからこそなにより始末が悪い……もはや、宇渡様が風呂上がりに下着一枚でリビングをうろつき、ビールを飲みながら下品な娯楽番組に興じたところで、彼女からの評価はさほど変わらないはずです」

 娘に嫌われる父親像を語っても、沙耶子の表現はどこか上品だった。やや現実逃避気味に、これが本当の育ちの良さってやつか、と圭人は思った。

「今となっては、彼女と物理的な距離をおくのが一番効果的でしょう。かといって突然では酷ですから、一年後の中学入学にあわせて離れるのがもっとも適切だと思います。後見人を引きうけた以上、責任をもって手元で、という宇渡様のお気持ちはよく理解できますが、あえて言わせていただければ、それはまったく朋香さんのためにはならない。宇渡様の単なる自己満足です」

「沙耶子さんが、朋香を真剣に心配して申し出てくださったのはよくわかりました」

 圭人は頷いた。

「指摘どおり、自分には配慮の至らない点が、確かにあった。しかし単に離れたなら、想い出の中の姿はいつまでも美しい……となるかもしれない」

 圭人は先日の先輩との再会を回想せずにはいられず、ほろ苦い気分で反論した。

「むしろ、離れた相手を想って逆効果じゃないか?」

「それは大丈夫です。……愛すべきおじさまは、いまや憎き継母のものなのですから」

 沙耶子は、にっこりと笑った。酔いが回ってきたのか、頬が可愛らしく赤らんでいる。

「寮に入れる件は、あくまで新たな継母が言いだしたことです。宇渡様の提案ではありません……そうして、わたくしが恨まれていれば、それだけで良いのです。おじさまを回想すれば、否応なしに自らを寮に押しこんだ継母も思いだします」

 ああ……本当にいい人だな、この人は。

 圭人は内心で、沙耶子についての評価を改めた。

「思春期の入り口では皆潔癖です。そんな時期に、愛すべきおじさまが憎き継母といかがわしい新婚生活を送っている家に帰りたいとは、あまり考えないはずです。そして、朋子さんがおじさまを、自らの血縁ではないと意識すればするほど、ある程度会う間隔が開いてしまえば、以前のように無邪気には甘えられなくなります」

 沙耶子は背筋をのばし、圭人をみる。その均整のとれたスタイルは美しかった。

「離れていても、確かに幻想は育まれます。しかし、それは美しいだけの虚像にすぎません。一度きっかけがあれば、簡単に破ることが出来る。本当の情はやはり、近ければ近いほど生じやすい。たとえどれほど、表面上は不満を感じていても、です」

「ありがとうございます。沙耶子さんが、朋香について本当に親身に心配してくださっているのは、よく判りました」

 凜とした沙耶子に、圭人は深く頭を下げた。つい、口調も丁寧になる。

 本当は、もっと簡単な方法がある。沙耶子も先刻承知だろう。

 圭人が、水入らずの新婚生活を送りたいからと、直接朋香に告げればいいだけだ。だからこれからはもう一緒に暮らせない、と。

 その方が、朋香の圭人離れにはなにより有効なはずだ。沙耶子が、継母としていわれなき汚名を背負わねばならない理由など、実はどこにもない。

「どういたしまして……話はまだ続きがあります。むしろ、わたくしにはこちらが本題です」

 圭人に軽く返礼したあと、軽く沙耶子は軽く咳をすると、居住まいを正した。

「これまでお話ししたような、朋香さんの将来についての配慮が理解できない方と、自分の人生を共にすることをわたくしは望みません。無論、我が子の将来を預けるわけにもまいりません」

「……当然でしょうね」

 圭人は頷かざるを得なかった。

「朋香の将来像が一致しないなら、同様に自分たちの将来構想だって一致しないかもしれない。そんな相手と、結婚なんかできない」

「ご理解いただけて幸いです。……この件は、宇渡様がお返事を決める前にお伝えしておくべきだとわたくしが考えたのは、正しかったでしょうか」

「助かりましたよ。返事をしてから、『寮に入れるべきだ!』と告げられたら、おそらくもっと仰天したでしょう。……お互いがそう結論していたら、ですが」

「よかった。……実は、この場でお話しを断られても仕方がない覚悟で来たので」

 沙耶子は笑うと、右手に握ったグラスを持ち上げた。

 何杯目だろうか、グラスを握った指は微かに震えていた。緊張が本当に解けたのだろう。

「わたくしからの、今夜の用件は以上です。すみません、結局、長々と語ってしまって」

「とんでもない。というより、沙耶子さんはまだお時間は大丈夫ですか?」

 店に入って、小一時間、といったところだ。

「ええ、わたくしはもちろん。でも、朋香さんは?」

「朋香は近頃、自分で朝食を作ると張りきっていて起きるのが早くて。もうそろそろ寝ている時間です。いまさら、慌てて帰っても意味がない」

 圭人は、すでにぬるくなりかけていたグラスを飲み干すと、バーテンダーを呼んだ。

「これまで、幾度かお会いさせていただきましたけど、いつも朋香、朋香で実は沙耶子さんについてはまだ詳しく知らない。おそらくは沙耶子さんもでしょう?」

「確かに、そうですわね」

 沙耶子はクスッと笑った。

「そのようなお誘いでしたら喜んで。宇渡様についてもっと知りたいのはわたくしも同じですもの」

 そして、圭人と並んで、沙耶子も新たなカクテルを注文した。どうやら、アルコールはそれなりにいける口のようだった。

 やがて、置かれたグラスでもう一度乾杯する。今度はグラスを触れあわせて、先程よりも幾分か親しげだった。

「それじゃ、宇渡様のどのような話からお聞かせ願おうかしら」

 沙耶子の流し目は、随分と大人びていた。

「なにを訊ねられるのか怖いなぁ。でも、話にはいる前に一つ……初めてお会いした時にもお願いしましたが、そろそろ、様づけは勘弁してもらえませんか?」

 圭人の頼みに、沙耶子は大げさに目を見張り、そして笑い出した。

「何かとおもえば……わたくしも別に、他人行儀な呼び方がしたいわけではないのですけど……宇渡さん、という呼び方は、なんだか妙に間が抜けて聞こえませんこと?」

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