第5話


 三月中旬。時間ができたので、と沙耶子は休日に圭人の家を訪れ、朋香を遊園地へと連れだした。どうやら、沙耶子と朋香の間では、それなりの関係が構築されつつあるようだった。

 圭人は所用にかこつけて所長夫婦と対面した。たまたま昼食を一緒に、という話でも、傍らに夫人が控えていて偶然のわけはなく、所長共々、圭人の人柄を確認するために決まっている。

 二人のお眼鏡にかなったのかは判らないが、少なくともその場で『貴様などに娘はやらん!』と所長から湯飲みを投げつけられはしなかった。

 返答の期限は、年度末くらいかな。

 見合いをした男女が、結論を先延ばししてフラフラと会い続けるのがマナー違反であることくらい圭人も承知している。年度末までに回答、というのも企業の契約のようでなんだか滑稽だが、お見合いをしてから一ヶ月と少し、適当な時期なのは確かだ。

 見合いをして以降、圭人は『だけこん』には時折顔をだしたものの、婚活からは一切手を引いていた。効率よく婚活するために、婚約するまでは同時並行で複数の候補者と交際をしてもルール違反じゃない、との主張もあるのは知っていたが、圭人はまっぴらだった。自分がされて不愉快な真似は他人にもしない、それが人としての最低限の節度だ。

 なのでこれまでは合コンの予定を入れることが多かった金曜日の夜。仕事の終わった圭人は久しぶりに食事にでも行こうかと朋香を誘ったが、返答は芳しくなかった。

『えー、今夜おじさん帰ってくるの? ウチで麻衣お姉ちゃんにシュークリームの作り方を教わる予定なんだけど。この前挑戦してみたら、上手に皮が膨らまなくて』

 浮かない声でそう告げられ、いつのまにそんな約束を、と圭人は慌てたが、半年以上、合コン三昧の週末を過ごしていたのは自分だから文句もいえない。だったらこのまま素直に帰る、と告げて、家路を急いだ。

 知らなかったのならばともかく、麻衣がくると聞いた後に手ぶらでは帰れない。駅前ですこし気の利いた総菜を買い込むと、マンションのドアを開けた。

 三和土には、朋香のものではあり得ないハイヒールが一組、並んでいた。

「ごめん、遅くなって。康本さん、もう来て……」

 そう声をかけながら、リビングに入って、圭人はそれきり絶句した。

「今晩は。お邪魔させてもらっています。お久しぶりね、宇渡くん。なんだかすっかり昔より逞しくなったみたい」

 リビングのソファーの端に腰掛ける、芥子色のツーピース姿の女性。手入れの行き届いた髪と、指先から睫毛まで、隙なく決められたメイク。

 圭人の手から、総菜屋の袋が落ちる。

「ずっと、朋香がお世話になりっぱなしで、挨拶もせず気がかりだったの。ようやく、こうして来られるようになったわ」

 その女性は、ソファーに座ったまま、圭人に向かって軽く一礼した。

 朋香の姿は、リビングのどこにもない。

「……お久しぶりです」

 圭人は、どうにかして、喉の奥からその言葉だけを絞りだす。

 女性は、朋香の実の母だった。



「インターホンを押したら、朋香が開けてくれたの。どうも誰かと勘違いしたみたいなんだけど……宇渡くん、最近おつきあいしている方がいらっしゃるの?」

「いえ、朋香さんが確認もせず鍵をあけたのは、そういう理由ではないと思います」

 圭人はコーヒーを煎れると、女性の前に置いた。自分も、カップを手にする。

「どうやら、今夜は人と会う予定があったようなので」

「そう、ならよかった。女の子一人で留守番なのに不用心、って少し心配しちゃった」

 女性は形だけ、コーヒーに口をつけた。組んでいた足を下ろし、圭人へと向き直る。

「お客様がいらっしゃるなら、早速だけど用件に入らせていただくわね。……この前、ちょっとした用事で連絡をとった際、宇渡くんが真剣に交際相手を探している、って噂を聞いたの。それって本当なのかしら」

 女性は以前、合コンのセッティングが可能か打診した、ゼミの先輩の名前をあげた。先輩の高山と同期だったこの女性にとっては、後輩にあたる。

「確かに事実です。でも、それは先輩にまでご紹介いただかずとも……」

「ううん。そういう話じゃないの。家まで訪ねてくる相手がいるなら、余計なお世話だろうし……でも、もし宇渡くんが本気なら、朋香をどうするつもりなのかしら、と思って」

 ……やっぱり、その件か。

 最も嫌な予想が的中し、暗澹たる気分になったが、表情には表さず、女性へと答える。

「もちろん、朋香さんとの同居は、ご縁のあった女性には最初にお伝えしています。後見人として、今後も面倒を見続けることも。残念ながら、それで縁が途絶えたこともありますが……現在お話しを進めている方は、全て受け入れてくださる、とのことです」

「そうなの。宇渡くんが素晴らしい女性に巡り会えたのはなによりだけど」

 女性はそう言ったあと、一呼吸おいて、わずかに上擦った声できりだした。

「その方の新たな人生には、朋香が不在のほうが、より幸せになれるのではないかしら」

「……すみません、その前に少しいいでしょうか」

「もちろん、宇渡くんはあの子の法的な後見人だもの。わたしが過去に親権を放棄している事実とか、その経緯についてはよく承知でしょうね。でも、あの子はわたしがお腹を痛めて産んだ娘なのだけは、間違いのない事だわ」

 問いかける圭人の声を遮って、女性は息もつかずにまくしたてた。

「宇渡くんの了解がなければ、実の親であってもわたしは現在、あの子に何ひとつ関わることはできない。でも調べてみたんだけど、場合によっては裁判所への不服申し立ても可能なみたいなの。たとえ離婚して一度は親権を手放していても、その後実の親が亡くなってる場合は、残った片側に再び親権が認められる例もある、って。そりゃ、これまで四年間、宇渡くんがあの子の面倒をみてくれたわけだし、裁判所に話をもっていくなんてしたくないけど、場合によっては」

「待ってください。ちょっと、落ちついてください」

 圭人は笑うと、コーヒーカップを女性の前に差しだした。

 話の内容が内容だけに、女性も随分と緊張していた。相手が緊張していると判ると、自分はリラックスできるものらしい。

「いきなり朋香さんの話をする前に、少しだけいいですか?」

「……ごめんなさい。一方的に、こちらの希望だけ口にして。なにかしら」

「先輩はいま、お仕事は? 研究は続けていらっしゃらないんですか? あれ以来、学会では姿をお見かけしませんけど」

「仕事は、簡単なパートタイムのものをしているわ。子供を相手にするような」

 圭人の質問に、女性は微かに遠くを見るような視線になった。

「研究は、高山と別れて以来すっかりご無沙汰ね。……軽蔑した?」

「そういうわけでは。でも先輩は、楽しそうに研究していらっしゃる姿がとても印象的だったので。どうしてだろう、と不思議ではあります」

「そうね、ゼミに入ってきた宇渡くんたちの前で、先輩面して研究をしていた頃は確かに楽しかった……わたしは幼い頃から、純粋に、科学者に憧れていたわ。本で読んだ偉人の姿に感動して、いつか自分もそうなるんだ、って。……それが、苦しくなったのは何時からかしらね」

 女性は昔を懐かしむように、呟いた。

「もう、苦しかった頃の記憶しか残っていないから、よく判らないわ。……大学を卒業して学生でなくなったら、ずば抜けた結果ないしは卓越した処世術、そのどちらか、もしくは両方ともを備えた者でなければ、研究者として生き残ることはできない」

 両手を膝におき、女性は天を仰いだ。

「その苦しさを、高山は理解してはくれなかった。辛いと訴えて甘えようとしたわたしに、あの人は平然と言ったわ。『ぼくは、自分が好きな研究さえできれば科学者として世間に認められなくても全然かまわない』と」

 確かに、いかにも高山先輩の口にしそうな台詞だな。

 真面目な場にもかかわらず、思わず笑い出しそうになって圭人は必死にこらえた。

「あの時、この人にわたしの苦しさは一生理解してもらえないんだと悟った」

 女性は姿勢を戻すと、微かに微笑んだ。

「その後で出会ったのよ。今の夫と。『君が無理をして研究を続けて、それで世の中のなにが変わるの?』ってたずねられた瞬間、なんだか突然長い悪夢から目が覚めた気がしたわ。いったいわたしはなんのために研究をしているんだろう、って」

 誰のためでもない。世間に評価されず、役に立たなくても一向に構わない。……ただ、自分が知りたい。そんな高山先輩の姿勢こそ、科学の正しいあり方では?

 圭人は心の中でだけ反論した。

「高山と別れ、今の夫と再婚して、ようやく全ての肩の重さが消えた気がした。研究が一番の人生から離れて、人並みの幸せを素直に求められるようになったの。わたしは誰より幸せになっていいんだって、夫はいつも認めてくれた」

 そして、先輩は誇らしげに笑った。

「それに、最近では研究だけが科学に貢献する方法でもないと気がついたのよ。今は、ボランティアで地域の子供たちに初歩の実験を教えたりもしているわ」

「科学者なんて、誰かに強制されて志すものでもないですし、それでいいと思いますよ。ご主人の仰るとおり、好きでもないのに無理に研究を続けたって仕方がない。……ゼミでの先輩は、とても研究が楽しそうでしたから、寂しくない、といったら嘘ですが」

 圭人は内心を隠して軽く笑うと、おもむろに姿勢を改めた。

 本題は、ここからだった。

「しかし、それでしたらなおの事、新たなご主人との家庭に朋香さんの居場所は存在しないのでは? 先輩は平凡な幸せが大切なのでしょう。でも朋香さんの姿を目にすれば、否応なく、高山先輩を思いださずにはいられない。違いますか?」

 圭人の主張に、しばし女性は黙りこんだ。

「このまま、朋香さんは変わらず我が家で暮らしたほうが、先輩にも好都合ですよね」

 計られた、と正直すぎた自分の言動を悔やんでいるのかもしれない。

 どこか渋々、女性は口にした。

「もちろん、どこかに高山の面影は残っているかもしれない。それでも、半分はわたしの子よ。今回、朋香を引き取ることは、夫も了承してくれているわ。……それに、あの人との間には、あの人側の事情で、どうやら今後も子供ができることはなさそうなの」

 ……なるほど。

 彼女が、いまさら自分たちの前に現れた理由をようやく正確に理解して、圭人は嘆息した。

「だから、少し遅くなったけれど、これから朋香と三人、新たに家族としての関係を築ければ、と考えてここを訪ねさせてもらったの。その方が、宇渡くんが結婚するにあたっても、ずっと都合がいいはずだし、お相手も楽になるのじゃないかしら」

「しかし、まだ物心つくかつかないかの、先輩方が別れたばかりの頃ならともかく、今の朋香さん……朋香にはすでに確固とした自分の世界があります。俺が父親面して、ウチで暮らすのは今日までだ、明日からはどこに行け、なんて言えません。俺はあくまで後見人として、そっと見守っているだけですから」

 圭人はそう答えると、微かに笑った。

「それに繰りかえしますが、朋香を歓迎出来ない女性、同時に朋香が認めない女性と俺は結婚しませんよ。先月から見合いの進んでいる女性は、朋香をとても気に入っていますし、朋香も懐いています」

「そう」

 女性は強い口調で呟くと、背筋を伸ばした。

 再び、表情がわずかに険しく、視線が鋭くなる。

「今の発言はつまり、自分はあくまで朋香の後見人にすぎない、と宣言したという理解で良いのかしら。養い親としての責任を果たすつもりなどないと。だとしたら、たとえ今後裁判になろうとも、あの子の親権はわたしが取り戻すわ。朋香はまだ十歳。絶対に……むしろ、思春期に入る今後こそ、両親が必要になるのだから。誰からなんと言われようと」

 完全に口調を改めた女性が、そう圭人にむかって高らかに宣言しようとした、その時、

 ガシャーン!

「キャッ!」「勝手なこと言わないで!」

 突然、カウンターキッチンの影から立ちあがった朋香が、手元にあったワイングラスを、力いっぱい女性目がけて投げつける。

 女性の顔面横をすれすれで逸れたグラスは、背後の壁にぶつかり勢いよく粉々に砕けた。

「あんたなんか、わたしの親じゃない!」

 そして両手を握りしめた朋香は、力の限りに叫んだ。

「なにもかも一方的な、自分に都合のいい言い訳ばかりしないで! おとうさんを裏切って男をたらし込んだのは誰よ! わたしがまだなにもわからないと思って、家に男を連れ込んでいたのは誰よ! 研究の悩みなんか何一つ関係ないでしょ! 自分が男にチヤホヤされる、ただ楽な人生が歩みたくなっただけでしょ! おとうさんがなにも言わずに亡くなったからって、自分に都合よく勝手に美化するな! 絶対に、あたしは忘れない! 一生許さないから!」

「とっ、朋香、覚えて……待って。わたしは、まだあの時はなにも」

 思いもかけない、娘からの糾弾に、女性は狼狽えた。

「あの人と正式におつきあいを始めたのは、ちゃんと離婚が成立してから」

「言ったね! いま、まだ、って言ったね! 指一本触れていなくたって、何一つ約束していなくたって、気持ちが通じているならそれは裏切りなの! ただの二股なの! 人でなし! 外道! あれから、おとうさんがどれだけ悩んで苦労して、どうして死んだか判ってるの! ……あんたが死ねばよかったんだ! そうだよ、おとうさんじゃなくて、あんたが先に死ねばよかったんだよ!」

 そう叫んだ朋香は、突然、キッチンを開けると文化包丁に手を伸ばした。

 あまりにも唐突の展開に、圭人も女性も、全身が硬直したかのように動かない。

「だから、あたしがおとうさんのかわりに!」「だめ、朋香ちゃん!」

 包丁を手に、駆けだそうとした朋香を、突然、背後から現れた麻衣が羽交い締めにする。

「ダメだから、それだけはダメだから、朋香ちゃん」「麻衣さん、離して!」

「……康本さん! どうして」

「すみません、勝手に。鍵が開いていて……それに、朋香ちゃんから一緒に居て欲しい、と頼まれたので」

 朋香を羽交い締めにした麻衣は、まず包丁をとりあげた。

 それから、朋香を抱きかかえたまま腰を下ろし、一緒にリビングの床に朋香を座りこませる。

「落ちついて、朋香ちゃん。言いたいことが一杯あるのは判るけど、包丁だけはダメ。それじゃ朋香ちゃんと亡くなられたお父様が悪者になって、あの人が正しい人になっちゃう。……それは嫌でしょ?」

 麻衣が朋香の耳元で諭すと、強ばっていた朋香の身体から力が抜けた。

「もう、いい……知らない。あたし、こんな人知らない」

 朋香は譫言のように呟くと、ギュッと麻衣の身体に抱きついた。

「関係ない人だから。なんにも、あたしにもおとうさんにも、何一つ関係ない人だから」

「朋香」

 女性はその名を呟くと、ルージュを引いてもなお、血の気の失せた唇を噛みしめた。

「わたしが許せないなら……それは、それは仕方がないことかもしれない。でも、お願いだからこれだけは聞いて。見知らぬ他人からの、身勝手な助言としてでいいから。……あれから四年間も、高山とわたしとで、宇渡くんに甘えてしまった。わたしの元に来たくないなら、それでもいいわ。ただ、もうこれ以上宇渡くんの負担にだけはならないように、高山の義父様のところでもいい、それ以外でもいい。とにかく」

「だから、勝手にそうやって母親面しないでって言ってるでしょ!」

 悲鳴のように、朋香は叫んだ。

「もしおじさんの負担になってるなら、あたしはそのへんで一人で生きていくから! 橋の下でのたれ死んで、それで構わないから! 訳知り顔でしゃしゃり出てこないで!」

「朋香、だから!」「もう、やめてください!」

 ウウッ、と必死で嗚咽をこらえる朋香を抱きしめながら、麻衣は女性を制した。

「朋香ちゃんは苦しんでいます。もう、それ以上なにも言わないで……あなたはすぐにお帰りください。そして今後二度と、この子の前に姿を現さないでください」

「あなた、突然一方的になにを……どうしてこの子のことを、宇渡くんとつきあっているからって、朋香の、わたしは最低限親として」

「違います。そして、彼女が誰でも関係ありません」

 なおも言いつのろうとする女性の前に、圭人は立ちふさがった。朋香を守るかのようにその身を抱きしめ続ける麻衣を、女性の視線から遮る。

「それに、子供には親が必要と決まっているわけではありません。俺と朋香は、たとえ親子ではなくてもそれなりに愉快にやっています。……親なんて、本当は多分人生においてそれほど重要じゃないんですよ」

「なにいってるの。宇渡くん! わたしがどんな」

「帰ってください! 先輩」

 語尾に力をこめて、圭人は玄関を指さした。

「朋香の後見人は俺です。朋香の権利は俺が守ります。こんな日がくるかもと想像して、高山先輩とすべての法的な手続きは整えました。裁判を希望ならどうぞご自由に。徹底的に争いましょう。勝てるかどうかは判りませんが、朋香が成人するまで裁判を引き延ばし、弁護士を雇い続けるくらいの遺産は残してあります」

 圭人と女性はしばし、互いを見つめ合った。

「そう……わかったわ。高山は、わたしを妻にと望んだ以外は、人を見る目のある人だった。朋香を、宇渡くんに託したのはきっと正解なのね」

「光栄です。もうお会いすることもないでしょうが、先輩もご主人とお幸せに」

「……いつか、朋香が」

「一つ、よろしいでしょうか。たとえどんな血縁関係があっても、過去に、一度でも子供より自分を優先した人間を、子供はもはや本質的に親と認識しません。……いえ、嘘ですね。本当はそれでも認識してしまう。だからこの人は違うと、無理矢理振りはらわなければ生き残れない……これはわたしの実感です」

 なおも何かを言おうとした女性の言葉を、横から、麻衣が静かな口調で遮る。

「なのでわたしは、いまの朋香ちゃんの気持ちがよくわかります」

 静かで、穏やかで、淡々とした発言であるにもかかわらず、麻衣の一言は、その場を凍り付かせるのに充分な迫力を秘めていた。

「その存在を意識しただけで、気が狂いそうになる……本当に、不要でうざったい、死ねばいいのに、と……たとえ亡き者にしてもまったく心が痛まない、そう信じられるくらいに、あの人は不要なんだと自分に言い聞かせなければ、心が耐えられない。本当に、その人を殺してでも逃れたい」

 麻衣は朋香を抱きしめる腕に、そっと力を込めた。

「これ以上、朋香ちゃんを、そんなわたしと同様の目にはあわせたくないので。……もし、再び姿をお見かけするようなことがあれば、今度はわたしが」

 やがて、その呪縛が解かれた後、

 女性は、無言で部屋を後にした。



「夜分、断りもなく部屋にあがり、部外者なのに大立ち回り……大変失礼いたしました」

「とんでもない。いいタイミングで康本さんが来てくれ、本当に助かったよ」

 女性が帰り、朋香がどうにか落ちついたことを確認すると、シュークリームどころではないだろうし今日は出直します、と言い残して、麻衣も部屋を去ろうとした。

「康本さんが居てくれて、朋香も心強かったとおもう。ありがとう。心から感謝してる」

「そう仰っていただけると、罪悪感が少し薄れます」

 麻衣はパンプスを履きながら、ふと、思いついたようにたずねる。

「もしかして、先程のあの方が、宇渡さんの女性不信の一端ですか?」

「……そうなのかな。自分で意識したことはなかったけど。そう見えた?」

 圭人は逆に問いかえした。

「なんとなく、ですけど。過去に想いを寄せていた方が、あのように豹変してしまえば、女性不信にも陥るかな、と想像しただけで……とんだ的外れでしたらすみません」

「いや、おそらく当たっているんだろうね、康本さんの指摘が」

 圭人は小さく頷いた。

 こういう物事は、端から眺めている第三者の指摘の方が、得てして正しいものだ。

「だとしたら、宇渡さんの女性不信解消に一役買えたのでしたら幸いです」

 そう嬉しそうに微笑んだあと、突然、何かを思いだしたかのように麻衣の表情が強ばる。

「ですが、先程はつい、わたしも勢いにのって調子のよい啖呵をきってしまいましたが……今後は、わたしもあの方と同様に、もうこの家には姿を現さないほうが良いのでしょうね」

 麻衣は俯くと、それからいったん言葉を切ったあと、どこか淋しそうに呟いた。

「宇渡さん……お見合い、なさっていたんですね」

 それから、慌てて前髪をかきあげなら顔を上げると、軽い笑みをうかべる。

「順調に話が進んでいらっしゃるなら、一言そう仰ってくださればよかったのに。そうしてくだされば、今夜のように、朋香ちゃんに誘われて家まで会いに来るような、出しゃばった真似は控えました」

「いや、それは」

 圭人はそう言い返しかけ、それきり言葉がみつけられずに絶句した。

 そして先ほどから麻衣の口調がやけに礼儀正しく、出会ったばかりのような他人行儀に戻っていた理由に、ようやく思い当たる。

「その方が、朋香ちゃんと上手く関係が作れているならなによりです。シューの膨らませ方は、新しいお母様に訊ねるよう伝えてください。そして、わたしの連絡先は消すようにと」

 麻衣は軽い口調でそう告げると、逃げるようにするりと、ドアの隙間から部屋を出る。

「康本さん! ……『だけこん』にはまた来るよね?」

 圭人は慌ててドアを開き、声をかける。

 その時にはもう、麻衣の後ろ姿は廊下の先に消えていた。



「あたし、男に生まれたかったな」

 圭人がリビングに戻るなり、朋香はその身体に抱きついて、数年ぶりに激しく泣いた。

「どうして?」

「そうしたら、おとうさんや、おじさんみたいな人になれたでしょ」

 やがてしばらくして、どうにか泣きやむと、圭人の膝の間に座りこんだまま、朋香は幼い子供に戻ったかのように圭人に寄りかかった。

「なのに女だなんて……だって、あの人と同じなんだよ」

「康本さんや沙耶子さんのような、素敵な女性だって沢山いるだろ。いずれ、そういう女性ひとになればいい」

「そうだね……でも、あたし、結婚だけはきっとしない」

「……朋香」

「だって万が一にも、あの人みたいになるのだけは、絶対にいや……死んだ方がマシ」

 朋香は自分の両肩を抱きしめると、ブルッと身震いした。

「だから絶対に結婚しないの」

「まだ、決めつけないほうがいいんだが、でも、気持ちはわかるからなぁ」

 圭人はつとめて明るく笑った。

「俺も昔はそうだったから……自分が結婚する日なんて、絶対に来ないと思っていたよ」

「えっ? 最近は婚活してるのに、おじさんも、子供の頃には結婚したくなかったの?」

「まなあ。……朋香は田波のおばさん以外、俺の親戚に会ったことがないだろ。つまりは俺も両親とはそういう関係だったってことだよ」

 圭人は少し声を潜めると、朋香の耳元に顔を寄せて告げた。

 薄々感づいてはいたのだろう、圭人の告白にも、朋香に驚いた様子はなかった。

「だから朋香がどう感じているか、想像はつくけど、いまはあんまり深く考えないほうがいい。……嫌い嫌い、って考えてばかりいると、案外その人に似るからな、注意しろよ」

 からかうように、その頬を一差し指でつつく。

「え、ウソ。いやだそれ」

「本当だよ。どんな意識の仕方でも、影響される、って意味では同じなんだ」

 圭人の助言に、朋香は忘れる、今すぐ忘れる、と何度も繰り返した。

 それから、甘えるように圭人の胸元に顔をなすりつける。

「ねぇ、一つだけ聞いてもいい?」

「なんだ?」

「おじさん、昔、あの人のこと好きだった?」

 しまった。まるで質問に答えるような返事、するんじゃなかった。

 圭人は後悔したが、すでに後の祭りだった。

 けれど、今夜だけは、朋香に大人のウソをつきたくなかった。話をはぐらかすような卑怯な真似も。それに、つい先程麻衣からも問われたばかりだ。

 覚悟をきめて素直にうなずく。

「ああ。ひょっとしたらあれが初恋だったのかもしれない。でもゼミに入った時、あの人はもう高山先輩と結ばれていて、朋香が生まれるのもすぐだった。そんな人とどうこう、って気持ちにはならなかったな。そういう意味では、好きな人、じゃなかった」

 答えながら、圭人はその当時の自分を振り返った。

「むしろ、出会うとすぐに妊娠していたから……俺はあの人に、縁の無かった母性を求めていたのかもな」

 圭人がゼミに入ったころ、二人は最年長の院生だった。まだ右も左もわからない新人の目には、理想的なカップルとして眩しいほど輝いてみえた。自分がその間に割って入ろう、なんて思いつきもしなかったから、ただどうしようもなく憧れるしかなった。

 研究一筋で、化粧っ気などまるでないのに、先輩は美人だった。日々研究に没頭し、その未来について熱く語る姿は、どんな芸能人とも比べようもなく魅力的だった。そんな彼女とすでに結ばれている高山先輩を、まったく羨まなかったといったら嘘になる。

 とはいえ、すでに妊娠していた先輩に対して圭人の抱いていた感情は、恋心よりもずっと崇拝に近しいものだった。恋はいつか破れ、幻滅するが、崇拝はいつまでも色あせない。

 高山先輩との破局の経緯を知ってもなお、圭人は心のどこかで願っていたのだろう。

 どんな境遇で誰と愛し合っていても、先輩は、研究がなにより大切な、あの先輩だと。

 母親となりながらも、幸せとは研究することよ、と笑って断言してくれた女性、そのままだと。

「なにより、一人の研究者として尊敬していた。もちろん他にそんな女性は知らなかったから、異性として惹かれてたのも間違いないけど」

 もっとも、圭人が抱いていた憧れは幻想だった。

 麻衣から、女性不信は解消できたか、と問われたけれど、その根底が先輩の偶像化にあったのだとしたら、確かにそれは払拭されただろう。

「ふーん。やっぱりそうだったんだ。さっき、二人でコーヒー飲んでるとき、おじさんの雰囲気が妙だったから、なんとなくそんな気がしたんだ」

 朋香は合点がいった、と頷くと、フッと胸元から身体を離して、圭人の顔を見あげる。

「じゃあさぁ。……あたしって、もしかしてあの人に似てる?」

「一つだけじゃなかったのか? 質問は」「いいでしょ。これが最後だから」

「それじゃ、はっきりいわせてもらうが……まったく似てない」

 回答をねだる朋香に、圭人はきっぱりと断言した。

 それを聞いて、朋香は安堵したような、拍子抜けしたような態度で、がっくりとうなだれる。

「……そうか、似てないのかぁ。嬉しいような、でもちよっと残念なような……でもやっぱり、ここは喜んでおいたほうがいいんだろうなぁ」

 それから、朋香は複雑そうな表情で、なにやらブツブツと呟き始める。

 その様子を、圭人は愛おしげに眺めた。

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