第4話


「へぇ、それじゃ予想に反して、見合いが進みそうなんだ」

「まだ決定したわけじゃないですけど」

 三月始めの日曜日の夕方。『だけこん』のメンバーはいつものオープンテラスに集っていた。ほのかに春の気配を感じさせるようになった激しいビル風が、全員の髪を揺らす。

 乱れた髪をかきあげながら、世話役の男性はホットコーヒーを口に、圭人にたずねた。

「でも、これまでは全員即答でお断りだったんだろ。なら脈有りじゃないの?」

「ですかねぇ」

 圭人は、どこか他人事のように頷いた。実際、想定外の展開だった。

 沙耶子からの返事はお断りしかない、と決めつけていた圭人は、次の日、上司に前日の感想を尋ねられて素直に答えた。とてもよいお嬢様でした、と。

 だが続けて、つまりそれは『だけど自分には勿体ないほどのお相手で』という意味かと問われた圭人は、慌てて首を横に振った。所長の娘を自分から拒絶するのは外聞が悪すぎる。向こうに断らせれば済む話だ。それに実際、多少の気がかりはあっても、圭人は沙耶子に好印象を抱いていた。

 すると、上司から返ってきたのは意外な一言だった。

 所長のお嬢様も、君のことが気になるそうだ、もう少しおつきあいさせていただいて、君のことをもっと詳しく知りたいと仰せだ、と告げられ、圭人は仰天した。

 ばかな。あり得ないだろ。

 そう沙耶子の真意を疑いながら、それから週末に二度ほど朋香と共に沙耶子に会った。

「本当に結婚が決まるときは、案外そんなものよ」

 古参の女性既婚者が、話を聞いてウンウンと頷く。

「わたしだって、今の旦那とは『こいつだけはないわー』って思いながら、一ヶ月後にはなぜか結婚式をあげていたもの」

「どういう状況ですか、それ。しかも三度目なのに式、あげたんですか?」

 知りあった時にはすでに既婚だった彼女の『だけこん』の条件を、圭人は知らない。

 もちろん、圭人の問い返しに彼女は悠然と笑うだけで答えなかった。

「なんにせよ、結婚に勢いはとても重要だからね。我々が『だけこん』などと自称しているのは、相手が自分の特別な要望を受け入れてくれるのなら、他は全て妥協するべき、という戒めをこめてでもある。あれもこれも、と後から条件を追加しはじめたらそれはもう『だけこん』じゃない」

「承知してます。でも、もし出産後にいよいよ離婚となったら、彼女はその子を残していってくれるかなぁ」

「念のため忠告しておこう。君の望みは皆、薄々感づいているけれど、離婚を前提の結婚を『だけこん』の条件として認めてよいのかは、意見が分かれると思うよ」

「そうね。一般的でない条件を相手に求めて許されるのは、それが互いに末永く幸せに過ごすのに必要、という前提があってこそだもの。子供だけ……はかなりグレーかしら」

 後見人格の二人から釘をさされて、素直に圭人は頷いた。

 もっとも、二人ともそれ以上、圭人に翻意を迫ろうとはしなかった。

 そもそも、なにもかも緩い場である。嫌になれば来なければいいし、認められない相手が来たら無視すればいい。個性の強いメンバーの集まりだけに、過去は諍いもあった。

 また、ここに集って長い二人は、表向きの条件の裏に、本当に求めるものが別に存在する場合も多いことを過去の経験からよく知っていた。むしろ、その方が多い。

 そもそも、他人より楽に暮らしたい、自分の一方的な要求を満たす相手がいい……結婚相手を限定する動機が、単に『己に都合がいい』というだけの者は、けっしてその場のメンバーとして認められることはなかった。

「いずれにしても、良い女性と巡り会えたなら、それはまず喜ぶべきじゃないですか……その方の同級生とかで、自分に合いそうな人がいたらぜひお願いしますね」

 圭人たちの話を聞いていた佐伯が、脇からそう話をしめくくる。

「ええ、機会があったら……でも、それなら佐伯さんの方がアウトじゃありませんか?」

 圭人は答えつつ、二人にむかって訊ねた。

「たしか、女性が苦手だから、『一度結婚してくれるだけ』でいい婚活でしたよね?」

「まぁ、そんな感じです。ウチは業界では中堅どころの同族企業なんですけど、オーナー会長の信念で未婚者は一定以上、絶対に出世させないんです」

 佐伯は申し訳なさげに頷いた。

「独身のままだと、どんなに仕事ができてもずっと下っ端扱いで」

「だから女性には手も触れられないけど結婚したい、一度結婚しておけば出世できるからいつでも離婚に応じる、ってよっぼど佐伯さんの方が離婚前提じゃないですか?」

「いいんだよ、佐伯くんの場合は」「そうそう、佐伯くんが相手だったら、さっさと離婚したほうがその女性は幸せになれるもの」

 圭人の指摘に対する長老格二人の答えは、見事に意見が揃っていた。

「それ、おもいっきりダブルスタンダードですよね!」

 たまらず憤慨する圭人に、笑ってその会話を聞いていた渡久地が、まぁまぁ、と圭人を宥める。

「つまりは、宇渡さんと結婚する女性は幸せだから、彼女のためにも離婚しないほうが方が、って意味なんですから。光栄な話じゃないですか」

 水沼に連れられて現れた日は緊張していた渡久地も、いまではすっかり場に馴染んでいた。

「でも佐伯さんは、触れられないほど女性が苦手なのにその、決してゲイってわけじゃないんですよね? なんかそれも不思議な感じがしますけど」

「ええと、それはつまり……想像の中に現れる女性は大好きだから」

 言いづらそうに口ごもる佐伯に、それ以上誰も詳細をたずねようとはしなかった。

 渡久地がそれまでの話題はなかったかのような態度で、圭人に話しかける。

「そういうばこの前、宇渡さんに誘われたって女性がみえましたよ。康本さんとかいう」

「ああ、やっぱり来たんだ」

「紹介者が一緒じゃないのは珍しい、って皆さん驚いてました。一人でここに来させるなんて可哀想じゃないですか。何度か立ち寄って様子を眺めたけど、声をかける勇気がでるまでに何週間もかかった、って」

「ごめん、判ってはいたんだけど……学会とか、見合いとかでバタバタしてたんだ。でも渡久地さんたちが、優しく歓迎してくれたんだろ」

「そりゃしましたけど……若くてすごい美人なのにここにたどり着くだけあって、かなり個性的な方ですよね。宇渡さんが誘った気持ちもよくわかります。わたしと同じで、最初は緊張してましたけど、あれから何度か顔をだして、ようやく慣れてきて」

「あら、噂をすればなんとやらで、いらしたみたいよ」

 少し離れた席で、他のメンバーと話していた水沼が、店内を指さす。

 やがて大きな紙コップを手に現れたのは、確かに麻衣だった。

「こんにちは……あ、ご無沙汰しています」

 圭人に気づいた麻衣が、嬉しそうに一礼する。圭人も軽く目礼して応えた。

 それから、しばらくの間とりとめのない雑談になる。最近の婚活シーンでの出来事や、プライベートの状況など。年度替わりは生活の節目でもある。そして異動や転勤といった、環境の変化は婚活に大きく影響する。

「二課に移ったら、案外チャンスかもなぁ。むこうは女性が多いし、派遣もいるし」

 どれほどマスコミが新たな婚活形態を褒めそやしたところで、趣味のサークルや友達の紹介と並んで、職場が重要な出会いの場であるのは間違いない。

 やがて、話が一段落ついたところで、渡久地がふと、周囲に対して問いかけた。

「そういえば、一度皆さんにお尋ねしたいことがあったんですけど」

「なに、改まって」

「よく、婚活のハウツーや必勝本、あるじゃないですか。あれって参考にしてます?」

「あ、それはぜひわたしも知りたいです」

 渡久地の質問に、その脇で麻衣も瞳を輝かせる。

「してないしてない」

 苦笑いを浮かべながら即答したのは、少し離れた席に座っていた男性だった。

「っていうか、参考に一、二冊買ったけどそもそもろくに読んでない。……だって、あれ読んでると死にたくならない?」

「うわぁ、よく判ります、その気持ち」

 水沼が、笑いながら頷いた。

「けっこう、滅茶苦茶書いてる本、多いですよね。人間は見た目が100%、結婚するまで本音は漏らすな、自分は売れ残りだと自覚しろ、結婚は妥協、自分に振り向かない異性は憎むべき障害物、同性は全員出し抜くべきライバル」

 水沼は軽く肩をすくめて、小首をかしげた。

「確かにそこまで徹底しないと結婚できないのかもしれませんけど、高槻さんの仰るとおり、それって人としてどうよ、って気がしますもの」

「そもそも、この集まり自体、その手のハウツーに照らして考えればあまり好ましくないだろうね」

 世話役の男性も、苦笑いを浮かべながら頷く。

「ある本では、友達作りの場ではないと自覚する、が婚活の心構えの第一だそうだから」

「わたしはその、これまで研究一筋だったので、男性に評判のよいファッションなんて意識したことがなかったんです。だから、婚活の基本的なプロセスとか、場にあった服装とか、そういう実践的なハウツーは役に立っているんですけど」

 麻衣は少し恥ずかしそうに、華やかな自分の服装を見下ろした。

「自分にも譲れない一線があるのに言うのもアレですが……あまりにも、互いの条件論と異性に気に入られるための方法論ばかり読まされると、げんなりしてくるっていうか」

「テクニック論も露骨だし。意中の相手に近づくためだけに趣味のサークルを作って、結婚後はさっさと解散しろ、とか……なんか、そもそも結婚したくなくなってくるんですよね。ここまで人としての大切な何かを捨てなきゃ無理なら、いいよもう、って感じで」

 麻衣の感想に、渡久地も頷く。

「結局、自分に都合の良い幸せ捜しなんだからさ、ああいう本は。仕方がないんだろ」

 真っ先に意見を述べた、高槻と呼ばれた男が、吐き捨てるようにいう。

「読むな読むな。女が短いスカート穿いてる、ってだけで誰にでもホイホイついていくような男を旦那にしたいなら別だがな」

「まぁ、そこまで毛嫌いするのは、ハウツーを読んで必死に勉強している方に気の毒だと思うよ。康本さんの言うように、確かに参考になる部分もあるしね。それに、ぼくは自分が見た目の印象をまったく無視して他人を評価している、なんて自信はない。……月並みなスカート姿に惹かれるのも、反発をしてパンツスーツを着た姿を好ましく思うのも、相手の人格を服装で判断している、という意味では同じだからね」

 場をとりなすような岸田の意見に、水沼も頷いた。

「わたしが、婚活パーティや合コンでいつも華やかなスカートを選ぶのは、セクシャルな魅力を強調するためでなく、一応、場の雰囲気を読んでTPOを守る能力はもっていますよ、とアピールするためなんだけど」

「だけど、パンツ姿には無反応だったのにスカートだと声をかけてきた男が居たらどうなの?」

「そんなの最初っから相手にしないし。……まぁ、『人間は第一印象が全て』論そのものはわたしも大嫌いだけど、それって完全には否定しきれないから、でもあるのよね」

 水沼は断言すると、突然、でも、こんな面倒なこといってるからわたしっていつまでも結婚できないのかなぁ、とどんよりとした雰囲気になる。

「細かいテクニック論はともかく、婚活に関する総論はやっぱり参考にしましたよ」

 圭人は落ち込んだ水沼をフォローするかのように、かわって麻衣たちに答えた。

「統計的な情報は踏まえておいた方が、なにかと役に立ちます。客観的な、一年間の成婚率とか……どんな婚活が一番成婚率が高いかとか、調べました?」

「いえ、そういうのは」

 麻衣も渡久地も、戸惑ったように首を横に振る。

「確か、とりたてて特別な活動はせず、でも結婚はしたい、と望んでいる人の一年での成婚率が二十代後半でだいたい7%前後。一方で、積極的に婚活している人だと成婚率が10%くらいに上がるのかな。もっとも、資料によって数字にかなりばらつきがあるけど……いずれにしても、結婚でなにより重要なのは縁で、我々の活動は所詮、どう頑張ってもその差数%分の効果しかないってことです」

「そんなものなんですか?」

 圭人の説明に、渡久地も麻衣も目を見張った。

「ええ。だから口の悪い人に言わせると、婚活とは結婚できない自分を納得させるための儀式だ、とか。……なので、あまり肩肘張らずに気楽に婚活を楽しんだ方がいいと思いますよ」

「そういった情報にお詳しいんでしたら……あの、ついでに教えて欲しいんですけど、結局、一番効率がいい婚活ってどれなんですか? 何しろいろいろありますよね。各種婚活コン、パーティ、ネットのマッチングサービス、相談所。費用もピンキリだし」

 渡久地が意気込んで圭人にたずねる。圭人は苦笑した。

「それがはっきりと判れば、自分だってこんな所にはいませんが……たいていの統計上では成婚に至ったきっかけは友人知人の紹介が最多です。でも、その紹介が合コンの場合もありますからね。正直にアンケートに答えているとも限らないし」

「わたしはまだ、行ったことがないんですけど、けっこうなお金をとる結婚紹介所もありますよね。あれはそれだけの価値があるんですか?」

 続けて、麻衣がたずねる。

「その手は自分にもなんとも。おそらく、相手に求めるのが一般的な条件でないと意味がないでしょうから最初から検討外で……誰か登録した経験のある方、いらっしゃいます?」

「少し昔の話でよければね」

 圭人の問いかけに、世話役の女性が応える。

「どういう所かとたずねられたら、そうね……一言では、微妙としか説明しようがないかしら」

「微妙、だけじゃ説明になっていませんよ」

「だって、実際そうなんだもの。単純に成婚率を上げたいだけなら効果はあるはずよ。なにしろ、何十万か払ってもいい、ってほど結婚したい人たちが集まっているんだから。結婚に対する熱意は、軽い気持ちの参加者も多い婚活コンや、冷やかしの混ざるネット系のサービスよりずっと上ね」

「なら、いざとなればアリですかね」

「でも、一方では何十万か払わないと結婚相手が見つけられそうにない人たちの集まり、って現実もあるから。対象となるレベルは推して知るべし、よ。それに、大金を払った自分には良い相手が回ってくるべき、なんて勘違いしてる人もポツポツ見かけたし」

「はぁ。なんとも夢のない婚活ですね」

「だから、あまり積極的にはお勧めしないけど……たとえば、渡久地さんには案外有効かもしれないわね」

「わたしにですか?」

 渡久地は、驚いたように自分の顔を指さす。

「たしか渡久地さんは、本当の離島に渡って、看護師一人で診療所を開きたいのよね? それについてきてくれる、医療関係者以外の結婚相手が欲しい」

「はい。その前に一度、海外の医療系NGOでもっと経験を積むつもりですけど」

「ここ東京でいくら婚活していても、離島に移住してもいい結婚相手と巡り会う確率は低いでしょうね。でも、相手がそもそも離島に住んでいるならどう? 離島から婚活パーティに出てくるのは大変だろうからそういう場所では機会が無いけど、相談所なら登録している離島在住者をすぐにリストアップしてくれるわ」

「……なるほど、それは考えたことがありませんでした」

「農業を始めたい女性が、田舎に出むいて合コンに参加するようなものだな」

「ですね。もっともわたしは、いまはまだどこかの島に骨を埋めるつもりはなくて、海外の無医村にも行きたいし……単純に離島に住む方と結婚できればそれでOK、というわけではないんですが。ツールとしての使い方が異なるのはよく判りました」

 渡久地は頷くと、ありがとうございます、と女性に礼を告げた。

「しかしここに来る連中には、正直、あまり縁のない婚活だと思うがね」

 だがその横から、高槻がむすっとした声で指摘する。

「海外の無医村に行くどころか、転勤の多い職業ってだけで登録にいい顔をしない相談所だってあるんだぜ。基本はネット婚活や婚活パーティ以上に、平凡でありきたりな結婚を求める奴らの集まりさ」

「つまりは、高槻さんも登録したことがあるんですね?」

「俺は登録しようとして、馬鹿正直に希望を伝えたら門前払いをくらったよ」

 高槻のあけすけな告白に、あたりが笑いに包まれる。

「なるほど、それじゃ、わたしにも縁がなさそうです」

 麻衣が呟くと、水沼がそうねぇ、と納得する。

「もっとも、写真有りの相談所に康本さんが登録したら、結婚申し込みが殺到しそう。それはそれで見てみたい気もするけど」

「んで、片端から断りまくって、サクラだ! ってネットで非難されるオチだな」

「いずれどこかで刺されますね」

 まるで、その結末を見てきたかのように、岸田や渡久地が楽しそうに笑う。

 場合によっちゃ、冗談ですまないよなぁ、それ。

 圭人はそっと麻衣の様子をうかがった。麻衣は、ことさら反論せずに、困ったように曖昧に笑っていた。すでに、以前どこかでサクラ呼ばわりされた経験があるのかもしれない。

「ですけど、ここにいらっしゃる皆さんって、初対面の人間を見た目で判断するなんて、と憤るわりには、康本さんに限らず見目のよい方ばかりですよね。いわゆる美男美女、の基準とは別のカテゴリーで、整っているというか。……特に同世代の男性がこれだけきちんとお洒落をしている集まり、わたしはじめてです。ここだけの話、最初、ちょっとときめいちゃいました」

「そりゃ、一応それなりに努力はしているからね」

 渡久地の指摘に、岸田は肩をすくめた。

「顔を作り替えて美男子に、とまで頑張るつもりはないけれど、誰でも心がけ次第で人並み程度にはなれる。仮にぼくが腹のたるんだデブでみっともない服装をしていたら、いくら人間は見た目じゃない、と主張したって、だらしのない自分を正当化しているだけでしかないだろ」

「そうそう。それに、求めていた条件の相手にようやく巡り会えた時、身なりが理由で断られたらやっぱり勿体ないじゃない」

 岸田や水沼の主張に皆が頷く。

 圭人も同感だった。見た目で他人を決めつけるつもりはないが、だからこそ、自分は厳しく律しなければならない。それがただの言い訳にならないために。

 もっとも圭人の場合は、後見人として朋香に恥をかかせたくない、というのも、常日頃からこざっぱりとした服装を心がけている理由として大きかったが。



 久しぶりの『だけこん』でつい熱心に話し込んでいた圭人は、帰り際になって、架線故障の影響でJRが止まっている、とのニュースに気がついた。

「うわ、まいったな」

 恵比寿駅には地下鉄日比谷線も乗り入れているから、帰る手段が全く失われたわけではない。だが、自宅へはかなりの遠回りを覚悟しなければならない。

「今日は早めに帰る、って朋香と約束したのに」

「え、JR止まってます? ……宇渡さんって、ご自宅どちらなんですか?」

 顔をしかめた圭人に気づいた佐伯が、そうたずねる。圭人は最寄り駅を伝えた。

「だったら、途中まででもよければ送っていきますよ。西武線に出られれば後は大丈夫ですよね。今日、自分は車なんで」

「そんな、いいんですか?」

 佐伯はおそらく三十代。圭人より年上のはずだが、基本いつも口調は丁寧だ。

 その佐伯から申し出に、圭人は逡巡した。

「助かりますけど、でも悪いんじゃ」「でしたら、わたしも一緒にお願いしていいかしら」

 脇でスマホを操作していた水沼が、圭人たちの話を聞きつけて手をあげる。

「今日はあまり遅くなりたくないんだけど……ウチの方向も当分ダメみたいなの」

「あの、でしたらわたしも甘えさせていただけると……やっぱり、今日はあまり遅くなるわけにはいかなくて」

 麻衣も、おずおずと名乗り出る。

「いいですよ、三人までなら大丈夫です。……すみません、先着順、ってことで」

「これ以上、急ぎの人はいないようだから気にしないで」

 申し訳なさそうに宣言する佐伯に、残ったメンバーは揃って手を振る。

 そして、四人は足早にコーヒーショップを離れた。


「すみません、料金の安い少し離れた駐車場に止めていて」

「乗せて頂くのに文句は言わないわよ。駐車料金とガソリン代は、三人で折半させてね」

 水沼の言葉に、圭人たちが頷く。

 並んで歩道を歩いていると、目の前に大きなマンションが現れる。

 すでに陽は沈み、六七割ほどの部屋に明かりが灯っていた。大半はカーテンが閉じている。

 歩きながらぼんやりとそれを眺めていた佐伯は、ふと足を止めると、やおら呟いた。

「そういえば先ほど、もしかしてゲイなんですか、って渡久地さんに訊ねられたじゃないですか。……違うんですけど、でも、女性からそう疑われても仕方がないですよね」

「え?」

「なにしろ、昔はこういう眺めですら、生々しく感じてどこか苦手だったくらいですから」

 唐突な言葉の意味が理解できず、圭人はただ大きなマンションを見あげた。

「生々しく?」

「だって、これだけ部屋があれば今もどこかで……えっと、そういう事の最中のような気がして」

 神経質で真面目そうな佐伯の、思いもかけない告白に、圭人たちも驚いて立ち止まった。

「最中、って……ああ。そうね、この規模のマンションだと、ざっと四〇〇戸くらいかしら」

 すばやく目算した水沼が、世慣れた口調で語りだす。

「世帯での入居率が半分として、そのまた半分がそれなりに高齢だとして、出産適齢夫婦世帯がおよそ一〇〇戸。さらに半分がすでにセックスレスで、現役の平均回数が週に二回……はちょっと多いかな。仮に一〇日に二回として、今夜、励む部屋は一〇戸くらい?」

「世帯率はもう少し、高めに想定してもいいかと思いますけど、結婚しちゃうと平均回数は意外と少ないとも聞きますしね。そんなものじゃないですか? でも、さすがにまだ時間が早いですから、今こうして見あげている窓の中で真っ最中なのは、一カ所あれば、って所だと思いますけど」

 女性二人の、冷静な試算に、話を振った佐伯は表情を強ばらせてドン引きしていた。

 圭人も多少動揺しないではなかったが、できるだけ平然とした態度で、二人に答える。

「俺は、これまでそういう視線でマンションを見あげたことはなかったなぁ」

「わたしだってこんな計算、初めてです。佐伯さんが妙なこと言うからじゃないですか」

 水沼が、プウッと拗ねたように頬を膨らませる。そうしていると、先程とは一転して無垢な少女のようだった。その態度に、ゴメン、と気を取り直した佐伯が詫びる。

「うん。確かにぼくが言いだしたことだった。でも……つまり、昔は本当に苦手だったんだ。夜中に大きなマンションの前を通るのが。だって、はっきり見えないだけで、目の前に確かにいるんだよ、ああいうことの真っ最中の人たちが……なんか想像がつかなくて、でも妙なリアリティだけが残って……とにかく、生理的に気持ち悪いんだ。そうしたらいつしか、生身の女性そのものを忌避するようになっていた」

 佐伯の独白が、コーヒーショップでの話の続きだというのは三人にもわかった。

「自分の感覚がおかしい、ってのはもちろん自覚してるよ。そもそも生き物として自然な欲求だし、本来、喜ばしい行為なんだ。だけど」

「佐伯さんの気持ちは、わたしにも少し判る気がします」

 ぼんやりとマンションを見あげる佐伯に、背後から麻衣がそう声をかけた。

「わたしも学生時代、時々想像しましたもの。駅や街中で小さな赤ちゃんをつれたご夫婦を見かける度に……ああ、この人たちはやることやったんだな、って」

 声を潜めた麻衣の台詞に、ゆっくりと佐伯が振り向く。

「若い夫婦が子連れで歩くって、つまり世界中に宣言しているようなものですよね。それってどうなの? 恥ずかしくないの? って感じずにはいられませんでした」

「つまり佐伯さんも康本さんも、相当に真面目なんだね」

 二人にむかって、茶化すように水沼が声をかける。

「無論、わたしにだって共感できる部分はあるんだけど……だって思春期になりたての頃、一番最初にエッチなのはいけないことだ、って教わるじゃない?」

「そうですね」

 圭人は、真面目な表情の二人にかわって、精一杯明るく答えた。

「なにしろダメダメ言われますよね。女性はどうかしりませんけど、少なくとも男の子は。見ちゃダメ、知っちゃダメ、調べちゃダメ、実際に手を出すなんて当然ダメ。なのに妙に生物学的な知識だけは与えられて、それが道徳的だって」

「女子だって同じよ。なにしろわたしなんて、発育が良くて小学校の担任にブラをしてくるよう注意される女の子だったからね。体つきがいい、ってだけで、いかにも男と遊びそうとばかりに警戒されたわ。高校生になっても、男女交際は節度をわきまえなさい。一線を越えないように、なんて説教されてさ」

「確かに。少子化を本気で防ぎたいなら、高校に託児所を併設すべきです。そうすればきっと問題は簡単に解決する。たとえ親なんて居なくても子は育ちますし」

「なのに、それからわずか数年経ったたら突然、誰からともなく告げられるんだよね。あなたたちは結婚適齢期、出産可能な年齢と適した年齢は違う、今すぐにでも子供を産んで増やしなさい……なんなのそれ。意味わからないってば。エッチなことはダメなんじゃなかったの? そんな気軽に子供を産んでいいの? ならたった五、六年前、妊娠した、ただそれだけで後ろ指をさされて高校を退学させられた彼女たちは、いったい何が許されなかったの?」

 軽い口調で、まるで歌うように水沼は呟いた。

「どうして誰も……恋愛は美しい、出産はすばらしいって、真っ先に子供に伝えようとしないんだろう」

 そして水沼は、おもむろに佐伯へと向き直った。

 言いづらそうに、だが誠心誠意言葉を選んで、語りかける。

「婚活を続けていると、わたしと同世代や年上で、佐伯さんのような真面目な方を男女問わずよく見かけます。その中にはおそらく、理屈では理解できているけど、性的な実感が湧かずに結婚が遅くなった、という方も少なくないと思います。……おそらくは、自分が異性と結ばれる、それも動物的に。そんな現実に対する抵抗感が残っていて、でも」

「ありがとう。承知してるよ。モラルに従順なだけでは人は成長できないって。親から隠れてネットのエロ動画を漁るのは、非道徳的ではあっても大人への精神的な通過儀礼として重要なんだって、いまなら判る。おそらく自分には、そういったものが不足していた。ぼくの両親はいろいろとその……困った人たちだったから」

 水沼の日頃より少しだけ丁寧な口調の、そして明確に、『だけこん』の場とは異なる意志の込められた言葉に、佐伯は静かに頷いた。

「つまりいまのぼくにとって、婚活はその欠落を埋めるのに必要な、大切な経験なんだろう、多分……おかげで最近、女性の手くらいは触れても大丈夫になったし」

 佐伯の独白に、水沼はどこか安堵したしたように、そして嬉しそうに頷いた。

 それから、突然茶目っ気をだして、指先をそっと一本、伸ばしてみる。

 静かな目で水沼を眺めたものの、佐伯は逃げ出そうとはしなかった。

「うわー、わたしいま、本当に佐伯さんに触れてるよ……」

「野生動物を手なずけて喜ぶ飼育員さんみたいになってますよ」

 圭人はわざとちゃかすと、そろそろ行きましょうか、と三人に声をかける。

 水沼に触れられても、平然としていた佐伯は、なんだかやけに得意げだった。

 その姿が、自分より確かに年上のはずなのにどこか子供じみて感じられて、圭人にはおかしかった。



「皆さん、いろいろとご事情を抱えているんですね。薄々感じてはいましたけど」

 車が走り出してしばらくして、並んで後部座席に乗りこんだ麻衣は、圭人の耳元に唇をよせて囁いた。車内は軽い騒音に包まれていて、小声であれば前の座席からは聞こえない。

「単なる、妙な条件の結婚相手を探しているだけの集団じゃない、って」

「まあね」

 圭人は頷いた。水沼は前の助手席に座ったので、後ろは圭人と麻衣だけだ。

「君だって、そうなんだろ?」

 ふと思いたって、圭人は単刀直入にたずねた。日頃ならば、ここまで踏みこんだ問いかけはしない。けれどさきほどの佐伯の告白に、どこか気分が高揚していた。

「子供は好きじゃない。子供のいる夫婦生活を望んでいない。……単にそれだけなら、あんなにも熱のこもったプロフィールカードを書くはずがない」

「そんなに熱く語ってましたか?」

 軽く笑ってから、麻衣は黙りこんだ。

 しばらく沈黙を守ったあと、観念したかのように頷く。

「……そうですね。わたしにとっては、子供はある種の象徴のようなものなので」

 前席に座った佐伯と水沼も、なにやら二人きりで話し合っている。その様子を眺めながら、麻衣はゆっくりと語りだした。

「宇渡さん。他人に何かを命令する機会のある人って、世の中にどのくらい居ると思います?」

 唐突な質問に、圭人は何も答えずただ麻衣を見た。

「就活中に資料で読んだんです。根拠は覚えていませんが、その本によると他人に指示を与える人生を送れるのは三割、強権的な命令を下せるのは一割以下だそうです」

「それで?」

「つまり世間の半分以上は、ただ他人から指図されるだけの人生を生きている、ってことです。ですが、これには例外があります。……子供です」

 麻衣は言葉を切って、わかるでしょう、とばかりに圭人を見つめ返した。

 圭人は渋々うなずいた。

「子供をつくれば、手っ取り早く誰かに自分の命令が聞かせられる、か」

「自分が支配的に振る舞ってよい弱者を手に入れたい。小作り出産の秘めた動機として、男女の別なく決して少なくないとわたしは思います。表だっては語られない、というか本人は無自覚なのでしょうが」

 ふと、車が交差点を曲がる。身を乗りだしていた麻衣は、横に倒れ込みそうになり、とっさに圭人は腕を伸ばした。

 その腕につかまり、すみません、と微かに頬を染めながら、麻衣は続ける。

「出世したい、誰かに命令したい、というのは生物学的には、群れのボスになりたい、という欲求なのだと思います。しかし、社会の中でその地位にたどり着くには努力が必要だし相応の困難が伴う。たとえ妻や旦那だって自分の支配下にはない。だとしたら、家族という群れの中で、自分が強者として振る舞える存在を増やすしかない……つまり、子供を産むしかない」

 おそらくは、自分でも強引だと承知で語る麻衣の理屈に、圭人はかすかに顔をしかめた。

「生物を学んだ者として言わせてもらえば、その理論は目的と手段が逆転しているかな。社会を構成する動物は、リーダーになるために出産するわけではなく、多くの子孫を残すためにリーダーを目指すのだけど」

「しかし、結果は同じです。……実際、母親は思い通りにならない夫より、自らの所有物のように扱える子供に執着を抱くじゃないですか」

「そうかなぁ。子供が言うことをきかない、ってのは母親共通の悩みのようだけど?」

 次第に重苦しくなってきた雰囲気を変えようと、圭人はわざと茶化すように答えた。

 その反論を、麻衣は明るく笑う。

「ありえません。一週間といわず三日も食事を抜かせば、どんな子供だって従順になります」

 答えてからふと、なにかを後悔するかのように、小さく麻衣は首を横に振った。そのまま、俯いて顔を隠す。

「すみません。いまの発言は忘れてください。……わかっているんです、わたしが歪んでいるだけなんだ、というのは」

 ……真面目で、生きづらそうな人だなぁ。

 うなだれる麻衣の隣で、圭人は嘆息せずにはいられなかった。

「自分より立場の弱い誰かに命令したい、そんな理由が主で人が子供を望むなら、社会的地位が低い人ほど子沢山のはずです。しかし、統計的には決してそうとは限らない。むしろ他人に命令する機会の多い、社会的に成功した富裕層ほど多産の傾向がある……自分の理論が破綻しているのは承知しています」

「おそらくは経済事情が出生率を抑制させるファクターとして働いている。それに出世欲の強い人はより強権的に振る舞いたくて、多数の子供を望むのかもしれない。康本さんの理論が単純に否定されたわけじゃないよ。……でも、人が子供を望む動機が、なにか一つとは限らない、というかそんな訳がない」

 圭人は、軽い口調になるようつとめて努力して、麻衣に告げた。

「だから全面的には賛同できかねるけど……時折、子供を見苦しく罵っている親っているよね。些細な事を、感情的に子供に命じている困った人たちが。ああいう人たちにとっては、子供はたしかに康本さんの理屈で生まれた可能性があるな、とは認めるよ」

「……もうとっくにお気づきでしょうけど、つまりわたしの母親や祖母も、そういう人たちだったんです。それも、かなり重度の」

 麻衣は俯いたまま語り続けた。

「今も街中で見かけますよね。祖母と母と子供だけで連れだって歩く、アブラムシみたいな家族を……我が家は典型的なそれでした。祖父と父はいつも仕事ばかりで、家では存在感がなかった。今とは時代が違いますから、外に女性がいただけなのかもしれませんが」

 アブラムシは気候にあわせ有性生殖と単性生殖を組み合わせる複雑な生活環をもっている。卵を産んで越冬するが、暖かくなると雌だけで単性生殖を繰りかえし、大発生する。

「祖母や母にとって、わたしを支配することだけが人生でした。二人とも容姿は整っていました。それだけで、世間はなぜか二人をよい母親で祖母だろうと褒め称える。子供に直接手をあげるような、愚かな人ではありませんでしたから、周囲には滅多に気づかれませんでした。だけど」

「いいよ、もう。……そんな、無理に」

 圭人は麻衣の独白を遮ろうとした。

「いえ、最後まで言わせてください。あの人たちの元で、わたしはいつも苦しかった。だから……祖母が母を支配し、母が子を支配する。あの病んだ円環は、わたしの代で断ち切りたい」

 麻衣は顔を上げた。まだ表情は沈んでいたが、妙にさっぱりとした瞳をしていた。

「おそらく、わたしの子供をこれまで同様に支配できる、とあの人たちは今も信じて疑っていません。もう生涯会わない覚悟ですけど……幼い頃の出来事は、なかなか忘れる事ができませんね」

 一人、抱えていたものを打ち明けてたからか、圭人に向けて、麻衣は穏やかに笑う。

 たいがい麻衣はいつも華やかに微笑んでいる。けれどそれは初めて圭人が目の当たりにした、本当に自然な笑みだった。

「それじゃ、康本さんにとっては、子供は自分の過去を思いださせる存在で、だから苦手なんだ。だとしたらこの前は、朋香の相手をしてもらって本当に済まなかったね」

「いえ、そういうわけじゃありません。他人の子供なら大丈夫です。朋香ちゃんは可愛かったし、あの年頃の子の買い物につきあうのは新鮮で楽しかったです。……ただ、そういうわけで自分の子供だけはちょっと怖くて」

 謝る圭人に、麻衣は首を横に振った。

「万が一にも、自分が、あの人のように我が子に接する母になったらどうしようかと……似るかも、と想像するだけでダメで」

 なるほど……そうなのか。

 胸の奥から共感がこみあげてくる。怯える麻衣の心情が、圭人には痛いほどわかった。

 圭人自身も、自分が実の両親のように朋香に接したらどうしよう、と一時期は夜も眠れないほど怯えた。朋香を養子として籍に入れなかった、誰にも告げられない理由の一つだ。

 やがて、気分を切り替えようとしてか、麻衣は話を変えた。

「それにしても、どうして宇渡さんは婚活を? 朋香ちゃんと二人、理想どおりの血の繋がらない親子ですよね。朋香ちゃんにそれとなくたずねてみましたけど、妹や弟ができたら嬉しいのは本当だけど、そこまで熱心に要求した覚えはない、っていってましたよ」

 麻衣は、チラッと圭人の様子をうかがう。

「愛するおじさんに奥さんができるのは大歓迎だそうですけど。……もっとも、採点基準は相当厳しそうですが」

「別に複雑な事情はなにもないよ」

 圭人は前髪をかきあげ、深々とシートに座り直した。

 国道は混雑していたが、それでもあと少しで、下ろしてもらう駅に着くだろう。

「単純に、家にあともう一人子供がいたら楽しいだろう、っていうのは本当さ。他に方法がないなら、実子でもやむを得ない。それから」

 圭人は、そこで言いづらそうに、声のトーンを少し落とした。

「朋香がそろそろその……やっぱり、身近に同性がいたほうが良い時期になりそうだし」

「……よかった」

 圭人の告白に、朋香はホッとしたように胸をなで下ろした。

「その、朋香ちゃんの初潮を。もしご存じないようでしたら、一言伝えなければ、と」

「家では、俺はまだ気づいていないことになってる。おそらく朋香も、俺が承知していると感づいていると思うが……それでも隠し続けるなら、このまま今後も気づかないでいるべきか……ジェンダーの押しつけには注意してきたけど、生物的な性差はどうにもならない。かといって一緒に暮らす『おじさん』がどこまで踏みこんでいいものか……こういう問題は難しいな」

「実はこの前、そういった用品についてのアドバイスを求められて……身近に頼る適当な相手がいなかったからでしょうね。実は後日、また会うことになってます」

「え? 本当に?」

 圭人は驚いて身体をおこした。

 朋香が、麻衣と連絡先を交換しているのには気づいていなかった。

「あまりお気になさらず。朋香ちゃんの友達として、わたしが勝手に好きでしていることですから」

「それでも……ありがとう、正直助かる」

「どういたしまして」

 あいつ、俺の知らない間に……まさか沙耶子さんとはそういう話、してないよな。

 先週と先々週の週末は、沙耶子の希望で三人で会食したあと、軽く買い物をした。

 その時の朋香には、沙耶子にそんな相談をしたような素振りは微塵もなかった。もっとも、麻衣との時も気づいていないのだから、宛にはならないが。

「だけど、康本さんは本当にいい人だよな」「なんですか、急に」

 麻衣は照れながら、戸惑ったように呟く。

「今更、褒めても何も出ませんけど」

「いや、単なる素朴な感想だよ。たとえ子供は必要ない、という条件があったとしても、それでも一緒になりたい、って望む相手はいくらでも現れて不思議じゃないと思うけどなぁ」

「すみません、なんかいろいろ不器用で、男心を理解するのが苦手で」

「責めてるわけじゃないって。でも真面目な話、子供を産まないならそのへんで適当に彼氏をみつけて、仕事の片手間に恋愛を楽しんでいるだけじゃダメなの?」

 圭人は率直にたずねた。もう随分とお互い、踏みこんだ話をした後だったし、前席は二人だけでの会話に熱中していた。なんとなく、そんな質問も許される雰囲気だった。

「まだ若いし、何も不愉快な目にあってまで婚活しなくても、って素朴に思うんだけど」

「残念ながら、適当に彼氏をみつけて研究の片手間に楽しく恋愛、というのは、それはそれでわたしにとってかなりハードルが高いんです」

 返答してから、そうとう女子力低いですねわたし、と自分で麻衣は苦笑する。

「いま、研究がとても楽しいんです。それこそ家に帰ってからも、パジャマを着たままパソコンの前で没頭できるほどに。それに恋愛や結婚が一番では、なんだか人生が安っぽくて淋しい気がします。そんな生き方が望みなら、盛って番っての犬猫に生まれた方が手っ取り早いじゃないですか。だから、いまのわたしには研究が最優先なんです。……かといって、どれほど好きでも、仕事しかない生き方も、やっぱり退屈な気がします」

 我が儘で欲張りなんですね、我ながら、と麻衣は可愛らしく肩をすくめた。

「人生の二番目か三番目には、恋愛が大切だと思います。研究をしている傍らには、自分を理解している人がいて欲しい……だけど平日は帰りも遅いし、休日に外でデートするくらいなら、部屋でデータを眺めていたいです」

「互いに負担なく一緒に過ごすには、共に暮らすのが一番か。だったら同棲は?」

「同棲相手募集パーティ、なんて代物があったらぜひ参加してみたいですね」

 麻衣は笑って頷いた。

「でも、残念ながら一度も目にしたことがありません。出会い系は玉石混合すぎて真面目に恋人を捜すのには向きません。むしろ、産業として成立している婚活の方がよほど、正体の知れた相手と出会うフォーマットが確立されている。わたしみたいな要領の悪い人間には、その方が向いていると思ったんです」

「でも、予想とは少し違ってた?」

「ええ、まあ……子供を産みたくない女が、これほど男性から嫌悪されるとは想像外でした。世間が育児に熱心な男性を褒めそやすのは、男の人が基本的に子供に感心のない現実の裏返しだと思いこんでいましたから」

 そう返事をしてから、麻衣は首を横に向けて、車窓を眺めた。

 そろそろ駅前なのだろう。歩道には、多くの人影が動いていた。

「それに……心のどこかに潜んでいるんだと思います。たとえ自分は結婚しても、あなたたちのような子供大事の夫婦にはならない、と両親を見返したい気持ちが。それがどこか態度に表れて、嫌悪されているのかも」

 麻衣の小さな呟きとほぼ同時に、そろそろ着きます、とやおら佐伯が振り返る。

「は、はい!」

 圭人も麻衣も、慌ててシートから身体を起こすと、すばやく身支度を整えた。

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