第3話


 釣書なんて、二十八年生きてきてはじめて見たな。

「先方は、君の一通りの情報は勿論知っている。けれど、当然書くよね?」

 圭人は上司の机に置かれた、さも高級そうな和紙の封筒を眺めながらぼんやりと思った。

「これ、所長のお嬢さんなんですよね?」

「そうだ。だから履歴書から健康診断のデータまで、君のデータは筒抜けだな」

 さすがに、それは個人情報の管理としてどうなんだ、と圭人は思わずにはいられなかったが、いまさらここで問題にしても仕方がない。

「でしたら、書かずとも問題ないのなら、それでよろしくお願いします」

「……これまで見合いした連中は、全員あらためて書いたらしいけどな。気合いを込めて毛筆でしたためてきた奴もいたそうだぞ」

 上司はニヤッと笑うと、封筒を圭人に差しだした。

「以前から、君が婚活をしているとは聞いていたんだがな。順番が遅れたのは勘弁してほしい」

「いえ、当然の対応だと思います」

 圭人が朋香を引き取って一緒に暮らしているのは、同僚の誰もが知っている。そもそも亡くなった朋香の父は、この上司の部下でもあった。

「というより、いいんですか? 本当に自分なんかが会っても」

「わたしも所長にくり返し確認したがね。これまで、誰もお嬢様のお眼鏡にかなう相手がいなかったようだ」

 まさか、本当に自分まで順番がまわってくるとはなぁ。

 釣書の主が誰かは、圭人も知っている。この研究所の所長のお嬢さんだ。学会でも権威である所長は、結婚が遅く、一人娘を溺愛しているのは所内でも有名だった。

 若手男性研究員を対象とした一連の見合い話は、適齢期となったその令嬢の相手に、所内から適当な相手を捜すためらしい。結婚して家を出たがっている娘と、娘を手放したくない所長。双方の妥協の産物だ、というのがもっぱらの噂だった。

「高山の娘さんの件はもちろん伝えてある。相手が再婚なんて論外だ、と息巻いていた所長も、ウチの元所員の遺児を育てている、となると文句はつけられないらしいな」

 ま、せいぜい感張ってくれ、といって上司は圭人の肩をポン、と叩いた。

 万が一、所長の娘と結婚すれば、圭人はこの先所内での出世間違いなしだ。とはいっても上を次々と飛び越していくわけにもいかないから、バランス上周囲もある程度は厚遇されるだろう。つまり圭人の結婚は、この上司にとっても悪い話ではない。

 取らぬ狸のなんとやら、だな。

 苦笑しながら、圭人は封筒を懐にしまうと、一礼して上司の前から立ち去った。



 カポーン……

「おじさん、ねぇ、いまのあれなんの音?」

「鹿威しか? 水の入った竹が満杯になるとシーソーのように揺れて音が出る装置で、昔は農作物を荒らす野生動物の威嚇に……言葉で説明するのは難しいな」

 今どき、鹿威しのある庭園か。

 圭人の予想よりずっと早く、見合いを承諾して早々に、その席は設けられた。

 二月、都内は昨夜から雪が舞い、見合いの当日は残雪がうっすらと白かった。遅れぬよう、早めにタクシーで料亭へと訪れた二人を、その人はすでに着物姿で待っていた。

「そんなに興味をお持ちなら、後ほど、実際に眺めて確かめるといいわ。その構造を一目見れば、簡単に理解できますもの」

 不思議そうに首をひねる朋香を、その人は楽しそうに眺めた。

「庭、下りても構わないんですか?」

「ええ。後は若いお方に任せして……と告げられたら、二人で庭園を散策するのが様式美なの。お見合いの席で、庭に下りて怒られるなんてありえませんわ」

 精一杯背伸びをした、トラディショナルなワンピース姿の朋香に、華やかな振り袖姿の見合い相手、江藤沙耶子えとうさやこが優しく答える。

 世話役はすでに退席しており、室内には圭人と朋香、そして沙耶子の三人だけだった。

「じゃ、後で見に行ってみるか」

「その際はぜひ、わたくしもご一緒させてください。来るまでは難儀させられましたけど、雪の庭園はやはり風情があって素敵ですから」

 沙耶子は圭人の予想通りにお嬢様で、そして予想に反して気さくで積極的だった。

 第一印象は、率直に言って悪くない。

 たしか所長は華族の末裔で見合い結婚、その一人娘で中学校から大学まで女子校……バリバリのお嬢様なのにな。

 今どき、クリスマス前の年齢で積極的に見合いをするのは、沙耶子のような生粋のお嬢様だけだろう。合コンや婚活パーティでは、絶対に出会わないタイプの相手だった。

「今日は所長、お父様はご同席なされなかったんですね」

 圭人がたずねると、沙耶子は口元に手をあてて優雅に笑った。

「見合いを始めた頃は父も一緒でした。でもしばらくしたら、俺が居ると相手が萎縮して、どんな奴かよくわからないだろう、部下のことは皆知っているからもういい、と仰って」

 確かに、所長が隣に並んでいたら、出世したい連中は普通じゃいられないか。

 以前から見合いをしている件は、相手が研究所内の同僚だけに当然圭人も知っているが、それを変に取り繕おうとしない潔さも、圭人には好ましく感じられた。

「きっと、途中で面倒くさくなってきただけなんですわ。それに、お父様は内心、わたくしなぞまだ当分結婚しなくて良い、とお考えのようですし」

「そうなんですか?」

「ええ。翌日、わたくしが昨日の方はお断り申し上げます、とお伝えすると、いつも嬉しそうになさって。もちろん、隠していらっしゃるおつもりのようですけど」

 クスクスと無邪気に笑う沙耶子に、圭人は内心で所長に同情した。

 うわぁ、けっこう身内には容赦ないな、この人。

「宇渡様も、同席されるご家族はこちらのお嬢様だけでよろしいのですか?」

「そんな立場でもないので、様はよしてください。……申し訳ありません。自分は、どうも家族の縁に恵まれない育ちでして」

 隠しておいても意味のないことである。圭人は素直に頭を下げた。

「自分が幼い頃に、父母は離婚しました。母は新たな家庭がすでに決まっていたので、自分は父に引き取られました。その後、父も再婚したんですが、自分が大学在学中に再び離婚しまして……いろいろあって、今はそのどちらとも疎遠になっています」

「まぁ。ご苦労なさっておられるのですね。不躾な質問で失礼いたしました」

「いえ。単なる事実ですからお気遣いなく。それに話だけ聞くと大変そうですが、特に苦労などしていません。経済的にはごく普通でしたし、DVなども一切ありませんでした。父母からの愛情も……父の再婚相手の義母には、とても可愛がっていただきましたし」

 圭人は、一瞬チラッと並んで座る朋香をみた。

「父と別れたので、もう義母ははとは呼べませんが、あの方とは今でもお付き合いを……朋香に関して、女性の手を借りる必要がある場合は、頼らせてもらっています」

「まぁ、それほど親しい方がいらっしゃるなら、今日、ご一緒してくださればよかったのに」

「自分も、まさか江藤様お一人とは予想していなかったので、朋香だけ連れていくのは、と思い頼んでみたんですが……いまさら、親族面はできない、と固辞されてしまいました」

「そんなご遠慮、なさらないで頂きたかったわ。それから、どうか沙耶子とお呼びください。江藤様、ではここに居ない父が呼ばれているような気分になりますもの」

 朗らかに笑う姿に、この場に所長はともかく母親の姿までもがないのは、沙耶子なりの気遣いだろうな、と圭人は察した。圭人の境遇など先刻承知のはずである。古風なお見合いの席に、一人娘の沙耶子が単身乗りこんでくるなど本来はあり得ないはずだ。

 たとえお嬢様でも、親の言いなりではなく、形式にとらわれるほど愚かでもない、か。

 振り袖姿だからスタイルは想像するしかないが、端正な日本人形のような容姿は文句なく整っているし、年齢も理想的だ。それでいて賢く、見合いの冒頭から、男性をたてるのもそつがない。将来は良妻賢母間違いなし、といった風情の超優良物件である。

 こりゃ、これまで断ってきたのはほとんど彼女側だろうなぁ。

 あえて難を探せば、養うのに結構収入が必要そうだ、という点くらいだが……そこは所長が面倒をみてくれるのだろう。

「もっとも、上司のさらに上司につい気を遣ってしまうのは、わたくしも同じ勤め人ですから、よく判りますけど」

「沙耶子さんは、水産庁系列の海洋生物保護センターにお勤めでいらしゃいましたね」

「はい。なので所長と聞くと、ついあの禿頭が……失礼。薄給ですがやりがいはあり、楽しく働いています。産休制度も充実しているので、末永く勤めたいと考えています」

 なるほど、専業主婦願望はなしと。だとしたら収入の問題もなくなるし……今どきなら、こっちの方がより好まれるだろうな。倍率は高そうだ、こりゃ。

 話の流れにのせて、だがはっきりと、自分の将来設計について伝えてくる沙耶子に、圭人も好感を抱かずにはいられなかった。

 もっとも、同時に気が楽になったのも事実だ。

 これだけ好条件でできた人なら、男性側からは幾度となく話を進めたいと請われただろう。にもかかわらず所長の認めた独身若手研究員をなで切りにしてきた彼女である。この場でどれほど親しげであれ、こぶつきの自分を選ぶとは到底思えない。

 それに、圭人には一点だけ、気にかかることがあった。

「ごめんなさいね、朋香さん。退屈な話でお待たせして……デザートも食べ終わったことですし、そろそろお父様と一緒にお庭に下りてみましょうか」

「だってさ、おじさん。……行ってみてもいい?」

「そうだな。折角だし、鹿威しがどんなものか、見てみようか……まだ少し雪が残っていますけど、沙耶子さんは大丈夫ですか?」

 圭人が頷くと、あたた、と痺れた足をさすりながら、朋香が窓際まではいずる。

「もちろんご一緒に……ごめんなさい、朋香さん。お父様の手を少しだけお借りするわね」

 慣れた手つきで振り袖の裾をさばきながら立ちあがった沙耶子は、引き戸を開くと、差しだした圭人の手を支えに少し離れた沓脱石の草履に足を伸ばす。

 あくまでお父様、か。彼女の立場では、おじさまとは呼びづらいのかも知れないけど。

 圭人の唯一の気がかりは、沙耶子が、この見合いの最中あくまでも圭人を父親、朋香を娘扱いしていることだった。

 親族でなければ、見合いの席に同席するのはおかしい。だとしたら、朋香の立場は娘でしかありえない。となれば、文句をつけられる筋じゃないんだが。

「うわぁ、真っ白なお庭って綺麗! ここなら足跡つけ放題だし……でも沙耶子さん、お振り袖汚れちゃいません、大丈夫ですか?」

「もちろんよ。裾が濡れるのを気にしてたら着物は楽しめないでしょ。あら、本当に綺麗な雪景色ね。都心にいるのを忘れそう」

 もっとも、自分が娘扱いされても、朋香の態度に変化はなかった。沙耶子と並んで楽しそうに雪景色を眺めては、握った雪玉を石灯籠目がけて投げたりしている。

 どうせここだけの話だ。あんまり深く考える必要もないか。

 圭人はそう結論づけると、調子に乗って庭園中央の広い雪原へといまにも踏み出そうとしている朋香を止めに、急いで二人へと駆けよった。

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