第9話


(9)

 夕方近く由稀乃と二宮は病院裏側に在る鴨川河川敷のベンチに長いこと無言で腰を下ろしていた。

「此処最近は二週間以上、いやもっと石田には会ってないがその間に君は何度となく会っていたのだろう?」

 彼女は黙って頷いた。

「何か変わった様子はなかった?何か気が付かなかった?」

 今度は黙ったまま首を横に振った。

「このひと月、いや二週間近くで何回会ってたんだ?」

「・・・四、五回」

「どっちから誘ったの?」

「・・・彼」

 彼女からでなくて二宮は胸をなで下ろした。

「綺麗な顔だったわね、安らかに眠ってるみたいで」

「なぜ走って来る車に飛び込んだのだろう?君と石田が会うようになって半年ぐらいだろうか・・・」

「でもまともに付き合ったのはこの二週間よ、あたしより遙かにお付き合いが長いあなたの方が何か知ってるんでしょう」

「まともに付き合ったって?」

「ゴメン、言い方が悪かったわね。誤解しないであの人は今まであなたとは本音で喋っていてもあたしとはうわべしか語らなかったのがここ二週間は本音で語ってくれたってことよ」

「石田の本音って何なの?」

「そんな難しい事じゃないわ、思ったことをそのままべらべら喋ることよ。それよりあなたの方がおかしい」

「ぼくは別におかしくない!」

「そうやってムキになるところがあなたらしくない。第一今日はあの人の命日よ、もっと手向けの言葉はないの?」

 あの人は論文に忙しいのにも関わらず、近郊の野山を駆け回って絶景のポイントを見つけて、あたし達を誘い出して大いに気分転換を図ってくれる。自分の事しか考えないあなたとは大違いだと、彼女は石田を褒めて自分を貶けなしていた。

 そうだもう石田はいないのだ、ムキに成る自分がバカバカしくなってきた。お前は無情だ悲しくないのかと云う声が腹の底で響いていた。

 病院の裏へと続く鴨川の河川敷で喪に伏すように佇む二人は、今一度此処までに至った経過を脳裏に手繰り寄せようとしていた。

たった二週間でもこの女の方がぼくより石田を良く知るようになったのを後から知った。それは石田が自分を飾らずありのままの姿を告白したからだ。求められたのではなく成り行きだった。だが云ったあとから石田は感情が昂ぶるのが分かった。

 その場は彼は冷静に努めて別れた。堪えれば堪える程に感情は収まらない。彼は知らぬ間に足だけは教会へ向かっていた。

 小さな赤い屋根の尖塔に飾られた十字架が視野に入った時に、初めて石田は今居る場所に気が付いたそうだ。

これらは牧師さんから後日聴かされた。まさか彼がそんなに悩んでいたとは思わなかった。ぼくはあれから斉藤神父から呼び出されて教会へ行った。

 神父は論文の為に石田が問うた愛の意味を知らされた。

 彼は「ぼくは神父に嘘を言ってしまった罪深い人間です」と言って例の日の数日前に懺悔に教会へ来ていた。

 しかしよくよく尋ねると彼の言葉に嘘はなかった。その時、その時がすべて真実なのだ。花びらを一枚、一枚ちぎって占うようにその場、その場の行動と言葉が一致していたのだ。だから牧師は誰も彼を恨んではいけないとも云っていた。

「ある人を好きになったのですね」神父は石田の懺悔を訊いて単刀直入に質問した。そしてそのことについてはあなたがちょこちょこ連れて来る二宮さんから伺った事がありますと云うと「どうしてアノ男と会ったんですか」と驚いて詰め寄る有様でした。

 私が彼の方から尋ねて来たと告げると、さっきとは別の驚きを誘発したようでした。

 彼は益々苦しみました。どうすれは良いかしきりに尋ねますから答えは聖書の中に有ります「神は不義を喜ばず真理を喜ぶ」と云いました。

 真理を求めよさすれば道は拓かれると、石田さんは次の遠出で真理を確かめるつもりだったと云っていた。そして真実さえ確かなら何も躊躇することはない、誰に恥じることもない正々堂々と二人は付き合うべきだと確信されました。

「彼は由稀乃から良い返事をもらえる手応えを感じていたのでしょうか?」

「あれほど悩んでいた人が迷いを吹っ切れたのですから何か思う所が有った事は確かでしょうね」

石田は更にこの日、教会へ彷徨い着く前に、同人誌の発行元の牛島から編集の終わったばかりの、同人誌の原稿に最終チェックをしていた。そこで石田はもう一度自作の論文『鰯雲』を見直すと言って今回の掲載を一旦見送ったが「二宮に見せて彼が見直す必要が無いと言うならそれで発行しょう」と言われた。

 自分で持って行けばとの牛島の問いには、今直接会えない事情があるから節にと頼まれたようだ。しかもその時に『間に合って良かった』と独り言を云ってたのが、牛島には奇妙だと脳裏の奥に記憶している。石田のこの行動を聴かされたのは、あの事件の二日後に牛島から原稿が届けられた時だった。

石田の論文は小説めいた、それでいて各所に於いて格あるべしと自伝的な持論を展開させていた。二宮が読めば読むほどこの持論にある種のメッセージを感じ取ると背筋に悪寒が走った。拝見した二宮は『紺碧の天空泳ぐいわし雲今日は流れて何処へゆくやら』この一首だけを許可して残りは却下し、しかも原稿を無理やり預かった(取り上げた)。後日発刊された同人誌のタイトルはサークルで決定した題名でなく牛島が独断で『いわし雲』に変えた、これに異議を唱える者は無かったと聞いた。


   いわし雲

 私はこの雲が好きである。とくに秋空を埋め尽くす鱗のように(別名鱗雲とも云いますが)空一杯に広がるいわし雲が孤独な私を癒やしてくれる。あれはいつだったか君といつものように河原に寝そべって空を見ていた。丁度一年前だろうか、ようやく大学受験に落ちたショックにも馴れたが、やはり以前と同じように女の子とは面と向かうのが恐ろしかった。この苦手意識を一人の級友の献身的な看護(こう書いた方がぴったりくる君はエンジェルだった)でこのコンプレックスが克服出来た。いや随分前置きが長くなった。人類永遠の課題として取り上げる愛について、まずその入り口である異性と対等に立たないとこの課題は起稿出来ない。よってこの文章を執筆するに辺り、この級友の熱い心に感謝の意味を込めて、序文に当たり筆を割いた。

 人類の起源以来永久に求め続けたこの心の課題は宗教に於いても取り上げるられた。私はこの課題の克服にあたり、このキリストにおける愛から思考した。だがこれはすぐ行き詰まった。何故ならそれらは理屈だ。愛は理屈では語れないと在る女性を通じて実感した。それを借りにA子としておこう。彼女、A子は何処にでも居る様な女の子だった。だったと云うのは、そもそも女性と云うものは一緒にまとめて捉えていた。すなわち女とはこう云う生き物なんだとその代名詞が母親であった。生まれてこの方まで母親以外の女性とは身近に接してないから致し方ない。だが最近、友人のお節介から一人の女性と懇意に付き合った。それは不思議だった。友人はその恋人が至上のすべで有るにも関わらず、私への哀れみと同情から紹介した。この点は実におおらかな感性の持ち主だが、感情の起伏の激しさも散漫差も併せ持つ彼の唯一の特長でもあった。さてA子のお陰で飛躍的に伸びた愛と云うものへの感覚は磨かれていった。特にこの一ヶ月は、心の中に今まで感じ得なかった新しいものが芽生え、枝葉を伸ばし、一点の太陽に向かって成長し始めた。ある時点でそれは禁断の果実を身に着けようともがき苦しむ、これが愛と云うものならそれは不義を喜ばず真理を尊ぶ神の教えに反するが『不義』例えば双方に邪な気持ちが無ければ、不義には成らず恋いは成就する。すべてはA子の気持ち次第で、それは有る行動で確信を掴んだ。それを確かめようと、更に彼女の心に踏み込む為に、三人でハイキングに誘った。これで確証が掴めると高まる心に冷水を浴びせられた。神父さんからの「真理はまず秩序を重んじる」と云う説教であった。いきなりの説教に戸惑った。誰が一体教会に駆け込んだと云うのだ、と、だが駆け込んだのでなく、心が行き倒れて迷い込んだのだ。この友人の不可解な行動に、私は彼女と友人のどっちを心配したんだろう。孤独な彼にとってはこれは難しい問題じゃない。この半年で新たに知り得たのは、私も友人も虚しさを埋めるのは愛しか無いと云う事実だった。それを思うと彼女の手応えを感じるだけに、彼女に真意を訊くのが怖くなってしまった。約束の朝、彷徨った。そして行き交う道路に吸い込まれていった。この男の愛の結末は何だったのだろう?すべての夫婦が愛の進行形とは限らない。そんな中で正しい愛を知れば不義には成らない、真理を尊ぶ教えに背かない。一言彼女に問えば済むものを、不義と真理の一歩手前を彷徨ったこの男の愛は一体何なのだろう、と空を見上げれば鰯雲だけが何も知らずに悠々と風に泳いでいた。


 紺碧の天空泳ぐいわし雲今日は流れて何処へゆくやら



 石田が眠る菩提寺から駅までの間に、今一度この原稿を読み返し、最後の短歌を復唱しながら思わず空を見上げた。そこにはこの短歌と重なる空が続いていた。

彼との思い出は集約すれば文学と美術との芸術論に尽きる。あれは冬の寒い日だったか。君の部屋のこたつに入り、お母さんが淹れてくれた紅茶を飲みながらイギリスに想いを果てた。そこでシェークスピアの生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ、と云うセリフを話したっけ。

「一体何が問題なのだろう」

「それは千差万別、身近な問題に置き換えてみよう」

「例えば」

「たとえば、そう君が先日紹介してくれた由稀乃さんでもいい、要するに問題を愛に置き換えてみよう」

「オイオイ、石田君、君は女の子の手も握った事もないのにそれはないだろう」

「だから客観的に論ずる事が出来るんだ。愛は惜しみなく奪うものとか、その逆に与えるとか、しかしこれらには対象物足る女性が存在したならば言い切れるかどうかだ。要するに理想と現実の狭間で人はどう揺れ動くかだが、今はそれを抜きにして議論しょうじゃないか」と石田は言った。が、結局あれは結論があやふやに成ってしまって、光源氏のさまよえる恋いが理想論になった。

「理想を語れば結局、そこへ落ち着くとは。君は作者の意図を理解していない、一つの恋いに満たされぬ者が恋いの遍歴をしても意味が無い。解るか、俺が言いたいのは恋いは無欲でなければ成熟しないと、いや、それがほんとの恋いだと」

「クリスチャンらしい所へやはり落ち着いたか」

「これは宗教とは関係ないこれはぼくの信念だ!」と石田は言い切ってさっさと自分から切り出したお題に幕を下ろしてしまった。


 石田の法要は終わった。

 あの映画館での一件と云い、純なあいつにキリスト教を持ち出したのがいけなかったのだ、とあの日と同じ思いに駆られて二宮はほろ苦さを噛み締めた。その時に牛島が追い着いた。彼は遺品である原稿の行方を尋ねた。

「それを知って今更どうするんだ」

「君は薄情だ!みんなあの事実を知りたがってる」

「そんな事実など最初から存在しない、これは君とぼくの胸だけに閉まっておけばいい」

「彼の最後の告白を黙殺する権利は君にはない!」

 石田は最終チェックを俺に求めた。俺が却下した以上あの持ち主の無い原稿は私の手を離れる事はない。

「あの晩焼き捨てた」

「それをそのまま遺族や友人に伝えれば二宮、お前は追われるぞ、それにA子は実在したのか?」

「あれは事故だ!だから偶然、最後の告白の形になっただけだ」

「いや、それはおかしい・・・」

「それで済んでいるんだからそれでいいじゃないか」

石田の死は確かにおかしかった。大半の人々は納得しても、家族と彼に親交があった僅かな人たちは疑問を持っていた。

「第一その事実を一年もかくまった牛島、お前も俺と同罪だ一生十字架を背負え」

「俺には出来ん・・・」

牛島はこの一年、ギリギリの所で耐えていたのだろう、だが関係者全員の顔を見て爆発させたのだ、せめてその溶岩流の流れだけは変えてやらねばこの男も救われない。

「そうかも知れんが。いや、いい作品が出来るかも知れんぞ。休閑中の同人誌を再開しろ」

それが石田に対する供養だと言って聴かせたが・・・。石田、俺はお前と云う人間を本当に何処まで知っていたのだろう。

 お前だけじゃない、由稀乃が俺に寄せた真心を、何処まで俺は心に留めていたのだろう。

 エゴイストと云って激しく罵りながら彼女は泣いていた。石田がその事を知っているのか「最近は由稀乃さんと会っているのか?」とハイキングの相談をした時に突然に訊かれた。

 なぜ石田はそんな質問をあの時に、そして急に俺に浴びせた。一体あいつは俺の何を心配していたのか。それとも由稀乃に降りかかる不幸を、嘆き悲しむ姿を目にしたくない。その一点から彼は彼女を擁護したのか。それに由稀乃はどう応えたと云うのだろう。

 だがその行動に石田は有る確信を感じたのだろう。その時の由稀乃の思いはどうだったんだろう。曖昧な返事でその場を濁してくれたのだろうか? それともある言葉を期待していたのか? それを訊く勇気は今の俺には存在しなかった。


 この一年、相変わらず由稀乃と、付かず離れずの交際を続けている。それ以上踏み込めない理由が二宮にはあった。それはたまにふと遠いところを見るように。

「石田さんどうして死ななけゃあならなかったのかしら?あれ程張り切っていた同人誌にも辞退して掲載されなかった。『紺碧の天空泳ぐいわし雲今日は流れて何処へゆくやら』何なのこの辞世の句は。それに何でこんなに短い句の題が、あの同人誌の本のタイトルに成ってるの、あなた知らない?」

 と云う由稀乃の言葉に「さあーあの鰯雲にでも訊いてくれ」と返事に詰まっている自分がそこにいた。

 この論文形式の告白がそれを端的に語っている。石田は由稀乃の返答次第では一線を踏み越える事に迷いが吹っ切れても、その確信を掴んだことで闇夜(あの世)からの誘惑に負けた。

 彼の為にも彼の掴んだ確信の正しさを、由稀乃に訊かずにはおれないが、その勇気は二宮には無かった。第一由稀乃は石田の本音は何も訊いてないから、告白されればどう受けたか未知数だった。それらは彼女の行動と言動に委ねたいが、それで石田の行動は盲動だったのか、真意を知る勇気が今は無い。それよりあの鰯雲を見るたびに彼に手向ける言葉を探したい・・・。

 石田のこの未完の原稿は編集者の牛島と二宮しか知らない。

 牛島には石田の名誉の為にと口止めさせ彼も納得した。あとはその意志をどう汲むべきか、帰りの京都行きのプラットホームで、なかなか来ない列車を待っていた。

 この石田の未完の原稿を持って、神父に会おうと決めたのは、法要を終えた瞬間の閃きに過ぎない。長く来ない列車を待つ間に、もうこの原稿はどうでもよくなってしまった。会ってもどうにもならないからだ。気休めにさえ思えて来た。だからこの原稿は俺の心の中だけに留めて、二度と此の原稿は日の目を見る事はなかった。

 改札を抜けた二宮は天を仰いだ。そこにはいわし雲の群れが天空を高々と泳ぎ、その中にあの日の石田の姿があった。


(完)

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いわし雲 和之 @shoz7

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