第8話


(8)

次の休日は由稀乃に久しぶりに会う喜びよりも不安が重くのしかかった。先日のケンカ別れで必死で絆を探そうとする彼女を残して帰ったことを後悔していたからだ。だが決してあの時は一方的に離れたのではない。取った行動はそうでも心の中では走って追いついてくれと、祈りながら逆らう足に鉄槌を下せなかった自分を嘆いた。

この日、いよいよあの角を曲がるとバスセンターだという場所で急に恐怖がこみ上げた。

 心の中で心配するなと云う石田の伝道師に似た助言だけが、あの角を曲がる勇気を支えていた。こんな思いをするなら何であの日、彼女の話をもっと真剣に聴いてやらなかったと心臓のポンプが彼に圧力をかけ続けた。

 出町柳で待ち合わせたバス停には由稀乃が先に来ていた。彼女は遠くから二宮を見つけると「お早ようー」と笑顔で手を振っていた。オーバーヒート寸前の機械に潤滑油が一気に流れ込むように心臓は正常な回転に戻った。取り越し苦労か。

二、三歩手前でお早ようと交わし、彼女の隣りに腰を下ろして忙しなく発着するバスを見て「君は怒っているんじゃないだろうかと思ってた」とゆっくり口を開いた。

 彼女が黙って俯いているのを見て慌てて「ぼくは君の事を決して嫌いになった訳じゃないよ毎日不安の中で君からの連絡を待ってたんだ」と付け加えた。

彼女は俯いたまま何かぼそぼそと言っていた。二宮が覗き込むとクスクスと笑っているようだった。彼女は横目で二宮を見てから顔を上げた。今度ははっきりと笑った。

「ここんところ暫く連絡してこなかったわね、やっぱ意外と気にしてたんだ、それじゃ石田さんのこと余り云えないよ」

二宮は此処でまた落ち込んだ気分が、ジェットコースターのように一気に上昇して一息吐いた。

「そんな事ないよ二週間ぐらいかなあ、でも電話はしていたよ」

「留守の時に、それも一回きりじゃないの、何か言付けといてよ」

「事情を知らないお母さんに何て言えばいいんだ」

「言える訳ないわね、あなたわ」

「・・・それよりはこの話っていつ石田からあったの?」

「一週間前、あなたわ?」

「三日まえ」

「あなた所はのんきなのね」

「と云うか、捜していたらしい」

「電話はなかったの?」

「君以外は繋がらないようになってたから」

「それで彼、あたしの所に来たのねと言うか、ゴメンねあたしが誘ったの、だってあなたが悪いのよ何も言わないでさっさと行ってしまうからよ。ちよっと聞いてるの!」

 ウンと気のない返事をして時計を見た。

「それより石田は遅いな」

「後三十分しないと来ないわよ。あの人、気い利かしたのあなたとケンカ別れした後に石田さんに不満をぶっつけた。それで彼は前みたいに三人揃って遠出しょうと言い出したの、あっもう来る頃かも知れないね」と彼女も時計を見た。

「三十分遅れるなんて聞いてないよ」

「だから気を利かせたって言ってるでしょう。そう云う所はあなた以上に思いやりがあるわ、クラスで人気者になる訳だ、もっと早く知りたかった」

そう言われて二宮の心中は穏やかではなかった。この一ヶ月で二人は急速に仲が良くなったのか、いや、ただあの時のケンカの反動で石田に一時なびいた、それももうすぐあいつが来ればハッキリする。

 このバスターミナルの地下は地下鉄の終着駅だ。そして道路の向こうは鞍馬、貴船方面の電車の始発駅でもあるから、人の往来が引っ切りなしに絶えず、ベンチで待つ二人はすっかり周りから取り残されていた。

鷹揚に構えていた由稀乃もさすがに心配になり二宮に連絡を取るように催促した。もう来るんじゃないかなあと云う二宮についに彼女はしびれを切らした。

「あなたはどうしてそんなに呑気に構えているの!」

 由稀乃は言葉とは裏腹に動揺している二宮を見透かすように急き立てた。

「分かった電話してくる」と席を外した。陽が昇ってくると暑さはぶり返えしてくる。由稀乃はショルダーバッグから取り出したハンカチを扇ぎながら、向こうで電話する二宮を見詰めていた。やがて肩を落としてだらたらと戻ってくる(彼女にはそのように見えた)二宮の姿で苛立たせた。

「どうしたの?」

彼は無言で隣りになだれ込むように座り込んだ。

「本人からでなくお母さんからだが大変な知らせだ、どうすればいいんだ」

「だからどうしたの!」

 由稀乃は急かすように肩を揺さぶった。

「石田が交通事故にあった」

 俯いたままポツリと語る二宮を、彼女は食い入るような視線を注いだ。

「意識不明の重体だ。・・・そうだ」

「バカ!何してるの? すぐに病院へ行かないと、何処なの」そう云いながら由稀乃は二宮を急かしてバスをかき分け、向こうのタクシー乗り場の行列を見ると、踵を返して更に表通りまで走ってタクシーを止めて二宮の手を引っ張るように飛び乗った。

「行き先はあなたが言って、知ってるんでしょう」

 タクシーは川下へ走り橋を渡ると川向こうの病院へ吸い込まれていった。彼女はタクシーを飛び降りると、真っ先に受け付けに駆け着けて場所を訊き、薄暗い廊下を手術室に向かった。

 ほとんど彼女の先導で進むと、手術中のランプが点いた集中治療室の廊下の前に、沈痛な面持ちで石田の母が立っていた。

 訊けばまだ電話で聴いた状態と変わらなかった。由稀乃は母親を落ち着かせて廊下に備え付けられた長椅子に座らせた。三人はそのまま長い沈黙の中にいた。やがて手術中のランプが消えるとみんな立ち上がりドアの前に殺到した。

 静かに開けられたドアからどう言えばいいのかと、疲労困憊で困窮する手術を終えたばかりの医者は、そのまま彼らの前を通り過ぎていった。後から続いて出てきた看護師が石田の死を告げていた。

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