第7話
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そこに何の確証もなかった。彼が何の為に論文を書くのだ。そして何処に提出するのだ。だが後で知ったのだが石田は学内で文学を通じて人間の普遍性を追求した。そのサークル活動で、同人誌の発行に精力的に動いていた。
彼の呼びかけで多くの作品も集まり、この秋には人間性を追求する事に主眼を置いた、創刊号が発刊されるまでに成っていた。この話は神父から聴かされる前から知っていたがすっかり忘れていた。 しかし悲しいかな、有る事で動揺する二宮にはこの時の神父の言葉が余り耳に響かなかった。学友から石田と由稀乃が一緒の所を目にしたと聞かされた。それから何度か石田の家の前まで行ったが、ついに一度もその玄関の戸を叩く勇気が失せていた。
あれほど堅く心に言いつけて出掛けたにも関わらず結果はいつも同じだった。
帰り道には、いつも会っていたのだから別にたまに会うのは良いじゃないか。何も心配は無いんだと遠ざかる足に言い聞かせた。
それから動揺する自分が怖くてキャンバスでも石田を積極的に捜さなくなった。その日もいつものように授業を終えると真っ直ぐ帰る二宮に、後ろから呼びかける者がいた。が、人違いだろうとそのまま歩いた。
彼は追いつくと「ひどいじゃないか無視するなんて」と肩を軽く叩いた。振り返った声の主が石田だったのには驚いた。
「ここ暫くサークルでの同人誌の出版と云ってもコピー機で印刷した紙を閉じた小冊紙だけどね。その共同提案者は君も見掛けた事があるあの牛島だけど、彼に原稿を預けて彼が編集してもうすぐ出版にこじつけるらしい、とにかくぼくとしては何とか夏休み中に完成したいと思ってたからねそれでやっと解放されて羽を伸ばしたい」
「それで何処へ飛んでゆくんだ」
石田は伸ばした両手を上下に振って戯けて見せた。
「だからあの空の
それを聞いて二宮の顔が強張ったが、石田が言い終えて向き合うまでに必死で作り笑いに変えた。
「お前が誘ったのか? 順序が違うじゃないか」
「そう怒るなこのところお前を必死で探したがどこへ雲隠れしたのか捕まらないからなあ、それでコスモスは待ってくれないから焦ってね。まあ悪いと思うがそう云う事情でねお前なら判ってくれるだろう」
「で彼女はなんて?」
二宮は努めて冷静に訊いた。
「また三人で遠出するなんて久し振りでいいわって云ってくれたよ」
「本当にそれだけか」
「くどい、お前らしく無いな、どうした不機嫌か」
「いやそうじゃないただ唐突過ぎたからだ」
「だからさっきも言ったじゃないかお前を随分捜したとお前の家にも行ったんだぞう。お母さんに居ないって言われたよ」
二宮は家の者には由稀乃以外は居留守を使った。どうしたの? と訊く母には気分がすぐれないから、石田なら後から出向くからと言ってあった。ならそう伝えると言う母に二宮は居留守を強要した。
「それよりはお前、由稀乃さんとケンカしたそうだなあ二週間前に、
原因はなんだ」
「大げさだ一寸口論に成っただけさ」
あれは一寸不思議だった。あの日の由稀乃はいつもと違った。
彼女は「ちょっと、ちょっと聴いて、あそこの昼食のランチすごく美味しいのよ、この前デパートですてきな物を見つけたの」とか由稀乃は言いたいだけ喋った。二宮はそれを一方的に聞かされたあとは聞くともなく聴いて楽しむのが日課なのに「ちょっと聞いてるの! 大体あなたはどうかしてるわ私にばかり喋らせて」と彼女は突っ掛かってきた。
何の事か解らないままに自分は女の確信に呑みこまれた。抵抗をするにも口を挟む余地のない女特有の理論を展開させた。
彼女は何かに迷っている、二宮はそう結論づけて反論を避けて彼女に一方的に喋らせた。彼女は何に苛立っているのか最近は屹度させる所を見受けていたがそう気に留めなかった。そこら辺りに気を配っていれば、この大噴火は予知出来たかも知れなかった。
理由も解らずまた解ろうともせず、二宮は自分の虚無の世界へ彼女を残して去った。その一週間前だろうか石田が、彼女の事でもっと大事にしてやれよと口論したのは。
あの日は大きなお世話だとはねつけた。その後で判った。彼女は石田と比較して物足りなさを感じてあの日は修正を迫ったのだ。由稀乃は気の利かない男だと今更ながら呆れたのかも知れない。
今、目の前の石田は彼女とのケンカの原因を知ってるんじゃ無いかと感じるとこれ以上この話はしたくなかった。
「夏前に行った奥嵯峨は良かった。また三人で郊外へ行けるなんていいよね」と二宮は明るく話題を切り替えた。
「やっとお前らしくなったなあじゃあ異論はないか、良かったよ」 石田は屈託の無い顔で笑った。その顔を見て二宮は、この夏は一体俺は何に心を痛めていたのだろうと振り返ると、やけに自分が惨めになったが、やはりひとつだけ抜けない棘が残っていた。何だろうと振り返る余裕を石田は与えなかった。
「牛島のやつ。こないだサークルに寄ってくれた時に俺の隣りに居たやつ、あいつだよ、あいつがあの髭もじゃだが、結構ナイーブなやつでねあいつが同人誌を出すって言うから寄稿してくれって言われたけれど、俺は小説なんて書いた事がないって断ると論文でも随筆でも何でもいいんだって、要するに作品が少なくて様にならないらしいんだ、で愛についてだらだらと書いた。丁度今回のハイキングの頃に出来る段取りらしい」
と最高傑作とは云わないがそんな顔をしていた。
「聖書の説く愛か?、・・・そうなんなのか?」
石田の表情に変化が生じた。
「誰かに訊いたんか?」
「斉藤牧師さんに・・・」
それを聴くと石田はなぜ教会へ行った。なぜ神父に会った。これだけを怒鳴り散らすと、頭を抱えて座り込み暫く黙ってしまった。 最初は訳も分からず呆気にとられていた二宮も、抱え込む両手が小刻みに震えるのを見て、何かに苦しんでいるらしい事が解ってきた。この場に相応しい言葉を探した。
中々見つけられない。ええいもう面倒くさいと「自分ひとり納得しても何も分からないじゃないか!」と彼の頭上に思い切りさっきのお返しとばかりに浴びせた。
抱え込んでいた両手が解放されてだらりと落ちると彼は頭を上げた。
「すまん俺はどうかしてたんだ」彼は目の前の空間に向かって言った。そして「彼女は良いい子だ・・・」と独り言の様に最初の言葉に引っ張られるように次の言葉がこの様に産声を上げた。
二宮にはそれが由稀乃だと解るのに数十秒要した。だが立ち上がっていた石田は、この間隔を好期に捉えて恋人なのか。と、機関銃の様に連射して二人の関係を訊いてきた。
恋人だと確信したところで連射は止んだ。それから彼は大学の授業はどうだ、今が峠なら彼女と同じ美大へ通ってみるかいと話題を転回させた。いや文学は面白い君のお陰だと二宮に言われて、やっと石田は以前の彼に戻ってきた。昔の様に文学が人生の多くの教訓を導いている。まさに温故知新だと彼の得意な講釈が始まり蘊蓄(うんちく)を傾け出すと中々終始が着かなかった。いつものように訪れた日暮れがやっと遠い彼方へと理論を持って行った。
こう云う議論を尽くすと頭がすっきりした。また次の知識を詰め込む作業に追われ、そうして彼女の事は遠い所へ追いやられるのも常であった。
この様に二人の議題は彼女が二人にとって、どのような存在なのかを考える事は避けていた。だがこの日は避けなかった。どう云う訳かまたぶり返し更に石田は追求した。
「一人で教会へ何しに行った?」と石田は教会に関心の無かった二宮に怪訝な顔で聞き返した。
話が思わぬ方向に振られて用意する口実の無かった二宮は動揺して慌てた。
「暫く会わないからと思ってちょっと教会を覗いてみただけで牧師さん以外は誰もいなかった。・・・ただちょっとしたあの雰囲気が気になった・・・」後の言葉は自分に言い聞かせたが石田はすぐに同調した。
信者でない二宮があの雰囲気と言っただけで「そうだろうな」と言葉を返されて驚いた。
あの教会で彼と共通するものが有るとすれば一体何なのだろう? そっと深淵を見ようと覗いてみた。
彼はまったく何も考えて無いように真っ直ぐに歩いていた。一寸間を空けただけなのに今日の石田は掴み所がなかった。いつもの分かれ道で彼と別れた。
真っ直ぐ帰るんだろうかと暫く見送ってから踵を返して二宮も家路へ向かった。賑やかなアーケードの商店街を抜けると、幾筋もの道が曲がり混んだ簡素な住宅地の中の一軒家が彼の自宅である。この家は分かりにくいらしく家までやって来る事はまれで、たいてい事前の約束か電話での呼び出しが多かった。だから二宮の方から足を運ぶ事が多かった。昔はこの道を由稀乃と歩く方が多かったが、ここ暫くは石田と一緒だった。
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