第6話


(6)

「嘘だ!あの時、石田はいやに難しい試験だった一浪を覚悟したと言って大学の校門を後にしたのに」

 聖職者に向かって投げつけた最初の言葉に斉藤は笑い飛ばした。二宮はハッとしてロザリオの威光に我が身を恥じた。石田は俺よりもずっと前から文学部志向で焦点を合わせていた人間だ、にわか作りの試験対策をした自分とは格が違う。今から思えば石田が落ちる訳はなかったのだ。俺はあいつを一年棒に振らせてしまった。一体俺は此処へ何しに来たのだ!

「二宮さんそんなに気落ちする事はありませんよ。あなたはもう十分借りを返しましたと石田は言ってましたよ」

「そうでしょうか」

老人の十年に匹敵する貴重な青春の一年を棒に振らせたと知った以上は埋めてやらねばならない。しかし今はそれ以上に自分の一生が棒に振りかねない災いに呑みこまれる。そんな事があってはならない、それを確かめる為に此処へ来た。俺はまだ目的を果たしてない。 

「あの人の最大の欠点を直してあげましたね」

 牧師も大げさだと思う。生きてゆくのには最大の欠点ではない、そりゃ伴侶を得るには難しいが、愛で選んでも愛で生活するわけじゃない。だから何も引き替えにする事はない、友情さえもくそ喰らえと言いたい。

 それを承知の上でここへやって来たんだ。一体どうしたと云うんだそれだけで善人ぶるのはよせ。

「あなたのおこないはそう簡単な事ではないのは判ってました。石田さんは取っつきやすい人ですが同じ年頃の女性にはいけませんでした。幸い多くの信者が年上の方ですからかわいがってもらって、高校生の彼はそれはそれで良かったのですが大人びて来るといけませんでした。何度か相談に乗りましたがこれは彼自身の問題でアドバイスではどうにもなりませんでしたから。あなたには感謝してます。あの人の最大の悩み。女性に対するコンプレックスを克服させましたね」と続けた。

 そうだそれで此処へ来たのだ。おだてられて有頂天になってる場合じゃない。結論を急がなきゃあと思い直した。

「それで他に石田が何か言ってませんでしたか? 懺悔を告白したいとか」

「それはありませんが唐突に愛ってなんですかと尋ねられました」

 ーーいきなりですかと問うと。

「神父はそうじゃないと遮った。一体ぼくたちの内に有る完成された理想郷と云うもは個々の人達の結び付きにどんな作用をするのだろうか? と訊かれました。我々は大なり小なり行動が伴わなくても邪悪な心を持っています。これに対して一点の曇りも無いものを崇め尊び、そこに神が存在すると信じる事から信仰が形作られる。この漠然としたものから解りやすいように様々な出来事を対象にした言葉が作られてゆく。その聖書の中で愛について有名な一文を朗読するように仕向けました」


『愛は寛容であり、愛は情け深い、ねたまない高ぶらない恨みをいだかにない、そしてすべてを忍び、すべてを望み、すべてを耐える、不義を喜ばないで真理を喜ぶ』


「この言葉を彼は静かに朗読しました。読み終わると彼はひとしきり考えたのでしょうか黙っていました。そしてポツリと呟きました。神は難題をぶっつけてくると、これでは神の存在意義があっても自分の存在意義がどこにも見当たらない。どうすれば良いのですか? と答えを求めていました『不義を喜ばず真理を喜ぶと云う最後の言葉をどう思いますか』と投げ掛けると、真理ですかと聞き返されて、そう真理ですとハッキリと言って聴かせました。彼の頬が少し緩んだのを見て安心しました。でも彼の苦しみは具体的には何も見えませんから気にしていたところへあなたが現れた。これは何かのお導きでしょうかと神父は取って付けたように語りながら、もったいぶって出し惜しみする事なく二宮にぶっつけた。それで一番親しいあなたに逆に最近の石田さんの様子を知りたいのですが何かお気付きありませんか?」

 神父の語った石田の様子から過去を顧みてゆくと納得させられる出来事が次々と浮かび上がってきた。

***

 二宮は例の映画館での一件以来、からかっていたが此処に至っては、石田のコンプレックスを和らげる為に、由稀乃に協力を求めた。彼女は今どき珍しい人類を観察できると、一通り笑いながら石田を思い浮かべてるようだった。

 早速次の休日から彼女と三人で連れだって出かける。コミュニケーションを取るには長く散策出来る場所が良いと郊外へ向かうバスに乗った。

 バスには自分たちと同じ若者のグループに年配の夫婦、中年の子供連れの家族等が乗り合わせていた。二宮達は終点まで乗らず途中の大きな池の前で降りた。

「五月晴れだ」バスを降りると大きく背伸びして二宮が叫んだ。

「良く乾いたこの青空は違うんだ。旧暦の五月は梅雨どきなんだ」 早速、石田が講釈を始めた。彼は季節感の乏しい今の暦より、旧暦の方が生活にメリハリが有って過ごしやすい、と文学論の片手間に旧暦を語るのが口癖である。季節感が無いから人はだらだらと無為に過ごしてしまう。例えばカレンダーをいちいち見て確認しなくても月を見れば日にちが判り、月の満ち欠けを観るだけで恋人との逢瀬に憧れたり切羽詰まったりする。と、現在では実感の乏しい石田が懸命に説明する。

「第一スピード感の有る現代に一ヶ月も閏月が有るなんて考えられないわ、だってある年だけ一年が十三ヶ月も有るのよ、閏月が年末ならどうなるの紅白歌合戦とクリスマスが二度あるなんて除夜の鐘も二回聴くの?それより野山に咲く花を見れば、ああもうこの時期なんだと思いを寄せればいいのよ」

 と由稀乃は現実論をひっさげる。

「多分閏月の十二月が本当の年末でその前の十二月は十一月の感覚で普通の月として何事もなく過ぎてゆくよ、だから気の持ちようだと考えれはいい。それよりも二人が眺めた月夜で十三夜だったと日付が判るから死ぬまで夜空を見ればその記憶が残る。これは現代感覚では味わえないすばらしいものだと思う、人は自然の中で生かされてる事が実感出来るんだよ」

「今どき月夜なんて無人島か山奥へでも行かなければじっくりと見られないのよ、そんな所でどうして生活出来るって云うの」

「いいねぇ今どき何もかも捨てて文明を否定する生活。人間の心の原点はこの原始生活から築かれていった。大河の源流は最初の一滴の雨粒から始まるようにね」

「勘違いしないで、中流域に住む私達は時として源流を目指せても時の流れは後戻りできないのよ」

「後戻りしたらあかん! それはぼくの母親の口癖だったよ」

 二宮が急に二人の会話に口を挟んだ。二人は何なの、と大袈裟な彼の介入に驚きながらも笑える余裕があった。広沢の池から大沢の池に向かう長閑な田園風景の中を三人は歩く。

「そう云えば二宮さんのお母さんてよく本を読んでいるのね」

「へぇー由稀乃さんは二宮の家へ行った事があるの」

 一歩前を歩いていた石田が振り返りながら訊いた

「別に驚く事じゃないでしょ」

 そう云えばこの人、以前は女性が苦手だったんだと思わせるほど最近は垣根が無くなっていると隣りの二宮に流し目を送った。

「石田もそろそろ彼女見つけなよ」

 と二宮は少し得意気になった。

「石田さんも様になってきたわよ」

 と言った由稀乃の顔をしみじみと眺めた。

***

 君付けからいつの間にか、さん付けになっているのが少し気に掛かったのでした。

「その時はそんなに意識しなかったんですね」

 斉藤神父が易しそうに尋ねた。二宮は一日過ぎたら吹っ切れたと静かに頷いた。

 自分を見る由稀乃のいじらしい姿で彼女も大人になったんだと一時そう思うと一変に吹き飛んだ。それほどお互い垣根の無い付き合いが続いたが、ひと月ほどすると何か石田が、よそよそしくなり余り近寄らなくなった。

「成る程そう云う事ですか」と神父は無理に笑った。

 斉藤神父も最近は手に着かず、いつもと違う変化に気付いて心配していた。と云うのも教会を取り巻く環境では、彼の異変に心当たりが見つからなかった。原因はここ以外にあると考えて、二宮の来訪に逆に彼の近況を訊いてきた。

 問いたいのはこっちの方だったが、ありのままに聞かされても答えが見えず牧師は落胆した。ただ最近、彼は再び十字架を前にしてキリストの説く愛とは何なのですかと唐突に訊いてきた。二度目に私も驚きましたが、彼の暗い深淵に落ちてゆく顔色を見てその真剣さを悟りました。

 信者である石田に、牧師はもうこれ以上聖書を説いても仕方がありませんから、今度は一旦聖書から離れてまず欲を捨てなさいと言いました。そこに彼の苦悩の根源が潜んでいる気がしたのですがまだふらついてるようです。

 だが宗教に余り関心のない二宮の為に牧師は聖書の説く神が絶対的なものでその神が愛であり、その神は私達の心の中にいらっしゃると簡略した。

 それはおかしい自分が信じた物すべてが神で有り、愛だと言うんですかと二宮は反論する。

「だから十字を切って人を殺す人もいる、許しを乞うてるんです自分がこれから犯す事に対して、そしてその報いを一生受けると宣言しているのです」

「それはおかしいそれならば最初から罪を犯さなければいい」

「仰るとおりです。でもそれに最初から打ち勝つ人がいるでしょうか、人は大なり小なり間違いをしでかすものですから、そこから気付くのですその愚かさに、でも石田さんはそんな愚かな人じゃありませんからきっと忙しいのでしょう。確か神の愛と作家の愛について論文を纏め上げてると今までは聞いていたのですが、余り真剣なので確信が持てませんでしたが、二宮さんからお話を聞いてやはりそれだけではない事も知りましたが、とにかく今暫くは見守ってやってください」

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