麻酔無し
鈴界リコ
麻酔無し
結論から言うと、封筒の中味は切断された指だった。紙のパッケージから取り出した新聞紙の固まりは、ところどころ文字が読めないほど赤黒く汚れている。丸められた紙を開いてみれば、それはころんとダイニングテーブルの上に転がり出た。黒と紫のグラデーションに変色した、人間の手の指。
数秒間まじまじと見つめた後で、ルイサはその正体を理解した。甲高い音で吸い込んだきり、息が止まる。足が勝手に動き出し、ダイニングから居間へとまっすぐ突っ切った。髪が血の気の失せた頬を叩く感触ばかり、やたらとくっきり感じ取る。
とりあえずベランダに出はしたが、脚の細い金属製のテーブルや椅子に辿り着くことは出来なかった。燦々と降り注ぐ昼前の太陽を暖かいと感じた瞬間、涙が込み上げて来たのだ。彼女はその場にへたり込み、大声を上げた。腹の中にある全てを吐き出し、世界中へ聞こえるような大声を。だがどれだけ喉を擦り切れさせても、恐慌は一向に収まることがなかった。
受付は39番通りの支店。差出人はママ・グランデ株式会社。料金は先払い。見慣れたフェデックスのエンブロープへ貼られた伝票には、手書きで「貴重品」と記入されている。
最初はダイレクトメールか何かだと思った。だが薄っぺらいボール紙をつまんでみても端っこのほうは手応えがなく、真ん中だけがぽこんと膨らんでいる。指で押してみると固い。
通販で思い当たるものを注文した覚えはないので、恐らくは夫のダニーが送りつけたのだろう。宛名が自らであるところから鑑みるに、贈り物なのかもしれない。ステディと呼べる関係になってしばらくの頃、彼は何度かこういうサプライズを仕掛けてきたことがあった。外装は宅配の箱、中味は茶色い油紙の袋に包まれたネックレス。アッパーウエストサイドのフリーマーケット辺りで買ってきたのかと思ったら、それは2千ドルするティファニーで――
そう、宛名が自らなのだから、開封しても問題はあるまい。ルイサはハンサムなインド系の配達員から荷物を受け取り、ダイニングに持ち込んだ。半年前に越してきたウィリアムズバーグのコンドミニアムに関して、ダニーは彼女へ白紙委任状を渡していた。好きにしなよ、お前のがインテリアのセンスは絶対あるからさ。ただ、俺はああ言うのが好きなんだよな、ほら、西海岸風リバイバル・アールデコって言うのか……
彼女自身には特にこれといった好みもなかった。従ってカウンターキッチンが仕切るダイニングは、壁にはライトグリーンのペンキ、床に幾何学模様のリノリュームを張り、黒大理石とチタンチューブのテーブルや、北欧から取り寄せた、同じくパイプに黒い革張りの椅子なんかを配置してある。暖色の少なさを埋め合わせるようにした流線型の多用という奴で、機能的でありながら装飾的。とても洒落ているね、とホームパーティーにやってきた客達はこぞって誉めそやす。
端をちぎり取り、封筒を逆さまにして振ってみても、突っかえているのかなかなか出てこない。仕方がないから中に手を突っ込めば、揉んで解したように柔らかい紙の感触を探り当てた。で、指二本で挟んで引きずり出し、新聞紙の包装を開いてみれば、その恐ろしげな肉片が現れたのだ。
泣き叫び始めて30秒ほど経っただろうか。胸程の高さがあるコンクリート壁から、隣室のベランダにいたナッティの豪華な金髪がひょっこり覗く。
彼女は耳からワイヤレス・イヤホンを外しざま「あんた何やってんのよお」と叫んだ。ルイサは魚みたいにぱくぱく動かす口から、大変なの、とか、どうしよう、とか、単語を幾つか吐き出した。だがそれらを、説明の形に構築することはどうしても出来なかった。
遂にその場へ突っ伏し、コンクリートの床を平手でばんばん叩き出した彼女を目にして――室内の内装へ忙しく、ベランダは殆ど手つかずの状態だったのだ――ナッティは立ち上がった。いつも通り、木製のデッキチェアにバスタオルを敷き、フルヌードで日光浴していたのだろう。こんがり黄金色に焼けた肌は、それまでの夜遊びと不摂生を卒業し、毎日5リットルもガラス瓶入りのエヴィアンを飲んでいるおかげで、なめしたよう艶めいていた。
「ねえ、本当にどうしたの」
そう言ってしばらく、彼女にしては根気良い時間が持たれる。だがルイサの長い茶色の髪が、汚れたコンクリートを容赦なく掃く様子を眺めているうちに、すぐさま忍耐は打ち切られたらしい。火照った耳に大仰な溜息が滑り込んでくる。「ちょっと待ってて」次に放たれた吐き捨ては、すっかりくたびれきった物だった。
ぴしゃりと閉め切られたガラス戸の音が余韻すら消え去った頃、ルイサはようやく身を起こした。涙でぐしゃぐしゃになった顔をカットソーの襟ぐりで拭い、よろめきながら部屋の中へ戻る。しゃくりあげは少しずつだが引き始めていた。
ナッティが玄関のドアをノックするまで、あと10分は掛かるだろう。彼女の身繕いが遅いことは周知の事実だった。挙げ句散々待たせた後の出で立ちと言えば、ユニクロで買ったレギンスに着古したミニーマウスのTシャツだったりするのだ。
汗ばみもつれた髪を手櫛で整えながら、ルイサはキッチンへ足を踏み入れた。赤いホーローのポットにコントレックスを注いで、シンクに乗ったIHヒーターに掛ける。今度ナッティが来たら飲ませてやろうと思っていたコナ・コーヒーは、まだ封を切らずに頭上のダウンキャビネットへ入れてあった。
カップの準備をし、ミルクと砂糖を探している間、ダイニングテーブルへは一度も目を向けなかった。見てしまうのでは、と恐れていたが、首はギプスで固定されたように、捻れるのを拒絶する。
あれ、いわゆるドッキリじゃないかしら。ルイサは千々に乱れる思考の中、目に付いた可能性を手当たり次第に掴もうとした。ゴムで出来たジョークグッズ。自らがパニックになる姿を隠しカメラで撮影して、動画サイトに流そうとしているとか。 いや、確かにダニーは愉快な性格で、時に悪趣味な事をやらかすが、妻を泣かして喜ぶような真似は絶対にしない。何せ彼は、彼女のことを深く愛しているのだ。
大体、本当に指だったのだろうか。思い出すのも恐ろしく、彼女はシンクに両手を突き、身を固く強張らせ、そして何とか力を抜こうとした。そうだ、きっと偽物に違いない。大学の同窓生であるダニーと、ナッティの夫であるマイロンは、まだ30を越えたばかりだが、3Dプリンターで様々なサンプルを製造する会社を共同経営している。ダニーが話すところによると、コンピューターに物の形状を読み込ませ、プリンターで素材を削ったり焼成させたりすれば、びっくりするほど精巧な立体コピーが出来上がるのだという。そうだ、あれはサンプルに違いない。一体どうして自らの元に届いたのかは知らないが。
そもそも、あれは夫が送りつけてきたものなのだろうか。
響いたチャイムは、ポットの注ぎ口が鳴らす蒸気の噴出音にぼかされる。何とか聞き取り、ルイサは飛び跳ねるようにして玄関へと急いだ。
クローゼットの前に積んだダンボールを脚で蹴り除け、ドアを引き開ける。思った通り、ナッティはパーカーに擦り切れたデニムという格好だった。まん丸い碧眼は上目を作った途端、下町の不良じみた険を眦に刻む。「あんた、大丈夫?」
「だと思うけど」
彼女を盾にするようにしてダイニングへ押し込むのは、「本物な訳ないじゃない、馬鹿じゃないの」と笑って欲しかったからだ。しかしどだどたとした歩みは、テーブルの前で止まり、頑として動かなくなる。
「ちょっと、あれ」
上擦った問いかけに答えを与えることは、残念ながら出来ない。現実を受け入れる事の方が、余程重要だった。
目の前のなだらかな肩に額を押しつけながら、ルイサはくうっと喉の奥で甲高く声を漏らした。
マグカップ二つにコーヒーを入れて出せば、ナッティは開口一番「紅茶ないの」などと宣う。「何が紅茶よ。あんた結婚するまで、スターバックスのコーヒー頼んじゃ、おばあちゃんのペルコダンを片っ端から飲み下してたじゃないの」
「コーヒー止めたら生理不順が治った」
言いながら、結局マグは取り上げられる。真っ黒いブラックコーヒーへと伏せられた睫が、立ち上る湯気を払うかの如く不随意に瞬いた。
「それで、あれ、何」
「人の指」
彼女の向かいに、ルイサは腰を下ろした。二人とも、あれっきり件の代物を見てはいない。ナッティが皺くちゃの新聞紙を掻き合わせ、視界から隠してしまったにも関わらず、顔を向けることが出来ないでいた。
「さっきフェデックスで届いたの」
「送ってきたのは誰」
「ママなんとかって会社よ」
破いた封筒を差し出せば、カーボン紙が刻んだ薄い文字がためつすがめつされる。
「ガルシア=マルケスか」
「誰ですって?」
「コロンビアの有名な小説家。『ママ・グランデの葬儀』は彼の書いた小説のタイトル。自分の生まれ故郷の偉い人でしょ、それ位知っとくべきよ」
「私のパパとママのルーツはコロンビアじゃなくてアルゼンチン。しかも私はロサンゼルス生まれだから、由緒正しいアメリカ人よ」
「あんたの旦那だって私とおんなじ事言うわよ」
真っ当な指摘にも関わらず、ナッティは憎たらしげに鼻を鳴らすのみだった。彼女は昔から、ダニーを典型的な頭空っぽの白人ジョックだと馬鹿にしている。じゃあ自分の夫は何なの、黒人って以外似たような物じゃない。生理が一ヶ月遅れた時、改宗しないと結婚してやらないって言われた癖に。ラビの娘を無理矢理バプテスト派にしようとするなんて。
「それに、ダニーは馬鹿な私が可愛いんだって」
「最悪じゃん」
「ありのままを受け止めてくれるのよ」
ナッティはまだ口論を吹っかけたそうな顔をしていたが、無視して熱いコーヒーを啜る。やたら酸っぱくて、普段飲んでいるフェアトレードの豆の方が余程美味しく思えた。
「とにかく、どうして南米の会社が指を送りつけてくるの」
「知らない。あんた何か変なサイトでもクリックして、個人情報抜かれちゃったんじゃない」
パーカーのポケットから取り出されたスマートフォンには、グーグルの見慣れたロゴが浮かび上がる。しばらくタップしたりスワイプしたりを繰り返した後、覗き込んでいた顔の中で眉根が寄せられた。
「該当する会社、無しだって」
「最初、ダニーのいたずらかと思ったの」
よく死体とか、魂のない肉からは悪臭を放つと言うが、幸い新聞紙からは何の匂いも漂ってこなかった。これはコーヒーの香りにごまかされているだけかもしれない。少しでも芳しさを保とうと揺するマグから液体が飛び出し、大理石の上にぽつんと滴をつける。
「でもこれ、彼の字じゃないし」
ナッティの視線はスマートフォンから外れて、再び伝票に戻っている。眉間の皺は消えるどころか、一層深く刻まれていた。
「これ、マイロンの筆跡に似てるかも」
「うそ」
「彼の筆記体のr、凄く癖があるんだ。そっくりだから」
ルイサが覗き込もうとしたのを阻むよう、封筒は引き寄せられる。
「けど、あの二人が送りつけてくるなんておかしいでしょ。受付は昨日の晩にマンハッタン。ニューヨークへいないのに」
二人は一週間前から、揃ってモンゴルへ出張に行っている。個人経営だから、商機があるならばどこへでも身軽に飛んでいけるし、逃がしちゃいけないというのが彼らのモットーだった。鬼のいぬ間にパーティーでも開いちゃおうかしら、と言えば、ダニーはあの真っ白い糸切り歯を見せつける、素敵な笑みを浮かべながら肩を竦めたものだった。「酒は程々、コカインと男ストリッパーはなしで頼むぜ」
「モンゴルって最近凄く危ない。中国人ギャングの誘拐が多発してるんだって。ブッツァーティさんの息子さんがボランティアに行ってて、奥さん心配してたわ」
「誰よ、ブッツァーティって」
「この前パーティーで会ったじゃない。」
スマートフォンを弄りながら、ナッティは肩を竦めた。
「旦那さん、食料品輸入会社の社長でしょ、裏でマフィアと繋がってるって」
「ろくでもないわね」
頭を振り立てた瞬間、ぴかっと脳内に浮かび上がったイメージと全く同じものを、ナッティも想起したに違いない。見合わせた彼女の顔は、自らの物と寸分違わない硬直に支配されていた。
「もしかして、ダニーやあんたの旦那も……」
どちらが新聞紙を開くかで大いに揉めたが、結局はルイサが、隅っこの方をつまんでそろりそろりと引っ張った。
改めて眺めると、それはどう考えても作り物ではなかった。変色した皮膚には荒い肌理が見えたし、毛も何本か生えている。切断面は赤黒く盛り上がり、骨は見えない。華奢で細い、ピアニストを思わせる指だった。
「気持ち悪い」
半分以上中身の残っているマグを押し退け、ナッティは呻いた。
「でも、白人の指っぽいね。肌の色が黒くない」
「ダニーのじゃないわ。もっと長いもの」
「そうかな」
「なによ、彼の指が切り落とされたって言うの」
いきり立ちながら、しかしルイサは段々と自信を無くしつつあった。まさか。彼の指はもっとごつごつ太く骨ばって、男らしい。
この肉片をこめかみの辺りに触れさせたら分かるかもしれない。ダニーはよくベッドの中で彼女の髪へ指を絡ませ、手綱の如く掴んで引き寄せては、耳元で囁いたものだ。「なあ、中で出さないから、口でしてくれよ」
「ダニーの指だとしても、送りつけてきてどうするつもり」
「そりゃ、身代金の要求かな」
「脅迫状なんか入ってなかったわ。入ってたらすぐ警察に連絡してたわよ」
「あんた捨てちゃったんじゃないの」
「捨ててない。人のこと馬鹿扱いしないで」
大理石はどれだけ握り拳を叩きつけても、こちらの骨を軋ませるだけだった。痛みはしかし、かっと胸の中で上がった火の手を止めることなど出来はしない。
「僻むのはやめて。あんたんとこ夫婦が上手く行ってないのは私のせいじゃない」
「はあ?」
「あんた達は余計なこと考えすぎるのよ。何事もシンプルが一番……」
「私達は建設的なだけ」
テーブルに下ろされたスマートフォンが、かちりと固い音を立てる。常日頃から乱暴に扱われ、かと言ってカバーを付けられない一世代前のiPhoneが、窓から遠慮がちに差し込む光に傷を晒していた。
「そう、あんたなんかよりもよく分かってる。私はマイロンにとってトロフィーだってことも。成功して手に入れた、おっぱいの大きな金髪女よ。でもそんな扱いは嫌だって、ちゃんと彼に言えるんだから」
一体どの発言が、彼女の地雷を踏み抜いてしまったかは分からない。最近別の部屋で寝ているとか、彼とセックスしたくなるタイミングが悉く噛み合わないか、夫婦関係の愚痴ならば本人の口から聞いている事だ。軽口の応酬に至っては、それこそ十年前からずっとラリーを続けているようなものなのに。
「あんた、何様のつもりよ」
一つ分かっているのは、昔からこの女は猫の目よりもくるくる機嫌を変える性質だということ。怒濤の如く押し寄せてくる怒りは確かに戸惑うが、ルイサは対処法を心得ていた。成り行きのまま、自らの心の赴くまま口を開けばいい。すなわち、相手と同じだけの質量を持った嘲笑で迎え打つ。
「お互い様じゃない。あんたがマイロンと結婚したのはハンサムで金持ちだからでしょ。もしも彼が貧乏でコカイン中毒のギャングだったら、見向きもしなかった癖に」
「人種差別主義者!」
「別に彼が黒人だからなんて言ってない! 白人でも同じ条件だったら嫌に決まってるわ」
「あんたは馬鹿よ!」
日焼けした頬をも紅潮させる熱は脳へと廻り、罵倒の語彙をぐんと減らす。
「いつまでも馬鹿なお人形さんでいたらいい! 泣きついてきても、助けてやんないから!」
「また馬鹿って言ったわね!」
勢いよく椅子を蹴った拍子に、とりつけられた滑り止めのゴムが、リノリュームに擦れて鈍い音を立てる。ナッティも既に臨戦態勢を取っていた。頭上に掲げられたマグの中で液体が津波を起こし、床へびしゃりと叩きつけられる。
喧嘩なんかしている場合ではないと、自らだけでなく、ナッティも理解しているはずだった。だが止められない。例え当初象ろうとしたものとは全く違う形であったとしても、とにかく吐き出さなければ気が済まない。
胸の奥を無理矢理押し上げられているような、こんな息苦しさを感じ始めたのは、いつからのことだろう。
昔『シエロ』のダンスフロアで繰り広げた如く、取っ組み合いになるのも吝かではない。だがまたもや感情の発露は、めい一杯表現しきる前に楔を打たれた。張りつめた空気を、甲高いチャイムの音が突き通る。
ボタンが2度押されるまで、ルイサは四肢を突っ張らせる程漲る力を抜くことが出来なかった。何とか息をつき、インターフォンへ歩み寄るときも、ぎくしゃくした動きになってしまう。
その硬直は、モニターに映る夫の姿を目にした途端、どっと抜ける。
「ダニーが帰ってきた。出張って明後日までじゃなかったっけ……」
続きの言葉を飲み込んだのは、陰影が白く消し飛んだようなカメラ映像に収まるのが、夫だけではないと気付いたからだ。
マイロンもいる。それはおかしくない、彼の家もここなのだから。だが彼らの後ろにくっついているアジア人は、何者なのだろう。野暮なスポーツジャケットにだぶっとしたスラックス姿の中年男は――
彼らの携える拳銃は、一体全体どうして、夫の背中を小突いているのだろう。
「ベイビー、何も言わずに入れてくれ」
普段の闊達な物言いはどこへやら、ダニーは頬に綿でも詰めているような口調で訴えた。
「大丈夫だ、お前には何も危害は加えない」
傍らから伸びてきた指が、咄嗟に通話終了ボタンを押す。振り返りざま、ルイサは「何するのよ!」と金切り声を上げた。
「何するも、警察に通報しなきゃ!」
負けず劣らず、ナッティも頭のてっぺんから出すような叫びに喉を絞る。
「銃を持った男が玄関にいるのよ!」
「そんなことしたら、ダニーが殺されちゃうわ!」
言葉にした途端、悪寒が背筋に沿って一気に走り抜ける。深く考える間もなく、寝室に駆け込んでいた。
ガンマニアと言うには大袈裟すぎるが、ダニーは拳銃に対するロマンチックな感傷と崇拝を持ち合わせていた。ナイトテーブルにはカークランドのスリーピングエイドとローション、アニマルコントロールのパンフレットやハンドクリームと並んで、S&WのM29が納められている。ダニーはクリント・イーストウッドの映画が好きだったし、典型的な中道右派だった。
「本棚に22口径が入ってるわ」
「あんた、何考えてんのよ」
クラブで見ず知らすの男の顔へモスコミュールをぶっかけるのは平気な癖に、今ナッティの声は震えていた。
「銃なんか撃てるの」
「パパやダニーについていって、射撃場で何回か。大丈夫よ」
正直、引き出しを開けた時には、扱える自信がなかった。だがずっしりと重たい木の銃把を握り込めば、気が大きくなる、高揚してくる。弾倉に弾丸が込められていることを確認し、まだ立ち竦んでいる友人を睨み据えた。
「あんたは初めて?」
「うん、そりゃあ……」
「じゃあ持ってるだけでもいい」
チャイムは再び鳴り響く。力ないナッティの手に、撃鉄を下ろしたスターム・ルガーを押しつけると、ルイサは大股でダイニングに戻った。開錠のボタンは、碌に画面を見ることなく押す。
エレベーターが18階まで上がってくるのを、二人はリビングのスペースに突っ立って待ち構えた。
「さっき、見た?」
アンティークのスリー・クッション・ソファへ尻を凭せかけたナッティが、掠れた声で囁いた。
「二人とも、怪我してるようには思えなかったけど」
「ダニーの手は無事だったわ」
パステルブルーに塗った玄関ドアも、そこから入ってすぐの位置にある同じ色をしたクローゼットの扉も、影の中に沈むことで元の色より白々として見える。古びたダンボール箱はまだ、両開きのクローゼットを半分塞ぐような位置にのさばっていた。一週間ほど前、独身時代に履いていた靴を実家から送ってもらったのだが、そのまま片付けずにいたのだ。
「安心した」
「あの男、何なのかな」
「知らない。でも悪人に違いないわ」
だらりと下げた腕の先端で、拳銃はやたらと重く、今にも指先が床へ着いてしまいそうだった。だがもしも、その機会が与えられれば、この鉄の塊が羽根のように感じる時が来る。ルイサは躊躇わない自信があった。
「ダニーはお調子者だけど、善人よ。こんな目に遭う謂われなんてない」
何故なら、彼女は夫を愛していると信じ込んでいたからだ。
ナッティが何らかの相槌を打つよりも早く、レバー式のドアノブが音を立てる。
最初に姿を現したダニーは、いつも通りダンボールを跨いで入ってきた。後に続く中年男が、箱に躓いてくれるなんて楽観は、端からしていない。
顰めっ面を俯かせ、一瞬足を止めただけで十分。背が高いダニーの肩口から覗く薄い頭頂部へ、ルイサは銃口を向けた。
玄関へ押し入れられていた男の上半身は、弾かれたように仰け反る。そのまま真後ろへ倒れることはなかった。最低限だけ開けられていたドアへ挟まれ、柱に沿う体勢で、体がずるっと垂直に滑り落ちる。
ぎゃっと上がった悲鳴は男の断末魔ではない。逆光の中閃いた発射炎に、ダニーは目を剥いてその場へ尻餅をついた。押しやられたダンボール箱が、背後で崩折れる男の脚へぶつかる。
再び訪れた静寂が保たれていた時間は、ごく短い。まず空気を破裂させたのは、へたり込んでいたダニーの、今にも泣き出しそうな怒声だった。
「何しやがる、くそったれ!」
「そうよ!」
続いてナッティが、銃を握りしめたのと反対側の手で肩を突き飛ばす。
「もしもマイロンに当たったら、どうするつもり?!」
当のマイロンは、半分ほど開いたドアの前で立ち尽くしている。ナッティは頭を撃ち抜かれた男を蹴飛ばすようにして外へ飛び出し、夫にしがみついた。
「それはこっちの台詞よ」
ルイサが反論を開始したのは、ナッティの甘ったるい泣き声が鼓膜を侵し始めた頃のことだった。
「説明して。その男のこと。指のこと」
「あれ、届いたのか」
瞬時、真っ赤に充血した瞳が焦点を絞る。もがくようにしてダニーは立ち上がった。
「開けちまったんだな、全く」
自らを押し退け部屋の中へ向かう後ろ姿を、ルイサは追いかけた。
「だって、宛名は私だったわ」
「俺宛に送ったら怪しまれるからな」
もう何日もシャツを着替えていないのだろう。カラーは黄ばんでいる。ダイニングテーブルに乗っているものを目にした途端、太い首はさっと汗を掃き、頸動脈が一層膨れ上がったかのようだった。
「ねえ、ダニー。一体何なの」
銃の反動を残し、じんじんと痺れている手を伸ばす。汗で斑になったシャツ越しの腕へ触れられ、ダニーはルイサを見下ろした。いつもと何一つ変わらない、優しく、赤ん坊に向けるような眼差しで――赤ん坊は大人の話など、何一つ理解していないと決めつける眼差しで。
「これは俺達の起死回生の切り札なんだ。もう会社が潰れる心配をしなくてもいいし、何なら休暇を取って、タヒチにで行こうぜ」
「腐ってなさそうか」
部屋に入ってきたマイロンは、まだ泣きじゃくっているナッティの肩に腕を回し、抱き寄せた。
「まあ、指紋さえ崩れてなけりゃ」
「指紋って、誰の指なのよ?」
「質問ばっかりするなって!」
フットボールで鍛えた肺は引き続いて恫喝しようとする。だが結局、ダニーは一度ぐっと唇を引き結ぶ事で、癇癪を押さえ込んだ。
「つまりなあ、ベイビー。この指の持ち主は御曹司で、預金残高が凄い事になってる。投資してみないかって持ちかけたんだけど、奴は頑として首を縦に振らない。でもこの指をプリンターでスキャンして指紋を再現できれば、銀行の指紋認証をパス出来るからさ……最悪この指をそのまま使えばいいし」
「ダニー、さっさと作って、気付かれる前に引き出せるだけ引き出そう」
「どうせ奴の親父はろくでなしさ。汚い金だし、俺達ならあの馬鹿息子よりも、よっぽどましな使い方が出来るよ」
こめかみに落とされたキスは酷く浮ついたもので、汗ばんだ肌を滑り落ちる勢いだった。
「やっぱり中国人なんかあてに出来ないな……お前は天使だよ。守銭奴をやっつけてくれたんだから」
彼の口角が、きゅっと快活に捻れている様子なら、見なくても想像することが出来た。わざわざこの目で見たいと思わなかった――もしも直視してしまったら、間違いなくためらってしまうだろう。
脇腹に押しつけられたものが銃口だと、ダニーは最初気付かなかったに違いない。彼は哄笑のように聞こえる喘ぎを胸の奥から漏らし、こちらを振り返った。
真っ向対峙したとき、彼の顔はもう笑っていなかった。ルイサと同じように。
「あんた、本当に悪い人ね
引き金へ掛けた指へ力を込めることに、彼女は何一つ迷いを抱かなかった。
終
麻酔無し 鈴界リコ @swamp
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