ポエティカル・スケッチ

OkabeHK (校閲:花鶏イトヨ)

01:セカイの詩

 ロウソクの赤い光が、暗い室内を仄かに照らす。

 灰色のレンガ壁に囲まれた部屋は薄暗く、その冷たさを物語っているようだった。


 その部屋は、大きな城の中にあった。


 都市の中央にある白亜の城は、曇天の闇夜によって黒く染まっている。


 剣山の様に生える沢山の尖塔の中で、一番高い塔の一室。

 その部屋は夜の帳に相応しい、陰鬱な空気を醸していた。

 


「では、手はず通りに」



 城の兵士だろうか。

 金属の鎧を身に纏った男が、目の前のヒトへと語りかける。

 男は凛々しい眉を固く歪め、微動だにせず跪いていた。



「この様な事になり、誠に……」


「良いのです、これもまた運命でしょう」



 闇を裂く様な美しい声が、それに応えた。

 それは儚げながら、確かに耳に届く。

 複雑な管楽器の協奏にも劣らない、空気を歓喜させる震え。

 男にも女にも聞こえる極上の響き。


 勇気と慈しみを奮い立たせる、奇跡の声だ。



「例えこの身朽ちようとも、必ず成し遂げてみせましょう」



 簡素な木の椅子に、背筋を伸ばして座る『ヒト』。

 『ヒト』は長い白銀の髪をゆらりと垂らし、自らの薄い胸へと手を置く。

 手足は枯れ木の様に細いが、それを包む皮膚は絹のように細かい。


 あらゆるモノを作り出すその指は、僅かに震えていた。



「――様……」



 兵士は絞り出すように喉を鳴らし、目元を赤く絞める。

 彼の唇は歪み、端からは血が滲んでいた。


 肌色が透けて見える薄い法衣。

 『ヒト』は自身の纏ったそれの端を握りしめ、言葉を紡ぐ。



「ですが少し、ほんの少しだけ……。一人にさせては頂けませんか」



 脳髄に直接語りかける様に、『ヒト』は囁いた。

 その懇願に逆らえる者は、この場にはいない。


 乳白色の丸い石が嵌められた指輪。

 装飾の少ないそれを撫でながら、『ヒト』は男を見つめた。



「……承りました、――様。この様な場所ではできることも少ないでしょうが……。最期の時、自由にお過ごしください」



 日が昇った後に、また。

 そう言い残し、兵士は見事な敬礼をして扉へと向かう。


 彼は一度、『ヒト』に目をやった。

 瞳を憐みに染め、冷たい取っ手に手をかける。


 錆びた蝶番の軋みと共に、バタンと扉が閉まった。



「……ふぅ」



 『ヒト』は立ち上がり、格子窓の方へと歩く。

 一本一本に複雑な模様が刻まれた格子は、一目で値段の張るモノだとわかる。


 『ヒト』は窓から外を覗き、身を預けた。

 窓の外には広大な街並みが見える。

 沢山の店と、数多くの家々。


 だがそのどれもに活気がない。

 住宅街はともかく、夜半だというのに酒場の灯さえ見えない。


 微かに遠く、暗い路地で何かが蠢めいている。

 『ヒト』の眼には影になっていて良く見えなかったが、ヒトにはそれが何か分かった。


 『ヒト』は見ていられなくなって、穢れの無い空へと目を向ける。


 厚く黒い雲の隙間から、黄金の月が覗いていた。

 水晶に似た瞳に黄色が焼き付くまで、『ヒト』はじっと見続ける。


 しばしの間そうした後、『ヒト』は虚空へと語りかける。



「また、失敗か……」



 『ヒト』は部屋の隅を横目で見ながら、ため息を一つ吐く。

 口元から湧き出た白い煙は、磁器に近い『ヒト』の肌に触れて消失した。

 湿度をもった肌が、月光の蒼を照り返す。


 『ヒト』はゆっくりと窓を背にし、部屋の一角を睨む。

 そして僅かに濡れた形の良い唇が、醜く歪んだ。



「いるのでしょう? 出てきなさい」



 『ヒト』の立つ窓際から一番遠い部屋の角。

 そこに向け、『ヒト』は問いかけた。


 傍から見れば気が狂った様にも見える行動。

 だが『ヒト』は、至って正常だった。



 本棚があった筈の場所はいつの間にか黒い霧に覆われ、ただでさえ暗い部屋を更に黒くしている。


 ぼやけているが、霧は確かにそこにあった。

 黒々としていて、はっきりとした輪郭を持たないにも関わらず、どこか吐き気を催す何か。

 『ヒト』は胃の蠢きを抑えつけながら、それをじっと見続ける。

 


 壁にかかったロウソクが、その身を大きく削った頃。

 その異形の霧を裂く様に、鈴の音が鳴る。

 そうして一つのナニかが姿を現した。



「コれはコれは――様。ゴ機嫌いかがかな」


 

 鈴の音と共に問いに応じて現れたのは、男だ。


 ボサボサに伸びた黒髪と、穴の底の様な瞳。

 目は片方が欠けていて、顔は汚らしい髭に覆われている。


 『ソレ』は黄色く穢れた歯を覗かせながら、ニタニタと唇を曲げていた。

 常人であればこらえ切れない不快感を、『ヒト』は無視する。

 そうして、『ソレ』に語り掛ける。



「何の用ですか、魔王」



 『ヒト』の口から出た声は、兵士へ向けたそれとは違った。

 尖りを見せる、鋭利な冷たい声。

 それは肋骨の隙間を縫う刃に近い。


 先程までの、儚げな聖者の姿はない。

 情欲を誘う切れ長な瞳は、短剣の様な敵意に満ちている。



 魔王と呼ばれた『ソレ』はそんな剥き出しの殺意に対して、ゲタゲタと笑った。

 耳に障る汚らしい狂声が、部屋に響き渡る。 



「用なんてないさ。勇者君をけしかけたノは君だろう? 文句の一つでモ言いたくなるさ」



 『ソレ』は心底楽しそうにそう言った。

 『ソレ』が口を開くたび、吐瀉物と血液を混ぜた様な臭いが広がる。

 『ソレ』の吐く空気が、空間に充満した。



「魔王は勇者に倒されるモノです。大人しく死んでいれば良いものを」



 『ヒト』は一層の敵意を『ソレ』にぶつける。

 小さな生き物であればそれだけで死んでしまいそうな、冷たい声。

 『ソレ』はその声を無視して、紫色の唇を蠢かす。



「死んでいるさ。ちゃんト勇者君は仕事をコなしたヨ」



 ほらみてくれよ。

 そう言って『ソレ』は服の留め具を外し、薄い胸板を晒す。

 

 そこにあるべき筈の皮膚。

 そこにあるべき筈の筋肉。

 そこにあるべき筈の胸骨。

 そこにあるべき筈の、赤い心の臓。


 そのどれもが、そこには無かった。


 破れた紙の様に、空虚だけがそこにはあった。



 塩辛くべた付いた匂いと、草を焼いた様な臭い。

 『ソレ』の発する異臭が、狭い一室を覆った。


 『ヒト』は眉間に皺を寄せながら、『ソレ』の目前へと立つ。



「得意の変化の術でも隠せませんか。本当に死んだようですね」


「あぁ死んださ。モうオレにはなにモない」



 『ソレ』は穴の空いた白い手袋を外し、床へと放り捨てる。

 露わになった『ソレ』の右手は、病床の老人の様に青白い。

 ガサつき骨ばった指が、蜘蛛の脚に似た動きをした。



「『醜きモノの守護者』、『穢れの創造主』は、モういない」


「少年の姿をとらない辺り、本当のようですね」



 『ヒト』と『ソレ』が話している間にも、『ソレ』の皮膚は少しずつ剥がれ落ちていっている。

 落ちた皮膚が、意思をもつかの様にのたうち回る。


 『ソレ』は悶える皮膚を踏みつけると、ゆっくりと口を開いた。



「ソれで、次はどうするんだい。――様?」



 クツクツと皮肉気に、卑しい笑みを浮かべながら『ソレ』は問いをする。

 唾液が口の端から漏れ、床の色を濃くする。

 冷たく薄汚い手の平が、『ヒト』の頬に触れた。



「見事にオレは殺された。物語はめでたしめでたし……」



 『ソレ』の舌が、海蛇を思わせる動きで『ヒト』の前に現れた。

 亀の頭に似た舌鋒が、『ヒト』の耳へと向かう。


 湿り気を帯びた音が、辺りに響いた。

 

 びちゃびちゃと籠った音に混じって、『ソレ』の声がヒトの頭の中へ流れ込んでくる。



「でもまだ、セカイは救われていない。星の腐敗は止まらない。暗い街路にはの死体がいっぱい、だ。――さぁ、次はどうする?」



 沼の底が、『ヒト』を見つめる。

 『ヒト』の耳を蹂躙し尽くした舌が、満足げに耳孔から這い出た。

 ドロドロと白濁した粘液が先からこぼれ、『ヒト』の服に染みを作った。


 じっと見られ、それまで微動だにしていなかった『ヒト』が、微かに震える。

 そして一瞬、言い淀んだのか喉を鳴らした。


 『ヒト』は一度深く息を吸い、肺を穢れた空気で満たす。

 そして数瞬置いてから、言った。



「……異界の地へと、赴きます」



 『ヒト』の答えを聞いた瞬間。


 『ソレ』の顔から、表情が消えた。

 『ヒト』は『ソレ』の変化に気づかないまま、言葉を重ねる。



「明日の朝、私自ら門を通ります。この『創造の力』を究めるために」



 『ヒト』がそう言うと、指先に光が灯った。

 『ヒト』はその光を振って、空中に文字を描く。

 文字の数が十を超え、二十に至った時。


 部屋に差す月光が、強さを増した。

 黒々とした雲は消え、正円を描く満月が全貌を現す。



「あなたを殺しても、ヒトは変わらなかった。戦争は病の様に蔓延し、病は戦争の様に増え続けています」



 『ソレ』の顔は変わらず、何の感情も表していない。

 汗に似たすえた臭いが漂い、その濃さを増していく。



「異界の地であれば、皆を救う何かがあるはずです。例え答え自体でなくとも、答えに近い何かが……」



 続けて振るった指先が、空中で舞い踊る。

 赤い光をで描かれた軌跡が終の言葉を刻んだ時、ロウソクの火がボウと燃え盛った。


 『ヒト』の言葉は、早さを増していく。



「あなたを殺したのが間違いであったとは言いません。ですが私には力があります。この力を使えば、もっとセカイを――」


「――フフッ」



 『ヒト』の言葉を、僅かな笑いが遮った。

 『ソレ』は眉根を下げ、目を細める。

 目の端には涙が浮かび、口は醜い鳥のくちばしの様に尖らせている。


 これは、『ソレ』の歓喜の表情だ。



「フフッ、アハハ、アハハハハハ!」



 狂笑が、部屋中に響き渡る。

 恐らく部屋だけではない、隣の塔までをも震わす異様な笑い声。


 『ソレ』の笑いが一つ飛ぶ度、ロウソクの火が呼応して形を変える。



「流石はセカイを救う者! 流石は創造主の末裔! ……でモね」



 パンパンと短い拍手をしてから、『ソレ』はヒトを讃えた。

 ポッカリと空いた胸と右の眼窩から、赤い液体が流れ出る。

 液体は脈動する様に吹き出て、目の前の『ヒト』を汚していく。


 『ソレ』は大仰な動きで、頬を伝う液体を拭く。

 躁に極まった狂気の瞳を輝かせて、彼は喉を震わせた。



「君はまた、失敗する」


「――ッ」



 その言葉に、『ヒト』は唇を噛み締める。


 『ヒト』の眼に映る『ソレ』の顔には、何の感情も無かった。

 鬱々とした、胸の傷に似た空虚の感情。

 瞬きのうちに変わる『ソレ』の表情は、どこかうすら寒さを覚える。


 今までの冷たい意思を捨て、『ヒト』は小さな手を握りしめ『ソレ』へと立ち向かった。



「その様な事……ッ!」


「振り返ってゴらんよ」



 『ソレ』は右手を開き、その平に左の四指をあてがう。



「君は始め、そノ異能で人々セカイを救オうとした。皆を変えヨうと努力した。……結果はドうだったかな」



 『ソレ』の問いに、『ヒト』は一瞬言い淀む。

 それでも、意思をもって『ヒト』は答えた。

 


「……何も変わらなかった。セカイは醜いままだった」



 月明かりが弱まり、部屋の影を淡くする。

 一度は晴れた空が、またも雲に覆われ始めていた。


 『ソレ』は右と左、両方の指で二つの環を作る。



「だから次は、異界から勇者を呼び寄せた。争いに終止符を打つ為に。私を殺して、星々セカイを護る為に。……そうして君は」


「――失敗した。あなたを殺しても、セカイは穢れたままだった」



 『ソレ』の発する臭気が強さを増す。

 濃厚な土の臭いが鼻を刺し、舌がビリビリと痛む。

 それまで我慢できていた『ヒト』が、苦しみえずいた。



「う、ぁ……えぅ……」



 酸いを帯びた液体が、『ヒト』の喉を通って吐き出される。

 新たな異臭の源が、『ヒト』の足元に広がった。

 泡立つ黄色い液体が、ヒトの喉をジリジリと焼いた。


 『ソレ』は左手をそのままに、右手を握って人差し指を立てる。



「ソうして次は、自らが異界へと赴く? もう一度言おう。君は必ず失敗する。次モ、次ノ次モ、次ノ次ノ次モ。この場所は救えない」



 『ソレ』は怒りを誘うバカげた顔で、『ヒト』を煽り立てた。

  


「何故――何故そう言い切れるのですっ! 次こそは、必ず――」



 『ヒト』は髪を振り乱し、獣の様に声を荒げた。

 遅れ髪が跳ね回って、銀色の線を作る。

 

 

 その姿に『ソレ』は、醜くも単純に言葉を返す。



「色んな物語セカイを見て来たからさ」



 『ソレ』の言葉に、少女は絶句した。

 『ソレ』は人差し指に加え、右手の中指も立てる。

 傷だらけの干からびた指先は、病人が如く震えている。



「異界はなんでモ君の思う通りになる。燃える盛る恋。胸が湧き立つ冒険。賢しきも熱い交流。そノ全てが、望んだだけ手に入る」


「それの、それの何がいけないのですかッ……」



 『ヒト』が絞り出した声は、湿り気を帯びていた。

 そこに奇跡の御業はない。

 『セカイ』を救う存在は既になく、一人の人間の姿だけがあった。



「異界は、トっても居心地がいいんだ。ソこにずーっトずーっト居たくなる。周囲セカイは君を認めて、皆が君を好きになる」



 冷たい冬の風が、窓から流れ込んだ。


 『ソレ』は無表情のまま、頭を前後に振る。

 壁に掛けられたロウソク達が、細い煙を吐いて沈黙する。

 紫色の闇が、部屋を覆った。



「だからこそ、君にセカイは救えない」



 残酷に、冷酷に、痛い程滑稽に、『ソレ』は言い放った。


 その言葉は、『ヒト』の心を砕くのには十分すぎた。



「わた、しは……」



 沈黙が、静寂が、溢れる冷たさが、辺りに流れた。


 『ヒト』は無様に吐いた姿勢のまま、蹲り続けている。


 石床の温度が、『ヒト』の体温を焼き尽くす。

 ついた膝から熱が奪われていき、『ヒト』は自らの鼓動を強く感じた。


 

 



 耳が痛い程の静けさが場を満たしてから、どれ程経った頃だろうか。

 赤い灯りは自身の身を殺し切って、既にこの世にない。

 あれだけ明るかった空の黄色も、黒に隠されている。


 目の端に溜まった光だけが、夜を輝かしていた。

 玉の光が、『ヒト』の瞳から零れ落ちる。


 

 その時、『ヒト』の眼にあるモノが映った。


 温かく水気に満ちた光が、指輪へと当たる。

 簡素な木の円に、曇った石が備えられた安物の指輪。


 爪の先に座るその石が、水分を得て七色の輝きを身に纏う。


 今まで何も映さなかった、ただの石ころ。

 何かを主張する様なその姿。


 それを見た『ヒト』の口から、勝手に言葉が流れ出た。



「――私は確かに、失敗するでしょう」



 それまでただ立ち尽くしていた『ソレ』が、ピクリと動く。

 這いつくばりながら『ソレ』を見上げる『ヒト』の眼には、確かな輝きが宿っていた。



「それでも私は、こんな結末を認めない」



 『ヒト』はゆっくりと立ち上がり、『ソレ』と相対した。

 『ソレ』が、ゆっくりと後ずさる。

 漆黒の外套がゆらりと動き、僅かな風を作った。



「例え血が腐り、身が砕けても。例え骨が風に消えて、肉が地に還ったとしても」

 


 『ソレ』がまた一歩、後ずさる。


 『ヒト』の脚は震え、目は泳ぎ、その声は潰れていた。

 軽く殴ってしまえば、それだけで死んでしまいそうなその姿。


 『ソレ』は、そんな『ヒト』の姿を確かに恐れていた。



「例え体が壊れて、心が死んだとしても。……全て元勇者あなたが言った事です」



 『ヒト』の言葉に、『ソレ』はびくりと震えた。

 叱られる子供の様な、情けない顔を作りながら。

 

 『ソレ』が少しずつ後ろへと下がった結果、何かにぶつかる。

 『ソレ』の背中には、冷たく固い石の壁。



「私は何度だって、『それでも』と言い続けます。――私は、自分セカイを救ってみせる」



 『ヒト』の背中には、暖かく柔らかな光の幕。

 山吹色の光が窓から差し込んでくる。


 放射状に延びた白い柱が、セカイを照らした。



「だから、消えて下さい……――君」



 重く轟く、雷鳴に似た音。

 朝を知らせる大きな鐘の音が、城に響き渡る。

 

 街の方からも、また。


 寝台が揺れる音

 毛布の擦れる鳴動。

 人と交わす挨拶の声。

 伸ばされる筋肉の軋み。


 一つ一つは小さいそれらが、一つの音となって街を揺らす。


 街が、息を始めた。



「朝が、迎えに来たヨうだ」



 『ソレ』が、そう呟く。

 道化の如き振る舞いは既にない。

 恐ろし気な魔王は消え、諦観に満ちた男がそこには居た。

 


 熱い日の光が、冷ややかな空気を吹き飛ばした。

 冬は立去り、春が歩みを始める。


 輪郭を白く彩られた『ヒト』を見て、男は目を細めた。

 男の体が、指先から崩れ去っていく。



「……最期に一つ、いいですか?」


「なんだい?」



 切れ長な片目を瞑り、男は応える。

 長く濃い睫毛が揺れ、毛先が粒子となって消えていく。

 男の体は肘から先がなく、長い袖がだらりと垂れ下がっていた。



「『魔王』は死んだと、あなたは言いましたね」


「言ったね」



 『ヒト』は大きく輝く両の瞳で、男をしっかりと見つめる。

 その煌めきは、はっきりと強さを宿している。

 後光が翼の様に背中に広がり、法衣の裾が春の風に煽られて舞った。



「では、ただ絵が好きだった、ヒトだったアナタは?」



 ゴトリと音を立てて、男が地を這った。

 体の崩壊は進み、脚は砕けて体は半分ほどの大きさ。

 

 男はしばし沈黙し、崩壊が大穴の空いた胸まで至ってから答えを返した。



「――トっくに、死んでるさ。……魔王になる前から」



 『ヒト』はその言葉と姿に、両眼を固く瞑った。

 手の平に爪が食い込んで、小さな跡を痕す。

 様々な痛みが、『ヒト』を襲った。


 バタバタと、扉の向こうから金属的な足音が聞こえてくる。

 武器と鎧のかち合う高い調べと共に。


 男の体はすっかりと消え去り、生首の様に頭だけが遺る。



「もう、時間のようです」


「ソうみたいだね。……俺の様には、ならないでね」



 男がそう言った瞬間、全てが粒子へと消えた。

 細かな球体がふわふわと空中を漂い、壁や天井に当たっては姿を消す。

 後に残ったのは、黒く穢れた装いと白い手袋。



「……私は、あなたの事を――」



 部屋の扉がトントンと、小気味よく叩かれた。

 『ヒト』がそれに応じると、重い鉄の扉が開かれる。

 開かれたその先には、昨晩の兵士が居た。



「おはようございます。準備はよろしいですか」



 武人らしい簡潔かつ直線的な言葉に、『ヒト』は頷く。

 備えを纏めた大きなカバンを手に取り、兵士へと渡した。



「これだけですかな?」


「えぇ。門の先に持って行けるものは限ら――」



 そこまで言って、『ヒト』は口を閉じる。

 そして、床に広がった布切れに目をやった。

 少しそれを見つめてから、汚い布を手に取った。


 素っ気ない指輪を外し、布でくるむ。



「これを」


「こちらは?」


「私にとって、大事な物です。あちらには持っていけませんから、どこかに保管しておいて頂けませんか?」



 兵士は怪訝そうに眉をひそめたが、恭しくそれを受け取り了承の意を伝えた。

 彼は後ろにいた別の兵士にそれを手渡し、重々しく言葉を発する。



「それでは、行きましょう」


「えぇ」


 部屋と廊下の境目に立ち、『ヒト』はチラリと部屋を見やる。

 暖気に満ちた柔らかな空気の部屋は、陽光に照らされ白い埃を浮かばせていた。



「――さようなら」


 

 そうして幾年かぶりに、一人のヒトが扉をくぐった。







 ――ある城の、ある塔の狭い部屋の中



「コれを、君に」


「これは?」


「アッチの宝石だヨ。宝石っていってモ、安物だけド」


「宝石っ!? 良いのですか?」


「彼女に渡ソうと思ってたんだけド、ドうも渡せソうにはないしねー……」


「……何か、名前はあるのですか?」


「オパールって言うんだけド、コッチには無い? 石言葉とかモないのかな」


「石言葉?」


「宝石に色々な意味をモたせた言葉さ。コの石は――」



 重厚な、眠りを揺るがす長大な音。

 どこかで、鐘の音が響いた気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ポエティカル・スケッチ OkabeHK (校閲:花鶏イトヨ) @OkabeHK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ