あどけない

有川 真黒

あどけない

あどけない《啞解けない》


昼過ぎの日差しは常に生温い。朝焼けの肺胞の奥まで滲みそうな空気だとか夕暮れの妙な暖かさとは違う。眠りにつくのはいつも深海の海月が海の深さを思い知る頃で、覚めるのは体温よりも少し生温い昼。時計はいつも厄介で、無為に過ごすことを刺すように咎める。

 

諦めることの何が悪いのか。努力して届かなかった星の欠片を拾って、へらへら笑っている私を誰が責めよう。

母には一年余計に頑張ったのだから沙耶はすごいと言われる。死のうかと思った。一緒に頑張っていた友人は沙耶みたいに家に余裕があるわけじゃないからさと困ったように笑って私を振り払って見えないところまで駆けていってしまった。私は走るのをやめた。

講義室の席は私と同じように、私の席だけれど私の席ではなくって、明確な社会の中の場所が無いと重くのしかかる。けれどいつも通り私は仮の私の席に座り、隣の仮のあの子の席に座っているあの子と、同様の他の子と、授業を受ける。

かつてはそうではなかったはずだ。私は私だけしかおらず大切にされてきたはずだった。いつからこうなってしまったのか。携帯に入っている動物園に行った時の私がカメラ越しに私を嘲る様にも見え、この子は誰なんだろうと思った。

そんなことを考えながら大学の裏の細い路地を歩いていると、目の前に古びたおもちゃが落ちていた。小さい女の子がこぞって欲しがるような魔法の杖だ。子供のおもちゃにしては少し大きく、精緻な作りであるようだった。そのつもりはなかったがなんとなく手に取ってしまった。誰かに見られている気がする。後ろを振り向くと、それこそ小さい女の子が夢見るような可愛らしい小動物をもとにした妖魔が浮かんでいた。「君は選ばれた」と印象通りの声で伝えられた。選ばれた、という高揚。そういう感情が恥ずかしながら私にはあった。

その鶏らしき小動物は自らを「ガラ」と名乗り、簡単にこの杖を持つことでできることをマニュアル通りに教えてくれた。魔法の杖は私以外には見えず、必要とあらばボールペンなどに計上を変えることができ、手に持っていれば魔法が使えるらしい。社会的な不都合を起こす魔法は使えないことなどを注意した。

「22歳…。ガラが想定していた年齢よりもちょっと上だったガラ…。これからは魔法乙女22《まほうおとめダブルツー》とでも名乗ればいいんじゃないかガラ。」その巫山戯た口調で名乗れと言う。名前などほぼ意味をなさない。「君はまだ弱小魔法使いだからとりあえず身の回りの問題を解決すればいいガラ。あと、自分に魔法は掛けられないから注意するガラ。あと、絶対にばれちゃいけないガラ。肝に銘じておくガラ。」

身の回り、というのはどう意味だろうか。周りとして認識している部分というのは果たしてどこを指すのか。わからないがわからないままにある程度は自分に都合のいいように魔法を使っていた。たとえばいつもの席に誰でも良い私として座ったとき、両隣を相撲部に挟まれたときに空調を下げるだとか、後ろの子で配布資料が足りなくなった際に複製して手渡ししてあげるとかそういったことである。

飛び出してきた猫がセンチュリーに轢かれそうになっていたのを見て車を急停止させたこともあった。猫は助かったが後続の学生が運転していた車が追突してしまっていた。まあ猫は可愛いし、人間は可愛くないので仕方がない。しかしあまりに不自然に止めてしまったため大勢の人からは不思議がられ動画が話題になっていたのを見た。


選ばれたという高揚が冷めることはなかった。ある程度の事なら何でもできる大きな力を得たことは、これが私でなくても大きく変化のある出来事ではないのか。それならばその力も自分のためにばかり使うのは少し勿体ない気がする。と思うのはあまりに傲慢か?否、強きを挫き弱きを助く、そういう役割が私に回ってきたのだ。誰もできないことが。

他人を助けるためには困りごとを見つけなければ。慌ててあまり使っていないパソコンを開いた。

インターネットを使った困りごとの依頼は多く舞い込み、少しずつ解決していった。一つまた一つと解決するたびに、自分の力を確信していった。しかし一方で全く関係のない誹謗中傷も受けなければならなくなってしまっていた。ガラはばれてはいけないと言っていたが、ばれてはいないはずなのにスーパーに入ると噂されているような気分になり、閉店間際しか買い物ができなくなっていた。そういったことも逆に依頼の解決に打ち込むきっかけになっていた。


冬に近づき、周りの人が就活だの院試だのと騒ぎ始めたころ、木枯らしと共に妙な依頼が目についた。「とても困っています、文面では伝えきれないので一週間後の夜8時に文学棟の屋上に来てください」とあった。正体がばれてはまずいがどうしても無視することができず、策を練りながら眠った。

丁度その時間になってもそれらしき人影は屋上になく、貯水タンクの影に隠れているのも馬鹿らしくなり、「悪戯だったか」と踵を返し出口に向かおうとしたとき、背後を満月を覆い隠す黒いマントを身に纏った少年が宙に浮かんでいた。

宙を浮かんでいる人が普通である筈がなく、「誰」と声を振り絞る。すると黒服の少年は口の端をおぞましく歪めながら話し始めた。

「僕?僕はいわゆる君の敵だよ。普通必要だろう?こういうキャラクターがさ。それともなんだい?強大な力をもって平和に過ごせるとでも思っていたのかい?君は身の回りのことしか解決できていないようだけども所詮そういう狭い世界でしか生きていないんだ。しかし社会に出たとしてもその矮小な精神でしか生きていけないんだろうから君はもうこのまま生きていくのが難しいんではないかな。早めにピリオドを打った方がいいよ。たった一人に肯定されていればそれで良いのかい?悲しいね。確かに君は挫折してきたようだけども結局はそれも無駄に苦しんだだけって事じゃないか。”普通の”人は挫折したらパワーアップするものだよ。よく見るだろう?創作にしても現実にしても。まあ君の事だからそれすら気づくことも難しいか。それともそういう才能が君には無いのかな。幼稚で可哀想な魔法少女さんは。君は、毎日の出来事に対し段々無頓着になっていっているだろう。それで本当にいいのかい?例えば君は一週間前の今日何をしていたか思い出せるかな、思い出せないだろう。それは時間を捨てているという事になる。人生一度きりなんだぞ?わかっているのか君は!今日だって明日だって一週間前の今日だって人生に一度しかない大切な日だったはずだ!しかし君は何をするでもなく依頼が来ることを部屋で待ち、ある程度の事をこなすために大学に行き、適当に解決すること以外何にも、本当に何にも成し遂げていないじゃないか。もし君にきちんと友人や恋人がいようがおそらく何にも変わらないだろうな。使い捨ての毎日に浸かりながら深海に沈んでいくだけだ。君は進んでいると思っているがね、そうではないんだよ。他者と関わることは辛く苦しいことだがみんなそれをやってきているんだよね、君とは違ってね。それとも何か勘違いでもしていたのかな、何物にもなれない自分を見ないふりをして、選ばれたという役割意識があったのかな。いずれにせよ君はそういう人間だし今後も全く変わらないよ。気づくことさえ忘れた今の憐れな君は、僕に憐れみを向けられていることを自覚した方がいい。ああ!でも喜んでくれ!少なくとも僕は憐れんだ人に対しては優しくできるんだ。なあ!僕はとっても優しいだろう?そして正しい!それは君が一番よくわかっている筈だよ。」

まるで用意された台詞を一気にまくしたてるように叫んだ少年は愉快そうだった。そしておそらく私の世界の中で唯一正しかった。

脳神経系というソフトウェアと身体というハードウェアが切断されてしまったような気がした。今の私はブルースクリーンだ。遠くからガラが叫ぶ声が聞こえる。本当に血みどろの鶏ガラにされてしまったか。ははは。意味のない脈絡のない思考だけが駆け巡る。誰かに支配されているような思考の渦にただ流されてしまっていた。


視界がはっきりした頃には少年はいなかった。時間が長かったような気がしたが私が呆然としていたのは五分ほどのようだった。「ガラ、私もう辞める。」風だけが返事をした。

翌日目を覚ますとガラが申し訳なさそうな顔をして浮かんでおり、見知らぬ老婆が立っていた。いや、私のワンルームのキッチンで目玉焼きとベーコンを焼いていた。「おお、おはよう、沙耶。魔法乙女22はどう?」

半熟の黄味を崩すのが好きだが今日はそういう気分でもなかった。細身で白髪の古風なカントリードレスのようなものを着ている老婆は話し始めた。「単刀直入に言うと私はその杖の持ち主ですよ。最近魔法を使う度に身体が悲鳴を上げてしまって、どなたか後継者を探していたところだった。そこで杖を誰かに拾わせたんですよ。ガラを通してあなたの働きを見てきましたがとても良い。人のためになっていますね。今後もよろしくお願いしますよ。」

憐れまれているのかと思った。少年の言葉が砂糖菓子の弾丸になって脳天を突く。「そんなこと…それに、私もう辞めますから」「そんなこと…このまま続けてくださいよ、あなたにはその資格がある。それにこのまま魔法乙女を辞めてどうするのです?元の生活に戻ってしまうだけですよ。」

確かに、確かにこんなことは普通の人には起こらない。私は普通とは違うからこんなにすごいことができるのかもしれない。もう少しだけ続けてみようと思った。俯く私にガラが白い羽をかぶせてきた。まるで頭を撫でてくれたようだった。

その後も少しずつ依頼をこなしていったが、相変わらず誹謗中傷は変わらなかった。眠れずに風呂に入ることも服を選ぶことも億劫になり、そのままの格好で外に出ると皆が自分の事を見ているような気がした。

「緑川さん、ちょっと」声を掛けてくれたのは担当の近藤助教授であった。「最近あまり授業に出ていないようだけど…このままだと今後親御さんも交えて少し考えないといけなくなるわよ…?私心配で…それに顔色も悪いわよ?友達は?」

また、まただ。そうやって皆用意された台詞を私に吐く。これも何度目だろう。もしかしたらこの先生も、隣のおじいさんも、スーパーの店員も、すべてあの少年の手先なのかもしれない。困ったことになった。こうやって私だけを標的にしているならまだ良いもののこれが他の人にまで波及してしまったら可哀想だ。その前に私が何とかしなければ。私はボールペンに変えておいた魔法の杖を持った。


近藤は沙耶を伺うように身体を移動させた。「緑川さん?大丈夫?」

おおよそ女の力とは思えないほどの力で振りかぶった沙耶の手にはボールペンが握られており、ボールペンの先は近藤の皮膚と筋肉と眼球を切り裂き抉る。近藤は「ごきっ」と眼窩の中で折れる音を聞いていた。空気の振動ではない、身体の肉が悲鳴をあげる音だった。


「———お嬢さんは身体面だけでなく精神面でも治療が必要ですね、元々ストレスに対して弱い部分があったんだと思います。一旦入院して薬での治療と並行して作業等から復帰していきましょう。」説明の補足のため同席した患者さんの両親は泣きながら傍らの娘をあまりに苦悶の表情で見つめるのでこちらも辛くなってしまった。「先生、今までこの子にはきちんとお金もかけてきたし優しく接してきたつもりです…!何が悪かったんですか!育て方を間違えたんですか!」母親は綺麗に巻いた髪を振り乱しながらやり場のない怒りをぶつけていた。何度も見てきた光景ではあるが目の前のこの人たちのこれまでの生活を想像するとこうなってしまったことには心がぎゅっと狭くなった。看護師として働いてきて、そういうことはもはや今更なのかもしれない。しかしどうにか、患者さんたちの苦しみを理解し、癒してあげたいと思った。しかしこう思うのも傲慢なのかもしれない。ただ人を見下して憐れんでいるだけかもしれない。たとえそれがこの仕事だとしても。

この階は閉鎖病棟なので白い頑丈な扉に鍵をかける。閉鎖病棟というと世間のイメージとしては暗く狭い牢獄のように思われているかもしれないが、白く木目調のつくりで照明も橙で明るく、もちろん出ようと暴れる人も少ない。みんな穏やかに療養生活を送っている。

もしかしたらここは楽園なのかもしれない。と思う。

清潔であたたかくて優しくて時の流れが外は違っていて。何も起きない、何も悲しまない。何も感じない…。辛いことが起きないここでは皆実際の年齢よりも幼く見える。看護師さんおはよう、と声をかけられる。私昔は魔法少女だったんだよ、と話す。ようやく笑顔がみられるようになってきた。まさかこの少女があんな残酷な事件を起こしたとは誰が思おう。そう、すべては疾患によるものであるはずだ。うん、そっかあ。と私は現実をきちんと認識できるようにスローモーションで瞬きする。

ここはあたたかい場所―――。





あとがき

劇中で激しい表現がありましたが作者に精神疾患を差別、中傷する意味はありません。

私が絶対に書かないような、選ばないような筋書きが回ってきたので大変難しかったです。ただ、実際目の当たりにしたりした私にしか書けないやり方でできたのかなあと思います。

生きていくためには他者と関わらなければいけないのに、私たちは時折、いやいつでもそれらに翻弄され、うまく折り合いをつけていかなければいけません。劇中の敵は自分自身の思いでもあり、気づいていたのかもしれません。しかしそこから大きく行動できるかはそれこそ才能なのかもしれません、変化できる才能。

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あどけない 有川 真黒 @maguro-yukunazuki

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