幻想商人

幻想商人

失踪事件が始まって３週間が経とうとしている。主には子供がふっ、と居なくなってしまうという実にオーソドックスな失踪だがこれが20日そこらで40人を超えてしまったものだからもう誰も夜に外には出ない。

不思議なものだ、こういう事件が起こると人々は人ならざるものの所為にしようとするもので、今回はまた一風変わった噂が流れた。｢幻想商人｣というものである。子供の幻想を高い値で買い、暫くしてその子供の前に再びあらわれ、その子供や他の子供の沢山のイメージを元に作られた幻想郷、とやらに｢招待｣するというのだ。普通の人はここまで細かい設定を知らない。何故僕が知っているのかと言うと僕の不思議な友人、狗山が初めて幻想商人に遭遇し、僕はがその話を聞いて噂を流したからだ。

青天井の好奇心と若気の至りと独特の視野の狭さを誇る思春期をひた走る若者にはそんな噂は逆効果である。夜は賑わった。僕はそんな奴らを横目に見ながら平穏無事に暮らそうと務めた。

数ヶ月前、幻想商人がちょうど現れる前の時期の話をする。いや、狗山の前には現れたことになっている時期の話だ。

高校が期末テストで午前で終わってしまったため狗山の家で遊ぼうと思った。彼の家はなかなかに大きく門扉から母屋までの広場で幼稚園の運動会くらいなら開催出来そうだし、鯉だの金魚だの見たことも無い虹色の魚だのが泳ぐ立派な池もある。家も大正時代から残っていてからくり屋敷のように異常なまでに入り組んでいて、狗山が居ないと確実に遭難して数年後には白骨死体となって発見されること請け合いである。要するに暇つぶしには事欠かない家だ。僕はどのように狗山家が栄えたのかが非常に気になる。狗山が昔、裏の世界で一儲けしたらしい、などと言っていた気がする。

そんな家だからまぁ遠い、山の中だ。僕がぎらぎらと熱光線を刺してくる太陽の下、夏服を汗で貼り付けながら自転車で砂利道を走っていると、山の入口の森の方から女が歩いてきた、不思議な服装で和服の上にコートのようなものを羽織っている、そしてなんと言っても持っている傘だ。極彩色の傘で、虹色の魚や孔雀のような尻尾を持った狗などが描かれている。昔姉と夏祭りに行った時に何処かの店でこのような傘があり、2人でいたく気に入ったが買えなかったことを思い出した。確か｢なんでも屋｣のようなもので何やら怪しい桃色の薬や街灯のように光る海月のようなものも売っていた気がする。店長は小柄ながらも眼光の鋭い中年男性で、僕達が傘を見ていたのを見て｢これは人を惑わせる傘なんですよ、このようにくるくる回すと人の目や耳や鼻を誤魔化すことが出来るんです｣とその傘をゆっくり回しながら言った。目がくらくらした覚えがある。そう言えば姉も、博識で大人びている狗山と個人的に仲が良く、彼の家を何度か訪れていた事を思い出した。すれ違ったが傘に遮られ薄い唇以外、顔は見えなかった。何故か脳裏にその不思議で滑稽な姿が焼き付いた。

狗山は冷たい麦茶を出してくれた。｢犀川、今回は赤点は幾つ位なんだ？｣とけたけた笑いながら開口一番失礼なことを言うので麦茶をかけてやろうか、とも思ったが麦茶に罪はないし、僕は｢3.4個だよ、うるさいな｣と答えた。物理やら数学やらは社会に出てからどう役に立つというのか。とまぁ実際この質問は僕にとっては失礼でもなんでもないのである。彼はまたけたけたと笑い、麦茶をぐいっ、と音がするように一息に飲み干した。

｢幻想商人、って知っているか？｣と彼が言ったので｢知らないけど…そんな名前がつくくらいならいたら面白いんじゃないか、なんだいそれは、何かのキャラクター？｣と答えた。今思うと狗山はこの時動きや表情に少し影が差していた、彼はこういった。｢俺は会ったんだよな｣僕はどんな反応をすればいいのか考えたが結局彼が次に口を開くまでに思いつかなかった。｢夜に帰ろうと思って歩いてたらさ、後ろから『貴方の幻想を買いましょう、新入りの傘の娘が貴方の幻想を加えた美しい幻想郷に案内致します』って突然言われるもんだから驚いて振り返った、らそこに男が立ってるんだな。そこそこ小柄だけど目が光ってるように見えた、俺は怖いのは苦手だから少し彼の話を聞いて逃げたけど…｣彼はそこで言葉を一旦切った。そして麦茶のグラスを持ち、もう茶が入っていないことを思い出して苦笑してグラスを置いて続けた。

｢あれはずっと行方不明になってたうちの父さんだと思うんだよな｣

狗山の家には彼と家の護衛に黒服が何人かいて、狗山は彼らに｢のっぽ｣｢ガマ｣｢蜥蜴｣｢骸骨｣などと名前をつけてけたけた笑っていた。外見で決めた名前である、僕も心の中で彼らをその名前で呼んでいた。狗山が離れでゲームでもしようじゃないか、と言うので僕は彼の後ろをひたひたとついていった、ガマと骸骨が今日仕事らしい。

狗山は蔵の役割もある離れで沢山の本を見せてくれた。興味はないが色々見てみると、虹色の魚や孔雀尻尾の狗などの物語が綴られたものや、空の飛び方のハウツー本、裏世界の遊園地についての記録本など少し気味悪いが面白いのである。遊園地の本のハードカバーを何の気なしに捲って見たらよく分からない数式が書き殴られていた。なんだこれは、と思いつつ著者を見ると全て狗山の父なのだ。

彼は｢父さんは幻想作家でさ、こういう本を書いていたんだよ。だから父さんなんじゃないかって思ったんだけど…あと幻想商人がさ、『私はずっと山で孔雀のような尻尾を持った狗に修行をつけてもらい、人の脳の中が見えるようになったのです、いかがですか、ひとつ覗いて証明してみましょうか』なんて言ってたんだ、それを聞いて怖くなって逃げたんだけど｣と言った。

彼はトイレに立った。部屋を物色していたら金庫があったので適当に先程の数列を押してみたら開いた。中には｢〇いろ麻薬の配合の仕方｣、という少し表紙の荒れた本が入っており何となく薄気味が悪かったし、彼の足音がしたので金庫を閉じた。弱い電球で中途半端に照らされた離れの闇が深まった気がした、風邪がどろっと吹いて行った。

離れから帰る時、狗山は黒服に呼ばれた。｢先に母屋に帰っててくれ、まぁ犀川はいい歳だから変にお節介焼くものじゃないが、この屋敷は入り組みすぎたから闇を抱えてしまっている、変な道を通ると闇に食われて帰ってこられないぞ｣、と言ってまたけたけたと笑った。脅かされた。悔しかったので適当に母屋の方面を少し外れた森に向かって歩きだしたら迷った。

焦りながら歩くと視界が開け、見たことも無いような薄紅色の草原が広がっていた。あまりに非現実的な光景だったため、脳は考えることをやめた。その景色を楽しむことにした。その後その草原を抜けたら暫くして母屋に戻れた。

狗山の家を出たところで謎の疲れが襲ってきた。家に帰ったら姉はまだ帰っていなかった。それからずっと帰ってこなかった。

数ヶ月前の話はここで区切られる。

それからもあまりに帰ってこないので心配になって学校を休み、一通り街を探してみたが姉はいなかった。幻想商人にでも連れ去られたのか、と考え、背筋を何かに撫でられるような思いがした。

狗山に呼ばれたので狗山家に行った。彼は心配そうな顔で心配している、といった旨のことを言っていた気がする。｢姉さんはどこに行ったんだろう｣と独り言のように空に言葉を投げると狗山は｢お姉さんが幻想商人に連れ去られたなら連れ戻す方法があると思う。｣と言った。

彼は離れで｢幻想テェマパァク｣という本を見せてくれた、前回来た時に気になって手に取った裏世界の遊園地の本だ。狗山父が考えた空想のテーマパークを事細かに書き記した非常に気持ち悪い本だがあまりにちゃんとしているのでなかなか楽しんで読んでしまった。

｢地図があるだろ｣と彼は言った。｢その地図はこの街と合致してるんだよ、もし幻想商人が父さんならここ、この本の地図で遊園地が置いてある場所に居るんじゃないか、と思って｣｢なんでそんなことを今僕に言うんだよ、警察とかに言えばいいじゃないか｣と僕が言うと｢確証がないし俺は父さんがやってるかもしれないこの事件に正直関わりたくないから…｣と言った。無責任だ、と思った。

その後母屋に戻り、麦茶をもらった。不思議と前回見た草の薄紅が麦茶に浮かんで消えた。思わず｢桃色麻薬…｣と口にした。彼は気づいていないようでただ宙を見ていた。その麦茶はいつもよりも苦かった。

帰り道は足元がふらついた、疲れが溜まっていたようで、電柱が三本に見えた、街が異様に明るかった、傘女の持っていた極彩色傘が脳内でくるくる回った。不意に背中に衝撃を受けた。最初は転んだのかと思ったが違う、世界は揺れているが転んではいない。何者かに攻撃されている、と思った時には遅く、後頭部に打撃を受けた。薄れる意識の中で、彼らを見た。黒い服の背の高い男と同じく黒服の蜥蜴顔の男だった。

目を覚ますと物に境界線のない不思議な闇の中にいた。細い道のようなものが闇の奥まで続いていて、鬼灯のようなものが道の両脇にぎらぎら輝き、何か違う世界への道のように見えた。目の前に傘女がいて、ぬるりと笑っていた。顔は見えない。僕は｢姉さん｣と呼んだ。反応はなかった。僕はなにか行動を起こすべく立ち上がろうとし、それを見て傘女は｢面倒ね｣と言った。姉の声だったかはよく分からなかった。彼女は差している傘を僕の前に持ってきて回し、くるくると笑った。見えなかったがおそらく笑っていた。目や耳や鼻がくらくらとして意識が朦朧とした。

少し経ちまだ意識があるかないかのところで後ろから聞き覚えのある声がした。｢やぁ、ひどいことになっているな｣と声がした。狗山の声だ、と気づくと同時に口を開いていた。｢どういうことだ？なんでお前がここにいる？｣｢そうだなぁ、犀川には感謝しているしまぁいいか。特別に説明してやる。君の姉に実験的に最後のひとつを投薬し、父が隠して俺の代から生産がストップしてしまった配合が相当に難しいが快楽作用と幻覚作用がほかの麻薬の数倍に及ぶ桃色麻薬、という麻薬の配合についての本があってな…お前は知っているね。それが金庫に入っているのは分かっていたが開け方がわからない、君が開けてくれたようで非常に助かったよ。が、それを知られたまま表で生きられると面倒だ｣彼はこんなことを言った。

そういう事か。幻想商人なんて居ないのだ。失踪事件は麻薬の投与実験か何かなのだろう。傘女はやはり姉で、狗山父が作った最後の桃色麻薬を投与され、彼の助手にでもなってしまったのだ。僕は僕の友達が悪魔だったことに気づき、今更ながら戦慄した。いや、友達でもなかったのだ、ただの実験台だったのだ。回らない頭を必死で動かす僕の横で狗山は何やらごにょごにょと呟いた後｢ちょうどいい、格好つけてみよう｣と言い間を溜めに溜めて、ぬらぬら光った目を僕にぎろりと向けて、芝居がかった仕草で大仰に口を開いた。｢貴方の幻想を買いましょう、新入りの傘の彼女が貴方の幻想を加えた美しい幻想郷へ案内致します｣そして、狗山は例の笑い方をした。世界の狭間ににけたけたと声が響き、僕の視界を闇が覆って行った。もう僕は帰れない。