「夏の庭」を読んで
すいま
「夏の庭」を読んで。
初めて読んだ小説を覚えているだろうか。
僕は今、車窓の外にとめどなく降り続く大雪を眺めながらこの文章を打っている。
雪は止む気配を見せず、僕の乗る電車をかれこれ一時間足止めしている。
日本有数の豪雪地帯ではよくある話で、そこで育った僕には特段の苛立ちもなかった。
全ては仕方がないことなのだと諦めて、小説にもならないこの文章を認めることを決めた。
母はよく本を読む人だった。晩年は老眼からか活字から離れていったようだが、今でも本棚には沢山の小説が納められている。
だが僕はそのどれも読んだことがない。タイトルを眺めてみては、そんな本もあるのかと感心しては満たされている。何とも器の小さい話だ。
そんな僕が最初に読んだ小説は、小学校の教科書に載っている触りだけのものを除けば、湯本香樹実さんが書かれた「夏の庭」だった。
小学生の男の子たちと、頑固者のおじいさんの邂逅の物語、と言ってしまうと僕の文才の限界からその魅力の一分も伝わらないのだが、伝えられない残り九割九分の部分は間違いなく僕の中に残り、今の僕を作り上げていた。
その小説との出会いは、僕が小学校三年生、九才の誕生日だった。
もちろん、僕はスーパーファミコンが欲しかったし、ガンダムのプラモデルが欲しかった。
だけど母は僕にこの一冊の小説をくれたのだ。
実家に帰り、僕の書棚の奥からカバーのなくなってボロボロになったこの小説を見つけた時、僕は初めて考えた。
「お母さんは、何でこの本を僕にくれたんだろう。」
この歳になって、こういうことをしている僕になって初めてたどり着いた疑問だった。ひとつでも道を違えば僕はこの考えに一生気づくことはなかったかもしれない。そんなおぞましさに冷や汗をかきながら、僕は思考を巡らせた。
母は学業には寛容な人だった。特段、口うるさく勉強しろとは言われなかったし、僕もマイペースに勉強をする限り、悪い点数を取ることもなかった。
五段階評価でオール3でも普通が一番と笑ってくれる人だった。
だから本を読めなんて一度も言われなかった。
僕が子供の頃に母から求められたのは、この「夏の庭」を読むこと。誕生日プレゼントという子供には大切なものに、この本を贈ってくれたのは今思えばあからさまなメッセージだと思う。母は、この本を読んで欲しかったのだ。そして僕は読んだ。何度も読み返した。
想像してみる。
小学校三年生になった息子にプレゼントする本。本屋に行ってパラパラとあらすじを読む。難しすぎず、心に残る本。これからの人生の糧になる本。母はどれだけの時間をかけてこの本を選んでくれたのだろうか。
今見てみると、僕がその本を受け取った年は、刊行から五年ほど経っていたと思う。これほどの名作といえど、浮かんでは消えていく有象無象の新刊の中では、平積みにもなっていなかっただろう。母の蔵書にこの本はなかった。一から探してくれたのだ。
当時のことを思い出す。母は専業主婦で、家の事は全てこなしていた。家に帰ると部屋は掃除され、洗濯物は畳まれて、夜になると美味しいご飯が出てきた。
今となっては恐ろしい。
そんな毎日を母は何十年と繰り返してきたのだ。母の喜びはどこにあったのだろう。母の幸せは、どこにあったのだろうか。僕にはその生活が、牢獄の囚人のように感じられた。
もちろん、家族の幸せが母の幸せだという人種がいるのも知っている。だが、そうじゃない人だっているだろう。それでも、母は涙を見せたことはなかった。ただ一度を除いて。
それは祖父が亡くなった時だった。葬式で祖父の亡骸にすがりついて泣き崩れる姿に、子供の僕も動揺した。見てはいけないものを見ているようだった。
そのことを思い出した時、僕はもうひとつのことを思い出していた。
母と祖父のことだ。親子である二人は、母の結婚を機に数百キロの道を隔てて生活していた。そうそう顔を見られる距離ではない。記憶では、僕が祖父に会ったのも数えられるほどだ。
そうともなれば、その数少ない邂逅を喜び合うのが家族というものだと思うが、母と祖父は違った。僕のいないところで怒声をあげていたのを、僕は知っている。
母と祖父は仲が悪かったのだ。
その表現はチープ過ぎるかもしれない。
分かり合えていなかった。
確執があった。
喧嘩していた。
どれもピンとこないがこれらの言葉を足して割って難しい数式に当てはめれば近似値は導き出せるかもしれない。
もちろん当人ではないので真意はわからない。だが、笑い合う仲ではなかった、というのは叔母や父から聞く話では確かなようだった。
誰にでも親しみを込めて接する母の姿からは想像できなかった。
ここで疑問が湧いたのだ。
そこまでいがみ合っていた祖父の死に、亡骸にすがりついてまで涙を流すだろうか、と。
曲がりなりにも家族だったのだろうか。いや、しかし母の兄が亡くなった時には努めて冷静で涙は見せなかった母だ。母とその兄はとことん仲が良かったはずなのに。
僕はここで一つの思いに行き着いた。
もしかして、母は祖父との仲を後悔していたのではないか。
いつか必ず分かり合える。素直になって笑いあえる。そんな日を夢見ていたのではないか。日々繰り返す平坦な日常の希望だったのではないか。
書いてみて、大げさだなと思う。
しかし、あの母の涙は、人の死を悲しむ以上の絶望を感じていたのだと思う。
もう、父と分かり合えないという絶望を。
僕が母から「夏の庭」をもらったのは、祖父の死の翌年の誕生日だった。
僕はその年の夏休み、この本を元に夏休みの読書感想文を書いた。
「『夏の庭』を読んで」
その感想はとても小学校三年生らしかった。死について考えたこと。おじいさんと少年たちの気持ち。そして、おじいさんが死んでしまったことに感じたこと。少年たちは、まだまだおじいさんと色々な話がしたかっただろうという後悔のこと。
そこまで思い返してめまいを感じた。
母が僕にこの小説を読ませた理由。
この小説は悲劇ではない。死と向き合った少年たちは、最後には前向きな成長を持って終わる。しかし、母は祖父の死に対して後悔を残していた。それは僕が勝手に読み取り、感想文に書いた少年たちの後悔に似ている。
母も、この小説を読んだ時、そこに共感したのではないだろうか。そして母は、僕が同じような後悔をしないように、この小説を通じて伝えたかったのではないか。
人はいつか死ぬ。その人との間に、やり残したことがないように、全力で向き合うこと。
電車がゆっくりと動き始めた。
また母がいた実家から少しずつ離れていく。闇夜の中に窓に当たる雪だけが白く浮かぶ。
もし、母が僕に「夏の庭」を読ませた真意がそこにあるのならば、僕はその思いを果たすことができただろうか。
僕は死にゆく母を前に、思い残すことなく向き合えていただろうか。
母の祖父への後悔に気付いた今、僕は母のその後悔を消し去ってあげたかった、と思う。
僕たち家族のために尽くしてくれたその人生に残った後悔、それを消し去ってあげたかったと思う。
だが、それはもう叶わない。
子供の頃に「夏の庭」から受け取った学びを何一つ活かせなかった。
僕は今、後悔している。
思いにふけるのはここまでにしよう。全ては僕の妄想だ。真実を知る母はもういないのだから。
妄想に苛まれるのは呪いだ。母は僕に呪いをかけたかったわけじゃないだろう。
そう言い聞かせても、僕はまた後悔を思い出す。こんな想いは、僕の娘にはさせたくないなと思う。
「娘に本でも買って帰ろう」
僕の吐き出した言葉は、軽快な走行音にかき消された。電車は戻ることもなく、ただただ母から遠ざかっていった。
「夏の庭」を読んで すいま @SuimA7
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