AかつBくんとCかつDさん

菓子子

AかつBくんとCかつDさん


 目が覚めると、義理の妹が僕の腹の上に乗っていて、義理の姉が作ってくれた朝食を食べ、玄関前で待ってくれていた幼馴染と一緒に登校し、隣の席のクラスメイトにジト目を向けられ、屋上で顔見知りから愛の告白を受けた。

 そして僕は今、誰もいなくなった屋上の上で立ち尽くしている。初春の冷たい風が頬を撫でる。

 胸に抱いている感情は一つだけ。

 それは――。



 上から重石に押さえつけられた漬物の夢を見た。薄っすらと目を開けると、その目と鼻の先に、ボンヤリとした女の人の顔があった。ややあって、聞こえてくる音を認識する。


「んもぅ、お兄ちゃんったら全然起きないんだから。かくなる上は、私が愛のチューで眠れる王子様を……」


 んー、という声と共に、瞳をゆるやかに、口をキュッと閉じた顔が更に接近してくる。突然のカオスな状況に、リアクションらしいリアクションを取ることができないまま、首を強引に動かして接着を回避する。

 横を見ると、枕とマウスtoマウスを果たした彼女の姿がそこにあった。


「ぶぶっ、ちゅぅぅぅううぅ」

「……」


 げぇ。

 しかもディープ。

 反応があと少しでも遅ければ、この餌食になっていたのか……。


「れぅ……ん、あれ? お兄ちゃんに舌がな……なな、これ枕じゃん!」


 派手に後ろにのけぞる接吻娘。二、三度目をしばたかせた後、驚いた表情のまま僕を見る。


「お兄ちゃん、起きてたの!?」

「うん。……で、誰?」

「朝からひどっ。寝ぼけたフリしないでよー。私はお兄ちゃんの妹だよ?」

「朝から兄貴にキスを迫る妹なんぞ知るか」


 ぶーぶー、とそれでも文句を垂れてくる重石……じゃないや、妹をどかしてベッドから抜け出す。


「お姉ちゃんなら、一階で朝食作って待ってるよ?」

「そっか」


 頷きながら扉を目指していると、右足に鈍い痛みが走る。何かを蹴飛ばしたらしい。壁に当たり止まったそれは、表紙に胸の大きなヒロインが描かれた文庫本だった。


「あ、それ」背中越しに妹が言った。「私が昨日買ってきたやつ。結構面白かったよ」

「ジャンルは?」

「ドロッドロの官能小説」

「はい?」

「エッチッチー、な小説って意味だよ」

「官能小説の意味くらい知ってる」

「嘘、嘘。そんな怒んないでよ。普通のラノベだよ。異世界転生的な?」

「異世界、転生……」


 呟きながら、それを手に取る。パラパラとページをめくると、ざっと300ページはあるようだ。暇な授業中にでも読もうかな。

 布団に包まって僕のニオイを堪能している我が妹に辟易しながら、僕は自室を出た。







 目玉焼き、レタスサラダ、シュガートースト、ホットカフェオレ。

 リビングのドアを貫通してきた良い香りにふさわしい朝食のセットが三つ、食卓に並べられている。


「起きたか」

「うん」

「アイツは?」

「あー……ミイラ取りがミイラになってた」

「なんだよ。起こしに行くのも面倒くせぇなぁ……じゃ、先に食べるか」

「うん」


 言って同時に着席。因みに姉さんは食パンにはイチゴジャム派だ。

 ジャムの乗ったそれを頬張りながら、手に持つ本を注視している姉さん。……単語帳か。僕は二年生で、姉さんは勿論年上で更に制服を着ている。時期が時期だから、つまり……。


「……、姉さん」

「なんだ?」

「受験、どう?」

「この大詰めの時期にデリケートな質問をするな」

「ごめん。でも、気になって」

「はぁ……まぁ、いいけど。そんなに沈黙が嫌なら、テレビでも付けたらどうだ?」

「え……いいの?」

「別に。気にならないしな」

「わかった」


 では言葉に甘えて。

 仕方なく席を立って、リモコンが置かれたソファーに移動すると、また背後から声が聞こえてきた。


「……あー、」


 振り向く。すると、姉さんは目を単語帳に向けたまま、小さく口を開いていた。


「そこそこ頑張ってる。……心配してくれて、ありがとな」

「……、うん」


 言ってから、僕はテレビを付けた。顔を隠された制服姿の男二人組が、校門らしき所の前で何やらインタビューを受けているようだ。


『俺は知りませんでしたけど』

『でも、噂程度には聞いたことがありました』


 何を聞いたことがあるんだろう。再び席に着きながら思う。


『怖いです』

『まさか、自分が通ってる高校に、いじめがあっただなんて』


「……」


 いじめ。

 という言葉を聞いた時、視界がぐらっと歪んだのを感じた。

 何故だろう。

 その理由を考える前に、突然鳴った大きな音に肩が勝手に反応する。音のした方を見ると、手に持っていたはずのリモコンが下に落ちて散らばっていた。単3電池がフローリングをゴロゴロと転がる音がする。

 流石の姉さんも気づいたのか、ギョッとした目でこちらを見つめていた。


「あ……ご、ごめん。すぐ片すから……」


 もう一度席を外して、転がっていった電池を拾おうとする。でも掴むことができない。手が震えていた。なんで。どうして僕は、こんなに――、


「サトル」


 至近距離で。

 姉さんの僕の名前を呼ぶ声を聞いた。僕は後ろから、確かな力で抱きしめられていた。姉さんの温もりを感じる度に、手の震えが、胸の高まりが、嘘のように引いていった。


「姉さんはここにいるぞ」

「……」

「何もしなくていい。何も言わなくていい。しばらく、そのままだ」


 昔から取り乱すことはあった。条件は見ての通りだけど、原因は分からない。

 その時はいつも、姉さんにこうして慰められていた。

 しばらく目を閉じて、心が静かになるのを一緒に待つ。


「落ち着いたか?」

「うん」

「お前が何歳になっても、姉さんがこうしてやるからな」

「……」

「分かったら返事」

「……うん。分かった」


 姉さんも手慣れたものだ。

 僕は一体、いつになったら姉離れすることができるのだろう。


「よし。じゃ、」姉さんは僕の両肩を叩いて言った。「早く飯を食え。今日は折角目玉焼きが上手くできたんだ。なんてったって半熟だぜ? 固まっちまう前に食べてくれ」

「うん」

「玄関前で、お前の幼馴染を待たすのも酷だろ?」

「そうだね」


 頷いて、不器用な姉さんが丁寧に作ってくれた朝ご飯を、素早くかつ迅速に食べて。

 自室でいびきをかいていた妹を叩き起こし、学校指定の鞄に例のラノベを詰め込んで、僕は家を出た。






「おはようございます」

「おはよう」

「今日もいい天気ですね」

「そう……なのかな?」


 雲一つない青空だけを見ればイイ天気だと言える。スカートの中が常時オープンされるくらいの、常に吹き荒れている強い風を除いたらの話だけど。


「では、行きましょうか」


 歩きづらさで天候の良さを定義すれば、間違いなく下の下だと言える悪天候を何するものぞ、もはや機能を十全に果たしていないスカートを携えながら僕の隣を歩いている。

 完全にそれは見えているのに、あまりにも平然と歩いているものだから、突っ込もうかどうか悩む。色々な意味で悶々としていた僕の心は、初めの角を折れた辺りで折れた。


「あのさ」

「はい」

「さっきから、ずっとパンツ見えてるんだけど」

「ええ」僕の幼馴染……セツナは平然と頷いた。

「今日は風、強いですから」

「何とも思わないの?」

「何とも……いや……そうですね」


 幼馴染は顎を親指に乗せるようにして、何やら思案している。

 まぁ、流石に。流石に恥ずかしいに違いない。


「足がとても寒いです」

「お前の貞操観念はどこに置いてきたんだ」


 全然何とも思っていなかった。


「はぁ……テイソウカンネン、は存じ上げませんが、心当たりならあります」

「ほう。どこだ?」

「オーストラリアです」

「はい?」


 仏頂面を崩さずに、幼馴染は言う。

 小さい頃はとても表情豊かな子だったと記憶している。そんな彼女と小学生振りに会った時、変わらない表情と変わってしまった口調を見聞きして、中学生の時に何かあったのだろうかと、邪推せざるを得なかった。

 ともかく。

 その返答がやけに真面目な声色で、その真意を問おうとまじまじ幼馴染の顔を見る。すると、この季節に似合わない、健康的な褐色の肌が目についた。

 もしかして……。


「本当に行ったのか? オーストラリアに?」

「ええ。でも、予約していた帰りの便が、悪天候でキャンセルされてしまって」

「それは……災難だったな」

「はい。ですので私は振替便を待ちながら今、オーストラリアにいます」

「じゃあ僕と話してるお前は一体誰だ」

「私は私ですよ。我思う故に、我あり」

「適当なことを言うな」

「はい」

「どうしてオーストラリアに行ったんだ?」

「ほら、最近、ここ寒いじゃないですか」


 はぁ。

 だから暖かいオーストラリアに行ったと。

 避暑地ならぬ、避寒地か。

 フットワークの軽い奴だな、とセツナを見て思う。前世は渡り鳥だったんじゃなかろうか。

 風が強く吹く。僕と幼馴染の間を横切ったその風は、僕に何かを思い出させた。

 しかしその肝心な何かは、収まった虎落笛と共に、記憶の底へと沈んでいった。

 なんだろう。それがとても気がかりで立ち止まる。彼女は二、三歩足を進めた先で足を止めて、ゆっくりと振り向いた。


「どうしました?」

「何か……とても大切なことを、忘れてる気がして」

「大切なこと……ですか」


 何か心当たりがあるらしい。

 口をキュッと引き締めて、真剣な表情。その真剣な表情が、何かくだらないボケを炸裂させる前触れであることくらいは分かっている。

 でもまあ、付き合ってあげよう。長い付き合いでもあるし。

 意を決したように頷いて、幼馴染は口を開いた。


「ある記憶を忘れたということは、脳が無意識にそれを必要のないものだと見なしたからじゃないですか?」


 と。

 シビアな顔つきを崩さないままセツナは告げる。

 僕の読みが外れてしまった。


「どういうこと?」

「思い出せないものが、大切なものじゃないかもしれない」

「まあ、可能性の話をしたら、そうなのかもしれないけどさ」

「そうですね」セツナはあっさりと頷いた。「明らかに私が必要としているのに、テスト十分前に、初めて開いた英単語帳に載っていた単語が全く思い出せないなんて経験は山ほどありますし。結構脳もいい加減なところはありますから」

「ふむ」


 脳がいい加減かどうかはともかく、テスト直前まで英単語長を開かなかったセツナの勉強計画がいい加減じゃないのか……?

 でも、それを指摘しても藪蛇のような気がしたので、やめておいた。

 高校の門を抜けて、階段をのぼって、気づけば教室の前。

 僕とセツナのクラスは違う。互いに別れの挨拶をすることもなく、僕は目の前の扉を開けた。





 隣の席から視線を感じる。

 何気ない風を装ってそちらに目を向けると、現髪型環境に真っ向から抗う意志が垣間見える、ツインテールのクラスメイトが僕の様子を伺っていた。

 伺う、というか、睨む、というか。

 とても険しい顔だった。


「……おはよ」

「え……あ、うん、おはよう」


 その表情に対して、クラスメイトの言葉が思ったより普通でちょっとだけたじろぐ。なんとか曖昧な笑みを浮かべながら挨拶を返して、次に言うべき無難な台詞を探す。

 そういや、前に見たアニメでは、主人公は「生理か?」と言ってヒロインをからかっていたっけ。……言える訳がない。色々大変なこのご時世に、余計なセクハラ案件を抱え込みたくない。


「なんか、あった?」

「別に」窓に映る景色を見ながら、クラスメイトは言う。「なにもないわよ」

「定期テストの点数が平均80乗らなくて落ち込んでるとか?」

「落ち込んでるのは本当」

「ふうん。調子悪かったんだな」

「平均90点取れなかったのよ」

「……」


 この秀才ちゃんめ。


「さっき、貴方と貴方の幼馴染が、校門から入ってくるのが見えただけ」

「あ、ああ。それが?」

「仲良さそうじゃない」

「いやぁ……そうかな」


 何気ない会話の筈なのに、やけに口調がツンツンしている。

 これは、あれか。

 気があるのか。

 ほう……。


「僕は応援するよ」

「うん……え、何を?」

「君の気勢を削ぐ訳じゃないけどでも、結構難しいと思う。確かに美形だし、お淑やかな雰囲気に魅力を感じる気持ちが分からなくはないけど、最近寒いからっていきなりオーストラリアに行くような奴なんだ。油断しない方がいい」

「え、ちょっとちょっと、いきなり何の話?」

「え?」今度は僕が首を捻る番だった。「じゃあ、何の話をしたかったんだ?」

「…………っ! も、もういいわよっ……」


 怒られた。

 ここは、彼女がセツナに好意を抱いていることには気づかない振りをするのが正解だったか。反省だ。

 乙女心って難しい。


「……分かってるくせに」


 クラスメイトは僕を見た。心なしか、目が潤んでいる気がした。


「どうしてそうやって、いつもはぐらかすの」

「……」


 僕を咎めるような目。今にも襲い掛かって来そうな怒気を孕んでいる。

 知らず知らずのうちに、選択肢から除外していた可能性。クラスメイトがプンスカやっている原因。

 結論はもう喉元まで出かかっていた。しかしそれはとても突拍子のない話で、中学生の内に捨てたはずの下らない自意識が生み出した虚構な気がして。

 僕は本音をグッと飲み込んだ。


「え、ちょっとちょっと、いきなり何の話?」

「下手な真似はしないで。あと誤魔化さないで」

「……僕も高校生だから、そこまで自惚れてないよ」

「本当に?」


 そして。

 クラスメイトは、それが当たり前であるかのように口にした。

 

「貴方の幼馴染の好意にも気づいてないの?」

「そんなの……」反論は自然と口から出ていた。「あいつはただの友達だ」

「あなたの感想なんて聞いてないわ」

「……」

「貴方の幼馴染に対する認識と、幼馴染の貴方に対する認識が、どうして一緒だって言えるのよ。……それは傲慢だわ」

「……」

「何も言い返さないのね」クラスメイトはため息をついた。「昨日まではあんなに元気だったのに、いきなりどうしたのよ」

「……」


 元気じゃないかな。

 心当たりならたくさんある。

 僕は、一体どうしてしまったのだろう。

 朝からなんだか、調子がおかしいのだ。

 点けたテレビの番組がとてもおぞましいものに見えたり。

 何か大切なことを忘れている感覚に囚われたり。

 こうして席に座って見る教室の風景に、ひどく懐かしい思いを抱いたり。

 やってみるだけ、自分の顔の右側を思いっきり抓る。

頬はしっかりと痛みを伝えてくる。


「寝不足かしら」

「そうかもしれない」

「十分くらい寝たほうがいいわ。一時間目は生徒が寝ていても気にしない先生だから、机に枕を敷くなりなんなりしなさい」

「学年一の秀才がそんな不真面目なことを勧めていいのか?」

「真面目さと要領の良さは必ずしも一致しないの」

「はぁん」


 まぁ。ここはクラスメイトの言う通りにしておこうか。

 机の脇に置いた鞄に手を伸ばした。座ってそのままの体勢では届かないから、机に胸をくっつけて鞄の中をまさぐる。枕はないが、代わりになるものは幾らでもあるだろう。

 手を広げるとちょうど掴めるサイズのそれを暗闇の中から引っ張り上げる。

 それは義理の妹から薦められていたラノベだった。

 ジャンルは……そう、異世界転生モノ。

 異世界。

 その言葉を頭で思い浮かべた時、何か腑に落ちた錯覚が。


「異世界……」


 口に出す。いや、無意識に出していた。

 妹に手荒い目覚ましで起こされる世界。

 姉の無骨さが表れていて、でも確かな愛情を感じる朝食を食べられる世界。

 寒い中、僕が来るまで幼馴染がじっと待っていてくれている世界。

 ツインテールのクラスメイトに嫉妬心を抱かせてしまう世界。

 誰もが……いや、誰かが僕を好きになってくれる世界。

 そう。

 ここはまるで異世界だった。冴えない僕を甘やかして、優しくして、鼻とその下を伸ばそうとしてくる、文句一つつけようのない世界。

 でも、確かにここは僕が生まれ育った星のちょうど真ん中にある街に建っている校舎な訳で。

 なら僕は、この世界と、何の世界を比較しているんだろう。


「思いつめた顔」

「え?」

「してる」

「……うん、まあね」

「何を思い出していたの?」

「何だろう。分からない」

「それはとても悲しい記憶?」


 思わぬ質問に口ごもる。

 僕の表情から類推したのだろうか。

 僕は少し考えてから、言った。


「分からない。……でも、多分そうだと思う」

「それなら」クラスメイトは迷わなかった。「忘れたままでいいでしょう。過去のトラウマを掘り起こして何が楽しいのよ。貴方もしかしてドM?」

「僕にM気質があることは否定しないが……」

「そこは否定しなさいよ。話をややこしくしないで」

「はい」


閑話休題。


「でも」

「何よ?」

「やっぱり、とても大切な記憶だった……気がして」


 忘れてはならない、いや、忘れちゃダメだったはずの記憶。

 僕の根幹に関わる、今まで避け続けていた記憶。

 なぜ今僕はそれと向き合っているのか。どうして今日がその日なのか。

 考える。考えて、思い出す。

 いじめ。強い風。ずっと昔の体験。

 ――――。


「ああ」


 マジかよ。


「そんな」


 馬鹿な。

 僕は。

 なんてことを。


「なあ」

「何?」

「ちょっと、抜けるわ」


 クラスメイトの返答を待たず、僕は勢いよくニスの塗られた床を蹴った。


「え、先輩、そろそろ授業始まるのにどこ……って、そっち屋上っスよ!?」


 走る。


「あ、サトルっち。開幕早々サボタージュとかキマッてますなぁ」


 走る。


「よ……よう、きょ、今日部活来る……か?」


 脇目も降らず、階段を駆け上る。

 ずっと昔。体感的には、およそ二十年前。

 僕はいじめられていた。

 確か、優しさと格好良さとの間に等式を置いてしまったことが原因だったような気がする。

 とにかく僕は当時、何を言われても無言でへらへら笑ってやり過ごすキャラを演じていた。

 それが割と本気でモテると思っていた。

 いつしかクラスの皆の中で『僕には何を言ってもいい』という認知が生まれて。

 いやその話はもういい。露悪趣味に過ぎるだろう。

 とにかく。

 人生に楽しさを見出せなくなって、絶望の味を知って、今死んだら、クラスメイトがさぞ驚くんじゃないかと思って。

 トントン拍子に話は進んで、僕は屋上の低い柵を乗り越えていた。

 浮遊感に包まれながら頭に浮かんだことは、『次の人生では上手くやろう』という決意ではなく、どうしようもないほどの強烈な生存欲求だったのは少し意外だったけど。

 僕はこの世界で新たな生を受けた。

 言い換えるならば、転生という言葉がしっくりくる。

 生前の記憶は朧げ。

 思い出したくない記憶は思い出さないに越したことはないから、自然と記憶の外へと追いやっていたのかもしれない。

 そして幼い頃に母親と死別し、再婚した新しい母親が、しっかりした姉と煩悩だらけの妹を連れてきた。

 高校生になり、小さい頃よく遊んでいた幼馴染とまた学校が一緒になり、隣の席のクラスメイトとよく話すようになって、僕は。

 あがった息そのままに、屋上へと繋がる扉を開けた。

 僕に背を向けて、組んだ腕を柵に乗せている姿が一つ。

 風に押され、勢いよく閉まった扉の音に気づいた彼女は振り返る。

 短いスカートが風に靡いた。


「サトルさん?」


 彼女は言った。

 丁寧な口調。余裕のある口元だけの笑み。オーストラリアからもらってきた褐色の肌。

 言うまでもなく、僕の幼馴染だった。


「……セツナ」

「またの名を?」

「支倉香苗」

「正解」支倉は言った。「よく気づいたね。やるじゃん、望」


 ああ、そうだった。

 僕の名前は望で。

 こいつは、そういう風に話すんだった。


「そりゃ、十何年も解答期間があったら、流石にね」

「うん」

「あと、顔」

「うん?」

「意外と変わってない」

「だよねー。喋り方と時間で誤魔化せるかなって思ってたけど……やっぱきつかったかー」


 たはは、と眉を八の字にして笑う支倉の表情に、僕はちょっとした違和感を抱いた。


「何かが足りない」


 あの頃の支倉と比べて。


「足が98本足りない?」

「ムカデか」

「ムカデの足の数って、実は大体40本らしいよ」

「知るか」


 ムカデの生態系に興味のある人なんてそういない。

 まあいいや。

 僕は間違い探しをするためにここに来た訳じゃない。


「支倉」


 僕は支倉に近づいて。

 頭を下げた。


「ごめん」


 あの時。

 僕が屋上から飛び降りた日。

 今日のような、馬鹿みたいに風が強い日だった。

 僕の暗い期待とは正反対に、見れば目が眩むグラウンドには、スマホをこちらに向けて今か今かと待ち構えている生徒達がぞろぞろと詰めかけていた。

 その中でただ一人。

 支倉だけがどうしようもない僕に手を差し伸べた。

 

「ダメだよ」


 背中から声が飛んだ。

 僕達は口論になった。

 会話の内容は支離滅裂だった。今にも飛び降りようとしている極限の精神状態で、まとまりのある言葉で支倉を言い負かせられるはずもない。

 落ち着いた声色で語り掛ける支倉と、緊張と興奮が最高潮に達しながら唾を飛ばす僕。議論は平行線だった。

 やがて支倉は口を止めた。そして僕に歩み寄った。自然な所作で、柵を跨ぎ、屋上の端に両足を乗せてから、左手で僕の右手に触れた。


「それでも嫌って言うなら、私も飛び降りるから」


 支倉は言った。恐怖で震える手で握って、震える声でそう言ったのだ。

 ああ。

 彼女の決意は曲げられない。

 悟ってしまった。それが僕の敗因だった。


「僕の負けだ」


 言おうとした、その時だった。

 一陣の風が吹いた。

 一瞬目を閉じる。開けると、彼女の姿がほんの数センチ分ずれていた。


「え」


 迷わなかった。

 咄嗟に落ちる支倉の手を掴む、ことに成功する。

 でも支倉をそこから引っ張りあげるには、彼女は少しだけ重かったし、何より帰宅部の腕は貧弱だった。

 結局僕が支倉に下へ下へ引っ張られるようになりながら重力に従う。

 駆け巡る走馬燈。

 今更のように主張し始めた生きたいという思い。

 最期に支倉を見た。

 その表情は――。


「いいって、別に。私がドジ踏んだだけだし。いや、踏み外したってのが正しいのかな……今回は、ね」


 回想の途中で横から声が入って、僕は無理やり顔をあげさせられる。

 支倉は清々しい笑みを浮かべていた。

 前世に何の未練もない。

 そう僕に示しているかのような表情だった。


「違うんだ」僕は首を振った。「そもそも僕が自殺なんて、馬鹿なことを考えていなかったら、支倉が死ななくて済んだのに」

「私は生きてるよ」支倉は言った。「ここで。前の世界よりちょっとだけ都合がよくて、ちょっとだけ女性比率が大きくて、セツナのいる世界にね」

「でも……」

「でもじゃない。何、セツナは私に、生まれ変わったことを後悔して欲しいの?」

「それは、違うけど」

「じゃあいいじゃん。私はあそこで死んじゃったことを後悔してないし、この世界でそこそこ楽しく生きられてる。少なくとも前の世界よりかは……ね。分かった?」

「……」


 ハッピーエンドのエピローグで、最後にヒロインが見せる飛び切りの笑顔。

 と五十歩百歩の支倉のそれを見ても、僕の胸の内にわだかまる、罪悪感は消えてはなくならない。


「……うん」


 でも。

 それでいいのかもしれない。

 苦しくて、辛くて、誰とも共有することができない感情。

 それを死ぬまで、ずっと抱え込むことが、彼女に対する贖罪なのだとしたら。

 手前勝手だけど、それで罪を償っていけるのだとしたら。


「分かったよ」


 この救いようのない記憶を、僕は思い出してよかったと思えた。


「よし」


 満足げに頷いて、


「教室に戻ろっか」


 目の前で呟いてから、僕の真横を通り過ぎる。

 その言葉が、僕にあることを思い出させた。


「なぁ、支倉」

「もうセツナでいいよ。何?」

「セツナって僕のことが好きなのか?」


 振り向く。同じく振り向いていたセツナは目をしばたかせていた。


「何、その自意識過剰な中学生の黒歴史に刻まれてそうな台詞」

「そこまで言わなくてもいいだろ……まぁ、そうだな。ごめん、忘れてくれ」

「好きだよ」


 今度は僕が目をしばたかせる番だった。

 セツナの姿が明滅を繰り返す。

 そこでようやく僕は、屋上でセツナの姿を見た時に感じた違和の正体を突き止めた。


「……絆創膏」


 そう。

 支倉に足りないもの。

 前の世界で支倉は、顔に出来た傷を隠すために正方形の大きな絆創膏を付けていた。

 どうして毎日のように支倉は顔に傷を付けていたのか。

 支倉も、僕と同様にいじめられていたからだ。

 僕より、もっとひどく……精神的、肉体的にも傷つけられていた。

 いつ壊れてしまっても、おかしくなかった。

 あの時。

 確かに風が強い日だった。

 でも、手すりを強く握っていた手が離れるような風なんて、そう都合よく……いや、都合悪く吹くものなのだろうか。

 それに。

 今にも地面に不時着してしまいそうな、支倉の表情は。


「だからさ、サトル」


 今のような、凄惨な笑みを浮かべていた。


「また死にたくなったら、一緒に死んであげる」


 扉が閉まる音。

 遅れて。

 今日あったことを思い出す。

 目が覚めると、義理の妹が僕の腹の上に乗っていて、義理の姉が作ってくれた朝食を食べ、玄関前で待ってくれていた幼馴染と一緒に登校し、隣の席のクラスメイトにジト目を向けられ、屋上で愛の告白を受けた。

 そして僕は今、誰もいなくなった屋上の上で立ち尽くしている。初春の冷たい風が頬を撫でる。

 胸に抱いている感情は一つだけ。

 それは――。

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