情景描写

三人称的な情景描写

縦横無尽のカメラワーク

 まずはじめに、秋山先生の空間描写について取り上げます。


 映画のような映像芸術にはカメラワークがあります。

 描きたい対象をどの角度から描くのか、ズームアップをして詳細を描くのかズームアウトをして全体を映すのか、それに加えて表現効果もまたカメラワークによって決まってくることになります。この技法は漫画などにも取り入れられ、コマ割りやカットの技術として成長しています。


 では、小説ではどうなのでしょうか。

 文字による表現は一度に一つの対象しか映し出せず、また、文字によって呼び起こされる心象が人によってまちまちであるために一定の表現効果を生み出し難いように思えます。


 また、そのためか、小説においてはカメラワークの技法そのものが、作家個人の文体や資質に任せられている印象を受けます。しかし、小説といえども一定の表現技法は存在します。

 ここでは、『イリヤの空UFOの夏その1』の『第3種接近遭遇』から、伊里野と浅羽の出会いのシーンを取り上げ、その表現技法についてまとめてみたいと思います。



 ①まず、縦25メートル横15メートルの、当たり前の大きさのプールがそこにある。②幻想的なまでに凪いだ水面そのものよりも、何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で、まるでプールの形に切り取られた夜空がそこにあるように見える。③更衣室の暗闇から出てきたばかりの浅羽の目に、その光景は奇妙なくらいに明るい。④奇妙なくらいに明るいその光景の中で、女の子は浅羽に背を向けて、プールの手前右側の角のところにしゃがみ込んで、傍らの手すりをしっかりとつかんでいる。⑤スクール水着を着ている。水泳帽をかぶっている。真っ黒い金属のような水面をひたむきに見つめている。

 ⑥誰だろう、とすら思わなかった。

 ⑦あまりにも意外な事態に出くわして、何も考えられなくなってしまった。

 ⑧まるで棒っきれのように、浅羽はただその場に突っ立っていた。

          秋山瑞人(2001)『イリヤの空UFOの夏 その1』p19

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885579795/episodes/1177354054885590337




 一見して感じるのは、縦横無尽に動き回るカメラの存在ではないでしょうか。ここには、秋山先生の視点の設定の巧みさがあると思われます。

 まず最初の一文、「まず、縦25メートル横15メートルの、当たり前の大きさのプールがそこにある」は、広いプールを上空から撮影した映像を脳裏に映し出します。

 ここで、単にプールというだけでなく、「縦25メートル横15メートル」と形容しているのは、プールの広がりを表しているのではなく、それがプールを一望できる遠くから撮影しているという感じを持たせるためでしょう。


 次に、「幻想的なまでに凪いだ水面」という表現では水面の様子が見えるまでにプールがクローズアップされます。

 さらに、「何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で」という文章では、クローズアップされたカメラが水面を通り越してその向こうへと入り込みます。

 あるいはここで、はるかな宇宙へと突き抜けていく感覚を覚える人もいるかもしれません。

 いずれにせよ、「上空」、「水面」、「水面の向こう」と、カメラは広い空間内を動き回ります。

 ここまでのカメラワークは、徹底して背景描写です。


 さて、次の③以降では、縦横に動き回ったカメラは一転して、浅羽の目を通した映像を映し出すことになります。

 その合図となるのが「更衣室の暗闇から出てきたばかりの浅羽の目に、その光景は奇妙なくらい明るい」という文章です。


 なぜなら、光景が「奇妙なくらい明るい」のは「更衣室の暗闇から出てきたばかりの」浅羽の目を通してしか知覚することはできないからです。

 その表現は⑤の「奇妙なくらいに明るいその光景の中で」という文章で繰り返され、さらに、「女の子は浅羽に背を向けて」という文につながります。


 ここで、「背を向けている」のはあくまで浅羽に対してであることにより、カメラの位置は完全に浅羽に固定されているのを読み取ることができます。

 ここまでの流れで、読者の脳裏には浅羽と一体化した映像が描かれる下地が整ったことになります。

 そして、これらの描写によって浅羽を視座としたカメラは、④⑤で、浅羽が出会った女の子の様子を映し出していきます。

 

 ④から⑤にかけて

 「プールの手前右側のかどのところにしゃがみ込んで、傍らの手すりをしっかりとつかんでいる」

 「スクール水着を着ている」

 「水泳帽をかぶっている」

 「真っ黒い金属のような水面をひたむきに見つめている」

 と続く文章において、まず特徴的なのは、これらの時制がどれも現在形となっていることです。


 回想的な過去形に比べ、現在形は、目の前のものを描写している感触を出すことができます。

 つまり、現在形を使用したことによって、カメラの映し出す映像が臨場感を持って迫ってくるわけです。


 さらに、現在形の持つ主観的な要素も見逃せません。

 現在形は「目の前」を描写すると言いましたが、その「目」とは、ここでは浅羽の目に他なりません。

 つまり、現在形を選択することで、カメラの視座であった浅羽の主観的な要素がさらに強まり、擬似的な一人称とでも呼ぶべき状況が生み出されているのです。

 このことは続く⑥⑦の心理描写を自然なものにすることにも一役買っています。


  ⑥⑦ではカメラワークは一区切りし、心理描写へと移っています。

 「思わなかった」「考えられなくなってしまった」

 と続く文は、あきらかに浅羽の茫然自失とした心理を表しています。


 ただ、ここで、この『イリヤの空UFOの夏』が3人称で書かれていることを思い出してください。

 本来、縦横無尽に動き回るカメラの視点を媒介とする3人称小説は、特定の登場人物の心理を描写するのは苦手であるとされています。


  それがいかにも自然に行われるのは、登場人物の少なさもありますが、それまでの文章の中で、浅羽の視座とカメラの一体化が十分に行われていたからではないでしょうか。

 このことは、また別で精察したいと思います。


 さて、本題のカメラワークに戻って、最後の⑧では、再びカメラは浅羽の視座を離れ、一枚のスナップとして浅羽の様子を映し出します。

「まるで棒っきれのように、浅羽はただその場に突っ立っていた」

 この文章によって、めまぐるしく動き回ってきたカメラの動きが一区切りすることになります。

 一連のカメラの動きを並べてみると次のようになります。


 上空→水面→水面下(宇宙)→浅羽の目→浅羽の内面→浅羽の傍


 いかがでしょうか。

 縦横無尽に動きながらも、少しも読者を置いてけぼりにはしない緻密な配慮が読み取れたのではないでしょうか。

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