第三種接近遭遇 2/9

 まず、たて25メートル横15メートルの、当たり前の大きさのプールがそこにある。幻想的なまでにいだ水面そのものよりも、何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で、まるでプールの形に切り取られた夜空がそこにあるように見える。更衣室のくらやみから出てきたばかりのあさの目に、その光景は奇妙なくらいに明るい。奇妙なくらいに明るいその光景の中で、女の子は浅羽に背を向けて、プールの手前右側の角のところにしゃがみ込んで、傍らの手すりをしっかりとつかんでいる。スクール水着を着ている。水泳帽をかぶっている。真っ黒い金属のような水面をひたむきに見つめている。


 だれだろう、とすら思わなかった。


 あまりにも意外な事態に出くわして、何も考えられなくなってしまった。


 まるで棒っきれのように、浅羽はただその場に突っ立っていた。


 誰にも見つからないように気をつけてはいたが、どうせ誰もいはしないと高をくくっていたところもある。更衣室のドアだって無理矢理開けたし、足音ひとつ立てずに歩いてきたというわけでもない。その女の子が最初からずっとそこにいたのなら、そうした物音が聞こえなかったはずはないと思う。なのに、少なくとも見る限りでは、女の子が浅羽の存在に気づいている様子はまったくない。浅羽に背を向けたまま、身動きもせずにひたすらプールの水面を見つめている。その背中には言い知れぬ真剣さが、これから飛び降り自殺でもするかのようなきんちようかんが漂っている。


 女の子が動いた。


 右手で手すりにしっかりとつかまりながら、左手を伸ばして水面に触れた。


 何かの実験でもしているかのような慎重さで、女の子は指先で小さく水をかき回す。木の葉一枚浮かんでいない水面に波紋が幾重にも生まれ、波紋はレーダー波のように水面を渡って、プールのふちに行き着いて反射する。その様子を、女の子はじっと見つめている。


 誰だろう。


 やっとそう思った。


 うちの学校の生徒だろうか。スクール水着は学校指定のもののように見えたが名札がついていない。としは自分と同じくらいだと思うが後ろ姿だけでは断言もできない。女の子の斜め後ろには大きなバッグが投げ出すように置かれている。その周囲には服が生々しく脱ぎ散らかされている。それはやはり、女の子のバッグであり、女の子の服なのだろう。


 思う。


 ということはつまり、女の子はこのプールサイドで水着に着替えたのだろうか。


 ものすごく思う、なぜ自分は人間として生まれてきてしまったのか。なぜ自分は、力いっぱい指差して叫びたい、足元にのたくるこのホースとして、そこの壁に立てかけられたデッキブラシとして生まれてこなかったのか。誰もいない夜の学校の誰もいない夜のプールで、ひとりの女の子が星の光に照らされながら着ているものをゆっくりと一枚また一枚


 そこから先を、浅羽は意志の力でじ切って捨てた。


 女の子の後ろ姿に漂うあまりの真剣さに、浅羽は急に居心地が悪くなってきた。ろくでもない妄想を抱いたことを恥ずかしく思う。女の子がなぜここにいて、何をしているのかはわからない。しかし、女の子がこちらに気づいていないというのはひどくアンフェアなことであると思った。自分に悪気はなくてもこれではのぞきと一緒だ。


 声をかけよう、と決めた。


 自分の存在を知らせよう。


 そう決めて、何と声をかけたらいいのか、言葉の組み立てもつかないままに、あさは息を吸い込んだ。


 タイミングが悪かった。


 浅羽が吸い込んだ息を声にして吐き出そうとしたまさにしゆんかん、女の子がいきなり立ち上がろうとした。長いことしゃがみ込んでいたのか、女の子は立ち上がりかけて少しだけよろめき、


「あの、」


 浅羽のそのひと言に飛び上がらんばかりにおどろいて、女の子は全身で背後を振り返ろうとして、ただでさえ危うかった身体からだのバランスがとうとうじんに崩れた。


 一瞬だけ、目が合った。


 驚きに見開かれた目の白さを宙に残して、女の子はおしりからプールに落ちた。


 派手な水音とともに、大粒の水しぶきがプールサイドのタイルに散った。


 浅羽も慌てた。事態の急展開にづいた。このまま逃げちまおうかと思う。混乱した目つきで周囲を見回して、当たり前の事実に今さら気づく。プールはうすっぺらで背の高いかべに囲まれているのだ。マジックミラーでもあるまいし、外からこちらが見えないということは、こちらからも外が見えないということなのだ。宿直の先生かだれかが今にも怒鳴り込んできそうな気がする。


 逃げよう。


 さんざん躊躇ためらった挙げ句にやっとそう決めて、更衣室の方に回れ右しようとした浅羽の足が止まった。


 水音がいつまでも止まない。


 女の子が水の中で暴れている。ときおり、腕や足が思いがけない角度で水面を割って突き出され、水面をたたいて沈む。


 ふざけているのかと思った。


 本当におぼれているらしいと気づいてからも、たった今まで逃げ腰になっていた身体はすぐには動いてくれなかった。あたふたとプールに駆け寄って、そのまま水の中に飛び降りる。足から飛び込んだせいで短パンの中に空気がまって、水中でカボチャのようにふくれた。両手で水をかき分けながら歩き、女の子の手足が跳ね散らすしぶきに片目をつぶりながら手を伸ばし、大きな声で、


「ほらつかまって、ここなら」


 足がつくだろ?、そう言おうとしたしゆんかんに女の子にしがみつかれた。プールの底で足が滑り、おどろきの声を上げる間もなくあさの頭は水中に没した。


 真っ暗で何も見えない。


 女の子にしがみつかれて自由な身動きが取れないし、もちろん息はできない。


 パニックに陥った。


 あっという間にわけがわからなくなった。手を伸ばせば届くはずのプールのふちがどこにあるのか、どっちに水面があってどっちに底があるのか、自分の身体からだは上を向いているのか下を向いているのか。太平洋の真ん中でもがいているのと同じだった。女の子を一度振りほどこうとするのだが、浅羽が身をもがくと女の子の方はますます必死になってしがみついてくる。信じられないくらいの力だった。このままでは自分もおぼれると浅羽は本気で思った。ここは足がつくのだ、ここはプールの縁のすぐそばなのだ、けんめいに自分にそう言い聞かせ、両足と片腕で夢中になって水の中を探った。


 プールの縁に指先が触れた。


 プールの底に爪先が触れた。


 どうにか体勢を立て直してた。やっとのことで二人の頭が水の上に出る。気道に入ってしまった水にき込みながらも、助かった、と身体中で思う。さっきまでは底無し沼だったはずのプールは、ちゃんと足をついて立ってみればやっぱり浅羽の胸元くらいまでの深さしかない。はは、と小さく笑う。


 そして浅羽は顔を上げ、


 目が合った、どころではなかった。


 タバコ一本分もない、生まれて初めての至近距離に女の子の顔があった。


 二人ともいまだに呼吸が荒く、二人ともいまだに抱き合ったままだった。二人が散々にかき回した水の動きに、二人の身体が小さく揺られていた。


 浅羽よりも少し背が小さい。水泳帽の縁からはみ出た髪の先からしずくが滴っている。自分以外の人間なんか生まれて初めて見たとでも言いたげな表情で、浅羽をまっすぐに見つめている。だれもいないはずの夜の学校の、誰もいないはずの夜のプールで、見知らぬ女の子と、星の光に照らされながら、


 現実の出来事とは思えない。


 少しだけ首をかしげ、女の子が何か言おうとした。


 まだ言葉をおぼえていない幼児がもの問いたげに発する声のようにも、外国語の感嘆詞のようにも聞こえた。


 そして、


「っ」


 いきなり、浅羽と密着していた女の子の身体にぎゅっと力がこもった。浅羽から半歩だけ身を離し、顔をそむけて両手で鼻と口をおおう。


 それがきっかけになって、目の前の女の子の顔に見とれていたあさは一挙に現実に引き戻された。自分はそんなにへんな匂いがするのだろうかと思ってろうばいし、ひそかに手のひらに息を吐きかけて口臭の有無を確かめ、


 けふ、と女の子がむせた。

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