妖精を信じる男

千本松由季/YouTuber

妖精を信じる男

1

持てるだけの物を持って家を出た。同僚の航からもらった住所。古い木造のシェアハウス。玄関のドアが少し開いている。呼んでも誰も出て来ない。不用心だな。こんなとこに住んで大丈夫なんだろうか?

2

放心してリビングに座っていると、すぐ外が暗くなってくる。僕はこんな不安には慣れてない。今まで大事に守られてきたことを悟る。泣きそうになりながら暗闇の内側を見ると、そこに二つの光る物がある。それが近付いて来て、僕の足に当たる。電気のスイッチを探す。ネコ。ビロードのような、灰色の。

3

航が帰って来る。僕達は同じブティックで働いてて、今日は彼が夜シフトだった。空いてる部屋を教えてもらう。僕達の部屋は二階で、隣同士。少し安心する。部屋に荷物を放り込んで、でも一人になるのは嫌で、またリビングに戻って座ると、ネコが当然のような顔をして僕の膝にジャンプする。

「それ、誰にも懐かないのにな。」

航はクスクス笑う。

「それは小夜のネコ。」

フワフワの頭を撫でてみる。ゴロゴロ言っている。小夜って誰?

4

「店長、青史のこと俺に聞いてきたぞ。なにも知らないって言っておいた。」

あんな男癖の悪い男。3回も浮気されて。最初の時は謝られて、次の時は言い訳されて、最後の時は逆切れされた。

「ここに住んでるのは男ばっかで、俺達と、家主の時久(ときひさ)さんと、小夜。」

小夜のことを聞こうとしたけど、どうしてか聞きそびれる。多分、自分の将来の心配で、頭がいっぱいで。

5

怖がりの僕は、知らない所で眠れない。店長のことを考えると憂鬱になる。これからも毎日会うんだし。見てくれと調子のいい男。やっと、うつらうつらしてきた時に、僕の部屋のドアが細く開く。男の声。

「アナスタシア。」

今まで僕の足元で寝ていたネコが走って出て行く。そして、ドアが閉まる。

6

家にいることの多い僕は、家主の時久さんとはよく話す間柄になった。彼は、僕の膝を離れないネコを見て呆れている。

「他の人には懐かないのに。」

「それ、航も言ってました。」

不思議なことに、何日経っても、その小夜という人には一度も遭遇していない。僕はあれから、寝る時はドアを少し開けておく。その後も何度か、ネコを呼ぶ声を聞いた。アナスタシア。

「小夜ってどんな人なんですか? まだ一度も会ったことない。」

アナスタシアの目は緑色。彼女の目を覗き込む。なんだかネコに聞いてるみたい。

「アイツはな、働き過ぎなんだよ。働いてると嫌なことを忘れるんだとか。」

とうとう僕は小夜のことを人に聞いた。でも余り答えにはなっていない。時々バスルームの床に置き去りにされたタオルとか、部屋から聞こえる音楽とか、それで彼が現実に存在するということが知らされる。

7

店長にランチルームに呼ばれた。謝られて、言い訳されて、逆切れはされなかったけど。僕はなにも言うつもりないし。ケータイをいじり始める。アナスタシア。ロシア最後のプリンセス。革命で一家全員処刑されて、亡くなった時はまだ17才だった。随分昔のこと。僕はネコにこそんな名前を付ける、その人のことを考える。

「聞いてんの? 俺のこと。」

僕はチラっと彼の目を見る。怒ってはいない。怒ったって構わない。

「青史、なに考えてんのお前?」

「プリンセス・アナスタシア。死んで、それでネコになった。」

8

眠れない日が続き、涙ぐむ時が増える。些細なことが気に掛かり出す。階段の上にある小窓。そこがいつもほんの少し開いている。夜でも開いている。僕はそれが気になって、時久さんに聞いてみる。

「小夜が、そこを妖精が出入りするって。蝶々の羽が生えたヤツだって。」

彼は大真面目にそう答える。僕は聞き違いじゃないかと思う。妖精なんて。

「時久さん、見たことあるんですか?」

彼は首を横に振る。

9

部屋に帰って僕は、そんな羽の生えた生物について考える。それは、今の僕の妄想と一致する。僕は気持ちが弱いから、今みたいなストレスには耐えられなくて、もし航や時久さんがいなかったら、きっともう虫みたいに死んでる。床に落ちて。埃にまみれて。風が吹くと、まだ時々羽をバタつかせる。未練がましく。

10

僕は、とうとう一晩寝られず泣いていて、休みだった航を起こして、替わりに仕事に行ってもらった。金曜日の朝。時久さんに心配させたくなくて、僕は部屋に籠って、蝶々の羽の生えた妖精について検索する。僕は世の中に、そんな生物がいっぱいいることを知らなかった。また羽の生えた虫になって、死んでる自分を想像する。それから、殺されたプリンセス・アナスタシアや、その一族について読み漁る。なんて数奇な運命。

11

少し眠れて、航は仕事が終わっても家に帰って来なくて、僕は時久さんと夜を一緒に過ごす。やっぱり顔が疲れてて、結局心配される。夜遅くに電話が鳴る。

「小夜が具合悪いらしい。これから迎えに行くから。」

彼は急いで服を着替える。

12

でも、なかなか帰って来なくて、僕はベッドに入って、アナスタシアと一緒に眠りかけた頃、玄関のドアが開く。ネコが部屋を出て行く。僕もコッソリ後を付ける。階段のてっぺんから階下を見下ろす。

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時久さんが、男のジャケットを脱がしている。男は少しイラついた様子で、彼の手をどける。黒いジャケットを脱ぐとその下はタキシードシャツで、時久さんがボータイを外してあげようとすると、また男は嫌そうにその手を払う。

「小夜!」

時久さんの少しきつい声。これが小夜なの? ネコにプリンセスの名前を付けたり、妖精の話しを信じたり、名前だって女の子みたい。もっと中性的な人なのかと思ってた。

14

小夜は男らしい髭を流行っぽく生やして、長めの髪はオールバック。背も高いし、体格もガッチリしてる。小夜は、階段の中間くらいの所にいるネコを呼ぶ。

「アナスタシア!」

鋭い調子で。そして自分の部屋に入って行く。僕のことは全然見ないで。時久さんも一緒に彼の部屋に入って行くのが見える。

15

僕は今見たのが、夢じゃないかと思う。小夜の顔は、ヴィスコンティの映画に出てくる、整い過ぎた顔立ちの、そしてそれが悲劇を思わせるような、そんな印象だった。しばらく起きていて、トイレに立って、その時もやっぱり彼の部屋からは二人の話し声がしていた。二階に戻って僕は、階段の上の窓がちゃんと少し開いているかどうか確かめた。か弱い月光が差し込む。

16

朝起きたら、時久さんはいたけど、小夜はもういない。

「アイツ、もう仕事に行った。体調悪いのに。でも仕事を一つ辞めさせた。」

僕は今日は最初から休みで、昨夜は泣いてなかったけど、眠りは浅くて、ぼんやりしていたら、航が帰って来た。朝帰り。僕達が小夜の話しをしているのを聞いて、航が口を出してきた。

「小夜に会いたいんだったら、今夜一緒に行こうよ。」

航は高級ホテルのバーの名前を言った。小夜は、夜はそこのバーテンダーをしているらしい。だから夕べのタキシード。アナスタシアを抱き上げる。緑色の目にそっと囁く。

「小夜に会えるなんて。話しができるなんて。」

17

航と二人で、バリっとテーラードジャケットで決めて電車に乗る。シェアメイトに会うために、こんなことするのも変だけど。

「店長、お前が俺ん家にいるの、勘付いたみたいなんだよ。」

「関係ないし。」

電車が揺れる。僕は航にしがみ付く。

「青史、痩せたぞ。もっと食え。」

「時久さんが、小夜が働き過ぎるの、嫌なことを忘れるためだって。」

「小夜がそう言ってんなら、どうせ男のことだろ?」

18

有楽町で降りる。とうとう会える。僕はなんだか単純に嬉しかった。エレベーターに乗って、一番上で降りる。ドアが開くと、途端に華やかな喧騒が耳に入る。見事な夜景。僕達がバーカウンターに座ると、小夜はすぐ航に気付いて、それから僕の方を見る。

「そちらの彼は?」

「アナスタシアの。」

僕はなんでか、咄嗟にネコの名前を言う。

「ああ、いつもお邪魔して。」

僕は何度も聞いた、彼のネコを呼ぶ声を思い出す。

「お身体はもういいんですか?」

「時久は大袈裟なんだよ。」

僕は、彼の精悍な顔立ち、それからタキシードが馴染んだセクシーな身体を盗み見る。

19

僕達は一番安そうなビールを頼む。すると、小夜がなにかを捕まえようとするみたいに、逆さに持ったグラスをカウンターにそっと置く。大振りのワイングラス。航が笑いながら中を覗き込む。

「小夜、なにがいるの?」

「蝶々の羽の生えたもの。」

僕もグラスの中を覗き込む。なにかいるとは思えない。ウェイターがカウンターに来て、何気なく逆さまのワイングラスを持ち上げる。小夜は、あっ、と言って空中に目を馳せる。飛んで行くなにかを目で追っている。この人は、この世にあんまり存在してない。僕はそう思う。

20    

二杯目を飲み終わって、航が席を立つ。

「こんな所にいると、いくら金があっても足りない。」

僕達はエレベーターホールから見える、ノスタルジックな夜景を眺める。航が僕の腕を突っつく。

「どう? あれが小夜。」

「うん。」

僕は胸の中で繰り返す。あれが小夜。

「惚れるなよ。ややっこしい男だから。」

エレベーターが来て、人が降りて、でも僕達はそれには乗らないで、ドアが閉まる。航は、両腕を大きく広げる。夜景を抱くようにして。

「景色はタダだからな!」

遥か下にプールが見える。余りの高さに眩暈がする。プールサイドの緑色のライト。僕はプリンセスと、惚れてはいけない男のことを想う。

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