後編
「――だけど、日本人は『I love you』をそんなストレートに直訳で言わないものだから」
「月が綺麗ですね……と」
「教え子にそう訳せと教えた、ってな風に知られてるわね。まあ、彼の人格を評する後世の創作だともされてて、都市伝説的なものの域を出ないんだけど」
「へえ……でも、ロマンチック? ではないですか」
「その話自体はね。でも、それがまともに通じるようなことになれば、それはそれで無粋じゃない?」
わたしが、「月が綺麗ですね」という言葉にまつわる夏目漱石の逸話を知ったのは、つい最近のことです。
数少ない友人との他愛ない話の中で、ふと出た話題がやけに心に引っかかって。それがまさか、かつて自分に向けられたものと同質ではないかと気付くまでに、時間は然程もかかりませんでした。
しかし。今更掘り返して現在に期待を寄せるには、それはあまりにも頼りなく。
当時にはそういう気持ちがあったとしても、今はそれと同じかその延長線上にあるとは限らないこと。そもそも、あなたがそういう意味を込めておらず、ただ月の美しさに言及しただけである可能性があること。
願望よりは確信に近い希望はありましたが、怖くて、とてもとても。訊き出せたものではありませんでした。
今日までは。
階段を昇り終え、屋上へと続く扉を開けてもらいます。少々年季が入っているのでしょうか、金属が軋む音が低く響いた後、生暖かい空気が吹きこんできました。
「では、私はここで待ってますので」
「ありがとうございます」
あなたは扉の鍵を開けてくれた傍らの看護師さんに感謝を告げ、わたしの手を引いて、前へと歩を進めて行きます。
不安は、あります。ないわけがありません。
「ちょっと段差あるから、気を付けて」
「はい」
緩い風の流れを肌に感じます。夏の夜にしては涼しいですが、寒くはなく、着のままで丁度良い気温。
遠くの風の唸り声と、わたしとあなたの足音以外に、耳朶を打つものは何一つありません。この病院の屋上は、今は、今だけは、広大で清涼な夜の草原と化します。
扉から十数歩のところで、あなたは立ち止まり、わたしの背後に回り込みます。
「じゃあ、外すね」
「お願いします」
わたしは、自分でも驚くほどに落ち着いていました。身体に無駄な力が入ることも、心拍数が上昇することもありません。
ぎこちない手つきで、あなたがわたしの頭部、目の部分を厚く覆っていた包帯をゆっくりと、一回りずつ丁寧に取り払ってゆきます。
「おかしなところはない? 痛みとか、違和感は」
「大丈夫です。問題ありません」
決意をしてからも、恐怖に駆られることは一度や二度ではありませんでした。
成功か、失敗か。成功したとしても、どのような回復を見せるのかはわかりません、望まない形での結実を受け入れられるかどうか。失敗に終わり、在るだけで支えとなっていた希望をも失ってしまうことになるかも知れない、そんな万一を覚悟できるかどうか。
現代医学も万能ではありません。上手くいかないことも、残念ながら稀にあるのが現実です。医師の方の誠実なその言葉の前に竦んでしまい、しばらく声を発せなくなってしまったときもありました。
どうしても震えが止まらず、眠れなくなる夜もありました。光の元に、あなたの側に歩み寄ろうとしているのに途中でつまずき、永遠に暗闇に取り残されてしまう悪夢にうなされることもありました。
「……はい。これで全部です」
それでも、ここまで来ることができたのは。
「あなたの、おかげです」
「え?」
光、という概念は既に知っています。網膜が完全に駄目になっているわけではありませんでしたので、陽の元に出たときに瞼越しに感じられるそれが光なのだと、理解はしていました。
しかし。手術を経て、その加減が劇的に変化しています。
言葉通り、目に見える違いを早くも目の当たりにし、涙が込み上げてきました。
「ありがとう、ございます」
目を閉じたまま、わたしは振り返って。
「あなたが居てくれたから。あなたがずっと、側に、いてくれたから。わた、しは」
「……うん」
上手く言葉を紡ぐことができないわたしに、あなたはどこまでも優しい声で返してくれます。
もう、何もわたしを縛るものはありません。
恐る恐る、瞼を開けようとして。
「――っ」
いきなり飛び込んできた、あまりの刺激の強さに。また目を閉じ、俯いてしまいます。こんなにも、早くあなたを見たいのに。ままならないことに、焦燥が募ってゆく。
わたしを気遣う温かい手が、わたしの肩を柔らかく包んで。その温度は、いつかの、土手の上を歩いた時の記憶を呼び起こしました。
月についての、取り留めもない話。あなたが勇気を出して言ってくれたことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る大切な記憶。それを想えば、何も怖いことは無い、はず。
大丈夫。大丈夫。焦らなくても。と自分に言い聞かせ、もう一度、あなたに向かい合います。
「ゆっくり、ゆっくりでいいんだ」
ものが見えるようになっても、厳しい現実は新しい壁をわたしに突き付けてくるでしょう。
まだ一度も、眼を使ってものを見る、という経験をしたことがなく、眼の意義を、視覚の必要性を感じたことが無いというわたしのような人は、『見る』という行動を知り得ていません。
視力は確かに出ているのに、見るということがわからず、手術前と同じような生活状態に戻ってしまう人も、決して少なくないということも聞きました。生まれたときから成長する過程で自然に理解していく色や形、遠近感、奥行きなどを学習でしっかり身に付けなければなりません。
世界が丸々、変化してしまうのです。簡単に済ませることが不可能であることは承知しています。
わたしには、手術を受けずに一生を終えるという選択肢もありました。
でも。
少しずつ。目を開きます。
目を光に慣れさせながら、じれったくなるほどゆっくり。
祈りを込めるように。
涙を流しながら。
「――ああ」
ようやく。
「あなたが。見える」
初めて。あなたを、『見る』ことが、出来ました。
まだ、しっかりとは見えませんが。あなたが微笑んでいることは、わかります。
全身がえも言われぬ感覚で満たされ、感動に打ち震えて止みません。勝手に涙が零れては顎から滴り落ち、口角が独りでに上がってしまいます。
ふるふると力の制御ができていない腕をあげ、強張った指で、手を。あなたの頬に添えて。あなたの涙に触れて。
この喜びを、深く、強く、噛み締めます。
何も見えない暗闇の中で、ずっとわたしの手を引いてくれていたあなた。
わたしの導となって。わたしと一緒に歩いて来てくれたあなた。
自分のことのように嗚咽を漏らしているあなた。が。
愛おしくて堪りません。
感情が溢れ出して、止まるところを知らずに脳天から足の指先まで暴れまわります。
こんなの。
ありがとうじゃ、伝えきれない。
ひとしきり泣き合って、あなたに触っていることを確かめて。見えるということを必死に頭の中で分析して。
再び、笑顔で見つめ合います。
「よかった、っ、本当に。良かった」
まだ目尻を擦っているあなたを見て。これからに想いを馳せます。
これからは。
同じ景色を見て。同じ思い出を作って。同じことを想って。
同じ道を、歩いて行くのでしょう。
でも、その前に。
予め、眼が治ったらすると心に決めていたことがあります。
そう。今は夏。
陰暦、八月十五日。中秋の満月、十五夜。
一年のうちで、最も美しく。それが見える日。
わたしは夜空に燦然と輝くそれを見て、何故あなたが、人々が、崇拝の念を寄せているのか、理解することができました。
それは、愛を包み隠し、相手に届ける言葉。
それは、あまりにも直接的な愛の告白。
「月が、綺麗ですね」
月は綺麗ですか? 菱河一色 @calsium1
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