月は綺麗ですか?

菱河一色

前編




 四、五年も前のこと、でしょうか。

 その日のことを、わたしは思い返すことがあります。






「月が綺麗、ですか」


 わたしがそう訊くと、あなたは少し息を呑んで固まり、すぐに慌てて口を開きました。


「あ、っと、すみません。つい」


 声色から感じられるのは、焦りと後悔。数えきれないほど向けられてきたその感情は、もう敏感に察することが出来てしまいます。そこまで気を遣わなくとも良いと思うのですが、わたしのこの裁量は、他の人からすれば理解が難しいのでしょう。

 それは、仕方の無いことではあります。でも。それでも、少し寂しく感じることがあるのも、事実です。


「大丈夫ですよ。そんなに気にしていただかなくても」


 だから。わたしの方から伝えなくてはなりません。これは半ば、我儘に付き合ってもらわなければならないこちら側の義務、でもあります。


「そ、うなんですか」

「はい。配慮されすぎると、逆に傷付いてしまうかもしれません」


 上手くできているかはわかりませんが、口角を上げ、にこやかな表情を作り、そう応えます。なるべくおどけてみせるように、過剰に重く捉えられないように。あなたには、誤解されたくありませんから。


 ちょっとだけ。わたしの右手を包む手に、力が入ったように感じました。


「難しい、ですね」


 苦笑交じりのその声は、困っているようにも、嬉しそうにも聴こえます。今は、それだけで十分。


 風が。


 冷たくも爽やかな気持ちの良い夜風が、わたしの頬を撫で、髪をふわりと持ち上げては後ろへ流れてゆきます。


「丁寧に、扱ってくださいね?」


 帰路の途中、河川敷、土手の上。一人ではまず通ることはないでしょうこの道を歩くのは不安で。暦の上では既に春になっていてもまだ夜は肌寒く、外気に晒された肌は凍えているけれど。


 ぎゅっ、と。

 先程のたどたどしい決心に応えるように。わたしの右手を、一回りも二回りも大きいあなたの左手に絡ませなおします。


「……はい」


 元は一つであったことを錯覚させるほどに密着した手から、じんわりと温もりが伝っていって。全身を隈なく覆い尽くして。顔が火照って。

 この温度が、わたしと同等であって、それでいて全く以って異なる熱を持った人が、こうしてわたしの手を引いて、わたしの隣を歩いてくれているから。怖い、とは微塵も感じないのでしょう。


 こんなにも、幸せなのでしょう。


「ところで、月には兎がいるとのことですが、それは本当ですか?」

「えっ、その話続けるんですか」

「勿論です。あなたに綺麗と言わしめた月に、わたしも興味が湧いてきました」


 また、あなたは言葉に詰まります。でも、今度のそれは焦燥ではなく、思案に定められた沈黙。


 そういえば、月に心を留めたことはありませんでした。丁度良い機会です。あなたの言葉を待ち、風の音や虫の鳴き声に耳を澄ませます。


「自分の為にその身を捧げたという兎の姿を後世に伝える為に、帝釈天が月に残した、という話がありますね」

「成る程。じゃあ実際に兎の模様があると」

「うーん、それは……どうでしょう。そう見えると思って観れば、わからなくもない、くらい、かなあ」

「そうなんですか……。残念です」


 インドのジャータカ神話、帝釈天と兎の話から始まり、中国の兎が作るという不老不死の薬の話、それに関連して、日本では望月から餅つきに及んだという話、世界の地域ごとに模様を異なった形に見ていて、玉兎だけではなく蟾蜍せんじょ嫦娥じょうが、犬に蟹、ライオン、女性の横顔など、実に様々な例があるという話。


 中には少し齧ったことがあるものもあり、話の流れ自体は楽しかった、けれど。

 知識として、月がどのようなものであるかは聞き及んでいますが、やはりこの目で捉えることが叶わないわたしでは、どうしても実感が湧きません。そも、兎の姿を正確に知ってもいないのですから、月に描かれている兎、など。空想の域にも到達しない幻想に過ぎないのです。

 その当然を、これまでずっと。疑問を、感情を押し殺して享受してきたはずなのに。

 なのに。今は。


 もどかしくて、苦しくて堪らなくて。


「ロマンチックな話ができなくて、すみません」

「あっ、いえ、その。わたしも、意地が悪かったと、思います。ごめんなさい」


 それなりに経ってから、我ながら舞い上がってしまっていたということに気付き、恥ずかしい感情に襲われます。

 浅ましくも、嫉妬などを抱いてしまったことが。嬉しくも、悲しくも。


 駄目です。面倒くさい女であっては駄目なのです。きっと、こんなわたしを好いてくれるような奇特な人は、そうはいないでしょうから。


 風が木々を揺らす音、二足の靴がアスファルトを踏みしめる音。互いの息遣いすら聞こえてきてしまいそうな微かな騒音は、どうしようもなくわたしの不安を煽って止みません。

 自分が今どのあたりを歩いているのかさえ、わからない暗闇。ああ、わたし一人では、もうこの道は歩けないというのに。


「何故、月は昔から、人々に親しまれ、時に崇められ、特別な存在として描かれてきたのか。考えたことがあります」


「――え?」


 三度。憂いの静寂を打ち破ったのは、あなたの声でした。

 歩幅が縮こまってしまったわたしを、あなたの左手が、優しく引っ張ります。


「昔であればあるほど、月は神秘性を持つように語られていたと感じます。平安時代等であれば、天文学も無く、天体という概念も無かった」

「そう、ですね。月を詠んだ歌も多くあります」

「はい。歌人はこぞって月を詠いました。美しいものだと。では何故。月は、そこまで人々の心を掴むに至ったのでしょうか」


 これまでとは違い、あなたの言葉には、確かに力が籠っていることがわかります。でも、どうして。

 唐突に、あなたの歩が止まりました。つられてわたしも足を止め、戸惑います。きっとまだ、目的地には着いていないはずですが。


「月は、『しるべ』であったのではないか、と思うんです」


「導、ですか」

「ええ。電気などなく、火もそれほど自由に扱えなかった頃。夜はそれこそ、現代なんかよりもずっと闇は深く、真っ暗であったでしょう。だから、魑魅魍魎という恐怖が人に巣食っていた」


 見通すことが出来ない闇は、それそのものが畏怖の対象、幻妖として考えられていた、と。


「その闇を打ち払い、人々に安寧を齎す存在として月が在ったのだと、俺は考えました。夜にて導くもの。安堵を与えるもの。巡りと満ち欠けを以って暦と成るもの。総じて、人の導となっていたのでは、と」


 だから、人は月に畏敬の念を抱いたのだろう、と。あなたは語ります。


「それで、ですね。その、ええと。上手く言えませんけど、失礼かもしれませんけど。暗闇に囚われている昔の人と、重ねて考えてしまって」


 少し、向かい合うような形で身体をずらしながら。でも、手は離さず繋いだままで。


「当然、貴女あなたが一人で歩けないほど弱いとも、怖がりだとも思ってはいません。貴女のこれまでを否定するつもりも一切無い」


 なんとなく。あなたが言いたいであろうこと、言おうとしていることを察してしまいます。大丈夫、不快ではありません、失礼でもありません。

 あなたは左手を、指を絡ませているわたしの右手ごと、僅かに持ち上げます。


「それでも、今日のように。こんな風に、貴女の導となって、一緒に歩いて行けたらな、と……、不遜にも、思い、まして……」


 次第に小さくなってゆくあなたの言葉に、抗いようがなく頬が緩みます。寒くもないのに身体は震え、ぞわぞわとした感覚が全身を駆け回ります。

 一際大きい風がわたしたちをまとめて包み、柔らかく巻き上げ、吹き去って行きました。髪が乱れてしまうことはわかっていましたが、そんなことにはもう、意識は向いていませんでした。


「ぁー、え、っと。何言ってるんだろ俺、すみません忘れてください……」


「忘れ、ません」

「えっ」

「忘れませんよ。もう覚えました。脳裏に焼き付けました」


 上手くできているかどうかはまったくわかりません。でも、自分に出来る限りの笑顔で。あなたに。


 ありがとう、と。


 悶える心がむず痒い。身体をかき抱きたくなるほどの何とも言えない気持ち良さを伴ったこれを、あなたも味わっているのでしょうか。


「――っ、もう、行きましょう。すぐそこですよ」

「はい。お願いします」


 再び、わたしたちは夜の河川敷を歩き始めます。

 どうせ顔なんて見えもしないのに、あなたは先程より半歩前に出て歩きます。でも、わたしも今はあまり見られたくはないので、一応、奇しくも利害は一致していました。


 ただ、それでも。


 いえ、だからこそ、なのかも知れません。


「……できるじゃないですか」

「本当に、偶然なんで。やめてください、ハードルが」











 思えば。この時からでした。

 わたしも、あなたと同じ景色を、あなたが感じている世界を、と考えるようになったのは。



 月を、見てみたいと思うようになったのは。












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