第4話


 あの人、父は学者である以前にプラントハンターであり園芸家だった。

 植物を育て、慈しむのが好きだった。おそらくは人と関わる以上に。仕事として、世界中を巡って希少な種を集めていたけれど、注ぐ愛情そのものはどんな草花に対しても平等だっただろう。

 だから引退後に花屋を開いたと知って、私は複雑だった。あれほど、鑑賞だけのために植物の命を絶つべきではない、と非難していたというのに。

 あの人は、何かに挫折したのだろうと、暗い喜びを感じなかったといったら嘘になる。

 けれど、今は判らない。

 父は、本当に失意の果てに、三玲と出会い、この店を始めたのだろうか。

 それとも、全て私が早合点していただけなのだろうか。あの人は、何一つ失っておらず……むしろ新たに見いだした何かを、三玲に託そうとしていたのだろうか。


 私が生まれなければ、父はもっと早くに母と離婚し、好きな研究に邁進できていた。

 おそらく、母とは連絡をとっていながら、私には一言の断りもなく再婚し、遺産は赤字の生花店と古びた松の盆栽が一つきり。

 年に数度、絵はがきを送る程度の愛情が存在していたのは確実だけれど。

 あの人の人生において、私は、やっぱりいらない子供だったのだろうか。



 七月。庄内でも夏はやはり夏だった。

「すっかり暑くなりましたねぇ」

 店では、そんな挨拶が定着した。もっとも、私には過ごしやすい夏だった。毎日、気持ちよく汗をかき、体調はすこぶる好調だ。酒田でも日中の日差しは確かに厳しいが、朝晩は東京より爽やかで涼しい。加えて、店内は一日中切り花のために冷房が効き、ともすれば寒いほどだった。キーパーを非難していた三玲だったが、さすがに真夏にエアコンを止めようとはしなかった。

 もっとも、広告代理店勤務の頃はタクシーで午前様が基本で、始発帰宅も珍しくない日々を送っていた。

 それが今では、晴耕雨読とは言えずとも、すっかり健康的なライフスタイルになっている。庄内の夏を心地よく感じる調子の良さは、そんな生活の変化も大きいだろう。

 花屋の夏、といえばまずお盆が連想されるが、庄内は旧盆が主だそうで、七月のお盆はあまり関係がなかった。一日ついたち盆などもない。

 七月後半になると、夏休みに入った脇田君が、本格的にアルバイトに来てくれるようになった。もっとも、基本的に無給のかわりに、手の空いた時間は遠慮無く受験勉強をしている。そしてウチは暇ばかりだ。どうやら店に来るのは両親に隠れて受験勉強をするためでもあるらしい。

「今のうちに、少し休んでおいてください」

 三玲からは、そう告げられた。庄内では旧盆に注文が集中するから、八月になると母の日並に忙しくなるらしい。

 本人は脇田君に店番をまかせて、海岸や最上川の河川敷で雑草や流木を集めては、日頃以上にアバンギャルドな作品作りに精を出していた。それが三玲にとってのリフレッシュらしい。もっとも、本人は至って真面目で、東京ではこれも売れるんです、と強弁していたが、霞ちゃんからはただの雑草の塊でしょ、とつっこまれていた。

 そんな七月後半のある日、

 私はある覚悟を心に秘めて、店を休んだ。



 久しぶりに袖を通すワンピースは、腰回りが窮屈で肝を冷やした。肉体労働なのでつい、オーバーカロリーな食生活になりがちだ。今後気をつけよう、と心に誓う。

 訪問先は、鶴岡の駅前から若干離れていた。朝夕以外、バスはないから苦渋の選択でタクシーに乗る。会社のチケットを使いまくっていた昔が懐かしかった。

 寂れた住宅街の中の、小さな、古びた一軒家だった。

 手鏡で化粧と身なりを素早くチェックした後、呼び鈴を押す。

 事情を知った後、この家を探し当てるのは、さほど難しくはなかった。来訪が今日まで伸びていたのは、別の理由からだ。

「こんにちは。先日、お電話でご挨拶させていただきました芹沢瞳子と申します」

 つながったインターホンに向かって語りかけると、即座にプツッと切られた。思わぬ反応に心臓が跳ねる。

 だがすぐに、パタパタと足音がどこからともなく聞こえてくると、目の前の玄関が音をたてて開いた。

「いらっしゃい、瞳子さん。お待ちしていたわ」

 現れたのは、母より一世代くらい若そうな女性だった。小柄でややふっくらとしていて、美人だが化粧の薄いその姿はいかにも田舎の主婦、といった風情だ。

 もっとも、落ちついた配色の服装はあか抜けていて、身なりも整っていた。

「訪ねてきてくれてありがとう。ぜひ、上がっていらして」

「はい。失礼させていただきます」

 そう予告して来たのだ。いまさら遠慮してもはじまらない。私は持参した土産を手渡すと、素直にハイヒールを脱いだ。



「ありがとうございました」

 質素で素朴な、だが美しい生花で飾られた仏壇には、位牌と、私の知らない父の写真が一枚飾ってあった。

 線香をあげ、黙祷を捧げたあと、父の後妻である婦人へと向き直り、畳に手をつき深々と頭を下げる。

「突然の、しかも不躾なお願いを聞き入れていただき、感謝の言葉もありません」

「こちらこそ。瞳子さんにお越しいただけて、とても嬉しかったわ」

 私が謝意を告げると、婦人は親しげに声をかけてくる。

「だけど、こうして改めてお顔を拝見すると、目元が深尾先生にそっくりね」

 出された湯飲みを前に、私は返答に詰まって狼狽えた。

「さあさあ。粗茶で申し訳ないけど召し上がっていらして。だだちゃ豆はもうお食べになった?」

 こんな予定ではなかった。仏壇に手を合わせたら、早々に辞去するつもりだった。

 前妻との娘、なんて歓迎されるはずがないと思っていたし。

 だが、こうしてお茶を供されて、まったく手もつけずに去るのは無礼すぎる。

「旬はもう少し後だけど、今でもとっても美味しいわよ、お土産に持って帰ってね。晩酌のつまみにぴったりだから。それに、ぜひ奥様にも食べていただきたいもの」

「いえあの、そこまでお気遣いいただかなくとも。押しかけたのはこちらですし」

「せっかくの機会だから、念のためにお話ししておくけど」

 私が、想定外の歓待ぶりに困惑していると、婦人は笑っていった。

わたくしは、深尾先生の助手、というかアシスタントだったの。そして、決してそれ以上でもそれ以下でもないのよ」

 えっ?

 にっこりと告げられたその言葉の意味を咀嚼するには、幾許かの間が必要だった。

「あの、それってどういう」

「先程の様子から察するに、どうやらご存じないようだから。瞳子さんは大人でいらっしゃるからはっきり言わせていただくけれど、つまり男女の仲ではなかったの、わたくしと深尾先生とは。この家で一緒に暮らしていたし、研究者としては大変尊敬していましたけど、あくまで、それだけの関係だったから」

 男女の仲ではなかった……か。

 そう、だったんだ。

 きっぱりと断言されたその意味を理解した途端、私はそれまで自分の内側にあった――自分では無いと信じていた――モヤモヤとした感情の一つが、すっきりと晴れていくのを感じた。

「なのに、戸籍上ではわたくしが妻で、僭越ながら喪主も務めさせていただいて。さぞ不愉快でいらしたでしょ。奥様にはすぐに上京してお詫び申し上げたけど、お嬢様はご不在だったから。……本当に、ごめんなさいね」

「いえ、そんなことは……父は、私には最後までなにも言いませんでしたから」

 深々と頭を下げ、畳に両手をつく婦人に、私は慌てて首を振った。

「だから、まったく知らなくて……長年、共に過ごされた方が喪主を勤めるのは自然だと思いますし」

 そうか……あの人は、そうだったんだ。

「でも、あの、でしたら失礼ですけど、どうして、あの父と」

「深尾先生は、私たち母子を助けてくださったの」

 とっさに問いかえしてしまった私に、婦人は顔をあげ、かすかに潤んだ瞳で、事情を説明してくださった。

「私は先生が鶴岡にいらしてからずっと、助手として研究室でお手伝いしてたんだけど。……昔、別れた夫が、失業してから随分と人が変わってしまって」

 婦人の説明は簡潔で判りやすかった。

「ある日、人づてに復縁したいと伝えてきたの。でもそれは、娘を使ってタチのよくない商売をネットで始めるためのようで……何度か断っていたら次第にストーカー然としてきて、仕事にも支障が出始めた頃、先生が提案してくださったの」

 つまり、父の結婚は、過去の男から部下を守るための偽装結婚だったらしい。

「君に大学を辞められると、自分の仕事が滞るから、って。……口実でしょうけど」

「身勝手な父ですみません」

「とんでもない。……でも、男の人の名目だけの結婚、なんて普通は信じられないわよね。同じ屋根の下で一緒に暮らすなら尚更。だから最初は私も、心身ともにその覚悟でいたのよ。まさか、本当に指一本触れられないとは想像だにしていなかったわ」

 あの頃、自分ではまだ若いつもりでいたけど、実際はおばちゃんだったからかしら。そうに呟きながら、婦人は、昔を思いだすような遠い目をして微笑んだ。

「先生は、私たち母子を救ってくださった。それに先生が居らしたから、銀行で住宅ローンも組めたの」

 私はその一言で、なぜあんな不可解な遺産相続になったのかをようやく理解した。

 おそらくこの家は、この人が働いて自分で買ったものなのだ。ならばこの人が相続するのは当然だ。

 そして、本当にそれしか受けとらなかった、この婦人の人柄もよくわかった。

「だから本来、このご位牌はすぐにでも貴女に持ち帰っていただくべきなんだけど……娘がね」

 そう口にしてから、初めて、困ったように婦人の表情が硬くなった。

「ご説明さしあげたように、深尾先生とは、最後まで一線を引いた関係だったわ。けれど、娘とは違ったの。先生は、実の父同然に、あの子の面倒をみてくださった」

 そう口にしてから、慌てて付け加える。

「先生はもしかしたら……いえ、まず間違いなく、あなたの面影をウチの娘に重ねていらしたのでしょうけど。まだ幼かったあの子には、先生の事情なんて理解できないから、本当の親以上に懐いて」

「お気になさらないでください」

 私は苦笑した。見知らぬ少女に嫉妬するほど、父を求めてはいないつもりだ。

「でも、あの人の存在が誰かのお役に立てていたならよかったです」

「小学校高学年から高校入学までの、多感な時期に父親役を務めてくださって、深尾先生には本当に頭が上がらないわ。……だから申し訳ないけれど、もうあと少し、あの子が親離れできるまで、このご位牌を貸しておいていただきたいの」

「いえ、私はもう深尾を名乗っていませんし、父は出ていった存在ですので、このままで……こちらに、庄内にあった方が、あの人も本望でしょうし」

「それはよくないわ。先生は、いずれ瞳子さんの元に帰りたいと願っておられたもの」

 それから少しの間、互いに位牌を押しつけ合ったが、結局、結論は持ち越しとなった。

 言葉を交わしながら、ふと思う。

 もしかして、父が再婚した、とあのおじさんが最後まで教えてくれなかったのは、事情を全て承知していたからなのかな。

 真相は不明だけど、そう信じたい。おじさんは私を裏切ってなどいなかった、と。

 けれど一方で、父がこの人と男女の関係ではなかった、と知って心のモヤモヤが晴れた気がするなんて、かなり複雑な心境だ。それはつまり、私も大概親離れできていなかった、という意味だから。

 それから、話が一段落ついたのを見計らって、私は慎重に訊ねた。

「あの、一つお伺いしたい事があるんですけど、よろしいですか?」

「ええ。なにかしら」

「あの人が、父が何故、大学を辞めて花屋を始めたのかはご存じですか?」

 その質問に、婦人は微かに目を見開いた。

「一緒に暮らしていた頃、父は切り花を嫌っていました。幼い頃、よくぼやきを聞かされたものです。食べるわけでもない、見て楽しむだけならなにも切らずに、鉢ごと飾ればいいじゃないか、野山に咲いている姿を眺めればいいじゃないか、って。その父が、よりによって何故花屋なのか不思議なんです」

 そう説明してから、一言、付け加えた。

「もしかして、父が考えを改めるような出来事とか……何かに悩んでいたんでしょうか」

「……あのお店のことね」

 そうとだけ呟くと、婦人は湯飲みを手に、しばらく黙りこんだ。

 その表情だけで、父の決断はこの人にとっても驚きだったのだと、よく判った。

 長い沈黙の後、婦人はおもむろに口を開いた。

「とても難しい質問だわ。まったく判らないの。あの方が何故、突然花屋に……私こそ知りたいくらい」

「そうですか」

「私に答えられるのは、悩みや挫折が契機ではない、という事くらいかしら。先生は退官される年まで、精力的に活動していらしたわ。研究は後進に譲り、体力的な理由で対象は国内に限っていたけど、それでも採集家としては最後まで現役を通された。残念ながら、目立った成果には恵まれずじまいだったけど」

「国内で収集家、ですか?」

 私は訝しげに問いかえした。

「ええ。この国にも、種の同定が完全でない植物はまだ多く存在するのよ。それに、新種を発見するだけが収集家の仕事ではないし。原種の遺伝情報は大切な共有財産なの」

 それから、婦人は父の研究と仕事について、簡単に私へ説明してくれた。

「他に、園芸愛好家への指導も熱心でいらした。だから、切り花をお好きでなかったのは、私も知っているわ。なのに大学を辞めてまで……確かに不思議よね。もう数年で定年だし、退職金も違ってきますから、って何度もお止めしたんだけど」

「じゃあ、きっかけらしいきっかけはないんですね?」

「退官前の何年間かは、収集が、先生の思い通りに進まず悩まれていたみたい。でも、それが理由とは思えないもの。なにより、花屋を開くと決めてからの先生は、とても楽しそうで、子供のようにオープンの日を待ち望んでいらしたわ。だから決して後ろ向きの理由のはずは……」

 そう口にしてから、ふとなにかに思い当たったかのように、婦人は言葉を止めた。

「……あの?」

「もしかしたら、先生はお身体についてご承知だったのかしら、と想像したことはあるわ」

 少し、声を潜めて告げられた婦人の言葉を聞いて、私はああ、と思った。

「検査で病気が見つかったのは、退官された後だけど、それ以前から先生には思い当たるフシがおありだったのかも」

「だとしたら、急に大学を辞めた理由は確かに説明がつきますね」

 私は頷いた。

 もっとも、なぜ生花店なのか、は謎として残るけれど。そもそも、余命幾ばくもない、と承知で新たな店を始めるだろうか。

 とはいえ、知っている限りは話してもらった。私は、深々と頭を下げて、礼を告げた。

「ありがとうございました。色々と、参考になりました」

「いえ、力になれなくてゴメンなさいね」

 そして、私は立ちあがった。そろそろ潮時だった。

 そのまま辞去しようとしたが、婦人からは熱心に昼食に誘われた。娘ももうすぐ戻ってくる筈だから、とも懇願される。久しぶりの家庭料理には心動かされたが、図々しいにも程があるので断った。決して、お嬢さんと顔をあわせるのが苦痛だったわけでない。

 玄関で靴を履いていると、ふと問われた。

「そういえば、あのお店の後始末はもうお済みになったの? 芦立くんは素直に実家に戻られたのかしら」

 ああ、そうか。知らないのか。

 鶴岡と酒田。庄内を代表するこの二つの街は互いに対抗心が強いらしい。規模も同じくらいだし、特に用事がなければ、わざわざ酒田になど来ないのだろう。

 一瞬、言葉を濁してごまかそうかとも思ったが、正直に告げる。

「酒田の生花店は、私が継ぎました」

「……えっ?」

「だから、このだだちゃ豆は母の元へは届けられないので……すみません」

 呆気にとられている婦人に、手渡されただだちゃ豆を強引に押しつける。

 それから、私は呼び止める声を振り切り、逃げるように婦人の家を立ち去った。



「車ではなく電車と伺っていたので、もっと小品を想像していました」

 父の再婚相手を訪ねてから、一週間後。

 私は再び休みをとり、今度は埼玉にいた。

「このサイズの鉢を、新幹線で運んでいらしたのはお客様が初めてです」

「すみません」

 私は赤面して頭を下げた。自分でも、ちょっと強引だったかな、との自覚はあった。

 父の遺した盆栽は、松としては小ぶりだが、盆栽としてはそれなりに大きい。人の手で持ち運べる、ギリギリのサイズだった。今思えば、これを手に酒田へと旅ができたのは、やはり父の死に動揺していたからだろう。

「それが深尾先生の松ですか」

 父の遺した松。その本当の価値を見極めるのは容易ではなかった。

 誰もが親しむ絵画であっても、その真贋を判断できるのはごく一握りに限られているように、盆栽もまた、その評価は専門家でなければ不可能だった。

 庄内では適当な相手に巡り会えず、ネットで業者に相談しても、まともに相手をしてもらえなかった。商品としては、盆栽は着物や工芸品と同様の代物らしい。

 途方に暮れた私を救ってくれたのは、皮肉にも、園芸家としての父の名前だった。

 とある著名な盆栽家にメールで問い合わせをした際、その由来に関して父の名前も記した。そうしたら、価値の鑑定はともかく、父の遺した盆栽なら一度拝見したい、と返答があったのだ。

 熊谷で新幹線を降り、駅前のロータリーでその盆栽家と落ち合う。

「拝見します」

 駐車場に止めたハイエースの荷台で、梱包を開く。中から出てきた松を一目見て、その盆栽家はほぅ、と声をあげた。

「これはまた、実物はなおさら迫力がありますね。さすがは深尾先生だ」

「お訊ねしていませんでしたが、どうして父をご存じなんですか?」

「直接お会いしたのは数度ですがね。あの方は、植物学者さんの中でもとりわけ興味が広くていらして……大概の先生は、盆栽などただの人工的な奇形だと、まったく関心を抱かれないのですが、あの方は違いました」

 大規模な園芸展で知り合い、国内では珍しい植物を譲っていただいたうえに、幾つか助言も頂戴しましたと、盆栽家は懐かしそうに笑った。

 それから幾分態度を改め、真剣な眼差しでじっくりと松を検分する。

「すでにご承知かもしれませんが、これは一般的な黒松や赤松ではありませんね」

「ええ。おそらく這い松だと思います」

「そのとおりです。さすが深尾先生が丹精こめられていただけあって、見事な、風格のある幹です。中心部はすでに空洞化していて、先端とはかろうじて樹皮で繋がっている感じですね。樹齢はどれくらいかな……ちょっと想像がつきません。葉は温暖な場所に移してしまったせいか、少ししまりがない」

 盆栽家はそうして、松の特徴を次々と指摘していった。専門家だけあって、その内容は詳細に及んでいた。

「……私が気づく点は以上でしょうか。全体として、大変立派で美しい這い松だと思います。深尾先生が遺されただけはあります」

「はい。ありがとうございました」

「ただ、これは断っておかなければなりませんが」

 一通り、松について語ったあと、園芸家は言いづらそうに少し声のトーンを落とした。

「どれほど風格のある見事な松であっても、盆栽としての評価はまったく別になります。……残念ながら、この松には盆栽としての価値はほとんど存在しません」

「やはり、ですか」

 私は落胆することもなく、そう答えた。

「ご承知だったんですか?」

「これまで、写真を送った専門家からは常に同じ返答でした。盆栽としてはあまり見るべきところがない、と」

「ええ。実は私も写真を拝見した時点で、それは予想がついていました」

 盆栽家は、明らかに私の反応にホッとした風情だった。

「よく、盆栽は自然のミニチュアと言われます。しかし、その本質は究極の人工美です。芽吹いた瞬間から数十年、時には数百年に渡って、枝振りから葉の一枚まで人の手によって管理されているのです。究極の、理想のフォルムを目指して」

 その説明は明快だった。

「対して、深尾先生の松の素晴らしさは、全くの真逆です。これは、おそらく先生が自然の中で出会った這い松を、一切手を加えず鉢に移された。つまり、盆栽的な評価では山から抜いてきた単なる松にすぎません。無論、数万では売れるでしょうが、それだけです。極論すれば、これは盆栽ではありません」

「丁寧なご説明、ありがとうございました」

 私は深々と頭を下げた。これで、ようやく春先からの疑問が一つ解けた。あの父が遺したのが単なる盆栽ではなかった、というのも腑に落ちる話だった。

 鑑定を終えた盆栽家に、ささやかな謝礼を渡そうとすると、彼は固辞した。たいした手間ではないし、なにより生前先生には大層お世話になりましたから、と首を横に振る。

「今後も、盆栽や植木でお困りのことがあったら、遠慮無く声をかけてください」

「恐縮です。でも……父は、そんなにアレな植物を?」

「もちろん、法に触れるような樹木は一切、お譲りいただいていません。でも、世の中には一般的なルートでは入手困難な植物が沢山ありますから」

 訝しげな私の問いに、盆栽家の返答はどこか歯切れが悪かった。

 プラントハンターとしての父の一面を知りたい気持ちはあったが、空気を読み、それ以上の追求は控える。

 改めて、丁重に礼を告げるたあと、再び松を梱包して、一目散に新幹線に乗りこむ。

 今ならまだ、今日中に酒田まで戻れる時間だった。



 八月に入ると、店はにわかに慌ただしくなってきた。

 そして、実家の手伝いが、と脇田君の姿が見えなくなくなった。切り花の出荷が最盛期を迎えるらしい。事情は理解できるが、肝心な時に使えない奴、とちょっとだけ腹立たしい。

 いよいよお盆が迫ると、これまでにない量の切り花を、三玲は市場で仕入れはじめた。私はひたすら水揚げをした。乱暴なようだが、菊は折るのが一番だ。束ねたステムを両手でバキバキと勢いよく折ると良いストレス発散にはなったが、三日で腕の筋肉が悲鳴をあげた。

 私は作業の合間に、三玲に訊ねた。

「三玲って、具体的にはいつ、あの人と知りあったの?」

 父の再婚相手と会い、様々な事情を知って、私はようやく何かが吹っ切れていた。

「店を始める前だから、まだ大学教授の頃よね。もしかして、あの人の生徒だったとか? 絶対、きっかけがあったわよね?」

「すみません、自分は単なる高卒です。……どうしてそう思うんです?」

「だって、一見誰にでも愛想がいいけど、三玲って実は人見知りじゃない。時折、妙に口数が増えるのはそれを隠すためでしょ」

 それに三ヶ月も同じ店で働き続けていれば、三玲の本性だって見えてくる。

「あの人も、人間の相手は苦手なタイプだったし。特別なきっかけがなければ、二人一緒にお花屋さんを始めたりしないでしょ」

「確かに、昌伸先生も人づきあいは不器用な方でした」

 三玲は一つ息を吐くと、観念したように頷いた。

「自分が昌伸先生と初めて出会ったのは、街路樹の伐採現場でです」

「街路樹の伐採現場?」

「捨てられる枝と葉を、頂戴しに行ったんですよ。あの頃は、放浪生活を始めたばかりで、貯金の残額こそあれど花材を買う心の余裕が皆無でした。だけど、どうしても枝が生けたい。そんな時に偶然、街路樹の伐採現場に遭遇して、これだ、って思ったんです」

 三玲は苦笑いを浮かべた。

「いま振り返れば強引でしたけど。とにかく大きな作品が生けたかった。草はどこでも手に入るけれど、枝は機会が限られるんです」

 この人は、家を出てからどんな経緯を経て、なぜ庄内にたどり着いたんだろう、と私は不思議になった。思えば、父以上に三玲については何も知らない。歳も、出身地も。

「作業員に頼んで、切ったばかりの椿を抱えきれないほど譲ってもらいました。久しぶりの感触に、嬉しくて小躍りしたい気分の時に、昌伸先生から声をかけられたんです」

「えっ! あの人、街路樹を切る側だったの?」

 信じられず、私は問いただした。

「だってあれって、バサバサと無意味にただ切るだけでしょ? あの人が、よくそんな真似を黙って眺めて」

「しかしそれも、立派な植木屋の仕事です。皆がそう望んでいる以上、切らざるを得ないのです。当時、昌伸先生はある緑化事業会社の顧問を務めていらっしゃいました」

 三玲は菊を折る手を止めて、ふと、店の外を見た。

「先生は怖い顔で、自分に訊ねてきました。君はその切られた植物を、本当に生かせるのか、とね。はい、それが自分の仕事であり、目指すべき理想です。そう答えると、昌伸先生の表情が緩み、ほんの少し笑ってくださった。……それが、先生との出会いです」

「まったく……園芸家を名乗っていながら、仕事だ、って街路樹を切り倒していたら世話ないわよね」

「ええ。作品をお見せしようと、改めてお会いした際に詳しく話を聞きました。まったく瞳子さんの言うとおりで、だから当時、先生は苦悩していらした。先生は少しでも植物を救えたら、と顧問を引きうけたのだそうです。しかし、現実には樹木医としての出番など滅多に存在しない。よほどの事情がないかぎり、人は病んだ樹を癒そうとなどしませんから。むしろ育ち盛りの樹ほど、邪魔者として切られがちです」

 千年を越えて生きられる樹は少なくない。なのに、それらを人の都合で百年たらずで伐採するのは、十歳の子供を殺すのと同じ行為だ、とあの人は憤慨していたらしい。

 そして植木屋を名乗りながら、仕事の大半は立木の伐採という彼らの現実にも。

「本来、植物の守り手であるべき植木屋が、現実には行政の手先となって健康な樹を切って切って……公共事業の得意な土建屋と組んで、切っては植えてのマッチポンプで儲けているのが、我慢ならなかったそうです」

「まぁ、でも個人経営の植木職人ならともかく、企業となったら営利優先よね」

「樹木医としての立場さえ、都合良く使われそうになっていたそうです。役所の要望を汲んで、地元に伐採反対運動がある巨木に、この樹は寿命で早めに処分しないと危険です、とお墨付きを与えるのが、もっとも期待されていた役割だったとか。そんな暴挙、先生は絶対に認めなかったそうで、だからその後すぐにクビになりましたけど」

 話を聞いて、私は笑った。いかにもあの人らしいエピソードだった。

「けれど、華道家は望んで花を切る立場ですからね。だから最初に声をかけられた時、切って生きる、という道もあるんじゃないかと、自分は生意気にも先生に意見しました」

「あの人は、なんて答えたの?」

「自分の手足を切り落として、飾って楽しめるならやってみろ、と一蹴されました」

 あんまりな返答に、私はおもわず笑った。

「だけど、それじゃ結構立場が違ったのよね。なのにどうして、一緒に店を?」

「初めてお会いして、頂戴した枝で生けた作品をお見せして。それから、各地を放浪していた自分は、庄内に立ち寄る度に生けました。海岸や空き地に、道端の野草や街路樹の枝を使って。そして問いただしました。いくら先生でも、雑草の一本も処分せずに植物は育てられない。雑草を抜くのと、自分が生けるために切るのと、何が違うのかと。樹齢千年の巨木も、秋には枯れる一年草も、命に違いはありません。なにより、たとえそれが万年生きたとしても、野山にあって枯れるなら、寿命半ばで切られたとしても、自分に生けられて輝いたほうが幸せでしょう。植物は、切ってこそ生きるんです」

 後半、さりげなく三玲らしい暴言が含まれていたが、私はそれを無視した。そこに突っ込むと、話が進まなくなる。

「植物とのスタンスは対照的でしたけれど、不思議とお会いする度に話は尽きませんでした。喧嘩も随分しましたけど。……先生には、大切なことを教えていただいた。気づけば、すっかり庄内に居着いていました」

 三玲は再び、菊の束を手にすると、その根元を慣れた手つきでバキッと折った。

「庄内に来て、自分は変わりました。先生と出会わなかったら、今の自分はありません」

「一体、なにを教わったの?」

「命ある植物を生ける、という行為の本質を、ですかね」

 そう呟いてから、三玲は私へと振り向き、微笑んだ。客に対する時とはまた違う、ごく自然な微笑みだった。

「瞳子さんにもいずれ判りますよ。だって、昌伸先生のお嬢さんなんですから」

「また、とっても不愉快な理由ね」

「すみません。じゃあ前言は撤回して、その意味を先生に代わって自分が伝えられるよう努力します。これでいいですか?」

「……まだ、そういう精神論以前だとおもうんだけど、私の花は」

 拗ねたように答えたが、実のところ、悪い気はしていなかった。

 やっぱり、そうなんだ。

 ずっと、何もかもが正反対だと思っていたけど……それでも、三玲はあの人とウマがあったんだ。

 おそらくは、

 どちらも、同じくらい植物狂だ、ってのがその理由なんだろうけど。

 二人が知りあった経緯についての納得はいったが、しかし、私が知りたい肝心な部分についてはまだだった。

「でも、それでどうして、一緒に花屋を始めることになったの?」

 私は感傷を振りはらって訊ねた。

「その理由はまだ聞いてないんだけど。花バカ同士意気投合したからって、それだけで赤の他人が一緒に店を始めるって……ちょっと無理ない?」

「それは……どうしてこの店を始めることにしたのか、は」

 三玲はそう口にしてから、一端言葉を切った。

「深い動機は自分も、よく知らなくて」

「ん? どういう意味?」

「知りあって一年以上経った、夏のある日。海岸で沈む夕日を眺めながら一緒にビールを飲んでいた時、突然、昌伸先生から誘われたんです。今度、生花店を始めたいのだけれど、切り花について自分は素人だ。だから手伝ってくれないか、と。実質は店長として店を切り盛りして欲しい、という依頼でした」

「それじゃ、あの人がそう望んだきっかけは」

「自分は存じ上げません。それまでも、私的な事柄についてはお互いほとんど口にしませんでしたし」

 それじゃ、父が始めた店なんだ、ここは。

 予想外のような、納得がいくような複雑な気分で、私は店内を見回した。

 花には詳しいけれど資金のない三玲が、スポンサーとして父を頼ったのではないか。私は密かにそう予想していた。

 だが、違ったらしい。

「それに、やっぱり埋まらない意見の溝もあって。親しくおつきあいさせて頂いていましたけど、先生とは、同時に植物をめぐってのライバルでもありました」

 三玲は言葉を噛みしめるように、一言ずつ、ゆっくりと語った。

「だから最初、とても驚きました。けれど条件として『店には自由に三玲の作品を飾っていい』と告げられて、自分は一も二もなく承諾しました。あまりにも嬉しくて、先生が何故花屋を始めるのかなんて、考えたこともありませんでした」

「そんな三玲のため、の可能性もあるわよね」

「否定はしません。自分がテント暮らしに厭いているのを察して、提案してくださったのかもしれません。でも……なんというか」

 私が見つめると、三玲は苦しそうに胸に手をあてた。

「根拠はありませんけど、少なくとも、自分を助けるためだけに、はないかと……理由の一端ではあるかもしれませんが」

 ぽつりぽつりと、言葉を慎重に選ぶ。

「お話ししたように、先生は園芸家としての立ち位置を悩まれていました。しかしプラントハンターとしてはまだまだ意気盛んでいらっしゃった。そうです、確か……いよいよ見つかりそうだ。この国の植物史をひっくり返すような奴が、とか……隠居して、自分とのんびりお店を、という雰囲気ではありませんでした」

 そこには、私の知らない父の人生があった。

「けれど一方で、定年前に大学を辞されたのは、順風満帆の学者生活でなかったからなのも確かでしょう。先生ともっとも意気投合したのは、植物が好きで、かつ真に望む人生とは違った道を歩まざるを得なかった点です。先生は、ただ好きな植物を育てて暮らすのが、人生の理想でした。植物学者になったのは、あくまで生活のためです」

「あり得るかもね。ちなみに、三玲の理想の人生は?」

「好きな植物を好きなように生けるだけで暮らしていけたら、最高でしょうね」

「だったら、儲からない花屋なんか始めないで、素直に家元を継げばよかったじゃない」

「レッスンプロは純粋にサービス業ですよ。先生、とおだてられてはいてもね」

 三玲は自嘲した。

「正直、教えるのは好きです。この店で、皆が花を楽しんでいる姿を眺めていると嬉しくなります。でも、それが商売となると、全然話は違ってくる」

 軽くぼやいてから、自分のことはいいじゃないですか、と苦笑いして、三玲はすぐに話をもとに戻した。

 その態度のぎこちなさからして、過去には三玲にも、いろいろとあったのだろう。

「一緒に飲んだ折、ときおりぼやいていらっしゃいました。どうせ苦労するなら俺はいっそ平凡な樹木に生まれたかった、と。森の木々の生涯は過酷です。野に放たれた種が芽吹き、花を咲かせて再び種を実らせる確率は千分の一、万分の一以下でしかありません。昌伸先生以上に、その厳しさをご承知の方は少ないでしょう。にもかかわらず、先生は樹になりたかったと仰いました。……人の世は、それほどまでに先生にとって馴染めない世界だったのかもしれません」

 それきり、三玲は言葉を失って黙りこむ。

 ……樹に生まれたかった、か。

 店を始める相応の理由が有ったのだろう、という三玲の直感は正しい、と私は思った。

 どれほどウマがあったとしても、あの人が、誰かにそこまで入れ込む姿は想像できない。

 なにより、三玲の希望を叶えるだけが理由なら、必要な資金を用立てれば済む話で、自らが大学を辞める必要はないだろう。

 たとえば、不慣れな人間関係に疲れて、ならいかにもありそうな話だった。私にはよく、理解できる。

 何故なら、この私自身、不要な関係だと斬りすてられた立場だから。

「結局、この店を始めた理由は不明、か」

 しかし、店を開いたはっきりとした動機が見つからないなら、それを私に遺した理由など、もっと謎だ。

 結局、振り出しに戻ってしまった。そうつい、ため息を一ついた時だった。

「そういえば」

 三玲が顔をあげて、私を見る。

「お話ししていませんでしたけど、当初、先生はご自身もこの店で働かれるおつもりだったんです。退官後、すぐに体調を崩されてそれは叶いませんでしたが」

「あの人が、アルバイトに入るってこと?」

「違います。不思議に思いませんでした? 店内に、アレンジを飾るには中途半端な棚が幾つかあることを……ウチは今、鉢花を一切扱っていませんよね。当初の予定では、鉢物の担当は昌伸先生でした」

 花屋でいう鉢物、とは植木鉢などに植わった、根のついた植物のことだ。これが主になれば園芸店になる。

 ふーん。それじゃ本当に、あの人はお飾りのオーナーじゃなかったんだ。

 たしかに、店には鉢物は一切置かれていなかった。てっきり、三玲のポリシーだろうと単純に考えていたけれど。

「切り花は自分、鉢は昌伸先生。店内の狭い棚は根付きの小鉢を並べるための名残です。ギャラリーのような内装は、先生のご指示でした。つまりご自身が、園芸家として選んだ植物を飾り、そして売ってみたくて。瞳子さんに尋ねられるまで、自分はそう単純に理解していました」

「だったら、素直に園芸店を始めれば済むんじゃないの?」

「切り花と鉢花。同じ観賞用でも正反対の存在を、並べて選んでもらうのも面白いじゃないか、と先生は仰っていました。互いの信じる花の対決だ、とね。それに実際問題として、新しく店を始めるのはなにかと大変ですよ。お年を召してからは特に。全てを一人でこなすのは手に負えないと判断しての生花店だったのかも」

 たしかに、定年間際の年寄りに、園芸屋の新規出店は体力的に厳しいかもしれない。

 一人で店を切り盛りしていた三玲から聞かされると、その意見には説得力があった。

「ですから自分が店長として雑務はすべて引きうけて、先生は園芸家として鉢花部門でご自身の理想を……いや、そういえば」

 三玲はふと、前髪を荒々しくかきあげた。端正な横顔がかすかに歪む。

「思いだした。開店間際になって、ふと仰ったんです。長年の……なんだったかな、店に置きたい、ずっと捜していた植物があるんだ、って。あれは、さっき話した植物史を変える発見、と関係があったのかな」

「長年の、捜していたもの?」

「先生は生粋のプラントハンターでしたからね。珍しい、ってことになんの価値があるのかと喧嘩をふっかけたことも……とにかく、ご自身にも目的があった。そのために退官して店を開いた。そう考えるのが、もっとも自然な気がしてきました」

 三玲は曖昧に笑った。最後の性急なまとめ方には、なにやら誤魔化されている気もしたが、結論そのものには納得がいった。

「自分がやりたいから、店を始めた、か」

 それは鶴岡で婦人から聞いた話とも矛盾しない結論だった。

 そして、研究に専念しようと私たち母子を置いて家を出て行った、いかにもあの人らしい身勝手な振る舞いでもあった。

 誰かのために、なんて理由よりずっとしっくりと来る。

「……だとしたら、そんな趣味の店を押しつけられる方は、ただのいい迷惑じゃない?」

「今更、そんな身も蓋もない真実を口にしないでくださいよ。新オーナー」

 おもわず漏れた私の素朴なぼやきに、三玲が可笑しそうに笑い出す。

「いまはもう、オーナーも一味の一員なんですからね」

「一味、ってなんのよ」

「そりゃ、客を身ぐるみ剥がす『注文の多い花屋』の一味ですよ」

「自分から口にしない、その渾名の元凶が!」

 おもわず私が怒鳴りつけると、三玲は逃げるように私の前から去っていく。

 菊の水揚げは、いつまにか三玲の手によってすっかり終わっていた。



 仏花は売らない。

 それが、この店のポリシーではなかっただろうか。

「はい。それではお墓用と仏壇用に一対ずつ。デザインはお任せでよろしいですね? お仏壇のサイズと飾る場所を教えてください」

 お盆が近くなると、三玲は仏花の予約を受け付けるようになった。

「なお、当店の仏花は基本、一対で二万六千円と消費税です。ご注文は二対ですので総額は……お引き渡しに関してですが、せっかくですからご自身の手で最後の仕上げだけでもなさいませんか? 供養の気持ちを込めた花は仏様に必ず……はい。当然、そのレクチャーは先ほどの代金の内に」

 だが、その価格はデザイン・指導料込みなのでかなり高価だ。もちろん、注文はほとんどが常連客からだった。

「……では、ご用意してお待ちしています。ありがとうございました」

「ねぇ、今更だけど、ウチは仏花は売らない店じゃなかったの?」

「まさか。それじゃ、なんのためにこんなに仕入れたと思っていたんですか?」

 私の質問に、三玲は店内に溢れる切り花を指さして笑う。

「もちろん、ただ束ねただけの仏花は売りません。ちゃんとご注文に相応しいアレンジをそれぞれデザインしますから。そのために、どのような方にお供えするのかお訊ねしているんです。それに叶うならば、故人への想いを込めて、一本でもいいからご遺族様の手で生けていただければ、と考えています」

「そりゃ、他所より高いんだから、特別な花にするのは当然だけど。最後は自分で仕上げなさい、って強引に勧めすぎないでよ。また噂に……でも、いいの?」

「以前も言った筈ですよ。常連さんに頼まれれば仏花も作っている、って。それに……やっぱり、お盆くらい、多少は稼がないとマズイじゃないですか」

 私から少し視線を逸らして、三玲はいった。

「このまま、オーナー持ち出しで店を続けるのにも、限度がありますよね」

「気づいていたの?」

「仕入れを担当しているのは自分ですよ。店の大まかな収支くらい予想がつきます」

 四月から、オーナー権限で経理は私が握っている。

 店が黒字だったのは、母の日のあった五月の一時期だけだった。

「お客さんも、ウチの事情はあらかた承知でご注文くださっているみたいですから」

 つまり、このあたりで少し稼がないといずれ店が無くなるかも、とバレているって事か。

 三玲の言い分は当たっていたから、私はそれ以上反論できなかった。預金の残高が心細くなっているのは事実だ。いまだ振り込まれない退職金について、そろそろ経理に問い合わせるべきかと考えていたところだった。

「最後は自分の手で仕上げる、というのは、お彼岸などでみなさま経験済みですし。注文の花はこちらで全て引きうけますので、ご心配なく。……それより、瞳子さんは自分のデザインに専念してください」

「自分のデザイン?」

 えっ? なにそれ?

 突然、話の矛先がむいて、私は慌てた。

「それって、つまり私に独力で花を生けろ、ってこと?」

「もちろんです。先生にお供えするアレンジを。……新盆じゃないですか」

「それは三玲が生けてくれるんじゃないの?」

「自分も当然、お供しますけど。……花を始めて三ヶ月。そろそろ、瞳子さんもオリジナルのアレンジに挑戦していい頃ですよ。テクニックばかり磨くのは無意味です。なにより、瞳子さんはもう作れます」

 私の動揺などそしらぬ顔で、三玲は断言した。

「今日まで、自分がレクチャーをしてきたのはそのためなんですから。これまで自分が店に飾ったオリジナル作品を眺めて、思うことはありませんでしたか? それらも参考に、お父様への気持ちを込めて、自由に、感じるままに生けてください。使いたい花材があれば、なんでも仕入れてきます。もちろん、自分は一切口を挟みません」

「……そんな、生けられるかなぁ」

 オリジナルの花、かぁ。

 そりゃもちろん、いつかは、という気持ちはあった。でも、

「もしも無理なら、それはこれまでの自分の指導が至らなかった、というだけです。余計なことは意識しないでいいですよ」

 私の弱気な呟きを聞きつけ、三玲は当然のように言い足した。まったく、こういう時に限って、この男は。

「わかったわよ。……上手く生けられないからって、他人のせいにするほど落ちぶれちゃいないから」

「良い心がけです」

 三玲は嬉しそうに頷いた。花に関することだけ、見惚れそうになるほどのとびきりの笑顔だ。これでは後に引けない。まったく腹立たしい。



 次の日から、お盆前の超繁忙期にもかかわらず、私は店の仕事を離れ、自分のアレンジに没頭した。

 これまで、私は三玲の指導のもと、アレンジをかなり自由に生けてきた。けれど、その全てを自分でデザインした経験はまだなかった。理想の形なり、テーマなりといった、私の実力に見合った課題を与えられての作品作りだった。主な花材は三玲が指定し、そして僅かにではあっても、常に的確な手直しをうけてきた。

 今回は、その全てがない。頼れない。

 さて、どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 改めて考えると、花をデザインするうえで大切なものは単純だった。

 繰りかえし、三玲から言い聞かされてきたことでもある。

 いったい、自分は何を生けたいのか。何のために、花を生けるのか。

 だが、実際にどんな作品にするかを考え始めると、日々植物に接し、少しはアレンジを理解したつもりが、まったくの思い上がりだったと痛感させられた。

 それから、お盆本番までの幾日間か、私はよく眠れない日々を過ごした。

 父に捧げる、誰の花でもない、自分の花。

 私の信じる花。

 指示されて生けるのは容易い。他人のデザインを批評するのは、もっと容易い。

 私は苦悩した。これほど悩んだのは広告代理店時代も記憶にない。まだ学生の頃、大規模な公募展に挑戦するための写真を撮った時以来だった。浮かんだ断片的なイメージを整理するため、引っ越しのため梱包したままだった撮影機材を持ちだし、意味もなく店の花をピントグラスに写したりした。無骨な三脚に据えつけられたトヨビューをみて三玲は目を丸くしていた。

「随分と本格的なカメラを持っているんですね」

 お盆が間近に迫り、いよいよ予約されたアレンジの引き渡しが始まってからも、私は依然として店の仕事を免除され、ただひたすら自分の作品について苦悶していた。

 そうして、そろそろ時間切れを覚悟しはじめたお盆の前日の深夜。

 あっ!

 静まりかえった店に降りて、一人、ロングルーペを覗いていると突然、私の脳裏にある作品の構想が浮かんだ。

 一瞬閃いた曖昧模糊としたアイディアを、あわてて広告の裏紙にエンピツを走らせ、逃さぬようがっちりと捕まえる。朝までかかってきっちりとした形にまとめた。

「SPバラとノイバラ、私が使ってもいい?」

 翌朝、私は三玲が店に来るのを待って、意気込んでそう訊ねた。

「もちろん、どんな花材も、ご自由にどうぞ。……でも、間に合いますか?」

「人間、追いつめられてからが真の実力だから」

 三玲はホッとしたように頷いた。どうやら結構心配させていたらしい。

 深紅から薄い赤、臙脂、そして桃色など、微妙に色味の異なった十数種類の赤系のSPバラを、私は選んだ。三玲が河川敷からこっそり狩ってきた、長いノイバラの枝も。

 お盆の注文を一手に引きうけ、自分だってもの凄く忙しいにもかかわらわず、三玲は店中央にある一枚板の作業台を譲ってくれた。スペースが広い方がやはり製作は楽だ。その上に全ての材料を並べると、私は大きく一度、深呼吸をした。

 夜通しまとめた構想には少し癖があり、また私はこれまで、同様のアレンジを一度も生けたことがなかった。かろうじて、似たコンセプトの三玲の作品を店で目にしているだけだ。技術的には、まったく手探りでのチャレンジになる。

 よし……大丈夫。私は生けられる。だって、三玲がそう認めてくれたんだから。

 念入りに自分に言い聞かせる。そうして、おもむろに作品を作り始めた。

 まず、長い曲がったノイバラの枝を二本、鋭い棘に注意しながら大小の輪にする。

 そのわずかに歪んだ二つの輪を、重ねて幅の太い一つの輪にしてワイヤーで固定する。そしてそれを透明なアクリル水盤の上に丁寧に置いた。ここまでは簡単だった。

 次に、スプレーバラの花弁を全て花心から外す。バラバラにした花弁のうち、形状の綺麗なもの、面白いものを、一枚ずつ丁寧に指先で丸め、細い芯状にする。そしてその花弁で、二本の枝の隙間を端から少しずつ埋めていった。

 ああっ、もぅ、どうしてこう……

 脳裏に描いている姿は単純なのに、実際に作業してみると、まったく思い通りに生けられなかった。丸めた花弁は、油断するとすぐに開くし、力をこめすぎれば潰れてしまう。ようやく少し縦にきっちりと並べられたかな、と思った瞬間、まとめて横倒しになったりする。

 その度に、丸めた花弁をボンドで仮止めしたり、隙間を細い枝で区分けする実践的な手法を三玲から教わった。そして、少しずつ、私の初めての作品は形を成していった。

 あきれるほどの時間をかけ、どうにか花弁で輪を埋め尽くし終えたら、最後に、棘の綺麗な細いノイバラの枝でその輪をさらに外側から丁重に包みこむ。二重に、三重に。

 心を閉じこめる、茨の檻のように。

 そうして、ひたすら苦闘を続けて、半日以上。

「……できた! もう、これで完成にする!」

「おめでとうございます」「うわぁ、綺麗ですね」

 早朝から、休憩もとらず食事もせずぶっ続けに作業して、アレンジが完成したのは夕方四時過ぎだった。トイレだけは行った。

「お疲れ様でした。本当に……これだけ手の込んだ作品を、よくたった一日で生けきりましたね」

「今日中に仕上げなければ、お盆になっちゃうもの。それにこんな作業、何日もしたくない」

 精根尽き果てた私は、最後のノイバラの枝を固定し終えると、崩れ落ちるようにぐったりと椅子に座りこんだ。

 完徹あけの作業だったが、不思議と眠気は感じなかった。空腹も。ただ、もう力は残っていなかった。

「驚きました。土壇場でアレンジを完成させた事もそうですが、なによりその内容の充実ぶりに。正直、ここまで本格的な作品は予想していませんでしたから。瞳子さんの実力、自分が侮っていましたね。お詫びします」

 疲労のあまり、三玲の賞賛がなんだか遠くに聞こえた。平然としているが、私が一作品生ける間に、三玲自身はすでに店内に並ぶ二十点以上のアレンジを生け終えていた。この三日間では、トータルで一〇〇点近くの注文を一人でこなしている。それも全てデザインの異なるオリジナルだ。神業のようなスピードである。

 一点生けるだけで息も絶え絶えとなっている私とは、比べものにならない。

「芹沢さんって、こういう繊細な作品を生けられる方なんですね。日頃のイメージと全然違っていてすごくびっくりしました。とっても綺麗ですね」

「……君ねぇ」

 いつまのにか、再び店に手伝いに現れていた脇田君が、私の花を覗きこんでそんな失礼きわまりない感想を口にしたけれど、それを問いつめる気力も残っていなかった。

 作業台の上に完成していたのは、ノイバラの枝で縁取られた、バラの花弁のリースだった。

「大変美しいアレンジメントだと思います。極めてシンプルな構造の中で、バラの花弁の色味がとても複雑なグラデーションを描いている。ノイバラの棘の扱いもシンボリックで効果的です。わずかな色の差に敏感なのは、やはり写真の経験があるからですか?」

「学生時代、撮っていたのは主にモノクロだけどね。その頃の癖で、レンズ越しに眺めていると、どうしても微妙なトーンの違いが気になってくるの」

「なるほど。アウトラインにクランツを選択したのはフューネラルとしても大正解です。アレンジのコンセプト、構成、デザイン、テクニック、どれをとっても文句のつけようがありません。……素人にしては、ではなくです」

 ……嘘、みたい。

 私の作品の前で、三玲はそう断言した。想像だにしていなかった、まさかの大絶賛だった。

 なにより、最後につけくわえられた一言に、グッと胸がこみあげてくる。

「ありがとう。でも、これは完全にオリジナルのデザインじゃないから」

「参考にされた作品があるんですか?」

「ネットを検索していてみつけた、ダイアナ妃の葬儀の様子から少しね」

「ああ。王子が棺の上に供えたアレですか」

 私が影響された作品を三玲は知っていた。

「だとしたら、たいした類似じゃないです。これは充分瞳子さんの作品ですよ。フューネラルにリースっていうのはキリスト教圏共通の様式美ですから。それを意識したくらいでオリジナルを名乗れないなら、誰もアレンジなんて発表できません」

「それに、いくら頭の中に作品の完成像が浮かんでも、技術的には途中で三玲が指導してくれなければ完成させられなかったし。すくなくとも、このレベルでは。……口出しナシ、って約束だったのに」

「多少、口頭でのアドバイスを受けたからといって、この作品の価値は変わりません。基本のデザインには一切関わっていませんし。まだ教えていないテクニックのフォローは、それが自分の役目ですから。……でも、まいったな」

 私の作品を愛おしそうに眺めたあと、三玲の表情は一転して厳しくなった。

「なに、まだなにかあるの?」

「この作品については一切ありません。……そうではなくて、これに負けない花を生けるには、自分も気合いを入れてかからないとヤバそうだな、と」

 まるで、睨みつけるように私のリースを凝視する三玲の横顔は凛々しかった。

 そして、怖いほど本気だった。

 なんだ、そんな……そうなんだ。

 これ以上、なにを指摘されるのかと緊張して身構えていた心が、三玲の独白を聞いて少しゆるんだ。と同時に、ようやく胸の奥から喜びが湧いてくる。

 どんな賞賛の言葉より、三玲の敵視が今は心地よかった。

 やった……これで少しは、私も認めてもらえたかな。

 三玲は日頃、誰に対しても言動も態度もきわめて礼儀正しい。

 けれどその理由は、無意識にせよ、自分が認めるに足るアレンジを生ける者以外、対等の存在として認識していないからの気がする。もしくは、植物に対する狂おしいほどの情熱をもった人間か。

 それが、三ヶ月ほど一緒に仕事をしていて密かに感じた、おそらくは本人も自覚していない、三玲の根幹を成す価値観だった。

「しかし、昌伸先生への気持ちも、花に対しても、譲るつもりはありません」

「別にいいけど。こういうのって勝ち負けなの?」

「勝ちはないけど、負けはあります」

 私の素朴な疑問に、三玲は至って真剣に答える。わけがわからない。

 けれど、唇を閉じ拳を握りしめて、鋭い眼差しで私の作品を見つめる三玲の覚悟だけは痛いほど伝わってきた。

「しかし、これって給水、どうするんですか?」

 三玲がそうして一人、盛りあがっていると、隣から、脇田君が冷静に訊ねてくる。

「このままじゃお盆、終わるまでもたないですよね」

「アクリル製の水盤に置いて薄く水を張れば、三、四日ならどうにかならないかな」

「なるほど。それなら、出来るだけ日陰の涼しい場所に飾ったほうがいいですね。あとはまめにスプレーして……ペタルオブゾービングでしたっけ?」

 バラは花弁だけを外して生けたのだから、そのままでは、無論長持ちはしない。

 花弁は表面からも水を吸ってくれるが、その効果にも限度があった。

「あとお盆が終わったら、水から出して一気に干しちゃうつもり。この季節ならすぐ乾くわよね」

 しかし私はこれまでに幾度か、三玲が作った花弁だけを外して用いた作品を見たことがあった。その扱い、その後三玲がどう処理していたのかも覚えている。

「当然、少し潰れちゃうだろうけど、それはそれで味ってことで」

「きっと格好いいドライになりますよ。ぜひ、店に飾りましょう」

 脇田君は頷いた。彼がここにいる理由は、生産者にとってのお盆はもう過ぎたので、再び手伝いに来た、とのことだった。

 店のお盆用の花は、昨日からお迎えの前日である今日にかけてがピークだ。

「だけど脇田君も、忙しい中、わざわざお手伝いに来てくれてありがとう。アルバイト料は弾むね」

 ここ数日間、店内の掃除や受け取りに来たお客さんの相手など、雑用は脇田君が一手に引きうけてくれたからこそ、私は自分の作品に専念できた。今回ばかりは大感謝だった。

「こちらこそ、先生の神速のアレンジや、芹沢さんの魂の作品を拝見させていただいて、今回はとにかく勉強になりました」

 神速のアレンジ、というのが褒め言葉かどうかわからないが、言い得て妙だった。昨日、今日と三玲は恐ろしい勢いで大量の仏花とアレンジを生けた。

 しかもただ生けて、渡しているわけではない。三玲はほとんどのアレンジでポイントになる花を何本か残し、最後は客自身の手で生けさせていた。数本とはいえ、一番肝心な花を手取り足取り素人に指導するのは決して容易ではない。

 だが三玲の努力によって、誰もが自らの手で供養の花を完成させ、喜んでいた。その声は自分の作品に没頭していた私の耳にも届いていた。

 作品を生け終わってからの私は、椅子に座りこんだまま、そんな店の様子をぼんやりと眺めながらすごした。



「今日で、いったん店は休業にします」

 夕方、三玲は常連客からアレンジの代金を受けとりながら、私たちにそう宣言した。

「どうして?」

「予約の花は全て今夜中に引き渡す予定ですし、お盆がはじまれば、もうお客さんなんか来ませんよ。……そろそろ、瞳子さんは上でお休みになられた方がよいんじゃないですか?」

 そりゃ、大半はそうだろう。でも、遅れて花を買いに来る客だっているかもしれない。

「もともと、昌伸先生の新盆はこのお店で、と思っていたんです。その準備は進めていましたけど……この瞳子さんの作品に負けない自分の花で先生を供養するには、店を閉めなければ無理なので」

「つまり、貸し切り状態にして三玲の花を飾る、ってこと? あの人の、供養の花を」

「そうです。……よろしいですか?」

「なに、それ」

 最後にそう訊ねてくる瞬間だけ、三玲は妙にしおらしくなった。おもわず吹き出しそうになる。それまでの強気な態度とは正反対で、ひどくおかしい。

「父を弔うためでしょ。なら、ダメとはいえないじゃない」

 私は頷いた。昨日今日と、店のために大車輪で仏花やアレンジを作り続けてくれた三玲に、さらに父のために特別な花を生けてほしい、と望むのは私の我が儘かも。そう考えていたから、三玲から提案してくれたのは、率直に嬉しかった。

「ありがとうございます」

 三玲は深々と一礼した。

 そして、すぐさま振り向くと、店を訪れた新たな常連客へと向き直り、アレンジについて説明を始めた。



 翌日、私は昼過ぎにようやく起きだし、慌てて身支度を整えると店へと降りた。

 昨夜は結局、注文の花を全て引き渡すために遅くまで店を開けていたし、前日が徹夜だった影響もあっての、盛大な寝坊だった。

「ゴメン! つい寝過ごしちゃって」

 私の謝罪に返事はなかった。

 三玲は店の中央で、昨日と同じ格好のまま、花材用の段ボールを床に敷いて倒れていた。安らかな寝息が、かすかに聞こえる。

 ……うわぁ。

 だが、そんな三玲を構うのも忘れて、私は目の前の光景に見入っていた。

 綺麗……

 お盆前の狂乱から一夜が明け、店の様子は一変していた。

 不要な小物類が片づけられ、アレンジを全て売り終えた店内に昨夜までの面影は全くない。真っ白な壁の前と中央の作業台の上には、大小幾つもの円筒形のガラス器だけが並んでいた。

 そのうちの大きな器は、日頃、水揚げした花材を入れているシリンダーだ。小さな器は裏から新たに出してきたのだろう。並んだそれらは、店の中央、少し窪んだ作りつけの棚をかこむように、複雑なカーブを描いていた。

 大小問わず、シリンダーは全て水で満たされており、どれもわずかに色づいていた。赤系が多いが、その濃淡、彩度、色味は微妙に異なっている。

 その水の中には、様々な大きさの、だが形は統一されたシルエットが浮かんでいた。どれも四角い、サイコロのような立方体だ。

 窓から差し込む夏の強い日差しをうけ、ガラスの中で水は淡く色を帯びて輝き、床に波のようなシルエットを描き出す。

 まるで水族館みたいな……ううん、違う。なんだろう、このとっても非現実的な……

 作品に気圧され、私は言葉を失い、店の中央で立ちつくした。

 三玲の、本当の本気の花。

 昔を懐かしむクラシックなスタイルとは異なる、古典をベースに歩みを止めることなく進歩を続けたアレンジのたどり着いた、最先端の現代フラワーデザイン。

 人生を花に捧げた者だけが生けられる、その生き様の証となるものたち。

 初めて目の当たりにはしたそれは、だが意外なほど、穏やかで静謐だった。

 てっきり、本気の三玲が生けるのはもっと闘争的な……挑みかかるような迫力に満ちた花だろうと予想していたのに。

 もちろん、店内を埋め尽くした……おそらく、全体で一つの作品は、既存のアレンジとは一線を画す内容だった。意欲的で挑戦的で、これまで、三玲が店に並べていたどの作品ともまた異なる代物だ。これまで店を飾っていたのは、いかに前衛的であっても、もとの形が判り植物が水をもらえるように生けてあるアレンジだった。

 しかし、この作品はそうではない。

 なんだろう。これまで見たこともないほど斬新で、三玲の手によって全てが変容させられているのに……なのに伝わってくる、この安らかな息吹は。

 店内に、判りやすい植物の形はもはやどこにも見あたらない。にもかかわらず、私は深い森の奥にいるかのような、極上の居心地の良さを確かに感じていた。

 先鋭的で斬新なのに、でもこんなに穏やかで澄み切った……こういう花を生ける人、だったんだ。

 私は心地よい安らぎに浸りながら、ぼんやりと、それからしばらくの時を過ごした。

 椅子にすわり、黙って作品を眺め続けて、どれくらいが経っただろう。

「……おはようございます」

 花に魅入られ時間の経過も曖昧になったころ、床に寝転がっていた三玲が、ふいにむっくりと身体を起こす。

「すみません、少し休むだけのつもりだったんですが、いつのまにか……」

「そんなのいいから、ほら……ちょっと、こっちむいて」

 ふらふらと立ちあがる三玲の袖を掴み、私はそれまで自分が腰掛けていた椅子に三玲を座らせた。唇の端に残っていたよだれの跡を見かねて、シャツの袖で拭き取る。

「でも、なにこれ……凄くない?」

「ありがとうございます」

 座りこんだ三玲は、嬉しそうに頷いたあと、慌てたように自分の顔を手でぬぐった。

「いえ、大丈夫ですから……無我夢中で生けていたら、すっかり外が明るくなっていて」

 前髪をかきあげた後、大きく顔を振った三玲は、ようやくはっきりと目が覚めたようだった。その仕草がやけに子供っぽくて、ちょっと可愛い。

「あと少し、あと少しだけと頑張っていたらいつのまにか……見苦しくてすみません」

 やつれて無精ヒゲの残った顔立ちや、汗と植物の残滓で汚れたシャツは、確かに褒められた状態ではないかもしれない。けれど、私には日頃の整った姿よりずっと精悍で凛々しく感じられた。

「だけど、瞳子さんに気に入っていただけたのなら、頑張った甲斐がありました」

「うん。すごく気に入った。とってもあの人の喜びそうな……って、父とはもう十年以上、会っていなかったんだけど」

 私は大きく頷こうとして、ある事に気づき、黙りこんだ。

 ……そうか。あの人もこういう三玲の作品と出会って、それで一緒に店を……

 三玲のアレンジを眺めていて、その時不意に、私は悟った。

 父も、私と同じように、この人の作品と出会って感動したのだとしたら。それ故に花屋を始めたのだとしたら。

 店を続けようと決心した私と父には、どんなに離れていてもやっぱり、互いに共通する何かがあった、という証明でもあって。

 つまるところ……自分は、親不孝をしていたんだな、と。

 意地をはらずに、顔ぐらい見ておけばよかったな、と。

「三玲の方が、最近のあの人についてはずっと詳しいよね。だからもちろん、そんな立場の私が気に入っても、あまり意味ないだろうけど。でも」

「自分がこう言うのも申し訳ありませんが、おそらく全然気にしていらっしゃいませんでしたよ、昌伸先生は」

 声がうわずりにそうになる私にむかって、三玲は静かに首を横に振った。

「たとえ家を出てからただの一度も、瞳子さんと会えずとも。人つきあいが苦手なのに加えて、そういう面では、良くも悪くも、普通とは感覚の異なる方でしたから」

「……うん、確かにそうだったかも」

「だから、瞳子さんに会えなくても少しも不満ではなくて。けれど一方で、おそらく瞳子さんの不満も理解できないだろう方でもありましたから」

 私の内心の葛藤を見抜いたかのように、三玲は穏やかに微笑む。

「つまりはお互い様ですよ、きっと」

 なるほど……そう考えれば、すっきりするのか。

 徹底して避け続けた父に対する罪悪感。けれどその一方で、依然として消えない、私を置いて去ってしまった父への憤り。

 どちらか片方だけが悪いわけではない、つまりはお互い様なのだという三玲の指摘は、そんな行き所のない私の気持ちに、過不足無く答えてくれるものだった。

「というわけで、自分としても悩んだ末に結局、そういう方に捧げる花だから、こうなったんですけど」

 それから三玲は、ガラスシリンダーを指さした。

「判りますか?」

「うん、多少は」

 私はゆっくりと頷いた。

「器を満たしているこの水……これって、たぶん花の色だよね?」

 店内に並ぶシリンダーを彩る、様々な淡い色合い。

 それはどれも、花弁の色素を抽出したものに違いなかった。

「はい。そのとおりです」

 三玲は嬉しそうに頷いた。

 それにしても……ここまでするんだ、フラワーデザイナー、って。

 ただ眺める分には、ごく淡い色にしか見えない。けれど……花弁を絞って、これだけの色を抽出するのがどれほどの手間かは、容易に想像がつく。

 昨夜、店にまだ結構な量が残っていた切り花は、すっかり影も形もなくなっていた。

「生前、先生から花の発色メカニズムについて教わる機会があって……その際に、花の色水遊びが植物に対する学問的な興味を抱くようになったきっかけの一つだ、と仰っていたのを思いだしたんです」

「念のために確認しておくけど、これでも、花を生けているウチに入るの?」

「それは花を『生ける』という行為のとらえ方次第です。自分はこれが、昌伸先生に花を捧げるにもっとも相応しい『生ける』方法の一つだとの自信はあります」

 いぶかしげな私の問いに、三玲は堂々と答えた。

「中川先生や蒼風先生がなさったように、我々は石であれ鉄であれ、それを植物として見なし、扱えば『生ける』ことができます。しかしながら、それらの無機質な素材による作品をあまり先生はお好きではありませんでした。一方で、植物素材をどのように扱うかに対しては極めて寛容な方でした。遺伝子組み換え技術は『生ける』ことになるのか、などよく議論をさせていただいたものです」

 熱心に語り始める三玲を、私はちょっとだけ引いた気分で眺めた。うん、こういう男だというのはもう充分知っているから、ほんの少しだけ。

「……結局のところ、植物に対するスタンス次第なんです。なにをもって『生ける』とするのかは。昌伸先生であれば、これを『生けた』作品であると認めてくださると信じています」

「はいはい。それじゃ、その中に浮いているのはなに?」

 私は話を変えようと、シリンダーの中を指さした。

 薄い、花弁から抽出された色素水の中には、それぞれ四角い立方体のような何かが、幾つも浮いていた。サイズ、色は大小様々だ。

 見方次第では、ホルマリン漬けの標本に似て見えなくもない。

「一体なんだと思います?」

 私の問いに、三玲は逆に訊ね返してきた。

「そりゃ、果物だろう、ってことくらい判るわよ。種も見えるし」

「正解です。というか、全てここ庄内で獲れた各種果物です。……そこまでお気づきでいながら、何故?」

 三玲は私の質問の意図がわからない、とばかりに首をかしげた。

「だから、知りたいのはなんであの中に果物が浮いているのか、ってこと。それも揃って真四角にカットされて」

「そりゃ、その方が綺麗ですから。花の水だけですと、綺麗ではありますが少し締まりに欠けるじゃないですか」

「円柱に浮かぶ四角いシルエット。確かに綺麗よね。でも私には、なんだか果物の標本に囲まれているみたいで妙に落ち着かない気分にもなるんだけど」

「言い得て妙ですね。植物に捕らわれた植物、綺麗だけれど決して外には出られない標本。つまりそれが自分や昌伸先生の人生を暗示していると言いたいわけですか?」

「誰もそこまで深読みしてないわよ。ただ、まるで理科室みたいじゃない、こうやって幾つも並んでいると」

「それはきっと、昌伸先生にとっての原体験にも繋がるでしょうね。ですが、自分はそこまで意図したわけではなく、ただ先生にとっての世界を象徴するもの、として果物を選んだにすぎません。ですから加工可能な球形の植物であれば、果物である必要は必ずしもなかったのですが。深夜営業をしているスーパーで調達できるのはこれくらいで」

「この果物が世界? なら、何故立方体に切りそろえてあるの?」

 水中の果物は大小様々だが、どれも一様に四角くカットされていた。

 計八カ所の角にはぎりぎり表皮が残り、シルエットが鋭角になりすぎるのを絶妙に防いでいる。スイカなど、果肉に色がついたものは、その濃淡が断面に円形に浮かびあがっていて、それはそれで美しかった。

「一般的に、世界を表すシンボルとしては円や球が用いられます。……けれど、自分や昌伸先生にとって、この世界は決してそんなに

 三玲は手近にあったガラス器の表面を軽く撫でた。

「おそらく先生は、丸くあって欲しいと常に願っていらっしゃいました。でも、現実にはそうではない。……かといって、三角形で表現しなければ、と意気込むほど攻撃的に、尖って感じるわけでもありません。結局、四角形、立方体、それくらいが世界を示す形にもっとも相応しく思えました」

「だから、球を切り落としての立方体にこだわった、ということね」

 私が確認すると、三玲は大きく頷いた。

 これがあの人にとって世界、ねぇ。まぁ、わからなくもないけれど。

 私は改めて、周囲の作品たちをゆっくりと見回した。すると後ろから、三玲がふと口調を変えて語りかけてきた。

「などと、長々と語りましたが、そんなものは全部ただの能書きです。作品なんて、意味など考えずに感じていただければそれで充分なんですから。おそらくは、瞳子さんが二階から降りてきて、これらを一目見た時に真っ先に抱いた印象、それだけが本当の真実です。作品の評価、とはそうあるべきです」

「なんか、深い森の中に迷い込んだような気がしたわ」

 どうでしたか、と問われ、私は素直に、最初に見たときの感想を伝えた。

「植物に囲まれていて、穏やかで、静かで……正直、頭では三玲の作品だと理解していたのに、どこからも三玲の気配を感じなかった。眺めていて、ずっと、花と緑と遊んでいるような、そんな気分だった」

「まいったな。嬉しいことをいってくれますね」

 恐る恐る私が告げると、三玲は照れたように頬をかいた。

「瞳子さんにそう評していただけるのは光栄です」

「本当に? 自分の作品だ、って印象が薄くて、それでもいいの? ……アーティストとしてはダメなんじゃないの、この評価」

「いえ、充分です。なぜなら、フラワーデザインはアートじゃない。従って、自分もアーティストではありませんからね」

 私の確認に、三玲はさも当たり前のように頷いた。

「フラワーデザイナーは、決して植物を自己表現のためだけに用いてはいけないんですよ」

「どういう意味?」

「絵の出来より、絵の具の都合を優先する画家がいますか? 塗られたくない、と嫌がる絵の具の意思を大切にして、精魂注いだ絵の完成を諦める画家が」

 三玲の比喩が、今の私にはすぐにわかった。

「絵の具の声を聞く画家はいないけれど、花の声を聞くフラワーデザイナーは居るってわけね」

「そうです。花を生けるにあたって、一番大切なのは作品の完成度じゃない。手にした植物の生き様を示せるかどうかです。そのためには、こう挿せばより綺麗になると理解していながら、そうは生けない判断だってあり得る、というか、そうしなければいけない」

「でも、そう都合良く花の気持ちがわかるものかしら」

「そりゃ、全て完璧に理解するのは無理です。人間同士でだって、他人の考えていることなどろくに判らないんですから。でも、一切理解できないわけではない。同様に、植物の声が全く聞こえない者は、未来永劫フラワーデザイナーになどなれません」

 それじゃ、私がフラワーデザイナーを名乗れる日は来ないかもしれないなぁ。

 漠然と、私は思った。すくなくとも今は、そこまで植物の気持ちに寄り添える自信はない。

「もちろん、これはあくまで生ける側の心意気の問題で、所詮はただの自己満足でしょうけどね。生ある植物を、自らの欲望のために切る免罪符になるとは思っていませんし」

 彼らからしたら、自分などただの虐殺者にすぎないだろう、と三玲は自嘲した。

 どうだろう。花弁を絞り、色素を抽出して水を染めて良いと、当の花たちははたして承知していたのか。

 神ならざる身には、考えるだけ無駄な難問だった。

 だから私は意識を切り替え、別のことを訊ねた。

「残った、花弁を外した芯はどうしたの?」

「もちろん裏に残してありますよ。あとで、ご位牌の周囲をそれで飾る予定です。……そのアレンジを生ける前に、瞳子さんに自分の花を一目見ていただけてよかったです。ご位牌が来たら、この配置も少し変える予定なので」

 なるほど、花芯はちゃんとまた別に生けるようだ。ならば、許される範囲かもしれない。

 おそらく、その花を飾るのは中央の奥の、少し窪んだ棚だ。確かに、あそこに花心だけのアレンジが置かれたら、全体の印象はまたかなり変わるだろう。

「もう少ししたら、昌伸先生の、酒田でのご遺族がいらっしゃいます。……瞳子さんに相談なしで話を進めて申し訳ないのですが、先生の新盆なので、今回だけはあの方々にも一緒にこの店でご冥福を祈っていただきたいのです。よろしいでしょうか」

 恐る恐る訊ねてくる三玲に、私は平然と答えた。

「もちろん構わないわよ。その方が、あの人も喜ぶだろうし。でも、どうして今まで黙っていたわけ?」

「だって瞳子さん、先生の再婚、ご存じなかったんでしょう? だからその、いろいろ微妙な感情もおありかと……でも、とても良い方ですから」

 私の追求に、三玲はバツが悪そうだった。珍しく、歯切れが悪い。

 こいつ、仮に私が反対しても強引に押し切れるように、最後まで黙っていたわね。

「そりゃ諸手を挙げて大歓迎、とまではいかないけど、別に隔意を抱いてもいないわよ。先日、ご挨拶に伺ってきたばかりだし」

 私は、心配そうな三玲の言葉を遮って、明るく笑い飛ばした。

「えっ? ……まさか、新野さんのお宅に行かれたんですか?」

「そうよ。まさか、ってどういう意味? ……なら、連絡する手間が省けたわね」

 私は頷きつつ、そうだ、あの遺骨も店に下ろさなきゃ、と思った。

 このお盆中に、再び再婚相手のご婦人とお会いできるのであれば、それはそれで都合がいい。

 残された鉢の意図はよくわからないが、とりあえず、ただの松だと判明したことだし、そろそろ納骨を、と考えていたところだ。たとえ偽装結婚だったとしても、父を看取ったのがあの方たちなのは間違いない。私や母の勝手にはできないから、丁度良かった。

「いつ頃、いらっしゃる予定なの?」

「迎え日の今日に、まずご位牌だけ届けてくださると。なのでそろそろ……」

 三玲が答えるとの、店の外に、人影が現れるのはほぼ同時だった。



 私はとっさに、三玲のシャツの襟首を掴んで、店の奥へと押しこもうとした。私だって大概ろくな格好をしていないが、寝起きのままの三玲よりはまだマシだ。

 だが、

「瞳子さん!? いきなりなにを」

「ごめんくださーい! あ、瞳子さん」

 間一髪の差で、、全ては間に合わなかった。もみ合うような態勢の私たちの前で、勢いよくドアが開かれる。

 こちらの都合など訊ねずに、遠慮もなく店内へと入ってきたのは……すっかり見慣れた、けれど近頃はご無沙汰の少女だった。

「え? ……なんだ、霞ちゃんか。今日なにか用事が……」

 よかった、霞ちゃんなら……じゃなくて……ああ!

「うそ、どうして!? ……もしかして、霞ちゃんって!」

「そんなぁ、ひょっとして、まだ気づいてなかったの? ……お姉ちゃん」

 なるほど……つまりは、そういうことだったんだ。

 目の前で腰に手をあて、不服そうに頬をふくらませる霞ちゃんの姿に、さしもの鈍い私も一瞬で事情を悟った。

 これまで、花を買う素振りなど一向にないのに、堂々と店に出入りしていた理由。三玲の彼女の扱いが他の客とは違っていた訳。

 後ろには、焦った表情で娘の袖を引っ張る、先日お会いしたばかりのご婦人の姿があった。

「あたしは一目見た瞬間に、あ、この人がいつもお父さんの話に出てきたお姉ちゃんだぁ、って判ったのに」

「ごめん、でも見抜けなくても仕方がないでしょ。私は、自分に義理の妹がいる、だなんてつい最近まで知らなかったんだから」

 私はあわてて弁明した。

「えー、だって、遺産に関する書類に書いてあったよね? 相続を放棄した娘がいる、って。お姉ちゃんの分を横取りするのは嫌だから、頼んでそうしてもらったんだもの」

「だから、そもそも書類なんて見てないの。あの人が亡くなったのはちょうど私が仕事を辞めるのとほぼ同時で。それからすぐ酒田ここに来たんだもの」

 霞ちゃんが、あの人に懐いていたという義理の娘だったんだ。

 判ってしまえば、納得のいく話だった。

「むしろ気づいていたなら、霞ちゃんこそもっと早く、打ち明けてくれればよかったのに。それに三玲だって、どうしてずっと黙っていたのよ」

「無茶いわないでください。女性同士の人間関係に、男が脇から口なんか挟めませんよ。それに、こみいった事情を他人から先に聞かされたら、余計面白くないでしょ」

 私の八つ当たりに、三玲は大仰に首を横に振る。

「だって、それは……もしかしたら、すでに全部承知で、なのにわざと、知らない他人のフリをしているのかな、って」

 そう呟いてから、霞ちゃんは心底ホッとしたように、大きく一度、息を吐いた。

「なにしろあたしは、お姉ちゃんのお父さんを長い間、ずっと借りてたから。恨まれても仕方がないし」

「ないない」

 日頃からは想像できないしおらしげな姿に、私はたまらず吹き出した。

「あんなクソ親父、熨斗つけてあげるわよ。霞ちゃんに」

「もぅ。そんな言い方して! お父さんはずっと、瞳子さんのこと気にかけてたんだからね! ……そりゃ、心配とかは全然していなかったけど」

 それから霞ちゃんは、心配などせず、会いたいと願うこともなく、けれどただ純粋に、自分にはすごい娘がいるんだと無邪気に自慢していた、と生前の父について幾つかエピソードを語ってくれた。

 まったく、あのダメ親父は、本当に。

 なにか勘違いしているとしか思えない。私は、綿毛を風にのせて飛び立ってしまえば、あとは勝手に根を張って育つ野の草じゃないっていうの。

 まさしく、三玲の語っていたとおりの人である。あの男に、普通の親らしい感情を少しでも期待していた私がバカだった。

「でもそれなら、あたしはお姉ちゃんに憎まれてたわけじゃないんだ。……よかったぁ」

 霞ちゃんは嬉しそうに笑む。それから、姿勢を正して私にむかって深々とお辞儀をした。

「改めまして。義理の妹の、新野霞です。……これからは、お姉ちゃん、って呼んでも良い?」

「やだ。……今更、そんな他人行儀な顔しないでよ。これまでどおり、普通に瞳子さんでいいから」

「ええっ。お姉ちゃん、って他人行儀かなぁ。姉妹ができるのって、昔からの憧れだったのに。……でも瞳子さんって、お父さんが語っていた人とは、似ているようでいて実はだいぶ違うよね」

 学校にあがる前に家を出ていった父が、一体私の何を知っているというのか。

 どんな娘だと思われていたか、多少気にはなったが、それを訊ねるのは後日にした。これから長いつきあいになるだろうから、いずれ機会は巡ってくるだろう。

 それより先に、私は婦人に、わざわざ酒田のこの店まで出むいてくれた礼を告げた。

「すみません、わかっていれば、こちらからお預かりにうかがったんですけど」

「いえ。これも良い機会ですから……ここが、あの人の開いた店なんですね」

 ひとしきり、私と互いに頭を下げ合ったあと、婦人は興味深げに店内を見回した。

「大学を辞めて花屋を始めるのは決まっていましたけど。結局、病気で店に立つことは叶わなかったので……私も、看病やその後の始末に忙しくて、結局このお店に来ることはなくて……芦立くん、ごめなんさいね。すっかり任せきりになっていて」

「いえ、自分はただ日々、花と遊んでいただけですから。先生が居なくなられてから、お店の経営に関しては瞳子さんが担ってくださったので」

「ご実家の方はよろしいの? 連絡もなかったし、てっきり、店を閉めて故郷に戻られたのかと勘違いしていたの。その、酒田にいらした時も突然だったから、何も仰らずに帰られたのかと」

「自分こそすみません、連絡不行き届きで。……その、お店については、霞さんが状況を伝えてくださっているものだとばかり」

 三玲はそう頭を下げると、チラッと霞ちゃんを見た。

 そしらぬ顔で、霞ちゃんはそっぽを向く。その頭を、婦人がコツンと叩いた。

「あなたが一番いけないのよ。これまで随分と、こちらのお世話になっていたそうじゃないの。どうして何も言わなかったの!」

「痛っ。だって、店長がまだ独りで店を続けているって報告したら、お母さん、絶対に止めにきたでしょ」

「そりゃ、あの人が始めた道楽の後始末を、若い方に押しつけるわけには……」

 涙目になりながら、それでも霞ちゃんはどこか満足そうだった。

 確かに、霞ちゃんが早々にお店の現状を伝えていたら、婦人は心配して店を閉めようとしただろう。開店はしたものの、まったく儲かっていないのは、すでに父から伝え聞いていたに違いない。そして霞ちゃんが伝言を引きうけなければ、三玲は自分で婦人に連絡をとっていた。

 つまり、私が現れるまで、そして店がどうにか軌道に乗るまで、霞ちゃんはひそかに店を守っていたもいえる。

「でも、芦立くんも瞳子さんも、本当によろしいの? 開業前にあの人は、儲からない店になりそうだ、退職金をつぎ込んでも良いか、って私に訊ねてきたわ。一見華やかでも、見た目ほど簡単ではないんでしょう? お花屋さんを経営していくのって。東京のような、賑やかで若い方も多い場所ならばともかく」

「確かに、この街では少々困難が伴うのも事実ですが」

 三玲は苦笑いを浮かべた。私も、反論できずに頷く。

「そうですね。でも東京だから楽、という訳でもないと思います。個人経営の花屋は、おそらくどこでも大変です」

「だったら。無理しないで」

「でも、なんというか、先生とご縁があって、この街で店を開いてしまいましたから」

 勢いづく婦人の言葉を遮って、三玲は小さく首を横に振った。

「自分の好きな、信じる花を生けて飾れる、初めて手に入れた場所なんです。商店街の方も今ではよくしてくださいますし。なにより気に入っているんですよ、今のこの店が。未来永劫、死ぬまで辞めない、とはお約束できませんけど、今はこのままお店を続けていたいんです。ご迷惑でなければ、ですけど」

「無論、迷惑なんかではないわ。けれど」

「経営に関しては、私も注意して見ますから」

 なおも止めようとする婦人と、反論しようとする三玲の間に、私は割って入った。

「花屋は素人ですけど。小売業も実はその、やっぱり初めてですけど。でも少なくとも、あの父やこの三玲のような、世間知らずの植物バカではないですから。大儲けは望み薄でも、なんとか二人、食べていくくらいの稼ぎは、どうにか」

「このお盆は様々な方にアレンジをご注文いただいたんですよ。鶴岡どころか新潟や山形、米沢からも評判を聞いて来てくださった方がいらっしゃって。店が知られてきたおかげで、経営的にも少し改善されてきましたから」

「つまりそれって、あたしが、『注文の多い花屋』って渾名で、せっせと噂を流した甲斐があった、ってことだよね」

 三玲の報告に、霞ちゃんが横から嬉しそうにそう口を挟む。

 まぁ、確かにそうなんだけど……やっぱり、霞ちゃんが意図的に唱えていたわけね。

 無名より悪名。商売にはなにより知名度が大切だ。短く覚えやすい渾名をつけ口コミで広める、という手法は小規模店舗にとって低コストで実行可能な、SNS時代に極めて適したマーケティング手法ではある。元広告代理店勤務の立場とすれば、それを認めないわけにはいかない。けれど……

 その、もう少し洒落た、なにより実態から離れた渾名は思いつかなかったのかしら。

 『注文の多い花屋』は、この店の実情をありのままに表しすぎていて、なんとなく落ち着かない、というかバツが悪い。

「やっぱり、霞ちゃんがつけた別名だったのね、それ」

「違うよ。最初に考えたのはお父さん。渾名というか、そういう店にしたい、ってキャッチコピーのような、目標だったみたい」

「一体どういう目標よ、それ!?」

「昌伸先生が?」

 問いつめる私に、霞ちゃんが困ったように首を横に振る。その返事を聞いて、三玲は驚いたように顔をあげた。

「先生がそんな……いや、でも確かに……」

 反論しかけた三玲は、だが思い当たる節があったようで、それきり黙りこむ。

 つまりは、全てあの男が黒幕か、まったく。

 しかし、父が一体、なんのために生花店を始めたのか。

 その理由は判らなくとも、その目指した理想とする店の姿だけは、霞ちゃんの一言でなんとなく見えた気がした。

「そうなのね。お店が経済的にちゃんとやっていけるなら、反対する理由は……働いている方の利益が、二人分……二人分?」

 今ひとつ要領を得ない感じで、私たちの話を聞いていた婦人だったが、やがてそう納得しようとして、ふと、言葉を止める。

 そして、なぜか妙に態度を改めて、さぐるような目つきで、私たちを見た。

「二人でお店を……もしかして、そういう意味だったのかしら? 先程はわたくしたち、ちょっと早く来すぎてしまった、とか」

「はい?」

 意味がわからず、問い返しかけ……私は、ハッと気づいた。

 明らかに寝起きの髪型で、服装の乱れた三玲と、休日の店に下りるだけだからと、油断しきった隙だらけの格好の私。

 そして、バックヤードに押しこもうと、襟元を掴んで身を寄せていた姿勢。

「ち、違いますから! そういう意味じゃありませんから!」

「あら、私てっきり誤解しちゃったわ」

 私があたふたと弁明すると、悪びれた様子もなく婦人は笑った。どうやら三玲はさっぱり判っていないようだ。そして霞ちゃんは、少しだけ軽蔑するような眼差しで、私を見つめていた。

「とにかく、もうしばらく店は続けてみます。……霞ちゃんも、事情を知ったからには、今後は店番を手伝って貰うからね」

「そんなぁ。もしかしなくても無給?」

「まさか。店番の最中に売上げがあったら、それに応じてちゃんと支払います」

「つまり、たいてい無給ってことじゃん」

 霞ちゃんはそれからもブツブツと文句を呟いていたが、今更反論を聞くつもりはなかった。妹なんだし。



 話が途切れたところで、改めてお盆の準備を始めることにした。もっとも、たいした作業はない。位牌と遺骨を並べて、店の奥に安置し、その脇に三玲がアレンジを生ける。

 花心だけの花は、これまで見たこともない姿で面白かった。事情を知らない大半の人は、新種の植物かと誤解するだろう。

「全然別の花みたい」

 霞ちゃんも素直に感心していた。

 私はいちおう、庄内のお盆の流儀について婦人に訊ねたが、曖昧に笑うだけで答えてはもらえなかった。庄内の生まれではないし、地元の習慣になどこだわる必要はない、というのが婦人の見解だった。

 三玲が花を生けている間に、私は霞ちゃんと婦人に、三玲が店を飾った作品についての感想を訊ねた。

「冗談みたいに綺麗だけど……あの人、そんなにフルーツポンチが好きだったっけ?」

 というのが、霞ちゃんの感想で、私は腹を抱えて笑った。まったく正しい評価だ。素晴らしい。

 予備知識もなしに現代音楽の作品を聞かされても、それが音楽だと気づけない人は多いが、そのあたりの事情は現代フラワーデザインでも同様らしい。また、最先端になると、生け花とフラワーデザインの境目はもはや消滅している、という三玲の言い分も実感として理解できた。

 婦人は、賢明にも作品については言及せず、ただ店の様子についてだけ幾つか訊ねてきた。日頃は当然、切り花のアレンジが飾ってあり、売り物の花も並んでいる。そう説明すると多少安堵したようだった。確かに、店内がこの有り様だとしたら、本当に大丈夫かと心配になる気持ちはよくわかる。

 三玲のアレンジは、さほど時間がかからずに完成した。今度は一転して、花心だけを用いている以外は、ごく一般的なデザインだった。

「先生は、古典的なジオメトリックフォームも大変お好きでしたから」

 もっとも、ありきたりなアレンジだからこそ、三玲の技術の高さとセンスの良さが際だってもいたけれど。普通に生けた花はこれほどまでに綺麗で美しいのに、本気を出せばフルーツポンチだ。

 準備が整ったので、順番に線香をあげ、静かに黙祷した。婦人もいいというので、新盆とはいえ、他に堅苦しい真似は何もしなかった。霞ちゃんは少し涙ぐんでいた。

 婦人の携えてきた写真の父は、見知らぬ初老のおじさんだった。どうやら、私は思い出の中で、随分と美化していたらしい。しばらくすると、私がどうにもしっくりしない気分でいるのを敏感に察してか、婦人は写真をさりげなく脇へと片づけていた。

 全てが終わると、すでにお昼の時間が間近だった。折角だから一緒に食べましょう、と婦人に提案され、私たちは素直に同意した。あまり高い店ではありませんように、と内心で祈る。

 中途半端に時間が余っているからと、三玲がお茶を準備している間に、私は婦人に訊ねた。

「その、今後の……父の、納骨についてのご相談なんですが」

「あら、お墓については、全て瞳子さんや奥様のご意向で構わないのよ。奥様、先生とご一緒のお墓を望んでいらっしゃるのではないかしら」

 思いもかけない提案に、いえそれは、と反論しかけて気づく。確かに母は別れてから一度も浮いた話がない。私には一切、何も語っていないが、父とどこかで通じていた可能性は否定できない。

「母の希望は判りませんが、さすがに籍を抜いたあとで、芹沢の墓に入れるわけにも……かといって、お恥ずかしながら、父の実家である深尾の家とはもうあまり交流がないもので。かなり歳の離れたお兄様が二人、いらっしゃった筈ですが、どちらもすでに亡くなられたと聞いています」

 深尾の家のついての近況は、父が亡くなった後、母から知らされた。

 一応連絡はしたが、お悔やみの手紙が返ってきたくらいで、特に反応はなかったという。

「なので今のところは、別に葬るしかないかなと考えています。どうせ新しくお墓を用意するなら、こちらで捜したほうが、父も喜ぶかと思うのですが」

「ですから、たとえそうであっても、わたくし共は口を挟める立場にないですもの」

 私が再度訊ねても、婦人は、あくまで自分たちは関与できる立場ではない、との建前を崩さなかった。

「どのような場所、形であっても、先生のお墓参りはさせていただくつもりですけど。……でも、新たにとなると、結構お高いわよ、お墓って」

 それなら、と私が結論を示そうとしたとき、婦人はそう何気なく口にした。

 そして、茶目っ気のある表情をうかべて、軽く手を振る。花咲爺のように。

「それに、霊園で冷たい石のお墓に眠っている先生、というのもなんだか似合わないような……森の中に散骨とか、先生に相応しい弔いができればよいのにね」

「調べてみましたが、自然葬はこの国では許可が下りそうになくて……せめて、樹木葬のできる霊園を探すくらいで」

「月山とか鳥海山とか、日頃は誰も足を踏み入れない原生林が、庄内の周囲にはまだずいぶん残っているわよ。なんでしたら、瞳子さんが登って、こっそり蒔いてきちゃってもバレないんじゃないかしら」

 ……この人。

 いたずらっ子のような表情で、ごく自然にとんでもない提案をする婦人に、私は自分の認識を幾分改めた。

 なるほど……考えてみれば、あの人の助手を長年務めてきたんだもの。平凡な常識人の訳もないか。

 身なりもよく、父とは違う落ちついた大人のように見えたが、それは単なる表面おもてづらでしかなかったらしい。

「でも、誤解しないでね。あくまで決めるのは瞳子さんたちだから。さっきのは、おばさんのただの独り言よ」

「もぅ、お母さん、余計な独り言多すぎ。お父さん相手にもよく呟いてたじゃん、そういうの。白々しいって」

 脇から霞ちゃんが呆れたようにそう指摘したあと、私へと向き直る。

「この人の言うことは、聞き流しちゃっていいから。お店の件、あたしがなんで報告しなかったのか今のでよくわかったでしょ。……でも、樹木葬はいいと思う」

「そうね。あの人にはあっているわよね」

 私は頷き、骨壺の入った白木の箱を眺めた。

 散骨かぁ。たしかにそれが一番なんだろうけど。土に還って、ふたたび植物の源となって……きっとあの人の理想だろうし。

 でも、さすがに実行は容易でない。少なくとも、それはたとえ相手が霞ちゃんであれ、うかつに公言はできない。

「でも先生なら、埋葬の形式になどこだわらないと思いますよ」

 いつのまか、お茶の用意を終えて戻ってきた三玲が、湯飲みを並べながら話に加わる。

「たとえコンクリートで固めた墓地でも、千年もたたずに自然に還ります。土葬が許されない以上、どんなお墓でも大差ありませんよ」

「やめてよ。土葬とか、これ以上話をややこしくないで。もう燃やしちゃったんだから」

 私は三玲に釘をさす。

 その時ふと、霞ちゃんの表情が少し曇った。

 やがて、彼女はおもむろに三玲へと向き直る。

「そういえば、結局、お父さんの樹は見つからなかったんだよね?」

「そうですね。……やはり、仮に発見していたとしても、誰にも知られず更に樹が長生きできるよう、記録に残さなかったのではないですか?」

「そんな筈ないよ! お父さんがどんな人か、店長だって知ってるでしょ! 自分が気に入った植物は、世界中どこまででも探し回って、たとえどれほど貴重でも無理矢理許可を取りつけて手に入れなきゃ気が済まなかった、子供みたいな人だよ。国内最高齢の樹をみつけたら、絶対に黙っていないって!」

「もちろん承知しています。確かに以前はそうでした。でも、それは丁度先生がご自身の状態についてお知りになるタイミングだったのでしょう? でしたらお考えが変わっていても不思議じゃありません」

「……ねえ、一体何の話?」

 私は三玲の袖を引いて訊ねた。

「あれ。以前お話ししませんでしたっけ? 先生が発見されたかもしれない、国内最高齢の植物について。発見できたのか、見つけたならその生息地はどこなのか、今も生えているのか否か。全てが、未だに不明なんですよ」

「聞いてない……と思うけど」

「海外に出かけるのが体力的に辛くなってきたお父さんが、プラントハンターとして十年以上、日本中を探し回っていたのがその樹なの」

 霞ちゃんは、簡単に事情を私に説明してくれた。

「日本でもっとも長生きな樹をみてみたい、って……場合によっては、その樹で世界最高齢の座まで狙うつもりでいたみたい」

「しかし、ご病気になられてからが急だったので、結局見つかったのかどうか、はっきりとしていなくて……言いづらいですが、結局発見には至らなかった、という可能性もありますし」

「そんな筈ないよ、絶対! 病床のお父さんに14Cの年代測定の結果を読み上げたのはあたしなんだから! 一万千四百年前後と考えられる、って!」

「しかし、それが捜していた樹のサンプルかどうかを、最後まで先生は明言されなかったわけですから。もちろん、発見していて欲しいと願っていますけど」

 霞ちゃんと三玲は、それからしばらく父の研究成果について語り続けた。

 それを聞きながら、ようやく私は三玲が言っていたのがいつの話かを理解した。アルバイトを初めてすぐ、歓迎会という名目で軽く店で飲んだ時の出来事だ。

「あの時、三玲が私に訊ねたのは、遺産としてメモのような、記録のようなものがあるか、という事だけだったわよ。そんな細かい事情までは説明されてないって」

「そうでしたか。すみません」

 私が軽く拗ねてみせると、素直に三玲は謝った。その姿を、霞ちゃんがどことなしに面白くない、といった表情で眺めている。

「でも、だったら霞ちゃんの考えもわかったわ。自分で発見した、日本最高齢の樹のもとに葬られたら、あの人も本望でしょうね」

「だよね、絶対! だから残っている研究日記とか、片っ端から捜したんだけど……断片みたいなメモと文章ばかりで。そもそもその日、いったい何をしていたのかもよく判らないような日記とか」

 霞ちゃんは、悔しそうに唇を噛んでうつむく。

 私は、傍らで黙って話を聞いている婦人の様子をうかがった。

 おそらくはこの人も知っていたんだ、今の話。だから先程、散骨を唆すような台詞を口にしたのね。

「瞳子さんは、手がかりになるような情報を知りませんか?」

「ううん。私はなにも。さっきも言ったとおり、その話自体、いま初めて聞いたところだし。……でも、それなら三玲のいうように、あまり深く考えず普通のお墓にしちゃってもいいのかもね」

「えーっ。どうしてですか?」

「だって、一万年以上生きてきたなら、あの人の骨が土に還るまでのあと千年くらい、待っていてくれるでしょ、その樹も」

 私は笑って、霞ちゃんの肩をポン、と叩いた。

 それからふと、思いついて何の気もなしに私は口にした。

「でも、霞ちゃんが望むなら、普通の樹木葬にしてもいいよ。……そういえば、いま、手元に余っている樹があって、扱いに困っているんだけど。樹木葬って、霊園の決められた林に散骨するだけでなく、自分たちで樹を植えてそこに葬る、ってのもできるのかなぁ」

「余っている樹?」

 最初、訝しげだった三玲は、やがてああ、と頷いた。

「それって、もしかして屋上の隅に置いてある松の鉢ですか?」

「うん。やっぱり気づいていたんだ」

「そりゃ、どうしてあんなところに仕入れた覚えもない鉢があるのか、気になっていましたから。水やりをどうしているのかも心配で……えっと、何度か非常階段を登って屋上に出ただけで、二階には足を踏み入れていませんよ、もちろん」

 何を考えたのか、三玲は突然焦ったように手を振ったあと、不思議そうにいった。

「でも、余っている、とは? わざわざ、東京から持っていらしたんですよね、あの大きな鉢を。てっきり、なにか特別な思い入れのある大事な松かと」

「ううん。あれはただ、おじさんから……父と親しかった人から、直接託された鉢なの。私に渡して欲しいって、父の遺言なんだって。だからどんな松で、なぜ私に遺したのか、理由はさっぱり判らないんだけど……形は妙でも盆栽としての価値はないみたいだし。かといって、さすがに気楽には捨てられないからさ。由来は不明でも、もとはあの人の樹だから、樹木葬の墓碑がわりに植えちゃうのも一つの供養かと」

「はぁ。あれは先生のものだったんですか。遺言で、っていつのまにそんな……え?」

 それまで他人事のような顔で話を聞いていた三玲は突然、表情を一変させると、もの凄い勢いで私の両肩をガシッと掴んだ。

「ってことはつまり、あれは先生が遺された鉢植え? 本当ですか!?」

 怖いほど真剣な顔つきになった三玲は、激しい勢いで私の肩を揺さぶる。

 ……な、なに?

「そうなんですよね! あの松が!」

「う、うん」

 私は身体を振り回されながら、どうにか頷いた。

「だったら……もう一度、ちゃんと見せてください!」

 私の返事を聞くなり、そう叫びながら、三玲は慌ただしく屋上へと続く非常階段へと駆けていく。あっという間に、その後ろ姿は見えなくなった。



「先生の遺された松。この樹はおそらく、日本で現在確認されている中で、もっとも長寿な植物です」

 店の中央、重厚な一枚板の作業台の上に置かれた、あの松の鉢を前に、

 私たちは、そろってポカンと口を開けていた。

「霞さんの見たレポートがこの樹のものなら、最低でも樹齢一万歳以上。這い松の一種でしょうが、種名については後日改めてDNA鑑定などする必要があるでしょうね」

「……正気?」

「ええ。この樹は、この国の植物史、いや生物史を塗り替える存在です」

「はぁ」

 この、しょぼくれた松がねぇ。

 私は狐につつまれたような気分で、四月以来、微妙にお荷物だった鉢植えを眺めた。

 冗談としてはあまり面白くないから、三玲はおそらく本気で語っているのだろう。

「もちろん再度、しかるべき所で厳密に樹齢を測定していただかなければ、確定はできませんが……もし事実だったら、学会で発表すべき大発見です」

「霞ちゃんを疑う訳じゃないけど、何か勘違いしているんじゃないかなぁ。だって、一万歳のお爺ちゃんにしては、ずいぶんと小さくない? 縄文杉とか、確か同じくらいの歳だけどもっとずっと巨大だったよね?」

「屋久島の縄文杉は現在では樹齢四千年前後と考えられています。そして確かに巨大ですね。でも、樹木の場合、実はあまり大きくならない方が、寿命という面では都合がいいんです。植物は、育てばその分重くなり、折れやすく、枯れやすくなります」

「だからって、まったく育たないわけにはいかないでしょ」

「そうです。だから、極めてゆっくりと、少しずつ成長するのが理想です。……よって、世界中の本当に長寿な樹は、揃って自然環境の厳しい極地帯に生えています。屋久杉のような南方に生える植物は、巨大にはなりますけど寿命という意味ではさほどではありません。……まぁ、それでも人の数十倍は長生きですが」

 三玲は笑うと、鉢の這い松を指さした。

「数千年生き延びるためには、山火事などの自然災害に遭わない事も重要です。極寒の極地は、その意味でも適しています。……これらの知識はみんな、昌伸先生の受け売りですけど」

 三玲はそう私に説明をしながら、婦人を見た。

「そして這い松が生えるのは、高山の森林限界などです。……だから、先生が探し当てたのはこの樹で正しいんですよね?」

「……這い松は、確かに高山などの極地帯に生える植物だけど、これまで寿命は百年程度だろうと考えられていました」

 答える婦人の声は、さきほどまでとはうってかわった、低い、学者然としたものだった。

 私はその声に、この人が父を長年、助手として支えたのだと、改めて実感した。

「高山であるが故の極地は、高緯度帯の本物の極地と比較すると、夏期の平均気温が比較的高いなど植物の生存環境としては若干恵まれているの。だから、這い松がそんなにも長寿だとは誰も想像したことがなかったでしょうね。もし、先生のこの樹の樹齢が本当なら、確かに大発見です」

 婦人はそう良いながら、鉢の松に近づき、腰をかがめてその根元を覗きこんだ。

「先生はおそらく、この枯れた木質部分のもっとも古い箇所で年代測定をなされたのね」

 這い松の幹の中心部は、すでに大半が風化していた。

「寿命一万歳以上、とはいっても、当時から生き残っている部分はおそらく根の中心部分だけです。これまで這い松の寿命は、主に年間の生長量とその樹高から見積もられていました。でも、それは地上部分の寿命でしかありませんから、幹が倒れて枯れても再び同じ根から新たな幹が育つのだとしたら、理屈では記録的な長寿も不可能ではないわ」

「ある程度育って、雪の重みや風で幹が折れても、残った根から新たな芽が出てきて、を一万年も繰り返していたってこと? そんな都合のいい植物、あり得るの?」

「這い松は、松にしては珍しく伏条更新といって、幹や枝の地面に埋もれた部分から根を出して、新たな株となれるの。森林限界で生き延びてきただけあって、強い植物なのよ。極地の厳しい自然環境下では、種が芽を出して新たな樹に育つ確率は限りなく低いから、そうでなくては絶滅していたでしょうね」

 婦人は霞ちゃんにそう答えてから、愛おしそうに松葉をそっと撫でた。

「季節風の強い地帯では、風下側の枝が地面に接して新たな根を張り、風除けになった風上側の枝が枯れる。これを繰り返して、結果的に生きた植物群が地上をゆっくりと移動していく現象すら起こす程よ。この樹の場合は、同じ場所で張った根から、幹が枯れる度に幾度となく繰りかえし枝を伸ばし続け、一万年の時を生き延びてきたのでしょうね」

 私は、婦人に訊ねた。

「晩年の父の研究テーマは、植物の寿命に関することだったんですか?」

「研究テーマというか、目標ね。長生きな植物を沢山発見して、彼らを守る、そう意気込んでいらしたわ」

 婦人は、ふっと微笑んだ。

「たとえば、ただ『地球温暖化を防いで、高山の這い松を守りましょう』と訴えるのと、『日本最古の、樹齢一万歳の松を守りましょう』では世間に与えるインパクトがまったく違うでしょう?」

 同意を求められ、私は頷いた。確かに、話を聞かされるまではただの貧相な松にしか見えなかったのに、今ではどことなく風格めいたものすら感じる。

「先生は以前に、関西でとある竹林の保護運動に関わったことがあったの。室町時代の古地図にも記されている竹林だったから、先生は樹齢七百歳以上の竹林だ、といって行政にかなり強く意見されたわ。でも、誰もその話を信じてはくださらなかった。そんなに長い間、この竹が生きてきたとは思えないと」

 その記憶はおそらく、婦人にとっても苦い物なのだろう。

 語る表情はどこか苦しげだった。

「ご承知だと思うけど、14Cよる年代測定は、死んだ植物組織にしか使えない。でも、竹は枯れればすぐに朽ちてしまうから、寿命を計るのに適当な組織は残らないわ」

「竹は、ごく希に花が咲いてもほとんど種を残しませんから、たしかにその竹林は室町時代の生き残りでしょうね。もっとも、その意味ではこの国に生えている竹はほぼ全てが、中国から伝来した室町以前からの古老と考えられますけど」

「その一件以降、先生は植物の年齢に注視されるようになった。海外の秘境まで出かけずとも、興味深い植物は身の回りにまだまだあるのだな、とね。最上川の河原を指さして、あのススキたちは大和朝廷の東征をその身で知っているかもしれない、と興奮なさっていたのが忘れられないわ」

「仰っていましたね、確かに。ススキは野焼きされても真っ先に葉を出す極めて強い植物です。多年草のススキがはたしてどれほど長期間生きられるのか、確かな答えを知っている植物学者はどこにも居ない、とも」

 しかし、東北地方が占領されたのはたしか千三百年くらい前の事件だ。河原に普通に生えているただの草が、そんなにも昔から生き残っているものだろうか。

 だが植物学者とは、それを信じて疑わない人種らしい。

「多年草の年齢を計るのは、竹以上に困難だから……いくらそんなものを調べたって、護岸工事を止めるなど不可能なのにね」

 淡々と語り合っていた婦人と三玲は、顔を見合わせて微かに笑った。それは互いに、共通の相手を偲んでの笑みだった。

「それにしても、そんな先生のプラントハンターとしての最後の成果が、瞳子さんの元に託されていたとは想像だにしていませんでした。良かったです、見つかって。だけど、絶対に発見しているって……さすがは霞さんの予想通りでしたね」

「だから言ったでしょ。あのお父さんは、自分が本気で欲しくなったら草の根かき分けででも絶対にみつけてくるって」

「本当にそうでしたね。だとしたら……ああ」

 霞ちゃんと、手をとりあって喜んでいた三玲は、ふとポン、と手を打った。

「もしかしたら、先生が大学を退官して、この店を始めようと考えられたのも、その松と関係があるのかもしれません」

 そう言うなり、三玲は松の鉢を抱えて、店の奥の壁際へと歩み寄った。

 そしてその鉢を、それまでずっとただの荷物置きとして使われていた壁に空いた不自然なくぼみへと、そっと下ろす。

「ほら、やっぱり! そうですよ。先生はこの松を展示する場所として、店を始めようと考えられたに違いありません!」

 確かに、その作りつけの棚は、しつらえたかのように松を飾るにはぴったりだった。

「ここは、自分にとって理想的な作品の展示場所でしたけど、先生にも同様だったんですよ」

「そうか。だから急に、お父さんはお花屋さんを始めよう、なんて言いだしたんだ」

「普通の花屋にはしないと、最初から決まっていましたからね。それにしても、さすがは昌伸先生だ。こんな隠し球を用意していたなんて」

 盛りあがる二人を尻目に、私はげんなりとして椅子に座りこんだ。

 自分の発見した樹を見せびらかして自慢したいから、ってだけの理由で、仕事を辞めて採算度外視の店を開く、って……一体どんだけガキなのよ、ねぇ。

「日本最高齢の樹があるとなれば、この商店街だってもっと活気づきますよ」

「そうそう、這い松まんじゅうとか売り出す店が現れるんだよね、絶対」

「盛りあがっているところを悪いけどさぁ」

 私は、低い声で三玲に訊ねた。

「日本最高齢の樹、って……勝手に山から引っこ抜いてきて、いいものなの?」

「それは……せ、先生のなさることですから。一応、環境省や林野庁の許可は得ているのでは?」

「にしても、それって、ただの這い松を一本移植する、ってだけの許可でしょう? それが日本最高齢の樹となったら、話は全然違ってくるんじゃない? 法的にはともかく、植物学者のマナーとしてはアウトだと思うけどな。確実に」

 私の指摘に、三玲と霞ちゃんは黙りこんだ。

 実際、これがもし本当に日本最高齢の樹だとしたら、のんびりと店に飾って済む代物だとは到底私には思えない。広告効果は確かに絶大だろうが、かなりの爆弾を抱え込むことにもなる。

「樹はやっぱり自然に生えていてこそ、でしょ。下手したら、いやしなくても、世間のバッシング受けまくりになるわよね、あのバカ親父」

 私は、自分の心配が杞憂に終わるとは到底思えなかった。

 もしかしたら、二人とも内心ではその可能性に気づいていての空元気だったのかもしれない。先程までとは一変して、店内は新盆に相応しい沈んだ空気に包まれる。

 だが、そんな雰囲気を婦人がのんびとりした口調で四散させた。

「ううん、そんなことはないわ。おそらくは、あの人も全て判っていて、だから退官して店を始めよう、なんて考えたんでしょうけど」

 もし万が一騒ぎになっても、大学に迷惑をかけないように、と婦人は続けた。

「でも、それほど神経質にならなくても大丈夫よ」

「どういう意味ですか?」

「最初、這い松がこれほど長寿だとは、さすがのあの人も予想していなかったでしょうね。定説の百年を超えて、千年くらいは経っているかもしれない。そんな軽い気持ちで抜いてきて、年代測定に出したのじゃないかしら」

「かもしれません。でも、意図的ではなかったにしても、それほど高齢の樹を本来の生息地から引き抜いてしまったのは、やっぱり非難されても仕方がないと思いますけど」

「そうね。でも、這い松がこれほど長寿な生き物だと知れ渡ったら、皆、もっと多くの松で年齢測定を始めるわ。だって、樹齢一万歳の松なら確かに良い観光資源になるもの。そして、この這い松が縄文杉のような特別な一本でない限り、更に長寿の這い松が日本のどこかですぐみつかると思う」

 だから心配いらないわよ、と婦人は私にむかって微笑んだ。

「這い松は群生する植物よ。少なくとも同じ生息地の這い松には、同様に長寿の樹があると考えるべき。……これで、先生の最後のお願いの本当の意味が、ようやくわたくしにも判ったわ」

 婦人は、生前の父から、研究助手として幾つかの指示を受けていたのだと語った。

 それは全て自然界の植物に関することだったが、中でも特に、希少植物の生息地として保護を頼まれた地域があるらしい。

「国立公園中の植物を、今以上に厳しく保護するなんてどうすればいいか、途方に暮れていたけれど、この松さえあればそれも叶うわ」

 本当に……死んでから後まで、人騒がせな。

 それから私たち、主に私と婦人は、この松の今後の取扱いについて話し合った。やがて、松そのものはしばらくの間、これまでどおり店で管理し、学術的な報告などは婦人に任せることに決まった。

「なら、とりあえずこの松は店のシンボルで構わないんですね」

「芦立くんなら枯らすことはないだろう、と信頼しているから。お願いよ」

「もちろん、精一杯の管理をします。……瞳子さんも、手伝ってくださいね」

 私はコクコクと無言で首を振った。改めて、この数ヶ月のずさんな扱いを振り返ってゾッとする。枯らさなくて、本当によかった。

 松の扱いが決まったところで、霞ちゃんがふと呟く。

「でもさぁ、日本最長寿の松に『注文の多い花屋』とくると、ちょっとキャラが多すぎて、店としてはうざったくない?」

「また、なにをバカな心配を……松はいずれ、しかるべき植物園にでも譲り渡す事になるから大丈夫よ。ここに飾っておくのは今だけだから」

「ふーん。……お姉ちゃん、すっかり本気で花屋、続ける気になってるんだね。しかも店に残すのは『注文の多い花屋』の方でいいんだ、すでに」

「そういう意味じゃない。それに認めてないから、その渾名は!」

 再び、騒がしくなり始めたのを見計らって、婦人は湯飲みを置いて腰をあげた。

「それじゃ、そろそろお昼に行きましょ。私、すっかりお腹が空いちゃったわ。先生の供養だもの、今日はとびきりのお寿司にしましょうね」

「やった! お父さんもお寿司、大好きだったもんね」

「確かに。海産物が美味しいのは酒田の数少ない美点だ、って仰ってました」

 霞ちゃんの歓声に、三玲が呑気に頷く。

 それしか認めていない街で、花屋なんて始めないでよ、まったく。

 内心でそうぼやきながら、私は恐る恐る、婦人に訴えた。

「あの、でも私実は最近その、忙しくて銀行とか寄れなくて、お恥ずかしい話ですけど、持ち合わせがあまり……」

「そんなの、お店の売上げ、使い込んじゃえば?」

「霞。……あら、そんなつまらないことを気になさらないで。先生のお嬢様ですもの。私にとっても娘同然だわ。奥様にもくれぐれもよろしく、と頼まれているし。今日は景気よく、先生のお好きだったノドグロの握りとか」

「ありがとうございます。ご馳走になります」

 こら、三玲! この裏切り者!

 その後も必死に抵抗した私だったが、所詮年の功には勝てなかった。

 戸締まりを確かめ、店のドアを閉める。その前に、私はこっそりと、脇に片づけられていた写真を初めてちゃんと眺めた。

 写真の父は、笑っていた。



「お寿司、お寿司」

 昭和の子供のように、霞ちゃんが謳いながらステップを踏む。

 その後ろで、私は三玲に訊ねた。

「だけど松の件、ほんとうになにも聞かされていなかったの? 一緒に店を開く予定だったんでしょ」

「そうですね。言われてみればそれらしい話もありましたけど、事情がわかるまで全然気がつきませんでした。霞ちゃんから訊ねられていたのはあくまで、最高齢の樹の生えている場所、でしたし。まさか、先生がすでに手元に持っておられたとは」

 三玲はそう言ったあと、微かに笑った。

「あの名が、先生発案だったのも驚きでした。確かに、地方都市で新たに花屋を始めるなら、通りの良い渾名の一つもあると楽ですよね。ご自身の名前をつけた店名は隠すようにとことさら指示されたのも、そんな広告戦略の一環だったんですね」

 本当に、そこまで深く考えていたのかなぁ。

 結局、父の実像は私にはわからないままだ。賢い、とても思慮深い人間のようであり、純粋といえば聞こえが良いが、単なる欲望に忠実な子供のようでもある。

「だけど、愛されていたじゃないですか」

「はぁっ?」

 そんな一言と共に突然、三玲にポン、と背中を叩かれ、私は素っ頓狂な声をあげた。

「誰が? 誰に?」

「瞳子さんが、昌伸先生に、ですよ。決まっているじゃないですか」

 狼狽える私に、三玲は穏やかに微笑みかけてくる。

 こうしていると、本当に美形だ。日頃の残念な言動を忘れそうになるほどに。

「人生の最後に見つけた松と、始めたばかりの大切なお花屋さん。どちらも、瞳子さんに残されたんですから」

「……それって、暗に自分と花屋を続けられるのは凄いんだぞ、って誇ってない?」

 改めて指摘され、胸にこみあげるものがあったが、私はそれを隠すために憎まれ口を叩いた。

 私の強がりを見抜いてか、三玲はなにも反論しなかった。

 そのかわりに、三玲は自分の知るあの人について、穏やかに語りだした。

「とても人として面白い、活動的で、不器用な方でしたよね。そしてなにより植物を愛されていらした。にもかかわらず……自分も、人間の相手をするより植物と触れあっていたい、昌伸先生と同じ側の人間です。しかし昌伸先生は瞳子さんのような、誰より信頼できるお嬢さんを遺された。この点は率直に羨ましいと思いますね」

「だったら、お店に独りよがりな花ばかり生けてないで、『注文の多い花屋』として、もっと積極的に世間と関わるのね」

「そうですね。昌伸先生が店に渾名をつけてくださったのは、まさにそんな理由からかもしれません。胸に刻んでおきますよ」

 三玲は頷くと、再び優しく笑った。その表情に、胸が微かに痛む。

 その笑顔があれば、その気になれば子供の二人や三人、すぐに作れるわよ。

 なんとなく面白くなくて、私が再び憎まれ口を叩こうとした時、突然、先頭を歩いていた霞ちゃんが振り向いた。

「そうだよ、お姉ちゃんはずるい! お店も松も店長も、大切なものは全部お父さんから譲ってもらって! あたしにはお金しか遺してくれなかったのに!」

「そのお金こそなによりの愛情の証なんじゃないの?」

「換金できる愛情なんて、本物じゃないよ!」

 笑いながらふざけた口調で叫んではいるが、よく見ると、目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 ……気持ちはまぁ、理解できる。

 私は愛されていない子供だったの? と自問自答していたのは、昨日までの自分も一緒だから。

 この子が見つからない樹の行方を必死に捜し続けていたのも、私と同じ、父の気持ちを確かめたい一心からだろう。お互い、欲しかったのは遺産ではないのだ。

 私は霞ちゃんに歩み寄り、その肩をそっと抱き寄せた。

「じゃ、その分は私が払うってことで、どう?」

「払う、ってそんなの、気持ちなんて」「私のこと、お姉ちゃん、って呼んでも許すことにするから」

 そのまま、有無を言わさずその細い身体をギュッと抱きしめる。

 そして、耳元に口を寄せて囁いた。

「あの人だって、本当は霞ちゃんにお花屋さんを譲りたかったんじゃないかなぁ。でもお店の権利とか、法律に関するいろいろは成人じゃないとやっぱり無理だから。それで私にまわって来たんだよ、きっと」

 正確には、押しつけられた、というべきだろうけど。

「お店のおまけの三玲はまぁ、応相談でいつでも譲ってあげるから」

「嘘つき。実は結構気に入っているくせに」

 私の腕の中で、霞ちゃんはそれほど抵抗しなかった。

「それに、お店よりなにより、あの松をあたしに預けてくれなかったのが、一番悔しい。植物の世話についてはずっとお父さんから教わっていたのに。どうして、お姉ちゃんなんだろう」

「それは……」

 霞ちゃんのもっともな疑問に、私は声を失って黙りこんだ。さすがに、こればかりはとっさによい言い訳が思い浮かばない。私は鉢植えの世話など、じょうろで水をやるくらいしか思いつかない。正体を知り、この数ヶ月で枯らさず本当によかったと、人知れず胸をなで下ろしていたくらいだ。

 困り果てた私の後ろから、ふと、三玲の声が聞こえた。おもわず振り向く。

「でも、いいなぁ」

「あら、なにがいいの」

「無論、さっきの松ですよ」

 並んで歩いていた婦人が何気なく問いかえすと、三玲は笑みをうかべて、あの松について語り始めた。

「本当に格好いいですよね。やっぱり雰囲気も違うし。実は屋上で見かけた時から、密かに、この樹いいなぁ、って狙っていたんですよ」

 それは、私や霞ちゃんなどには一度も向けたことのない、喜色満面の笑顔だった。

「あれはぜひ、いつか生けてみたいですね」

 ……はぁ?

 その瞬間、私は思わず、自分の耳を疑った。

 こいつ……いま、なんていった?

「生けてみたい、っていうのはつまり、あの鉢を中心に、飾るように花を生けたい、ってことかしら」

「それも決して悪くないですけど、あれほど風格のある松だと、やっぱり立華が相応しいと思うんですよね。砂物にぴったりですよ。いや、久しぶりに立華が生けたくなったなぁ。現代花もいいですけど、古典には古典の美しさというものが」

「三玲、まさかとは思うけど」

 おもわぬ話の成りゆきに、私は素早く振り向き、問いただした。つい、声が険しくなるのは抑えられなかった。

「それってもしかして、あの松をチョキンと鋏で切って、器に生けたい、って意味? 違うわよね? だっていきなり根元から切ったら、さすがの這い松でも枯れるものね?」

「ええ。確かに松の株を残すのは厳しいかもしれません。でも、そうしなければ立華は生けられませんから。……樹齢が一万年でも二万年でも、生ある植物はいつか枯れるわけですし」

 三玲は、ごく平然と頷く。

「だったら、自分が生けたほうが植物にとってもいいじゃないですか。保証します。あの這い松でなら、最高の一杯になりますよ、絶対に」

 その返事を聞き、私は、霞ちゃんと互いに顔を見合わせた。

 だって……ありえなくない?

 一万年、生きてきた樹を、この手で切って枯らしても、って……

 自分が、生けてみたい。ただ、そのためだけに。

 いくら最高の花材でも……切る? 普通?

「うん、あたし、やっぱりあの松はいい」

 私の腕の中で、霞ちゃんは突然、ボソッと呟いた。

「お父さんが、あの鉢をどうしてお姉ちゃんに託したのか。いま、やっとわかった」

 私は、大きく息を吸いこんだ。

 なるほど。

 これは確かに、一筋縄ではいかない。想像以上に、あらゆる意味で『注文の多い花屋』だ。

「……三玲! あんた、ちょっとここに来て座りなさい!」

 私は大声を張り上げつつ、真夏の太陽で灼熱の地獄と化した、アスファルトの歩道を指さした。

 身近で植物の扱いについて自ら教えた霞ちゃんにではなく、没交渉だった私をわざわざ遺産の受け手に選んだ理由。確かに、今なら私にもよく理解できる。これは霞ちゃんには、いささか荷が重かろう。

 ふと、三玲のあの一言が、否応なしに思いだされた。

 ――先生とは、同時に植物をめぐってのライバルでもありました。

 私を娘として愛しているとか、いないとか、そんな感情はきっとあの人にとって些末な問題で。

 結局、父が私に言い遺したかったのは、簡単なことに違いない。


 店を……そしてこの松を守れ、と。戦えと。

 目の前で嬉しそうに笑っている、とても困った花狂いから。

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注文の多い花屋 早狩武志 @hayakari

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