夜はコアントロー
しいたけ
夜はコアントロー
あの日と同じバーカウンターで彼と話した。窓に張り付いた雨粒が、東京タワーの明かりを濡らしている。
「きみにそう言ってもらえるのはすごく嬉しい。でも、僕はもう終わってたんだと思う。はじめからずっと、何もかも手遅れだったんだよ」
絞ったレモンを灰皿に捨てた。俺がその上に灰を落とすと、透明な果肉は黒く汚れてぐちゃぐちゃになった。
「僕たちはどう見えてるんだろうね」
「さあね」
「悪いことなんて一つもしてないように見えたらいいよね。なんだか、世界に二人になってしまった気分だよ」
たった六週間だ。二ヶ月にも満たない時間で、彼も俺も、すべて変わってしまった。あいつが俺に話を持ちかけてきた日を遠い昔のことのように感じる。
血の匂いがしないか? 彼がそう言ったのを、俺は否定できなかった。
1
彼とはホテルの四十五階にあるラウンジで待ち合わせた。ガラス張りの窓のカウンター席に、既に彼がいる。隣に腰掛けると彼は俺のほうを見もしないで話した。
「もうチェックインは済ませたよ。あの人から聞いているかもしれないけど、後で色々説明する」
「はいはい。何飲んでるんですか」
「ヴェルモット」
「へえ、赤くてきれいですね」
ウエイターを呼び止め、ジントニックをオーダーした。それを二杯飲み、煙草を吸って、部屋に向かった。
おさえられていたスイートは最上階にあった。エレベーターのボタンを押して、扉が閉まると同時に俺は彼にキスをした。抵抗する彼の腰をがっちり掴んで、食いしばった歯を舐めているとき、音を立てて扉が開いた。乗り込もうとした宿泊客と目が合う。エレベーターの中で男同士がキスしている、それを見てぎょっとした様子の間抜け面を睨みつけて閉ボタンを押した。やがて最上階に着いたエレベータは停止し、解放してやると彼は激昂した。
「部屋まで待てないのか!」
「大声出さないでくださいよ。気分くらい高めさせてくれたっていいでしょ。お互い好きでもないのとやるんだから」
すると静かになった。横顔が赤い。お互い無言で部屋に向かった。部屋に入ってすぐ彼の後頭部を掴んで、ドアに押し付けて後ろからやった。早くもズタズタになり、へたりこむさまに苛立ったので蹴飛ばした。シャワーを浴びたい。
この部屋はバスルームだけで俺の自宅マンションほどの広さがある。この部屋をおさえた上司の財力には驚かされるばかりだ。
あれに突然呼び出されたのは一週間前だった。丸一日休暇をやるから、自分の恋人と寝てほしい。上司は言った。当然のことながら俺は断った。なんでこいつの変態趣味に付き合ってやらなきゃいけないんだ。ていうか恋人って誰だよ? しかし、奴が小切手と万年筆を俺に差出し、好きな額を書いたらいいと言ったので揺れた。当然のことながら。
そして、条件を呑んだ。今日という日が近づくごとに憂鬱になったが、約束通り振り込まれた額は、嘘偽りなく微笑みかけてくれている。
バスルームから出ると、あの上司の恋人とやらは、心底嫌悪した目つきで俺を睨んでいた。
「まだ何も説明していないだろう」
「あんたを好きにしていいって聞きましたけど」
「きみにはしてもらいたいことがあるんだよ。初めは僕の指示に従えと言われなかったのか」
そういえばそうだった気もする。俺にとってはどうだっていい。ソファに座った彼はアタッシュケースを開けた。
「電源を切って、スマホをここに入れて。何か持ってないよね? 録音とか、録画ができるもの」
「そういうあんたは?」
「早くしてくれ」
苛々と言う彼はデジタルカメラを取り出し俺に手渡した。
「なんですか?」
「これで、してるときに、僕を撮ってほしい。終わったら返して」
「へえ、そうなんですね」
にわかに興奮してくる。
「これ、一緒に見るんですか?」
カメラを指でとんとん叩く。他の男と寝ているところを見ながら、また獣姦に励むんですか? とは言わないでおいた。睨みつけてくれることを期待していたのに、眉を下げて悲しそうに「違うと思う」と俯いた。
「え?」
「僕もシャワー浴びてくるけど、いいだろ」
「どうぞ。盛り上がるといいですね」
指示通り何枚か撮ってやった。最初の夜はただそれだけで終わった。
その夜以来、しばらく上司からの音沙汰はなかった。彼も彼で、素知らぬふうで仕事をしている。俺に話しかけてくるのときもあくまで平静だ。彼の澄まし顔はめちゃくちゃ笑えた。昼と夜であまりにも違う。
そんなことも忘れかけていた頃、また上司に呼び出された。
2
カメラは今日はいらない。彼は言って、前回と同じように俺からスマホを没収した。
代わりに煙草のボックスを手渡された。開けてみたが、なんの変哲もない煙草だ。若干シワがついていること以外は。
「これってもしかして」
「今日はバーベキュー」
彼は悲しげに笑っている。
「あの人が仕入れてくるのは全部本物だよ。で、ここにある錠剤が、抜けてきたときの最悪な気分をマシにする薬。これ使ってやってこい、だって」
怖い? そう尋ねられたが、俺だって大学のときにやったことがあるし、今更怖くもなんともない。
すぐにやってきた陶酔感のなか、二回した。だんだん食欲が湧いてきてひたすらルームサービスを頼んだ。ふらふらしながらシャンパンをラッパ飲みして、口移しで彼にも飲ませ、もう一度した。
空になって床を転がるモエ・エ・シャンドンを眺めていると、やけに詩的な気持ちになって、二人で映画チャンネルを回し、シラフじゃ絶対に見ない恋愛映画なんかを見た。失恋した記憶を消す海外の映画だ。彼はそれを見て「絶対に忘れたくない」と呟いた。
「なにをですか?」
「忘れてはいけないこと」
「ふうん」
俺は彼より先に眠ってしまい、起きると朝だった。先に帰っていると思ったのに、彼はまだベッドにいた。なんで帰らなかったのか聞いたら、きみがいたから、と返された。
3
彼と寝るのは大体週に一回だった。
自分の好きな奴には絶対できないであろう欲望を、彼で解消する。そのたびに大金が振り込まれた。俺はストレス解消ができる。奴らもプレイの幅が増えてみんなハッピー。はじめはそう考えていたが、三度目、四度目の夜を終えたあたりから、俺にはどうにも奴らの仲が健康的であるように思えなくなっていた。
彼らは俺のいないところで頻繁に口論をしている。これは理屈ではなく直感だ。彼らの関係はとっくの昔に終わっている。
上司は苛立って彼に当たり散らす。彼は何か言いたいのをぐっと堪えて下を向いている。俺はなにをしているんだろう。上司と欲望の言いなりになって、ただ傍観しているだけの俺は。
4
五回目。また上司は俺に小切手を書くように言ったが、ゼロと書いて突っ返した。眉根を寄せた上司は、それでもホテルを取ったらしい。きっとどうしようもなくバカなんだろう。バカに付き合っている彼もバカで、バカ同士の恋愛を眺めている俺が一番バカだ。
当日の夕方、彼に声をかけた。
「今夜メシ行きません?」
「急だな」
「もう予約しちゃったんですけど。ホテルに連絡してチェックイン遅らせてもらえばいいでしょ」
「強引だね。いいよ、付き合うよ」
彼はぼんやり微笑んで、仕事に戻った。
俺は彼の好きそうな店を急いで調べ予約を入れた。彼が喜んでくれたので、俺も嬉しかった。誰かが喜ぶことで嬉しいと思える気持ちが、俺にもあったことに驚く。一応ホテルにも行ったが、彼を責め立てる気になれず、服を着たまま雑談をして終わった。
夜も更けて電車がなくなった頃、予め呼んでいたタクシーに彼を乗せた。
「送ってくれるのなんて初めてじゃないか」
「そうでしたっけ。じゃあまた」
「待ってよ。僕の部屋来る?」
「いや、いいです」
「じゃあきみの部屋は?」
適切な言葉が見当たらない。タクシーの運転手の視線がわずらわしかった。俺は乗り込み、行き先を変更してもらった。
「きみ、優しいんだろ」
几帳面にシートベルトを締めながら彼は笑っている。
「なんでそう思うんですか」
「わかるさ。きみはシャイだからそれを誤魔化してるだけだよ」
「じゃあそういうことで」
俺の部屋に着いてから一度だけセックスした。コンビニで買ったビールを飲み、煙草を吸いながらくだらないテレビを見て、眠った。これで最後になるとは、そのときは思いもよらなかった。
5
そして六回目の夜。
待ち合わせの時間に、彼は来ない。神経質な彼が遅刻だなんて珍しい。電話をかけたが通じなかった。
外では雨が降り始めている。二時間が過ぎて、ようやく彼はやってきた。泣きそうな顔だ。
「遅れて悪かったね、着替えてたから。少し飲んでもいい?」
「構いませんけど」
コアントロートニックを彼は飲んだ。そして、殺しちゃった、と呟いた。
「なにをです」
「人間だったもの」
驚いてグラスを落とすところだった。
「はい? 誰を」
「わかるだろ?」
上司の顔が過る。
「今日さ、行くなって言われたんだよ。自分でセッティングしたくせに」
煙草に火をつけ、それをゆっくり吐いた。彼はそうしながら、どこか別の世界の、他人の話をするみたいにして少しずつ話を始めた。
「自分を選んでほしかったんだろうね。僕が行かないことを望んでたんだ。でも僕はもう何もかも耐えられなかったんだよ。弱みを握られて服従させられるのも、盾にされるのも、自由を奪われるのも、全部疲れた」
俺は黙ってそれを聞いている。
何も見ていなさそうな目をして、彼は少し口角を上げた。
「僕は気付いた。暴力は心の弱さに打ち勝つただ一つの方法なんだってわかったよ。あの人をメッタ刺しにしてるとき、本当に気持ちがよかった。暴力は絶対的な支配だ。今までずっと言いなりになってきた僕があの人を支配しているのかと思ったらアドレナリンが信じられないくらい出てあの人の肉とか内臓とかが飛び散ってもう死んでるって分かってるのに刺し続けたよ何回も何回も何回も何回も」
夢見心地な彼の背中をさする。
「どこか遠くへ行きませんか。まだ間に合うでしょう。金ならあるんです」
彼は俺を見て、かぶりを振った。
「……わかりました」
せめて、彼が飲んでいるのと同じコアントローを飲んだ。焼けつくように甘いのに、後には何も残らなかった。
きれいだ。彼が煙草を吐き出した。
「なんです?」
「東京タワー」
6
あの夜から彼とは会っていない。
件の殺人は次の日大きく報道されたが、すぐに他の悲劇に上書きされ、一年もすれば誰も思い出さなくなった。
彼がどうなったのか、俺は知らない。ただ、もう二度と会うことはできないんだと感じる。
夜の東京タワーの明滅。あのあかりを、俺は一番初めに思い出す。
窓を濡らした雨粒。彼の吸っている煙草の匂い。二人で映画を見て感じた胸の痛み。湿った汗が混ざり合う感じ。服を着たまま抱き合ったこと。そして、あのとき飲んだコアントローの焼けつくような甘さ。
これで全部だ。
春の喜びも、夏の朝の空気を吸うことも、枯葉の侘しさに手を握り合うことも、寒い冬を寄り添って過ごすことも、絶対に叶えられない。
全て忘れ、過去に消えた思い出をいつか懐かしむだけなのだと分かっている。
別れ際に「じゃあ、元気で」と言った彼が、笑っていたのか泣いていたのか、もう思い出すことができないのだから。
俺にはそれが、ひどく悲しかった。
夜はコアントロー しいたけ @hirokundie
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