1.3 立日

「父さん!」


 家の中は立っていられないほどの煙が充満していて、凪は四つん這いにならざるを得なかった。皮フ全体を熱線に貫かれ、体内からあぶられているような錯覚がし、息をするたびに苦い煙が肺に入ってきて咳き込んだ。それでも止まっている暇はなかった。凪の目から見ても全焼までに猶予はなかったからだ。

 袖で煙を吸わないように口を塞ぎ、少しずつ進む。目指すは鉄郎の居室だった。いつもなら玄関から数歩でたどり着ける場所が、今は千里よりも遠く感じる。赤色に支配された世界が現実的な感覚を麻痺させる。


 凪は雑念を追い払うためにかぶりを振った。にじるように近づいてくる火を手で払う。すぐに止まろうとする体に鞭打ちながら、廊下を右手に曲がり、突き当たりの部屋を目指す。

 部屋に近づくにつれて火の手が強まっている。もしかしたら、鉄郎の居室が火の元かもしれなかった。

 ようやくたどり着いたドアを、身を伸ばして、強く叩く。


「父さん、父さん!」


 返事はない。ドアに寄りかかるようにして立ち上がり、凪は熱を帯びたドアノブに手をかける。何度か試しに回してみて、鍵がかかっていないことを確認する。凪が部屋に入ってうっかり大切な書類をみないように、外出するときに鉄郎は必ず鍵をかけるのだ。ここに鉄郎がいると凪は確信した。鼓動の音がやけに騒がしく聞こえた。


 おそるおそるドアを開ける。軋みながら開くドアの隙間から、徐々に部屋全体の一望が明らかになった。

 凪にとって鉄郎の部屋の中を見るのは初めてのことだった。それでもその異変には容易に気がつけた。無造作という域を越えた荒れ様は、まるで工具箱を逆さにして中身をバラまいたようだった。壁を隠すように置かれた本棚からは様々な本が落ち、床でくすぶっている。西洋甲冑やルームライトは倒され、割れたライトがガラスの破片を散らばらせている。誰かと誰かが争ったような形跡を辿っていくと、自然と視線は奥の仕事机へと向かった。凪は仕事机に近づき、そっとその裏を覗き込んだ。そして、ショックでのけぞることになった。

 そこには一人の男が倒れていた。男はただ倒れているのではなかった。うつぶせになった背中には炎で怪しく揺らぐ1本のナイフが突き刺さっていた。そこから湧き出した血が円状の染みを床に描いている。


 その男は、鉄郎だった。


 嘘だ、と頭の中で声が反響した。火の粉が爆ぜる音が間欠的にしていたが、凪にはもう聞こえていなかった。凪は盲人のように手を泳がせながら、鉄郎に歩み寄った。鉄郎の瞳は、あの少年のように輝いてた瞳は、濁りきったガラス玉になっていた。凪は手を伸ばし鉄郎の体に触れようとしたが、弾かれたように引っ込めた。がらんどう、何か大切なものが欠落した体は、骸以外のなにものでもなかった。自然と目に涙が溢れ、体をくの字に曲げて凪はそれをこらえようとした。


「嫌だよ、独りぼっちは......嫌だよ」


 そうなるくらいなら、もう生きていたくない。その背後で梁が大きな音を立てて崩落した。家が燃え尽きる前に倒壊するかもしれないなと、どこか冷静な頭で凪は思った。


 世界は涙でぼやけ始めて、このまま虚ろな世界に旅立てればどれほど楽だろうかと思えた。凪は腕で涙をぬぐい、改めて鉄郎の骸に近づき、開かれた瞼をそっと閉じさせた。それから、血で汚れていないところに膝を抱えて座り込んだ。鉄郎を殺したのが誰でも構わなかった。誰であろうともう鉄郎は帰ってきてはくれないのだから。


 どうして辛い目ばかりにあうのだろう


 膝に顔を埋めようとしたとき、キラリと光るものが床に落ちているのが見えた。金色をした真円のペンダント、それは鉄郎がいつも首にかけていたものだった。もみ合いの最中に引きちぎられたのだろう、首にかける金属部分が途中で途切れ、落ちた衝撃で蓋が開きっぱなしになっている。

 凪はペンダントの中身を知っていた。それは凪が生まれたばかりのときに家族で撮った写真だった。赤ん坊の凪を抱いた母と鉄郎の写真がこちらに笑いかけている。凪はじんわりと熱いペンダントを拾った。


 写真をよく見ようと顔を近づけた時、蓋の裏に不自然な傷がついていることに気がついた。ピックのようなもので無理矢理に、4つのローマ字が掻き傷のように刻まれている。凪は傷を指の腹でなぜ、瞳を閉じた。


N O I R


「NOIR......」


 意味はわからない。けれどその言葉を唱えた時、凪は瞼の裏に深淵を見た。際限のない深淵を覗き込むと、何もないはずの底からなにかがこちらを覗いている。とはいっても見えるのはどこまでも一色の黒い穴だけだ。見えざる視線の持ち主は凪に「なにが望みだ」と問いた。

 凪は「わからない」と答えた。

 「それはなぜだ」と聞き返される。

 凪はそれも「わからない」と答えた。


 わからないけれど、愛してくれる両親が帰ってきて欲しい。

 わからないけれど、誰かに愛して欲しい。

 けれど、それは望みなんかじゃないことはわかっている。

 それは望みを叶えるための方法だ。

 それじゃあ、ホントウの望みとはなんだろうか。

 

「自らの望むものを知る前に、自らの生をあきらめるのか」


 背後から、深い、腹の奥に響く男の声がした。凪は目を開き、煤で汚れた顔を背後に向ける。触れたら吸い込まれてしまいそうな黒が、凪の入ってきたドアの前に立ちはだかっていた。


「問おう、お前の望みはなんだ」


 そこにいたのは、ゆうに天井に届くほどの、漆黒の鳥だった。

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鋼ノ翼 小柴 ケン @shibamaru0179

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