1.2 立日

 一人きりの掃除が終わった頃には16時近くになっていた。周回バスの中は凪と同じような学生や早上がりのサラリーマンで混み合っている。

 凪は玄天区画にある自宅から幽天区画にある中学に通っていた。

 凪の住む空島は全部で9つの区画に分かれており、中心の鈞天区画を囲うように一番北側の玄天区画から反時計回りに幽天・昊天・朱天・炎天・陽天・蒼天・変天区画が位置していた。それらの区画を包むように高い壁が建てられており、さらにその向こう側には広大な空が広がっている。凪の住む場所は空に浮かぶ一つの巨大な島だった。


「あれ、揺れてない?」


 窓の外を通り過ぎる積雲を眺めていると、近くに立っている女子高生二人組の片方が呟いた。車内の幾人かが不安そうに顔を上げるなか、バスの揺れとはかすかに違う小刻みな揺れが数秒続いた。それもすぐに収まった。


「なんだか最近、揺れない? 年に一回あるかだったのが、今年はもう3回目だし、嫌な感じ」


 心配そうな相方に、もう一方の女子高生が得意げに話す。


「大丈夫だって、落ちるとしてもゆっくりだってこの前テレビで言ってた」

「え、そうなの、よかったあ。あたし、いきなり飛結晶がダメになって落ちるのかと思ってた」

「それに、少なくともあたしたちが死ぬまでは大丈夫みたいよ? 残念だなぁ、落ちたら来週の試験も無くなるのに」

「落ちたらそれどころじゃないでしょ」


 ケラケラと二人は笑って、またとりとめのない会話に戻っていった。

 凪の父親の鉄郎は、その飛結晶の研究をしている人間だった。

 飛結晶は空島の駆動源であることがわかっているが、その原理どころか起源すら解明されていない。ゆえに飛結晶が明日にでも力を失うというような説が流布することが度々あった。

 鉄郎は飛結晶の発する動力が従う方程式系を数年前に立証して、一躍有名になった研究者だった。凪は父親がすごいことを成し遂げたことをわかっていたが、理解できているわけではなかった。


 きっとボクには何年かかっても理解なんてできないんだろうな


 バスから降りると西日が眩しくて、目を眇めた。一人ぼっちの影法師が道路に間延びする。凪の家はバス停からさらに20分ほど歩いたところにあった。玄天区画は9区域の中で一番の住宅密度を誇っており、所狭しと建てられた住宅の合間を縫うように枝分かれした小径が特徴的な街だった。裏を返せば、いつも風通しの悪い町並みは、陰鬱な印象を与えた。

 凪はまっすぐ家には帰らずに、バス停から反対に大通りを数分進んだところにある花屋に立ち寄った。店の中に入るとドアベルがこ気味のいい音を立てた。店番の老女が凪の顔を見て穏やかな表情を浮かべる。


「あら、いらっしゃい。今年ももうそんな季節なのねぇ」


 香水のように胸がムカムカするような香りではなく、そのままの花の甘い香りが店内に立ち込めていた。老女は手にしていた本をレジ台に伏せて、並べられている花の中から青紫色の花を選び、丁寧に包んでくれた。客は凪以外にいなかったが、不思議と寂しい雰囲気はない。きっとたくさんの花に囲まれているからだろう。


「毎年、えらいね。きっとお母さんも嬉しいでしょうね」


 凪の母親は、桔梗が好きだった。だから、凪は必ず、9月17日には桔梗の花を買う。


「ありがとうございます。また来年も来ます」


 凪はぺこりと頭を下げる。手に持った桔梗からふわりと一段と甘い匂いがした。


「今日はなんだか外が騒がしいから、気をつけてね」


 帰り際に店先まで見送ってくれた老女の言葉を頭の中で反芻しながら、凪は店をあとにした。言われてみれば今日の街の様子はどこか変だった。空気がいやに浮ついていて、大通りを通り過ぎる車たちも節操がないように感じた。

 自宅までの道のりを半分ほど過ぎた頃だった。遠くの方で消防車らしいサイレンが聞こえたと思うと、凪の脇を無邪気な小学生がかけていった。


 「あっちの方で火事らしいぜ!」


 他人の不幸は蜜の味といったところだろうか。他人事のように歩みを進めていると、次第に人の数が増していき、自宅が見える頃にはたくさんの野次馬が往来に出てきていた。彼らは皆、燃え盛る他人の家を絶対的安全域から安穏と眺めているに過ぎなかった。


 しかし、凪はその仲間に入ることは許されなかった。燃えていたのは凪の家そのものだったからだ。


 夕日の色に溶け込むように、家は茜色の炎に包まれていた。


 血相を変えて家のすぐそばにまで走り寄る。あたりの人間はそんな凪には御構い無しに自分が一番良く見える位置に立とうと他人を押しのけようとするので、なかなか前に進めない。

 凪が焦るのには理由があった。いつもなら凪が帰る頃にはまだ鉄郎は研究所にいるはずだった。しかし、今日に限って鉄郎が家にいることを凪は知っていた。凪とそう約束したからだ。

 ようやく野次馬の先頭に躍り出て、周囲を伺う。鉄郎らしき人影は見当たらない。


「消防車はまだ来ないのかよ」

「竜騎士を見にきたやつらの車のせいで渋滞が起きてるらしいぞ」


 他人事のように好き勝手している野次馬たちの声がやけに耳障りだった。どよめきと共に一段と大きな炎が舞い踊る。


 父さんはまだ家の中にいるんだ


 他の野次馬と同じように指をくわえて見ているのだけは嫌だった。凪の頭の中にはその思考しか存在しなかった。これ以上誰かを失ったら、きっともう心は耐えられないだろう。これが夢ならばどれほどよかったか、けれど、目の前にあるのは単純で明快な現実だけだった。


 どこからか制止の声が聞こえたが、凪はそれを無視し、燃え盛る家中へと駆け込んでいった。

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