影の街の返し屋ふたご

葵くるみ

第1話

   

 夕焼け小焼けで日が暮れて――。

 そんな歌の文句を思い出してしますような見事な夕焼け空が、街を、世界を包んでいた。

 そのなかを青年は一人、せわしなさそうに足を動かしていた。ブレザータイプの少し小洒落た制服を着ているところを見ると、高校生らしい。見たところ制服を着崩したりしていないし、かといって優等生ぶったところもそれほどない。平々凡々という言葉が一番しっくりくる感じがした。

 草木のそよぐ音もほとんどなく、風はほとんど吹いていないが、ほんのり茶色みがかった襟足の髪が青年の動きに合わせてわずかになびく。その様子は、どことなく若駒を思い出させた。はっはと呼吸をほんのり荒くし、周囲をきょろきょろと見回しながら早足で動いていて、端から見るとひどく心許なげでもあった。

 いや、じっさい彼は心許ないのだ。

 何故って、周囲には人の気配が全くないのだから。

 視界に飛び込んでくる街並みのようすはいつもと全く変わりのない様子のはずなのに、そこに人の気配というものだけがぽっかりと欠落してしまっている。そのせいか、街並みはどこか冷たくひいやりとしているようにも思えた。

 夕方で普段なら人通りの多い時間帯のはずなのに、人通りはいっさいない。車の動いている気配もない。ついでに言えば、家々からこぼれていてもおかしくない明かりや物音のいっさいも消えてしまっている。

 人の有無だけで、こんなにも世界は変わってしまうものなのか。

 そこはそう、まるでゴーストタウンのよう。いつもと同じ見慣れた街の、よく出来たコピーの中をうろうろしているようなそんな感じだ。不安と焦りが、徐々にじりじりと募っていく。

「っ……なんだよ、これ……マジで、ホラーゲームかなんかみたいじゃんか……」

 青年はわずかに顔を青ざめさせてそうつぶやくが、その声もすぐにかすれて消えてしまった。

 誰も聞くものが居らず、誰も話し返すものもいない。悪い夢のなかに紛れ込んでしまったような、そんな光景。

「そうだよ……こんなの、きっと夢で……目が覚めたらきっといつもと同じなんだ、そうに決まってる……」

 腕時計を確認してみれば、さっきから五分と経っていない。体感時間はその三倍くらいはあるのだから、やはりこれは夢なのだ――青年はそう納得したかった。

 ――と、そのとき。不意に、なにかが聞こえてきた。

 遠くから響くどこか懐かしげなメロディは、ドボルザークの『新世界交響曲』だ。日本語の歌詞がついたときの題は、『遠き山に日は落ちて』、だったか。

 この街の、午後五時を知らせるいつものメロディだ。いつも聞き慣れているはずのそれが、妙にくわんくわんと聞こえる。

 青年は言いしれぬ感覚に一瞬肩をふるわせ、それから慌ててさっきも見た時計に目を移すとなるほど、腕時計は確かに五時を指していた。ポケットからスマホも取り出して確認するが、此方は何故か文字化けだらけで判別が出来ない。ただ、通話や通信の類いがいっさいダウンしていることはすぐにわかった。圏外のマークだけが、いやに目についたからだ。

 連絡をどこにも取れない、というのはこの情報社会において、ひどく不安なものだ。

 不安が更に不安を呼び起こし、小学生の頃にクラスメイトたちがはなしていた不気味な噂まで思い出してしまう。

 それは着せ替え人形の女の子から電話がかかってくると言う、ありきたりな都市伝説だ。電話を受けるたびにだんだんその相手は近づいてきて、最後には自分の後ろにいる、と言う――初めて聞いた頃はひどく不気味で、その夜はろくに眠れなかったくらいだ。

 もっとも、背後にやってきた人形が最後にどうなるのか、それは彼もよく知らないのだが。

 ただ、そんな気味の悪い、いやな噂をつい思い出して、青年はため息をつく。

 当時はそんなへんな噂なんてありえない、と笑い飛ばしているようなタイプのだが……今いる状況は、そんなものをつい信じてしまいそうになる、そんな感じがした。

 周囲をもう一度見渡す。相変わらず人の気配はない。

 ただただ、静かな街並みに一人、取り残されているだけ。

 と――かたん、と音が聞こえた。

 決して大きくない音だ。けれど、それまで耳鳴りがするほどの静寂に包まれていた街の中で、それは不気味なほど響いて聞こえた。青年はきょろきょろと周囲を見渡す。音の源を探るように。

 もう一度、かたん。

 今度は聞き間違えることもない。彼はその音のした方角を眺め、おそるおそるながらも近づくことにした。

 

 

 かたん……たん、かたん……ことん。

 

 

 街はずれの小さな川の向こう側にあるのは、いかにも場違いな様子の――水車小屋だった。

 青年は呆然と、それを見つめる。この街は確かに都会とは言いがたいが、こんなレトロなものはなかったはずだからだ。

 ただ、現在進行形で自分以外の音のするものは、これ以外存在しない。

 先ほどの『新世界交響曲』以来の、街の音。青年は一瞬戸惑ったが、ゆっくりとその水車小屋に向けて足を踏み出した。

 


「すみません、ごめんください……」

 からら……と、水車小屋の引き戸を青年はおそるおそる開けて、そっと中を覗いてみる。

 かたん、ことん、かたん、と、水車小屋の中には心地よいくらいの物音が響き渡っていた。

 そしてそこに――二人の少女が、いた。

 片方の少女はほんのり赤みがかった髪をポニーテールに結い、今ではテレビの中でしか見ることのないような大きな機織り機の前でせわしなく手足を動かして機を織っている。

 もう一人の少女は、長い黒髪を三つ編みお下げにし、なにやら書物を読んでいるようだった。レトロな感じの黒縁眼鏡をかけているのが、妙に印象に残る。

 二人とも時代遅れにも感じられるような黒地に白いスカーフというそろいのセーラー服姿で、どこか不思議と浮き世離れした雰囲気を携えていた。そして二人に共通する、つり目がちの大きな瞳。顔立ちの似通っているところを見ると、双子なのかもしれない。

 どこか人形めいた美しさを持った少女たちは、彼の気配にはまだ気づいていないようだった。

「……あ、あの。すみません」

 青年はもう一度、、おそるおそる声をかける。

 すると機織りをしていた少女が今気づいたというように手を止めた。そして顔を上げて、少し胡乱げな表情で、

「いらっしゃい――って、君、またなの? これで何度目?」

 そう、あきれたような口ぶりで問いかけてきたのだ。

 何度目も何も、彼はこの少女たちに会うのは初めてのはずだというのに、少女たちからしてみれば何度もやってくる不審者なのだろうか?

「……おれは初めて、のはずなんだけど?」

 ほんのりむっとした口ぶりでそう返すと、三つ編みのほうの少女が

「まあ仕方ないわよ。ここでの出来事なんて、普通の人は忘れてしまうんだし。でしょ、楓」

 フォローを入れるかのようにそう言った。楓と呼ばれたポニーテールの少女は、眼鏡の少女に比べるとどこか男勝りな印象を受ける。逆に眼鏡の少女は、ただおとなしいと言うよりはどこか大人びた、達観した雰囲気を備えていた。

 すると楓はポニーテールを揺らしながら、

「うーん、そりゃあそうなんだけれど。もう流石にあきれちゃうよ、あたしたちだって暇じゃないって言うのに」

 言いながら、大げさそうにため息をつく。

「まあ、なんて言うか……この人の場合はやむを得ない事情があったりもするし、それならいっそさっさと向こうに行くなりしちゃえばいいとは、私も思わなくはないけれど、ね」

「紅葉もその顔でそう言っちゃうあたり、相変わらずクールだよねえ。ま、あたしたちは頼まれた仕事をとりあえずこなすだけだけど。……改めて、お兄さん。名前を聞かせてもらえるかな?」

 楓はそう言って、青年に問いかける。と、彼は――

「……え?」

 言われて、呆然とした。

 何故って、思い出せないからだ。

 名前も、住所も、家族構成も――何もかも。

 ぼんやりわかるのは、ここが住んでいる街であるはずだと言うことくらい。

「ああ、また記憶の混濁を起こしてるのね。ここに来る人で混乱してる人は少なくはないんだけれど、多分あなたはここに――『影の街』に何度も来たせいで、普通よりもさらに精神的変調をきたしてる可能性は高いわね。どっちにしろ、あんまりよくない傾向だわ』

 三つ編みのほうの少女――紅葉がそう言いながら筆を執る。硯に入っている墨を穂先に十分含ませてから、なにやらノートのようなものに丁寧に書き付けていきながら。

 ……『影の街』? 聞き慣れない単語に、青年は少し首をかしげる。しかしそんなことはお構いなしと言わんばかりに、紅葉は言葉を続けた。

「あなたはこれで都合六回、この街のお世話になってるの。忘れているんだと思うけど、これは紛れもない事実よ」

「しかも毎回、初めて来たって顔でね! あたしたちがうんざりするのもわかるでしょ?」

 楓がそう言い放つと、機織りのと呼ばれる道具をすっとくぐらせ、とんとんと織機を動かす。慣れた手つきだった。

「ついでに言えば、そのたびに変調がひどくなってるのよね。はじめは自分の名前もきちんといえていたのに」

 紅葉の言葉に、青年はぽかんとする。一瞬あとに浮かんだ表情は、間違いなく困惑、と言う類いのものだった。

「そりゃ、自分の名前も何もかも忘れてたらショックだよね。しかも今回は、今までで一番ひどいみたいだし」

「正確に言うと、回数を重ねていく毎にひどくなってる感じね」

 紅葉が律儀に訂正すると、楓もうんうんと頷いてみせる。

「……まずあなたがここに最初に来たのは、だいたい三ヶ月前。それから今日までに都合六回、この『影の街』に訪れている。ここを歩いた感想、何かある?」

 紅葉が筆を動かしながら問いかければ、青年はおずおずと言った。

「そうだな……ここは誰も居なくて……静かで、寂しい場所だなって」

 うんうん、と少女たちは頷いた。

「まあ、そうね。ここは夜と昼の狭間にある場所だから……元々ひとというものは普段、滅多に来ないのよ」

 そう紅葉が意味ありげに説明した。その言葉に続けるようにして、

「それじゃあ、少し質問を変えるけれど……あなた、もとの街に帰りたい?」

 楓が発したその言葉には、ほんの少しためらいが混じっている。

「……え?」

 青年は少し押し黙った。そして一瞬の間ののち、こくっと頷いて見せた。

「おれに何があったか、それはわからないけれど。でも、帰らないと後悔するんじゃないかって気がする」

 ここがどこかもわからないけれどね、そう付け加えて。すると、少女たちは一瞬顔を見合わせ、そしてゆっくりと口を開いた。

 あたかも、人形かなにかのように。

「ここは黄昏時だけに扉の開く『影の街』――」

「ここにやってくるものは、目的があるか――なければ彷徨う霊魂」

「記憶を持たないあなたは、後者」

「肉体を離れ、さまよえる存在――」

 青年は、言われて目を見開いた。

 脳裏にちらりと蘇る光景は――自分よりも明らかに体格もよく、髪を染めたりしているような、一目でいかにも遊んでいそうな外見の若者数人に囲まれている己の姿。

 その近くであきれたように眺め笑い、制服スカートを短くして化粧をしている、どことなくアンバランスな印象を受ける少女たち。

 その中で一人泣いている、制服を着崩さずにきちんと身につけた、ひときわ身体の小さい少女。震える声で、少女が叫ぶ。

『おにいちゃん、あたしはだいじょうぶだから、もうやめて、おにいちゃんが怪我しちゃうよ――』

 

 ……ああ、そうだ。

 おれは、弱いから。

 守りたいはずの大切なものも守れないで、ただ凡庸に生きているだけで。

 そして、いわれのないいじめを自分も受けて。

 そして――

 

 青年の拳が、わなわなと震えた。自分という存在の小ささ、弱さを痛感して、震えた。

 そして頬を、つっと涙が伝う。

「……そうだ、おれ……もっと強くならないと、いけないのに」

 ぐらぐらと、胸の奥底からわき上がる怒り。彼の生命力の源の、熱い炎。

「加奈子……」

 口からこぼれたそれは大切な双子の妹の名前。病がちで内向的な少女は、いじめの格好の標的だった。それを庇って、青年自身も何度も傷ついて。

「うん、思い出したようだね」

 楓の声で、青年ははっと我に返り、頷く。慌ててあふれた涙をぬぐい、困ったような笑みを浮かべて見せた。

「おれの名前は、健助、だ。加奈子の側で、健やかにあって助けてやるための、おれだけの名前」

 青年――いや、健助はそう言って手を握ったり開いたりしてみせる。それが生きている証とでも言うように。

「ふむふむ。なるほど、確かに思い出したようですね。ただ一言付け加えておきますと、今回は今までのようには行かないんですよ」

 紅葉がそう言って筆を掲げた。健助は不思議そうな顔で、相手の言葉を待つ。

「今までは、簡単に言ってしまえば気絶や失神、そう言うものでした。生命への重篤な異常はあまりなかったんですよね。もっともその程度で、でここまでたどり着く人はそもそもそう多くはないんですけれど……ただ、今回はこれまでと少し勝手が違っていて」

「うん、そうなんだ。……あなた、意識がなくなる前、相手が何したか覚えてる?」

 二人に問われて健助ははたと手の動きを止め、首筋に手を置いた。とくん、とぬくもりや鼓動を感じる場所。けれど、どうにも不安がよぎる。怖くなって、すぐにそこからぱっと手を離した。そして、こう告げる。

「……ここに、なんかいやな感じがする」

「ご名答。今回、相手はバタフライナイフを持っていた。無論持ってるだけで法律とかには引っかかるような代物なんだけど、それを振り回されて、あんたの首に――そいつが刺さった。刺さるというか、かすめた程度なんだけれど、一番やばい場所の一つだからね。頸動脈はぎりぎり逸れたけれど、予断の許せない状態って奴だ」

 楓は丁寧に説明してくれた。淡々と言われる言葉を聞いていると首筋から熱い血潮がこぼれている気がして、それだけで気分が悪い。

「とはいえ、ここに自力でたどり着いたのは、やはり縁というもの。私たち姉妹は必要のあるものをあるべきところに返す『返し屋』です。あなたを今まの五回、正気に戻したのも、あなたの意思はもちろんですが、私たちの力あってこそ」

 紅葉は丁寧に説明する。さらに、

「ねえ、健助さん。……本当に、どんなことがあっても、元の場所に帰りたいですか? これから先、どんなに辛いことがあるか、わからないのに?」

 心配そうな声で、再度確認もした。しかし彼は決して譲らなかった。

「おれが居なくなったら、加奈子が悲しむから」

「……わかった、わかった。おまえ、前に来たときもそうだったけれど、そういうとこ頑固だよなぁ、シスコンって言うか。……とりあえず、目を伏せて。今から、帰るための『道』をつなげるから」

 楓の声に、言われて健助は目を閉じる。すると少女たちは手を取り合い、澄んだ声で歌うように言葉を紡ぎ始めた。

 いや、確かにそれは歌だ。どこか恐ろしくも懐かしい、わらべ唄だった。


  行きはよいよい、帰りはこわい。

  こわいながらも、

  通りゃんせ、通りゃんせ――


 そして乾いた柏手が二度、パン、パンと小さな小屋でいやに大きく響くと、途端、健助の足元がぐらりと揺れた。……



 ……。

 ふっと目を開けると、そこは闇の中だった。四方を見ても、広がるのは闇ばかり。足元も真っ暗で、立っているのかすらわからなくなってくる。本当に目を開いているのかすらもあやういくらいだ。

 それでも、帰るためには何かしら行動を起こすしかない。進んでいくその先に、きっと出口があるのだから。

 ゆっくり、歩みを二歩、三歩と進めていく。けれど、足元がおぼつかないせいか、『進んでいる』という実感が全くなく、焦りばかりが募っていく。

 何もない真っ暗闇の中を、ただ歩くだけということの、いかに苦しいことか。

 ただ歩くこと――それだけで、どんどん身体が消耗していくのがいやでもわかる。むろん必要以上の消耗は、肉体の怪我も影響しているのかもしれない。そう思えば、改めて、精神の消耗と肉体の消耗は密接な関係にあることを妙に実感した。

 首筋の切られたとおぼしき箇所が、じんじんと熱を持っているような気もしてくる。

 時間が経てば経つほど、歩く足はふらふらともつれていく。どんなに歩いても歩いても、出口らしきものは見当たらない。

 それでも健助は、立ち止まることが出来ないのだ。立ち止まったら、そこできっとおしまい、デッド・エンド。

 だから歩く。歩き続ける。たとえ、足が棒になったとしても。

 

 と――ふと、目の前がちかっと光った。いや、光った気がした。

 ここはあまりにも暗くて、光がもしあったとしてもきっとすぐに奪われてしまうはずなのに。

 けれどその中で、確かに彼はなにか光を見た気がした。目をしっかりとこらしてみると、それは闇の中でもきらりと光る蝶だった。わずかなその異物が、暗闇の中で輝くように見えたのだろう。

 なんとなく、その綺麗な細工物のようにも見える蝶に見覚えのある気がするけれど、いったいどこで見たものだったか。ただ、健助は思う。

(もしかして……助かる……?)

 蝶もここで彷徨っているのなら、出口を探しているはずだ。いや、もしかすると出口を知っている可能性もある。彼は鱗粉を目で追いながら、ゆっくりと足を動かす。疲労の限界を超えた足はもう痛みすら感じない。ただただ、鱗粉の示す方へ向かうのみ。

 やがて、細い光が見えてきた。それはだんだんと大きくなって、紛れもなく出口だと、そう認識できる。

 そして彼は、ぼろぼろの身体を引きずるようにして、ゆっくりと光の前に立った。光の向こうに、白い部屋が見えた。

 

 

 身体が横たえられているような感触が、突然健助の身体に現れた。ぼんやりした頭で左手をわずかに動かすと、側にいた誰かがぱっと彼の手をつかんだ。

「お兄ちゃん……っ、目が、目が覚めたんだね!」

 薄く目を開ければ、妹の顔がすぐ側にある。涙を流し、でも嬉しそうに微笑みながら。

「かな、こ」

 わずかに口をぱくぱくさせてから、健助はうなるように妹の名前を呼ぶと、加奈子ははっとした表情をうかべ、慌ててナースコールを押した。

「お兄ちゃん、だいじょうぶ……? 二週間、昏睡してたんだよ? あの時のことおぼえてる?」

 問われて、健助は小さく頷いた。首を動かすときに、引き連れるような痛みが走ったが。思わず顔をしかめると、タイミングよくナースコールを聞きつけてきた看護師が二人の側にやってきて、笑みを浮かべていた。

「正直、もうだめかもしれないとも思ったくらいでしたけれど、よく頑張りましたね」

 意識も戻ったことで峠は越えたのだろうと、安心させるように頷く。

 健助を傷つけた青年は傷害の罪ですでに逮捕されているのだと教えてもらった。今回の件でそれまで知られていなかったようないじめも表沙汰になり、もう心配はいらないと加奈子も頷いている。

 やっと二人にとっての安堵の時が訪れたのかもしれない。

 加奈子のお気に入りのヘアクリップについた貝細工の蝶が、きらりと光を受けて反射した。

 それはずっと前、健助が加奈子のためにと旅行先でで買った蝶のヘアクリップ。

 それをどこか、別の場所で見たような気もするけれど――健助はふっと眠くなって、またまぶたを閉じた。



 それとほぼ同じ頃――と言っても、『影の街』にはあまり時間の概念が存在しないのだが――、リン、と小さな鈴の音がした。

 それは、なにかが『かえった』ときに鳴る鈴で、それを聞いて二人の少女はほっと胸をなで下ろす。

「……あの子は無事に帰れたみたいね」

 紅葉は書物を眺めながら、そう言って微笑んだ。彼女の手の中にあるのは、この街と縁の出来た人やものの『その後』を伝える、二人の仕事道具といえるものだ。

「まあね。あの子の妹さんとやらが感じやすい体質なのかもしれないけれど、そのおかげで助かったともいえるのかもしれない」

 かたんことんと機を織りながら、楓がそう言ってみせた。



 ――なにかを探しに行くのなら、『影の街』へ行ってごらん。

 返し屋ふたごがきっと君を待っている。

 『楓』は、かえす。

 『紅葉』は、もどす。

 町外れの水車小屋で、かたんことんと待っている。

 大切なものをあるべき場所に返すため、少女二人は待っている。

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影の街の返し屋ふたご 葵くるみ @tihaya-buru

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