10

 拾った猫を飼うと決めたとき、名前は椿にしようとすぐに思った。

 私が大嫌いだった息苦しい町、そして家。

 その中で唯一好きだったものが、広い庭の片隅で仄暗く咲く椿だった。とても立派な木だった。樹高は高くなかったけれど、寒い時期にたくさんの花が鮮やかに咲いた。花が一番美しいときにぽとりと落ちるのも潔く、私は好きだった。


 花は、今はまだついていない。蕾も固く閉じていて、葉は独特の褪せ方をしていた。


 私は、椿の根本から少し離れた部分の土をスコップで掘った。

 途中から母も加わって、ふたりで掘った。

 私は何も言わず、母も何も言わなかった。

 母が泣いていることに気づいたのは、けっこうな深さの穴を掘り終え、もういいか、と立ち上がったときだった。


「どうして泣いているの」


 私は、母の涙を見るのは初めてだった。

 母は、彼女を見たこともない。

 ついさっきまで、私が彼女と暮らしていたことさえ、知らなかったのだ。

 それなのに、何故。


「だってあなた、十八年も一緒にいたって…。ひとりぼっちは、寂しいでしょう…」


 母はそう呟いて、少し土で汚れた指先で涙を拭った。

 母の目元に土がついた。


 ひとりぼっちは、寂しい…。


「同じことを、言うのね」


 私はハンカチを取り出して、母の目元についた土を拭う。


「私もあの子に、そう声をかけたわ」


 それから、縁側に置いた箱の中から小さな壺を取り出した。

 綿の新しいハンカチに、壺の中身をすべて出す。

 小さな身体のわりに、灰まですべてとなると、けっこうな量であることに驚いた。何時間か前、箸で骨を拾ったときは、こんなにちょっぴり、と思ったのに。

 ハンカチに骨と灰を丁寧に包み込み、私は、今、母とふたりで掘った穴の中に、そっと置いた。

 母は、まだ泣いていた。

 しばらくハンカチに包んだ彼女を見つめた後で、少しずつ、土を戻した。


 ねぇ、こうしておいたら、私、ここに帰ってくる理由が出来るかしら。あなたがこの木の下で眠っている、この椿が咲くたびにあなたを思うため、帰ってくることが出来るかしら。

 椿はとても綺麗なの。

 あなたが追いかけていたボールみたいに丸いシルエットの、赤い花なのよ。

 あなたは、見たことがなかったわね。見せてあげればよかった。連れてきてあげればよかった。この庭を、見せてあげればよかったわ。

 母にも、あなたのことを見せてあげればよかった。

 きっと母はあなたを気に入っただろうし、あなたも母を気に入ったと思うわ。

 ねぇだけど、これからあなたは、花になるのよ。

 ここは静かだから、落ち着いて眠ることが出来るわ…。


 すべての土をかぶせ終わると、どこから摘んできたのか、母が瓶に挿したコスモスを供えてくれた。


 そうして、ふたりで手を合わせた。


 しばらく、私はひとり縁側に座っていた。

 花が咲く頃に、帰ってこよう、と思った。

 彼女はあの木の根元に眠り、あの木の養分になる。そうして、美しい花を咲かせる。何度でも、美しい花になる。

 うるさく鳴るLINEの着信音にうんざりして、カバンをちらりと見やる。

 相手はわかっていた。

 無神経な人間と付き合うのは、これきりにしよう。

 そう決めて、立ち上がる。

 空を見上げると、水色が見えた。落ちていくような青ではない、水色だ。

 そこに薄く白い雲がかかって、まるで、


「…まるで、宇宙から見た地球みたい」


 ふ、と、そんなふうに思った。

 透き通るような水色。

 つやつやと光る、黒い毛並み。小さな鳴き声。柔らかい身体。


 空を見上げる目尻から、また、涙がこぼれ落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

埋葬 花宮 @Hana__Miya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る