エピソード0 まだ見ぬ貴女



 学園には、図書室の主がいた。


 深い褐色の裸に、高校生には小さな背。

 銀色の長い髪に、整った顔立ち。

 青眼の浮世離れした少女が、――図書室に今日も一人。


 少女の名はエリィ。

 外見に反して、生まれも育ちも日本人である。

 最も、両親はどちらとも海外の血が入ってはいるが。

 私学の図書室でありながら、司書はおらず。

 それ故か、授業中も常駐する彼女を、生徒達は図書室の主と呼んでいた。


 今日も静謐の中、エリィは読書に耽溺していたが。 ふいに、校庭から聞こえる喧噪に意識が向いた。


「少し、五月蠅いわね。何かあったのかしら……?」


 誰に話すでもなく呟くと、本を閉じて窓の外へ視線を向ける。

 現在時刻は、部活動が始まる頃合いである、エリィの待ち人が来るまであと少し。

 なら、外を眺めて過ごすのもまた一興、とグラウンドを見下ろしたその瞬間――。

 


「――きれい」



 そこを歩いていたのは、美しい女性だった。

 年の頃は、二十代半ばだろうか。

 長い黒髪を揺らし、もの珍しそうに当たりを見渡している。


(ふぅん……。学内の人、じゃ無いわね。でも誰かの父兄、保護者にしては若すぎる。仮にそうだったとしても、正門から遠くて、あからさまに古いこの旧校舎に来る筈がない)


 彼女に対し、興味が沸いてきたエリィは推測を始める。


 普通の人ならば、大概が綺麗と見惚れ、そのまま見送って終わりだろう。

 エリィの外見以外で人と違う所があるならば、こうしてあれやこれやと考え巡らす癖がある事だ。


 ともあれ、エリィは窓の外の麗人について、可能性を巡らす。


(さっき挙げた理由でOBの線も却下、今までこの学園に関わらなかった人で、かつ、これから関わる人)


 今も彼女は、懐かしむというより、どちらかというと期待に満ちた様子であるとエリィは感じ取った。


(まぁ、アタシは二階から見てるだけだし、違うかもしれないけど)


 それが正であるならば、新しい教員、或いは事務員。

 臨時と判断するより、新規採用が妥当だろう。


(となると後は何処へ来る人か、という事ね)


 今は十月、年度明けでもなければ、長期休みの後でも無い。

 そんな中途半端な時期に、どこかの科目に人手を増やすなど、無いと断定していいだろう。


 また、エリィは図書室引きこもりとはいえ、学内の情報は親友から毎日得ている。


(いずれかの科目の人手が不足してるって話は聞かなかったわ。そして、教育実習が来るとも聞いてい無い)


 となると、事務員などの教科担当以外と考えるのが妥当。

 そして今、あからさまに足りない所は――


「――おっまたせーっ! エリィ!」

「弓美、うるさい」


 思考に耽るエリィの邪魔をしたのは、幼馴染みの弓美だった。


「んもー。固いこといいっこ無し無し、だってエリィしかいないじゃん」

「一応ここ図書室なんだから、静かに入って来なさいよ……」


 ケラケラと笑う彼女、片桐弓美はエリィと正反対の少女だった。


 薄茶色に染めあげられた、セミロングの髪。

 健康的な白い肌に、女子にしては高い背。

 ついでに言えば豊満な胸は、エリィからしてみて正直羨ましい。


 白ギャルと形容するのがよく似合う、そんな彼女こそが、エリィの幼馴染み兼親友の、弓美という少女であった。


「それで、先生の用事とやらはもう終わったわけ?」

「うん、ばっしちよ! 今日もいい感じに内申点稼いできたわ」

「アンタ、そんな事しなくても成績優秀なんだから、いい大学でも、好きな格好でも、自由にしたらいいじゃない」


 エリィは手元の本を鞄に仕舞い、立ち上がる。


「ちっちっち、甘いわねエリィ。アタシは成績や大学進学の為に、点数稼ぎをしてるんじゃないわ」

「――いい男を落とす為、でしょ」


 溜め息一つ落としながら、エリィは座っていた椅子を律儀にも元に戻す。


「こーゆーギャルっぽい見た目で、優等生ってギャップが男はグッと来るんだから! 入学してからこっち何度告白され――」

「はいはい、良いから帰るわよ」

「あっ、エリィひっどーい、アンタが話ふってきたんじゃない」

「アンタのその理論は聞きあきたわ、次はもっと別の表現にして頂戴、なら聞くだけは聞いたあげる」

「およよ、ぼっちのエリィの為に、わざわざ一緒に帰ろうやって来た親友に残酷な仕・打・ち。およよおよよ」

「……およよってアンタ正気? 表現古すぎない?」

「え、マジ? 有馬先生にはバカウケしたんだけど!?」


「――おや、今の女子校生っておよよって泣き真似するのが流行りなんじゃ」


「あれ? 有馬センセー、どったの?」

「――ひやぁっ!?」


 突如割り込んできた声に、エリィはビクリと肩を震わせ、すぐさま弓美の後ろに隠れた。


(ああもう、これだから嫌なのよ……)


 顔には出さず、エリィは自身の性質を呪った。

 ドラマや漫画みたいな、劇的な“何か”あったわけじゃない。

 ただ、小さな“嫌なこと”が人より少しだけ多くあっただけ。

 ただ、それだけなのに――


(本当、嫌になるわ、何でアタシは男の人が苦手なの?)


 意志とは反し、震えて冷たくなる心と体に、エリィは苛立つ。

 今でも弓美の、誰か女性の手を繋いでいなければ、録に外出も出来ない。

 会話だって、常にどもってしまう。

 人並みの学校生活や、ましてや恋なんて、夢のまた夢だ。


(それに比べ弓美は――)


 恋多き幼馴染みへの暗い羨望の念と、純粋なる親愛の情。

 二つがごたまぜになったエリィの心情を、エリィ以外が知るよしも無く。

 図書室に入ってきた男、エリィ弓美の担任教師、有馬は爽やかに笑った。


「ははは、突然割り込んで悪かったね! お邪魔するよエリイ君、君の男性嫌いは相変わらずの様だね」

「…………あ、う……。こ、こんにちわ有馬先生」

「うん、こんにちわ。今日も元気に登校してて、先生もひと安心だよ!」

「もうエリィったら、いい加減うちのバカ兄弟ども以外の男に、慣れてもいい頃よ」


 弓美の後ろに隠れ、震える手で彼女の袖を掴むエリィ。

 その姿に苦笑しながらも、弓美がエリィに向ける視線や言葉は優しかった。

 更に言うと、そんな二人のやり取りを、どこかキラキラとした目で有馬が見ていた。


「大丈夫! 君のそれは精神の病だって僕は理解しているつもりさ、少しずつ踏み出していけばいい、エリイ君ならできる、信じてるよ!」


 キラキラと爽やかにサムズアップする熱血体育会系教師に、ひぅっ、と息を飲んで、エリィは一層縮こまる。

 入学以来変わらぬ光景に、弓美は溜め息ついて一言。


「有馬センセって、イイ人だけど暑苦しいですね」

「うん、よく言われるよ。でも不況で暗い世の中、こうやって前向きにやっていくとここと大事なんじゃないかな!」


 面と向かって悪口を、はははと爽やかに流し、有馬は、さて、と前置きした。


「もう帰ろうとしてたみたいだけど、少し頼みたい事があるんだ、いいかなエリイ君?」


 実の所、エリィが図書室登校を認められているのには、訳がある。

 それは学内で起こる諸問題の解決に、知恵を貸すというものだ。


 ――尤も、過去に有馬教諭が持ち込んだ案件の殆どは、彼自身が起こした小さな失敗の尻拭いで、断ってもよかったのだが。

 無碍に断って心象を悪くするのも何だし、と承諾する事を決めた。


「…………、は、はい。わかりました。――弓美、帰るのは少し待ってくれる?」


 有馬教諭の依頼を受けるのはいいが、男性と一対一というのは怖い、エリィは知らず知らずと上目遣いになって、弓美を引き留める。


「いいわよ、アタシも手伝うからとっとと済ましちゃいましょ」

「ありがとう、弓美――あぷっ、くっ、苦しいから! 弓美、苦しいって!」


 捨てられた子犬の様な瞳で縋る(背が)小さな幼馴染みに、弓美は衝動的に抱きついて、その豊満な胸で顔をふにゅふにゅと包み込む。


 一方、ひまわりの様な笑顔で抱きついてきた弓美に、エリィは感謝の念を抱いた。

 同時に、先程暗い感情を向けたのを恥じる。

 弓美はエリィのたった一人の大切な親友、そして、いつも俯き勝ちになるエリィを包み込んでくれる“希望”だ。


(……弓美が一緒なら怖くない。うん、すぐ終わらせましょ)


 安心したエリィは、有馬に向かって首を縦に振る。

 それを見た有馬は、うん、と笑って頷き話を始めた。


「エリイ君は最近話題のあの人について知っているかい?」

「い、いいえ。弓美は?」

「最近話題の人? サッカー部の木村君の事? それとも二年の鳥畑先輩の事?」

「ああ、すまない。まだ君達生徒達には伝わっていない様だね。

 ――実は、来月から新しい司書の方が来ることになったんだ」

「ら、来月ってもう明日じゃないですか。また急な話ですね」

「僕が聞いたところによると、前々から募集していたそうだけど、事務方の手違いで結果を通知し忘れていたみたいでね」

「よく今まで発覚しなかったわね、……まぁウチは図書室の利用者少ないし、いてもいなくても特に不便な事も無さそうだしねぇ」

「うん、まぁお恥ずかしい話だけど、概ねその通りでね、でも一応は必要だからって、数ヶ月遅れで連絡取ったらしいんだ」

「よ、よくそれで来てくましたね」

「不幸中の幸いという事だね、まぁそれで……」


 有馬教諭は、ぐっと真剣な表情をし、弓美も釣られて息を飲む。

 エリィとしたら。


(やっと司書が来るのね、これで不意に来た男子から隠れなくても済むわ……)


 等とぼんやり考えていたが、表面上は弓美に合わせ、顔を引き締め言葉を待つ。



「――今度来るその人が、とても美人だったんだ」



「せ、センセーー!?」

「(何よそれ)…………は、はぁ。その、有馬先生? お話がそれだけなら、帰らせてもらいますが」


 呆れ顔の二人を他所に、有馬教諭は一人、ヒートアップする。


「さっき遠目から見ただけなんだけど、それだけで僕のハートは見事に撃ち抜かれてしまったよ。

 そう、例えるなら彼女は天使、この都会の田舎に舞い降りた女神と言っても過言ではない……!」


 恋に酔いしれる有馬に、弓美は弱冠苛立ちながらも先を促す。


「……で、有馬センセー、そのお美人で、お天使な女がどうかしたの? アタシ達、センセの妄言を長々と聞くほど暇じゃないんだけど」


(んー? あれ?)


 親友の様子に軽いひっかかりを覚えたものの、有馬教諭の“頼み”とやらが気になり、エリィはそのまま黙る。


「ああ、いや、すまない。少し熱くなってしまったよ。……それで頼みというのはだね」


 有馬教諭は、来たときより持っていた紙を差し出す。

 それを当然のように弓美が受けとり、エリィは後ろから覗きこむ。


「……何このボロボロでばっちいの、濡れてふやけて肝心な所が読めないじゃない」

「え、えと、有馬先生、これは?」


 その紙は見たところ、教職員向けに司書の赴任を知らせるプリントのようだった。

 しかしそれは泥で濡れて所々破け、名前すら読めず、用をなさない代物だった。


「君達生徒は知らないだろうけど、ウチは教職員向けの回覧板を作っていてね、これはその紙なんだよ。

 でもさっき、ちゃんと読む前に水溜まりに落とした上踏んでしまってね。

 どうかなエリイ君、せめて名前だけでも判らないものか……」


 困り顔の有馬教諭を前に、エリイと弓美は目を見合わせる。


「有馬センセー、諦めてもっかい同じの貰ってきた方が、早くない?」

「その意見は最もだけど、個人的な事情で出来ないんだ。頼む、力を貸して欲しい!」


 勢いよく手を合わせ、拝むようにお辞儀をする有馬に、エリィはビクッと一歩下がる。


「…………あぅ、せ、先生。差し支えなければ、理由を教えて貰っても?」

「う、やっぱり言わなければいけないかい?」

「当たり前でしょー。いくら普段からお世話になってるからって、親しき仲にも礼儀ありでしょ。

 そ、れ、に、うら若き乙女の放課後を犠牲にしようってんだから、理由の一つや二つ、包み隠さず言ってくれてもいいんじゃない?」


 弓美の言葉に、たじろいだ有馬教諭は言いずらそうに口を開く。


「……ぐっ、その……恥ずかしい話なんだが、こう見えて僕はおっちょこちょいでね」

「そんなん、生徒だったら誰でも知ってるわよ」

「うぐぐっ、そ、そうなのか……。こほん、兎も角、実は今月でもう2回、似たような感じでプリントをダメにしてしまってね、プリント作ってる教頭先生に睨まれてるんだ。

 またダメにしたって知られたら、どんな事になるか……!」


 有馬教諭は、頭を抱えて震えあがった。


「センセー、前に回覧板を見た人に教えて、ダメなの?」

「それも考えたが、どこで教頭先生が聞いてるかも解らない、もし立ち聞きされたとか、人づてにばれたら意味無いんだ。

 幸い、名前と役職以外は使い回しだから、名前さえ、判れば僕の手で作り直せる、頼む! この通り――!」

「わ、わかったから、土下座までしなくていいから、頭上げて有馬センセ!」


 ガシッと土下座る有馬に、わたわたと慌てる弓美を横目に眺め、エリィはそっと溜め息をこぼす。


「……わ、わかりました、出来る限りで、力をお貸しします有馬先――ひぃっ!」

「こらっセンセっ! そんなにエリィに近づくな!」

「おおっと、すまない。それじゃあお願いするよ!」


 感激してつい、と。抱きつこうとした事を有馬は謝ったが、対応は弓美に任せ。

 エリィはそれよりも、と件のプリントを手に取る。

 泥が乾きつつあるのプリントの微妙な感触を我慢しながら、思考を“推理”へ――否。

 “推測”へと切り替える――。


(――、○束○○子。五文字中、二文字が判明、残りの辛うじて読み取れる文面からは、手懸かりは無し)


 判明している漢字の読みは、束が“つか”“たば”。

 子が“こ”“す”のそれぞれ二択だろう。

 早々と“あたり”をつけると、エリィは次の手懸かりを検討する。


(となると、次は先生の言葉の中から探していきましょう)


 これ迄の発言の中で、名称不明彼女に関する語句は“天使”と“女神”の二つ。

 一目惚れした相手を“天使”や“女神”と称するのは、傍目から見ると得てして妄言に近い。

 だが例えば、百合とか薔薇と称しなかったのは、何らかの理由があると、エリィは直観した。


(じゃないと、幾らなんでも手懸かりが少なすぎる。迷宮入りしてしまうわ)


 無論エリィとしてはそれでも構わないが、この場合、担任でもある有馬教諭の心証を下げない為にも、多少無理くりにでも答えを出す事が大切だろう。


「――あ、有馬先生、一つ、いいですか?」

「エリィ、何か解ったの?」

「ええ、後一歩情報が“足りない”という事が」

「くっ! これまでに何度も力になってくれたエリイ君でも、やっぱり、これだけでは無理だったか……」


 あからさまに肩を落とす有馬教諭に、エリィは続ける。


「ご、誤解しないでください先生、後一歩とアタシは言った筈です」

「――? どういう事だいエリイ君」


 真剣な顔でばっと顔を上げる有馬教諭に、エリィは驚きの声を飲み込んで答える。


「く、件の新しい司書を見たときの様子を話して下さい有馬先生、出来るだけ、詳しくです」

「成る程、そこにヒントが隠れてるって事ね! ならセンセ、とっとと話ちゃってよ」

「ああ、わかったよ。何処まで役に立てるかわからないが――」


 有馬教諭が話した内容は、こうだった。


 グラウンドの体育倉庫の近くで、他の教師から回覧板を受け取った有馬は、直ぐ様それを読もうした。


 だが、偶然その女性らしき人物が目に入って、見惚れてしまい手から回覧板が落下。


 衝撃で散らばったプリントの、その司書に関するモノだけが、近くの水溜まりに落ちてしまい、更には慌てるあまり踏んで破いてしまった、と。


「という訳だよ、何か質問はあるかい?」

「……質問も何も有馬センセ、そもそもその女の人が、新しい司書だっていう証拠、あんの?」

「あっ! その可能性を考えてなかった!」

「ダメじゃん。それなら追加の手懸かり無しで迷宮入り、諦めて教頭センセに怒られてくれば?」


 ガクッと崩れ落ちる有馬教諭に、エリィは少し考えた後、言葉を投げる。


「あ、有馬先生、その人は長い黒髪じゃなかった?」

「……うん、そうだけど何でわかったんだい?」

「そ、その人なら、さっきこの旧校舎の近くを歩いているのを見たわ。」

「え、君も見たのかい?」

「は、はい、アタシも遠目だったけど、綺麗な人でした」

「エリィと有馬センセが見た人が同じ、でもそれが新しい司書だっていう証拠は?」

「それなら弓美、証拠というものではないけれど――」


 エリィは、弓美が来るまで考えていた事を語った。

 即ち、その女性が司書である可能性が濃厚だと。


「成る程、エリィがそう考えたんなら、その女が司書なのは間違い無いみたいね……」

「でしょう、なら続きといきましょうか。まだ話は終わっていないわ。

 ――有馬先生次第では、まだ、解決の糸口が残っている」

「いったいそれは――!?」


 顔を上げた有馬に、エリィは告げる。

 ただし、エリィの顔は弓美に向けられていたが。


「さっき有馬先生は読もうとした時に見惚れて落とした、と言ったわ」

「あー、確かに言ってたわね」

「なら、名前が一部でも目に入った可能性があるわ」

「それはどういう事だいエリイ君?」

「先生は彼女の事を、天使、女神と言ったわ、美しい人だったから、百合とか薔薇とか、そういう名称を思い付いてもおかしくないのに、よ」

「た、確かに、言われてみればそうかもしれない……」

「名前を認識して記憶として残っていなくても、脳に漢字のイメージが残っていた可能性がある、そう言いたいのねエリィ」

「つまり、天使、或いは女神の漢字が、彼女の名前の一部かもしれない、という事だね!」

「その通りです。では先生、その人について何かもう一つ連想する言葉はありませんか?」

「アンタ冴えてるわ、エリィ。もう一つ何か言葉があれば、その女の名前が解るって事ね!」

「そういう事なら、僕も頑張って考えてみよう……!」

「か、考えるんじゃなくて、感じた事を発言して下さいね有馬先生」


 エリィの言葉を聞いたかどうかは兎も角、有馬は暫く唸りながら、頭を悩ませる。


「……………………セレナーデ」


「はい? センセ、今何て……」

「そう! セレナーデ! 天使のセレナーデという言葉こそ、彼女を表すに相応しい言葉だよ!」

「はぁ、何それ? ねぇエリィ、セレナーデって何だったっけ夜想曲?」

「そっちはノクターンよ弓美、セレナーデは小夜曲」

「曲は名前に使わないから除くとして、――○○子に入る言葉は小夜って事ねエリィ!」

「小夜子! 彼女の名前は小夜子と言うんだね、エリイ君!」

「更に言えば、名字は天使の天から、天束という線が濃厚だわ」

「うん、確かに。女束、神束より天束、天束小夜子とした方が、天使のセレナーデって印象にぴったりだね! ありがとうエリイ君!」


 喜ぶ有馬に、エリィは釘を刺す。


「あ、有馬先生、念のため言っておきますが、天束小夜子という答えは、確実性のある推理ではなく、あくまで推測の域を出ないモノである事を承知しといてください」

「いや十分だよ! 僕はこの答えが正解だと確信しているし、もし間違ってたらその時は潔く怒られてくるさ!」


 ありがとう! と無駄にキラキラとした顔で笑い、有馬は足早に立ち去って行った。

 直ぐにでも、プリントの作り直すのだろう。


「……はぁ。まったくもう、感謝してるならジュースくらい奢っていけばいいのに」

「別にいいわ弓美、それよりお腹が減ったからどっか寄って帰らない?」


 用事は終わったなら、もうここには用は無い。

 というか、元々帰ろうとしていた身だ。

 エリィと弓美は、鞄を持って移動を開始する。


「あ、それならウチのアニキが新作のケーキの試食して欲しいて言ってた」

「輝秋兄さんさんの新作ケーキ! それならそうと早く言いなさいよ弓美、有馬先生の用事なんて断って直ぐに帰ったのに!」

「……前々から思ってたけど、アンタ男の先生の扱いがさり気なく軽いわよね。女の先生なら親身になって行動するのに」

「そうだったかしら? ま、そんな事より――」


 早く早く、と弓美を急かしながら後ろ向きで前進するエリィ。

 それが図書室の扉にさしかかった時、向こう側に立つ人の姿に、弓美は、あっ、と声を上げた。


「エリィ、前! ぶつか――!」

「――わわっ!」「――きゃっ!」

「……あちゃー、間に合わなかったか」


 瞬間、図書室の入り口にて、ドン、と音をたててエリィと黒髪の女性が正面衝突した。

 完全なるエリィの、前方不注意である。


「あたたた……、ごっ、ごめんなさい、大丈夫ですか? 立てますか?」

「あうっ、お尻うっちゃいました……、あ、大丈夫です、でもちゃんと前を向いて歩かないと駄目ですよ」


 エリィの差し出した手を取り、黒髪の女性が立ち上がる。


(あれ、この人って……)


 先程話題になっていた、有馬の天使とやらではないか、とエリィ達が同じに思い至り、二人して注視してしまう。


「あれ? どうしました? わたしの顔に何かついてますか?」

「…………ぁ」


 ぺたぺたと自身の顔を確認する女性に、エリィは見惚れた。


 有馬教諭の言う通り、彼女は正しく天使であった。


 長く艶やかな黒髪に映る、綺麗なエンジェルハイロゥ。

 長いまつ毛に、大きく丸い瞳。

 服の上からでも解る大きな胸に、引き締まった腰。


(その上、スラッとした長い足なんて、反則過ぎよ!)


 惚ける二人を余所に、手鏡を取りだして自身の顔を確認した女性は、エリィ達に再び向き合い、華の咲くような笑顔を浮かべる。


「あっ! もしかして、図書委員の子達ですか?

 始めまして、わたしは来月……というか明日からですね、司書として来る事になった――」

「――天束、小夜子」

「そう、天束小夜子です。……ってあれ? わたしの事知ってるんですね、急だったけどちゃんと生徒にまで連絡が行ってましたか」

「えと、まぁ……」

「おおー、流石エリィ! ばっちり的中してんじゃん!」

「ふふっ、何だかよくわかりませんが、楽しそうでなによりです。では、これからよろしくお願い致しますね」


 今度は小夜子の方から差し出された手を、エリィが恐る恐る握る。


「……どうも、よろしくお願いします」

「はいっ!」


 エリィの深い褐色の肌色と、小夜子の白い肌色が交わる。

 その手の柔らかさに、温もりに、何故だかエリィは顔を真っ赤にして、顔を俯かせた。


(な、なんでこんなに胸がドキドキするのよっ!)

(――なんかこの女、ムカつく)


 エリィがその答えを知るのは、まだ少し先。


 弓美がその苛立ちの意味を知るのは、ちょっと先。


 樹理亜が転校してくる前の出来事だった。


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図書室のエリィさん 和鳳ハジメ @wappo-

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