2.桜と雨、おしまいの話
「ここを通して下さい。」
背後から声がした。顔を上げると、そこには杖をついた老人が一人。
「あら、どうしました? お手洗いはあっちですよ。」
「お手洗いではありません。外に用事があるのです。」
背の高い老人は眉間にしわを寄せ、そわそわと落ち着かない様子で玄関ホールに出るドアをこじ開けようとしている。
「そうですか。すみません。あいにく今日は自動ドアの修理中で玄関ホールは封鎖しているんです。」
「ならば裏口でも結構。そろそろ家に帰らなくてはならないので。」
覇気のないしゃがれ声だ。鍵のかかったドアノブを回そうとする手を止め、老人はどろりとした目であたりを見回す。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。お茶でもそうです? 美味しいお菓子もありますよ。」
「結構。家で妻と息子が待っているのです。」
私の提案をピシャリと跳ね返した老人は後ろへむきなおり、片足を引きずるような動きでホール内を歩き出した。私は少し焦って老人の前に回り込む。
「奥様なら今日は病院に行かれましたよ。お帰りになるのをここで待ちましょう。」
「いいえ、いないなら家で帰りを待ちます。」
問答は平行線だ。次の句が出てこない私を見かねて先輩が間に入る。
「お家、ここから遠いですよね。雨も降っていることですし。歩いて帰るのは大変ですよ。」
「大丈夫です。近くなので。」
それでも頑なな老人に先輩は切り札を出した。
「困りましたねぇ。奥様が帰られるまでここでお待ち頂くように息子さんから頼まれておりますのに。」
ハッとしたように顔を上げた老人。その目にはいささか光が宿っているように見えた。
「それは本当ですか。息子が。分かりました。ならばしばしここで待たせていただきます。」
さっきまでの覇気のなさどこへやら。ぎこちない動作で礼を言った老人は、ソファの置かれた窓辺に歩いて行った。
「先輩。いいんですか? あんな事言って。」
「だってああでも言わないと納得してくれないんだもん。」
「でも・・・・・・。」
「介護ではね、嘘も方便なのよ。大人になりなさい。」
そう言って仕事に戻って言った先輩の背中を見送ってため息を漏らす。この人はいつもそうだ。さっきみたいなことがあるとどうしようもない嘘でその場を乗り切ろうとする。嘘をつかれた本人の気持ちなんてこれっぽっちも考えていない。
「まったく・・・・・・。」
窓辺を振り返ると、さっきまで降っていた雨が上がり、あたりに夕暮れが下りているのが見えた。
「雨、止みましたね。」
老人に近付いて話しかける。
「ここのところずっと雨だったから、近くの川が増水して溢れそうになってるんですよ。今朝見てびっくりしちゃいました。川って言えば、今年の春は川沿いの桜がきれいでしたね。お花見、行きました?」
他愛もない話だ。先輩がこの人に嘘をつくたび、何となく声をかけてこういう話をする。
「あそこの桜は川にせり出してますでしょう? 花びらが水面を埋め尽くして絨毯みたいだって今ちょっとした観光名所になってるんですよ。桜の絨毯、もし上を歩くことができたら素敵ですよね。」
老人は何も言わない。庭に植えられた桜の葉から、夕暮れの赤を吸い込んだ水滴がタツタツと落ちるのを、ただじっと眺めているだけだ。私は構わず話し出そうとした。
「桜って言えば・・・・・・」
「うちの猫が、龍を呼ぶんです。」
「え? 」
思いがけず返ってきた返答に詰まる。
「うちの猫が、龍を呼ぶんです。」
「どういう意味ですか? 」
それきり老人は何も言わなかった。再び話し出すタイミングも掴めず、気まずさを抱えて私は仕事に戻った。
老人がいなくなったと連絡が入ったのはその日の夜のことだった。
*****
いつだったか、夕暮れのことだったように思う。
川辺の並木道。例年よりも遅めに開花した桜の花を眺めながら、僕はここで車イスを押して歩いていた。
車イスには足の不自由な妻が乗っていて、雨のように降る桜の花びらにはしゃぎながらゆっくりと散歩をしていた。
車イスを押す僕の隣には息子の『 』がいて、久しぶりの親子水入らずだった。
日が落ちてくると、妻が不安そうな顔をして僕に言った。
「うちの猫が、龍を呼ぶんです。」
初めは意味が分からなかった。『 』と顔を見合わせてハテナマークを、浮かべたっけ。
「うちの猫が、龍を呼ぶんです。」
猫っていうのは膝に抱いてる黒猫のミーのことかい?
「あら、もう夕食の時間ですね。早く帰りましょう。日が暮れる前に。」
そうだね。『 』が持って帰れるようにタッパーに詰めてやろう。
横を見ると、『 』はいなくなっていた。
あれ? どこに行ったんだ?
「どうしたの? あなた。」
『 』がいないんだ。おや、ミーはどこに行ったんだ? さっきまで君が膝に抱いていただろう?
ごうごうと風が唸るのが聞こえる。桜の雨は夕暮れの闇を吸ったように冷たく、重く貼り付いてきた。
「『 』がお仕事帰りに寄るって言ってたから、 は天……にしま……ょ……か」
風の音で言葉が聞き取れない。身体に貼り付く桜の花びらが潰れて服が濡れている。気持ちが悪い。
「私、…に連れ……行かれる……怖…ん ……」
妻の言葉が途切れ途切れにしか聞こえない。夕日が赤い。僕は風に目をぎュっと閉じて彼女の言葉を拾い取ろうとした。
「浄土ヶ …の……焼け……れい…で…よ」
目を開けると、妻の車イスは石がゴロゴロ転がる河セン敷にいた。いつの間にかあたりは真っ暗にななっていて、桜のハナも、赤い夕ひも、何もなくくくなくなっていた。激しいアメと風ガごうごうと吹き、川にはあああふれそうなほどの濁流が濁流が濁流が激しくしくしくしく。
『 !!』
妻の名を叫ぶ。だが僕の声は容易にかき消され妻の背中にはににには届かない
ここはどこだ『 』はどこに行ったかかかか風が強い痛いサムイ
川に向かうう妻を見やると妻はぼくを、ぼくを見てワラっていたたた
「どうしたの? あなた。」
その様子ははいつかのツマのそのままの、姿でボクを忘れる前の、ボクの、とても可愛イ、ぼくの
「うちの猫が龍を呼ぶんです。」
瞬間、全てが静寂に包まれた。僕と妻は夕暮れの河川敷に佇んでいて、きらきらと光る川面を眺めていた。
僕は思い出していた。夕空を飛んでいくツバメ、男の咆哮、細い首に食い込む節くれだった指、微かに呻いて動かなくなった小さな身体。ああ全て思い出した。
「この川の流れに乗って、海を目指しましょう。海に行ったら終わります。怖いことも、辛いことも、全部。」
妻は笑顔で僕の手を握り、何か言った。微かな声で、それは素敵ですねと聞こえた。
*****
「施設から脱走して徘徊の末川で溺死、と。いたたまれないわね。」
早朝。老人の捜索に駆り出されていた私と先輩はずぶ濡れのまま休憩所に座り込み、自販機で買ったコーンスープを飲んでいた。
「こうなる前に、私がもっと話をしておけば・・・・・・」
体が宙に浮いているようだった。昨日話をした老人と死のイメージが結びつかない。
「泣かないで。遅かれ早かれこうなってたんじゃないかしら。ほら、あの人、ここにくる前奥さんのこと」
「知ってます。息子さんも若くして亡くされて、奥様が認知症になって、最後には、その・・・・・・。」
鼻をすするとツンと煙の匂いがした。
「一種の自殺よね。認知症になっても奥さんのことが忘れられなくて苦しい思いして。でも最後には奥さんと同じところに行った。幸せかは分からないけど、それが全てよ。あの人のお話はこれで全部おしまい。」
朝七時を告げるベルが鳴り響いた。
うちの猫が龍を呼ぶんです。 彩華じゅん @jun_ayaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。うちの猫が龍を呼ぶんです。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます