うちの猫が龍を呼ぶんです。
彩華じゅん
1.うちの猫が龍を呼ぶんです
「うちの猫が龍を呼ぶんです。」
ある春先のことだ。車イスを押す僕に、彼女はそう言った。
「猫が龍を呼ぶ?」
川沿いの並木道。僕は車イスをゆっくりと押しながら、彼女の話をぼんやりと聞いていた。
「うちの猫は黒猫なんだけどね、日が落ちると窓辺に来てニャーと鳴くんです。そうするとね、天井の暗隅に青い龍が出てきて私の事を見ているんです。」
「そうなんですか。それは大変ですね。」
否定も肯定もしない、極めて模範的な反応を返す。
「暗いところで龍の目が光って私を見ているんです。きっと眠った隙に私の事を連れて行こうとしてるんだわ。」
彼女は続けた。僕の空返事をまるで気にしていないように。
「連れて行かれそうになったことがあるんですか?」
「今はまだありません。でも、猫が鳴くと必ず天井に龍がいるんです。いつ連れて行かれるかと思うと怖くて眠れないんです。どうしたらいいのかしら。」
春のあたたかい風が僕たちの間を通り過ぎる。木々の上で小鳥が鳴く声が聞こえた。木陰のベンチの横に車イスを止め、僕も彼女の横に腰を下ろした。
「怖いでしょうね。僕に出来ることはありますか?」
目線を低く合わせ、そう問うてみる。雨のように降る桜の花びらが、不安げに僕を見上げる彼女のまつ毛を、髪を、唇を、素敵に飾っては落ちる。それを見て、綺麗だと思った。彼女は少し震えた声で答える。
「窓辺に猫が来ないように見ていてほしいんです。私が龍に連れて行かれないように。」
キラキラと潤んだ、小さな可愛らしい瞳が僕を見ている。
「お安いご用だ。」
薄く笑って見せ、彼女の右手をそっと握る。蝋のように白く、骨の浮いた手はひどく冷たい。
「私、龍に連れて行かれるのが怖いんです。怖くて眠れないんです。」
「怖いですね。でも大丈夫、猫が来たら僕が追い払ってあげますから。」
「本当よ?」
彼女は僕の手をひしと握って言った。その縋るような表情があんまりにも無垢で、可愛くて、思わず笑みをこぼしてしまう。
「もちろん。約束します。」
彼女の目をまっすぐ見つめ、冷えた指先に体温を戻すように、その小さな両手を包む。少しはにかんだ様子の彼女の頬は、ごく薄い桜色に色づいていた。
「私、龍に連れて行かれるのが本当に怖かったんです。怖くて眠れなかったんです。でも安心しました。あなたがいてくれて良かった。わたし、あなたのことが好きです。」
桜の雨に傘はいらない。花びらに打たれるまま、僕と彼女は手を繋ぎ、微笑み合った。彼女の少女のような笑顔が美しいと思った。今の僕たちは、まるで幸せな恋人同士。胸の奥の方から、ツーンとした痛みが広がる。嫌な痛みじゃない。あたたかくて、気を抜けば溢れそうで、心地の良い痛みだ。泣き出しそうな私に彼女は穏やかな顔で言った。
「初めてお会いするのにこんなに親切にしてくださって。あなたはいい人。わたし、あなたのことが好きです。」
そんな痛みばかりなら、耐えられたんだろうか。
「ありがとうございます。さて、これからどこに行きましょうか。」
なんだかうまく笑えない。笑ったつもりの顔で、握った両手をひざ掛けの中に入れてやると、私は再び車イスの後ろでハンドルを握った。並木道はあと数メートルで終わり。並木道をまっすぐ行った向こう側には大きな建物や道路があり、寂れた街並みが広がっているだけだ。
彼女は、並木道に沿って流れる川を指して言った。川面がきらきらと光っている。
「海に行きたいわ。夫がよく連れて行ってくれます。」
「それはいいですね。」
何か言おうとして、言葉が詰まってしまった。
「浄土ヶ浜の朝焼けが綺麗なんですよ。水平線にお日様がさしてね。天国のようですよ。」
夢心地な顔で話をする幸せそうな彼女が愛しくも、胸は締め付けられるように痛い。
「行きましょうか、海。そこならもしかしたら猫も龍もいないかもしれない。」
「あら素敵。それは素敵ですね。」
僕の提案に、彼女は目をキラキラさせて喜ぶ。
「この川の流れに乗って、海を目指しましょう。海に行ったら終わります。怖いことも辛いことも全部。」
ぼそり、少し耳の悪い彼女には聞こえないような声で言う。
僕は彼女には言っていない。この並木道に来た理由。それを僕は、何一つ、彼女に話していない。
「歌子さん、佐々倉歌子さん。」
恍惚と絶望を繰り返す彼女に僕は声をかけた。
「どうしたの? あなた。」
いつの間にかたどり着いていた川辺。さっきよりもきらめきを増し、視界を横切っていく水の音が嫌にうるさく感じた。
「あら、もう夕飯の時間ですね。今日は天ぷらにしましょうか。お隣さんに山菜をたくさんいただいたのよ。」
夕日が赤い。僕はうなだれ、無言のまま彼女の言葉を聞いた。
「正之がお仕事帰りに寄るって言ってたから、持って帰れるようにタッパーに入れてあげなきゃね。早く帰りましょう、日が暮れてしまうわ。」
何も、何も言えなかった。声だけが出ないまま、堰を切ったように涙が溢れ、込み上げる嗚咽で息が出来ない。
「……日が落ちるとね、黒猫がニャーと鳴くんです。」
決壊した喉から出たのは咆哮だった。橙色の空を、ツバメが一羽飛んで行った。
***
愛の対価は痛みであるように思う。
愛によってもたらされた幸福には、同じ質量の痛みが付いて回る。
傷を負う痛み、傷口に塩をすり込まれる痛み、
痣になったところを何度も何度も尖った岩塩で打たれる痛み。
僕が痛みを知ったのは、去年の春。ちょうど今日のような桜の咲いた日だった。
息子の正之が交通事故で死んだ。
親思いの優しい息子だった。
息子が死んでから、妻は少しずつおかしくなって、ついに認知症と診断された。
物忘れがだんだん酷くなり、洋服を着たりするのが出来なくなった。
畑に出かけて帰ってこられなくなった。
その辺に小便などを垂れ流すようになった。
飼っていた黒猫のミーに、正之が好きだったチョコレートをやって死なせた。
奇声を上げて殴りかかって来るようになった。
訳の分からない話ばかり繰り返しするようになった。
そして、3か月ほど前に僕の顔を忘れた。
僕には、五〇年連れ添った妻が壊れていくのを隣で見ているしか出来なかった。
幸せな記憶だらけの小さな一軒家が、地獄のように思えた。
かけがえのない息子を失い、最愛の妻を失ったこの世界は、生きていくにはあまりに辛い。
僕はここで――。
ニャーと鳴き声が聞こえ、顔を上げると、そこには一匹の黒猫がいた。
真っ黒な体に目だけが黄色く光るその猫は、僕の頭上をじっと見ていた。
薄闇の下り始めた川辺、僕は、ゆっくりと、振り向く。
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