01第一章4

 扉を抜けると、そこは豪華絢爛を絵に描いたような豪壮な空間が広がっていた。ぱっと見回しただけでも六十平方メートルくらいの広さがあり、高級な宿屋のエントランスホールかと勘違いしてしまいそうであったが、設置された家具の種類を見る限り単なる寝室のようであった。洗練された輝かしい造形の巨大なシャンデリアが天井から釣り下がり、至る所に宝石が散りばめられ見事な装飾が施された立派なベッドが配置されている。床に敷かれた絨毯もかなり高価なものなのだろう。紅色を基調とした落ち着いた配色ではあるが、アクセントに青色や黄色などの原色を絶妙なバランスで織り交ぜ、魔術陣を連想させるような大小さまざまな円を使用した複雑な模様は、斬新なデザインながらもどこか格式高い雰囲気を醸し出していた。部屋の壁には、金色の額縁に収められた放漫な女性の裸体が描かれた絵画が飾られており、その他にも、名匠が打ったのであろう精巧な大盾や刀剣、鎧兜などが惜しげもなく立て掛けられていた。天上や柱に施された多種多様な生物の角をイメージしたような独特な意匠は、ダムディリアス帝国の上流階級に伝わる由緒正しき『ダムディング様式』をふんだんに取り入れたものだろう。非常に美しい模様だと話には聞いていたが、実際に見ると伝統と長い歴史に支えられた威厳のような風格が感じられた。現在、この厳格な模様の描画を正式に継承している芸術家は全国に数名しかいないと言われている。その作品の制作には莫大な報酬が必要とされ、帝国の富裕層の住人でさえなかなか手が出せないとのことだ。そんな華々しくも高貴な絵様が部屋全体を覆うほどである。どれだけ莫大な製作費がかかっているのかを想像するだけでもおぞましい。

「ここって、まさか」

 もし、ここが帝国内であるのなら、思いつく場所は一つしかなかった。壁ごとくり抜かれたのではないかと錯覚してしまう程に磨き抜かれた透明な窓ガラスから差し込む光が煌びやかに全体を照らし、楽園を演出させる。

ベクトゥムは、大きく深呼吸をしてからゆっくりとした動作でストレッチを始めていた。

「言っただろう。皇帝の緊急避難経路だって」

「じゃあ、やっぱりここは帝国城なのか」

「うん、しかもあの『大英雄』ジングの寝室だ」

 おいおい、嘘だろ。確かに、地下通路での話を辿ればその出口は帝国城近辺に繋がっているのではないかという予想は容易にできたが、どういう理屈か知らないが大英雄様の寝室にたどり着くとは。窓から外を見た様子だと、この部屋は帝国城の中でもかなり高い位置にあるようだ。しかも、俺たちが出てきた扉の先には、じめじめとして暗い閉鎖的な空間は跡形もなくなっており、いつのまにか成人男性が五、六人同時に入っても窮屈しない程の浴槽が設置された豪華な浴室に繋がっていた。おそらく、特殊な空間転移魔術か何かで一時的にあの地下迷路と接続できるのだろう。『ジングが留守にしているからこの道を使った』というのはこういう事かとすぐに理解した。

それにしても、大英雄ジング様は一人でこれほどの贅沢空間を利用しているのか。純粋に羨ましすぎて、嫉妬さえ感じなかった。

「君も、準備運動をしておいた方が良いよ」

 ベクトゥムは、アキレス腱を念入りに伸ばしながら、同時に手首の運動も行っていた。

「それは、一体どういうことだ」

 訳も分からず、とりあえず屈伸から始める俺に、ベクトゥムは「そろそろだね」と告げる。すると、部屋の外からたくさんの足音が聞こえてきた。がやがやと騒がしい話声も聞こえてくる。感覚的ではあるがざっと十人は超える数の人間の気配を感じた。

「帝国の兵士だね。早速、不法侵入がばれたようだ」

 さぁっと背筋が寒くなるのを感じた。

「やばくねぇか。姿消しとかしといた方が良くないか」

「それは無理だねぇ。城内は許可された一部の魔術師しか、魔術の使用が出来ないようになっているんだ」

「まじかよ」

「まじまじ」

 早くも絶体絶命のピンチに直面し、狼狽する俺。そんなことなど、歯牙にもかけずがちゃりと俺たちのいる寝室のドアノブが捻られる。

「どうするんだよ」

「そうだねぇ。まぁ、こうするしかないよね」

 突としてベクトゥムは、左腕で俺の右腕をがっしりと掴むと、開きかける扉に向かって全力疾走を開始した。

「ちょっ、お前。ま、待てって」

 ここにきて初めて、ベクトゥムが見た目に寄らず意外に力持ちであることを知った。俺の抵抗は全く障害にならないようで、速度が緩まる気配はなかった。

「な、貴様ら。ここで何を」

 突入を試みた先陣の兵士も、高速で突撃をしてくるミイラ男にかなり怯んでいるようであった。

「ごめんね。通してもらうよ」

 兵士の眼前二メートルの所で俺の腕を離し跳躍するベクトゥム。そして、空中で体を水平に捻り両足を揃える。

「へ」

 短い吃驚の声をあげる兵士の顔面にベクトゥムのスクリュー式ドロップキックが炸裂し、続けて突入しようとしていた背後の兵士もろとも吹き飛んだ。ベクトゥムは、軽い身のこなしで体勢を立て直すと見事その場に着地し、「走るよ」と、再度俺の右腕を掴み駆け出した。俺は、成るように成れと身を任せ、引っ張られるままに足を動かす。

「こっちかな」

 戸惑う兵士たちの間を器用に掻い潜って、これまた美しい装飾が施された横幅五メートルはあるだだっ広い廊下を突き進む。ワンテンポ遅れて、兵士たちも俺達を追いかけてきた。

「はは。鬼ごっこみたいだねぇ。懐かしいなぁ」

 ベクトゥムは、かなり余裕そうであった。こいつは、頭のねじが何本か吹き飛んでいるのではないかと真面目に考える。

「捕まったら、人生即終了だけどな」

 ベクトゥムの走る速さは、人族の俺には完全にキャパオーバーだ。いつ俺の足がもつれて盛大に転倒してもおかしくはなかった。後方からは複数の怒声が追ってくる。俺は、明らかにどんどんと増えていくその声の発信源が怖くて振り返ることはできなかった。

 いくつものコーナーを曲がり、ピカピカに磨かれた階段の手すりを滑り台の様に滑走し、行く手を阻む沢山の兵士の魔の手をするりと回避し、途中あまりのしんどさに記憶を失う箇所があったものの、気付いた時には帝国城の城門の一歩手前まで辿り着いていた。

「ぜぇ。はぁ。もう限界だ。死ぬ。休憩させてくれ」

 俺は、やっとのことで足を止めたベクトゥムに掠れた声で抗議したが、「あと少しだから、頑張って」と即却下をくらった。激しく肩を上下させ、大粒の汗をとめどなく垂れ流す。心臓は破裂寸前で、目の焦点はぐらぐらと集中していなかった。

 ぼやける視界で城門の方を見ると、そこにはずらりと憤激した兵士たちが並んでいた。見るからに精強そうな武人がところせましと。

「おい。これはさすがに」

 俺の口の端がひくつく。

「強行突破だね」

 あっさりと回答を出すベクトゥム。そして、再び始まる疾走。俺にはもう抵抗する力もなく、反論する気力も失せてしまっており、両の瞳から絶望の涙を流しながらただただ身を任せるのであった。

「かかれぇ」という号令と共に津波のように押し寄せる兵士の大群。先ほど地下迷宮で『何があっても生き残る』と豪語したばかりの俺ではあったが、早くも『死』を覚悟するのであった。

 どどどどどと、地鳴りを響かせながら迫りくる白銀の鎧たち。ベクトゥムは怯むことなく、その群れに進撃していく。そして、お互いが衝突する刹那、ベクトゥムは大きく飛翔した。俺もそれに引っ張られるように宙を舞う。目下の兵士達が思い思いにこちらに手を伸ばすが、ベクトゥムの跳躍力はそれを優に超え、どれも届くことはなかった。空しく宙を彷徨う輝く兜たちの腕。俺は、朦朧とする意識の中でその光景を見つめる。次々と兵士たちの頭が流れていき、最後には見えなくなる。ベクトゥムは、見事に前代未聞の走り人飛びを成功させ、城門から一歩外に出たところに着地した。俺は、もちろんどべしゃっとボロ雑巾の様に地面に叩きつけられた。兵士たちは、一斉にこちらに方向転換をしてすぐさま俺達を取り押さえに掛かったが、時すでに遅し、ベクトゥムが「ヒューガスプリント」と短く詠唱した瞬間、俺の視界が大量の線で埋め尽くされ、あっという間に帝国城が小さくなっていった。



―――


「転移魔術か?」

「そんな、大層なものじゃあ無いよ。単なる移動魔術さ。ちょっとだけ、超高速のね」

次に俺の瞳が物体を観測した時には、大型の噴水の面前に立っていた。後方には、豆粒の様な帝国城が見える。この数秒で、相当の距離を移動したようだ。兵士たちもさすがに誰一人としてついて来てはいなかった。通行人からしたら、何もない空間から突然二人が出現したように見えたのだろう。周囲の人々は皆、目を丸くしていた。

「で、ここはどこなんだ?」

 俺は、過度の負担により限界点を何度も更新しきった呼吸を整えながら、噴水のすぐそばにしゃがみ込むベクトゥムに声をかけた。先ほどから、なにやら地面に敷かれたタイルを一枚ずつ詳しく調べているようであった。

「グレイブスの広場だよ」

「ここに何かあるのか」

「うん。とても大切なものがね」

「大切なものってなんだよ」

 ベクトゥムが、ぼかしながら話をする時は大抵良くないことが起こる。この数時間で学習したことだ。俺は、不安になってすぐに明確な答えを要求した。

「すぐに分かるさ」

「またそれかよ」

 うんざりしたようにため息をついてから、辺りを見回した。周囲はレンガなどの石造りの建造物が多く、行き交う人々の服装は千差万別であった。特段裕福そうな見た目でもなければ、生活に困っている様子もない。おそらく、ここが帝国の中でも平民層と呼ばれる階層にあたるのだろう。

「今度は、どんな楽しい大冒険が待っているんだ」と、一人でふむふむと頷くベクトゥムに皮肉を言う。ベクトゥムは、「ここからは、もう楽しくないかもよ」と、真面目に返答した。どうやら、俺の嫌みは伝わらなかったようだ。

「こっちおいで」

「はいはい。仰せのままに」

 俺は、手招きをするベクトゥムの方へと歩いていった。手の届く範囲まで近づくと、がしっとまた右腕を掴まれる。え? また走るの? 俺の心が拒絶反応を起こし、体が硬直する。

「ホールモォール」

 ベクトゥムは、しれっと呪文を唱えた。すると、すとんっと俺の体が急降下し、地面に吸い込まれていった。まるで、地面そのものがごっそり消失したような感覚。初めの頃の俺であったら、慌てふためいていたのだろうが、さすがにここまで来ると大抵のことはすぐに許容できた。自分に何が起こっているのかを考えるのは止め、この現象が終了した後にどうするのかを考えるようにした。そうでもしないと次々と襲う変化の嵐に心が持たないからだ。

 俺は、そのまま暗闇の中をしばらく落下し続けるのであった。




―――


 無事に落下の終着点にたどり着いた俺たちは、奇妙な通路を歩いていた。ちなみに、滞空時間のわりに、着地時の衝撃はほとんどなかった。通路は約三メートル四方の直方体型をしており、同じサイズの分かれ道がところどころで接続している。閉鎖的な空間で外の景色は見えない。おそらく、ここも地下に存在しているのだろう。周囲の壁はくすんだ白色で、光源が見当たらないのにとても明るかった。まるで、壁自体が発光しているような。

「ベクトゥムさん。ここは」

 俺は、とりあえず先生に聞いてみることにした。

「ここは、ダムディリアス地下大迷宮さ」

「地下迷宮って。帝国は穴を掘るのが好きなのか」

「はは。そうかもね」

「で、ここに来た理由はまだ教えてはくれないのか」

「そうだねぇ。知りたいかい」

「もちろんな」

 俺は、風のごとく即答した。ここまで特段の説明もなく連れてこられたんだ。そろそろ俺も我慢の限界であった。

「この地下迷宮を初めて発見したのは僕なんだ」

 ベクトゥムは、急に歩みを止めると、珍しく真剣なトーンで話し始めた。俺も、同じように歩行を止める。

「お前が?」

「そうさ。あの時は、こんなに入り組んだ構造はしてはいなかったんだけどね。以前と比べるとここもすごく変わってしまったよ」

 ベクトゥムの声には、どこか寂しさのようなものが含まれているように感じた。いや、後悔と言うべきか。少なくとも、負の感情には間違いなさそうだ。

「どう変わったんだ」

「跡形もなくほとんどかな。まるで別の場所みたいだよ。僕が仕掛けた必然に、予期せぬ偶然が介入して、極めて歪んだ空間になってしまったんだ。浅はかだったね。当時は、あれが最善の策だと思っていたんだから」

「なぁ、なんの話をしているのかはよく分からねぇんだけど、お前がここを見つけたっていうのはいつ頃の話なんだ」

「ずっとずっと昔だよ。その頃はまだここは更地だったから、帝国が建国される以前だね」

「おい待てよ。それって、八千年近く前の話だろ。お前、何年生きてるんだよ」

 エルフはいくら長寿な種族とは言っても、寿命は永くて八百年程度のはずだ。ハイエルフでも千五百年。帝国がこの地に建国されたのは約八千年前である。そんなに莫大な年月を生きることのできる種族なんて、角持ちの魔人族か古代龍人族くらいしかいない。ベクトゥムの話が本当なら、それは自然の摂理を無視した奇跡に他ならない。俺は、さすがにこればかりは一片も信じる気にはなれなかった。

「言っただろう。僕は、あらゆる種族であり、そのどれでもないと。『本質』を見抜くんだリオン」

「いや、さすがに無理があるぜ」

「それは、君の知る範囲の常識で考えた結果だろう。と、この話は、いったん置いておこうか。お客様のお出ましだ」

 そう言ってベクトゥムは、進行方向に視線を移した。微かに複数体の生物の足音が聞こえた。その音は、だんだんとこちらに近付いてくる。

「人間。じゃないな」

 俺は、すかさず腰の短剣を引き抜いた。

「そうだね。彼らも、昔は生息してはいなかったんだ」

「なっ」

 曲がり角から姿を現したそのモンスターに、俺は絶句した。

「スケルトンだと」

 皮や肉などを一切纏わず、骨のみでできた人型のモンスター。眼球の無い漆黒の瞳が俺達を見つめる。片手にボロボロのロングソードを装備し、もう片方には金属製の盾を持っていた。一体でも俺の手には余る強敵だ。それが、複数体。ぞろぞろと、分かれ道と言う分かれ道から示し合わせたように登場した。

「俺じゃあ、役に立てそうにないぞ」

 俺は、ごくりと生唾を飲み込んだ。スケルトン自体は、そこまで高い戦闘能力を有しているわけではないが、厄介なのはその特性であった。『アンデッド』と呼ばれる種類のモンスターで、その体の大部分は『闇』により構築されている。そのため、限りなく不死に近い存在であり、倒すには弱点である神聖属性の魔術を使用するか、強力な暗黒属性の魔術で体を構成する『闇』ごと飲み込んでしまうしかない。そして俺は、当然属性魔術など習得していない。つまりは、太刀打ちのしようがないのである。いくらこの短小で可愛らしい愛刀でつついたところで、奴らはすぐに再生してしまうのだろう。

「だろうね」

 ベクトゥムは、知っていたと言わんばかりであった。見える範囲でも十数体、薄汚れた白い体を揺らしながら俺たちの方へとゆっくり行進してくる。なぜ、帝国の地下にアンデッドがいるのか。そんな疑問を抱かずにはいられなかったが、そんなことは後回しだった。とりあえずは、殺されないように気を付ける。それだけだ。俺は、姿勢を低くして、スケルトンの攻撃に備えた。

「そうそう、君はまだ『本質』についての理解が低いようだから、この話をしておくよ。特別講習だ」

 ベクトゥムは、じりじりと近づいてくるスケルトンたちから目を離して、呑気な口調でそう言った。

「今はそれどころじゃないだろ」

「いや、大事な話だ。聞いてくれ」

 こうなってしまうと、聞くしかないだろうと諦め「はいはい」と返事をする。

「君は、最近有名なファントムのことをどう思う? 救世主かい。それとも、ただの殺人狂かい」

 ファントムと言うのは、二年前くらいから突如として姿を現した、謎に包まれた魔術師である。サスクワ地方を中心に個人で活動しており、困っている弱者を片っ端から救済しながら旅をしているらしい。ただ、助けてもらった者は山ほどいて、その信者も日を刻むごとに増えていっているというのに、誰一人としてファントムの容姿を説明することが出来ないらしい。また、逆に弱者を苦しめる存在には一切容赦がなく、拷問まがいのひどいやり方で時間をかけて地獄のような痛みを与え最後には生きたまま炎で炙り殺すのだとか。そのため、弱者からは慕われているが、逆に強者からは恐れられているとのことだ。帝国などの権力とは無縁の存在で、地方の侵略に勤しむ帝国兵でさえ標的にされることもあるため、帝国周辺の地域には特別警戒態勢が敷かれている。

「さあな。まだ、出会ったことがないから良く分からねぇよ。俺には無関係だしな」

「そうかい。ファントムは、『本質』を理解するうえで非常に分かりやすい存在だよ。彼は、弱者に対する慈愛と、強者に対する憎悪という激しい二面性を持っているんだ。だから、彼を外側から見た時、助けられる側は救世主と呼び、粛清される側は殺人狂と呼ぶだろう。立場や見る角度が違えば、それは円にも長方形にも見えるのさ。じゃあ、その『本質』はどうだろう。ファントムは救世主でも殺人狂でもない。『本質』は、ただの復讐者だ。過去に捕らわれた悲しい存在。確かに、今の君には関係のないことかもしれないけど、それは、とても大切なことだよ」

 そんな、なぞなぞまがいの会話をしている内に、スケルトンはすぐそこまで迫っていた。何体かのスケルトンがロングソードを振り上げる。俺は、すかさず後ろに飛んで攻撃を避けようとしたが、ベクトゥムはむしろ右手を前に突き出した。

「セイントフレア」

 ベクトゥムの右手から、眩い光と共に純白の爆炎が放出され前方の不死者たちを包み込む。ごぉーっという燃焼音を響かせ、一瞬のうちに十数体もいたスケルトンは全て聖なる炎に焼かれて消滅してしまった。

「すげぇ」

 俺は、思わず称賛の声を漏らす。姿消しや高速移動などの非戦闘魔術が専門なのかと勝手に思っていたが、高位の攻撃魔術、しかも神聖属性の魔術まで習得しているとは。

「君は、ファントムに会ったことはないと言ったけど、もう会っているよ」

 唖然として固まっている俺の方を振り返り、ベクトゥムはそう告げた。

「それって。お前が」

 咄嗟に確証を得ようとする俺であるが、その前にベクトゥムが動いた。「これから君は、沢山の『正義』と『悪』に出会うだろう。でも、それらはすべて『本質』ではない。『正義』と『正しさ』はイコールではないし、『悪』は必ずしも滅ぼさなければいけない訳ではないんだ。あくまで、物事の側面でしかないんだよ。大切なのはその中身。つまりは『本質』の部分だ。けっして惑わされないことだよ」

ベクトゥムはそう言って、スケルトンがいた方向を指さした。

「だから、何なんだよその『本質』って」

「まぁ、すぐに分かるさ。この先からは、君の物語が始まるんだ。英雄になる為の、君達の物語がね」

 ベクトゥムが、そんなくさ過ぎるセリフを吐いたところで、俺の背後から先ほどとは異なる複数の気配を感じた。今度は何だ。また、スケルトンか。俺は、「ちっ」と舌打ちをして振り返る。そして、またもや絶句することとなった。それは、スケルトンではなかった。そもそも二足歩行ではない。四足歩行の『アンデッド』。スケルトンとは比べ物にならない程の猛威を振るう兇猛で邪智深い不死の猟犬。

「やべぇ。ヘルハウンドだ」

 この帝国は一体どうなっているのだ。居住地の真下に、これほどのアンデッドが放し飼いにされているとは。闇色のしなやかな体躯で風を切り、綺麗な隊列をなしてヘルハウンドの群れが迫ってきていた。俺は、ベクトゥムに助けを要請しようとするが、そこではたと気付いた。

「おい。嘘だろ」

 いつの間にか、ベクトゥムの姿がさっぱりと見えなくなっていたのだ。

「あの野郎、どこ行きやがったぁぁぁ」

 俺は、怒りを力に変えて全速力で足を回転させた。ヘルハウンドは速い。俺が、こいつらから逃げきれる可能性は極めて低いだろう。この短期間で、俺は何回『死』に直面したのか。奇跡的に、最悪の事態は回避出来てはいるが、この幸運、もとい激運がいつまで続くとも限らない。何とかなるとか、誰かが助けてくれるとか、そんな淡い希望に可愛い我が身を委ねることなど到底できない。俺は、文字通り死ぬ気でヘルハウンドから逃走した。

「くそぉ。信じられねぇ。ベクトゥムのやつ、次会ったら絶対ぶん殴る」

 背後から聞こえる足音が少しずつ大きくなっていく。だんだんと追いつかれていることを悟るが、正直どうすることもできなかった。足を止めたら死ぬ。足を止めなくても死ぬ。絶望的状況だった。そんな俺の視界に、二つの分かれ道が飛び込んできた。前方の通路が右と左の二手に分かれていたのだ。どちらも進んだ先がどうなっているかは確認できない。下手をしたら行き止まりかもしれない。右か。左か。すぐ背後に地獄のハンターの気配を感じながら、運命の選択を迫られる。俺は、いちかばちか右にかけてみることにした。のだったが。

《まっすぐだ》

 聞き覚えのある男の声が聞こえた。聞くだけでイライラが込み上げてくる男の声だ。

「正面は壁だ馬鹿野郎。早く後ろのやつらを何とかしてくれ」

《目に見えるものだけが全てではないよ。リオン。まっすぐだ。》

 刻一刻と、選択の時間は迫ってくる。分かれ道まであと数メートル。どちらにしろいずれは追いつかれる。

「それも『本質』っていうやつなのかよ」

 俺は、もうどうにでもなれと言う投げやりな心持ちで、正面を選択した。速度を緩めることなく壁に向かって走る。そして、激突する瞬間、思わず目を硬く瞑った。

痛くは、ない。衝撃も、ない。ヘルハウンドの足音ももう聞こえない。何とかなったのか。俺は、閉じた瞼の外側から強烈な光を感じ、おそるおそる目を開けた。

「なんだ。ここは」

 まず俺の目に映ったのは、一面の白だった。ドーム型の広大な空間だ。そのすべてが純白で、他の色など微塵も存在してはいなかった。背後にあるはずの通路はもちろんのこと、どこにも出口は見当たらない。特に目立った装飾があるわけでもなく、殺風景な景色が広がっていた。ただ、一つだけを除いては。

それは、この純白の拡がりのちょうど中心付近に設けられていた。真っ白な檻。あまりにも不自然でいかがわしい。なぜそんな場所に設置されているのか。いつもの俺なら、絶対に近付こうとはしなかっただろう。だが、なぜかその不自然さに心が惹かれた。理由は全く分からないが、もっと近寄りたい。そう自然に感じ、ふらふらと俺はその白い檻に歩み寄っていた。最初の内は緩やかなスピードで、途中檻の中に誰かが倒れているのを確認すると、小走りに変わった。好奇心とは少し違う何か別の感情に突き動かされている気分だった。場の雰囲気に飲み込まれたとでもいうべきか。後から思い返せば、自分でも可笑しな行動だったと思うのだろうが、今は何の違和感も覚えなかったのだ。運命のようなものを感じていたのかもしれない。

 気付くと、檻の目の前に立っていた。中の人間の容姿は俯せで倒れているため良く見えないが、とても小柄であった。

「あれ、いつの間にこんな近くに」

俺は、そこでようやく、あまりにも警戒心の無い行動だったことを悟った。得体の知れない何かが閉じ込められたケージに馬鹿の様に何も考えずに近づいたのだ。俺としたことが、失態だった。

「んぅ」

 俺が自分の向こう見ずな行動を悔やんでいると、檻の中から声が聞こえた。どうやら、お目覚めのようだ。俺は、びくんと体を跳ね上がらせ、咄嗟に声のした方に顔を向けた。視線が交差した。檻の中に幽閉されていたのは、腰まで届くほどの長く艶やかな黒髪をしたエルフの少女であった。よく見ると、髪の毛の先だけは赤い。瞳が青いということは、エルフの上位種族であるハイエルフのようだ。上半身だけおこして俺のことを夢でも見ているかのような面持ちで凝視していた。エルフの年齢は俺にはよく分からないが、人族で言ったら十六歳くらいだろうか。幼さは残っているものの、その整った顔立ちは将来間違いなく最上級の麗人に育つことをこの歳からすでに予定しているようであった。

「あ、あの」

 まるで、人知れず秘境を流れる清水のように澄んだ愛くるしい声だ。突然の問いかけに俺は、「え、え、えっと」とかっこ悪くどもってしまった。恥ずかしさでかぁーっと顔が熱くなったが、少女は気にせずにその場にさっと立ち上がる。灰色のみすぼらしい服を着ており、その姿は奴隷を連想させた。少女は、俺の方に詰め寄ると檻の格子に手をかけた。潤んだ瞳が俺を見上げる。

「あの、貴方が、私を救ってくださる王子様ですか?」

「はい?」

 思いもよらぬメルヘン言動に、俺は思わず変な声が漏れてしまった。だが、少女の瞳は本気だった。きらきらと輝く眼には確固たる期待が籠っている。

「いや、俺はそんな大層な身分では」

「いいえ。分かります。貴方は王子様です」

「だから、俺みたいな人族が王子なわけ」

「種族など関係ありません。間違いなく貴方は王子様です」

 すべて食い気味で被せてくる少女。俺は、完全に気圧されていた。まぁ、こんな美少女に『王子様』と呼ばれるのは悪い気はしないが、むず痒さは否めない。そもそも、彼女はなんでこんな場所に閉じ込められているのだ。そんな疑問が今まで浮かんでこなかったことが不思議なくらいではあるが、俺が問う前に彼女の方から話し出した。

「ここにいると時間の感覚がよく分からなくってしまいますが、おそらく数日くらい前のことでした。悪い方たちに捕まってここに閉じ込められていた私の前に、全身を包帯で覆った男性の方が現れました」

 全身包帯? 間違いなくベクトゥムだ。あいつは、俺に出会う前にここに来ていたのか。

「その方は言いました。『しばらくしたら、人族の青年が君を救いに来てくれるだろう』と。私は、その言葉を胸にずっとこうして待っておりました。私の運命の王子様」

 運命。そう彼女は恥ずかしげもなく言った。ここまでの流れが、すべてベクトゥムのシナリオ通りであることは分かった。ダムディング大平原で俺はベクトゥムと偶然出会い、帝国に不法侵入して、この迷宮でハイエルフの少女と出会い、そして彼女を解放する。そういう脚本なのだろう。では、その後は何をさせる気だ。彼女を解放した後、俺はどうすればいいのだ。そこで、ふとベクトゥムの言葉を思い出した。

『英雄になるための物語』

 確か、サンもことあるごとに言っていた。俺のことを『英雄の器』だと。お前の目は節穴かといつも笑いながら返していたし、自分でもそんな星の元にはいないことを十分理解していた。だが、こうしてみると運命のようなものを感じずにはいられなかった。ベクトゥムは確か『君達の物語』とも言っていた。つまり俺一人だけではない誰かと、英雄になる運命を生きるという事なのだろう。そしてそれは、十中八九この麗しいハイエルフの少女なのだと直感した。

「あのぅ」

 返事もせずに考え込む俺を心配したのか、少女が声をかけてきた。

「お、おぅ。で、どうすればそこから出られるんだ。見たところ、出入り口のようなものは見えないが」

「はい。私の手を取って念じてくださるだけで良いのです。私を救いたいと。私と共に生きたいと」

 少女は優しく微笑みながら、格子の隙間から右手を差し出した。俺は、すぐには握り返さずに少し考えた。本当にそれでいいのか。何か大切なことを見落としてはいないだろうか。とは言っても、俺の性格のことを一番よく知っているのはまぎれもなく俺だ。少しばかりお人好しが過ぎる俺である。この状況に置いて、彼女の手を握り返さないという選択肢は考えられなかった。

 俺は、がっしりと力強く少女の手を握る。少女の顔にぱぁっと喜びが咲いた。そして、俺は祈った。彼女を救いたいと。彼女と共に生きて英雄になると。お互いに信頼を確かめあうようにしっかりと見つめあう。心が通った、そんな気がした。

 すると、少女を閉じ込めていた檻は光の粒となって消えていった。同時に、少女が俺に抱き着いた。

「ありがとうございます。王子様。これで、自由になれました」

「あぁ。良かったな」

「本当に良かったです。貴方に会えて。私を助けてくれたのが貴方で」

 そういって少女は、はっと何かに気付いたように俺から離れると、少し恥ずかしそうにもじもじと体を揺らした。はぁ。なんだ唯の天使か。俺はその姿をみてほくほくとした。少し世間知らずである感じはするが、控えめにいって可愛い。俺は、無意識に鼻の下が伸びそうになるのを我慢した。

「ところで、名前はなんて言うんだ?」

「私は、マーリーと言います」

「そうか、良い名前だな。俺の名前はリオンだ。よろしくな」

「良い名前だなんて。恥ずかしいです。こちらこそよろしくお願いいたします」

 俺たちは、改めて固い握手を交わした。

「さてと、とりあえずどうしようか。下手に動いて、またヘルハウンドの群れに出くわしたくもないしなぁ」

 握手を解除し、辺りを見回す。やはり、出口らしきものは無さそうだ。見た目だけだと、完全に密閉された空間だった。

「どこかに隠れてんだろ。出て来いよベクトゥム」

 俺は、だめ元で叫んでみたが案の定返事は返ってこなかった。

「ベクトゥム?」

「あぁ、あの包帯野郎だよ」

「あの方は、ベクトゥム様というのですね。知りませんでした」

「あいつ、名乗ってなかったのか。よし、あの辺まで行ってみるか」

 俺はこのままでは埒が明かないと思い、壁際まで進んでみることにした。少し進んだ所で俺は、マーリーがついてきていないことに気付き振り返る。

「どうしたんだ。マーリーも来いよ。具合でも悪いのか」

「いいえ。気にしないでください。考え事をしていて」

 マーリーはにっこりと笑い、俺の方へ歩いてきた。俺は、マーリーと合流してから歩行を再開しようとしたが、あと三メートルくらいの距離に近付いたところでマーリーが「後ろ、何かいます」と顔色を変えて俺の背後を指さした。俺は、モンスターかと思いすぐさまその方向に体を反転させる。が、そこには何もなかった。

「何だよ。驚かすなよ」と、マーリーに視線を戻そうとした瞬間。

「ダークネスネイル」

 俺の頭部に何か黒い物体が急接近してくるのが映った。俺は、今までの人生で一番ではないかと言うほどの反射神経で体をよじり、すんでのところで回避した。それでも、多少かすったようで頬からつぅーっと生暖かい液体の感触が伝う。

「え?」

 俺は、あまりの急展開に思考が置いてきぼりにされていた。

「な、外れたじゃと。この馬鹿者が。お行儀よく一発で死なぬか」

「えっと、マーリー」

 明らかに雰囲気が変わったマーリーを見て愕然とする。

いつの間にか、服装もぼろぼろの奴隷装束ではなくなっていた。威厳と気品が感じられる黒を基調とした魔術装束で、ところどころに深紅色の模様が入っている。スリーブレスのワンピースドレスで、スカート部分はフレア状をしており丈は膝よりも少し高い。赤と黒の螺旋状のタイツに、丸みを帯びた黒いTストラップ・パンプス。両腕には金色のブレスレットを装着している。ネックレスの装身具には見たこともない紋章が描かれていた。中心の円から外側に向かって四方に四つの角が配置されており、ダムディング様式の独特の模様と酷似している。同じような紋章が腕のブレスレットにも描かれていた。髪型も、腰まで伸びたきめ細やかな黒髪はそのままに、フィッシュボーン型に綺麗に編み込まれたハーフアップが追加されていた。一目見ただけで魔術師だと分かる。そんな出立であった。

「あの包帯男の話じゃと、かなり長い間封印されておったようじゃからのう。狙いがうまく定まらなかったか。まぁ、安心せい。次はきちんと即死させてやるわ」

 マーリーは、にやりと口の端を吊り上げる。うふふな英雄伝説がここから始まるとばかり思っていた俺は、これがどうか夢であってくれと心から願った。

「王子様のくだりは?」

 俺は、絶望に震える声で訪ねた。

「はぁ。嘘に決まっておるじゃろう。あの封印を解くには、ああするしかないと言われたのでな。仕方なく芝居をしてやったのじゃよ。わしの美貌に絆されて、鼻の下を助平に伸ばしておったようじゃのう」

 くぅ。反論できない。というか、キャラ変わり過ぎだろう。俺は、数分前の自分を心から軽蔑した。

「じゃあ、ベクトゥムの言葉も嘘なのか? 人族の青年が助けに来るっていう」

「半分本当じゃ。そもそも、数日前までわしはずっと眠っておったからのう。急にそいつにたたき起こされて、わしの今の状況を軽く説明した後に人族の小僧が現れるとだけ告げてどこかに消えてしまったのじゃ」

「そうか、はは。だよな。何を勘違いしているんだ俺は。俺なんかが、英雄になるなんて、夢だとしてもあまりにもおこがまし過ぎるもんな」

 俺は、頬の液体を軽く拭う。手に付着したその赤を見つめ、現実を噛みしめた。さよなら。俺の夢物語。

「一つ、聞いてもいいか」

「なんじゃ」

「お前は、グラミーとは何か関係があるのか」

 道中の、ベクトゥムとの会話を思い出す俺。帝国の地下に眠る魔女の有名な御伽噺だ。ベクトゥムは、この話にも『本質』というものが隠されていると言っていた。状況的に、何か関係があるのかもしれない。

「なんじゃそれは、聞いたこともないわ」

「帝国の地下に眠る魔女のグラミーだ。かなり古い御伽噺だぞ」

「御伽噺じゃと。お主、わしをそのグラミーとやらとでも思っておるのか。大馬鹿者。わしは偉大なる暗黒魔術師マーリー様じゃ。そんな聞いたこともない子供向けの童謡に出てくるようなマイナーな魔女と比べるでないわ」

 帝国に縁もゆかりもない俺でさえ知っていたグラミーの話を聞いたことがないだと。確か、マーリーは長い間封印されていたと言っていたが、そんなに昔から。いや、まさかな。

俺は、マーリーの様子を伺いながらも、こっそりと魔術陣を形成する。俺が習得している魔術は少ない。もともとの魔力も微量だし、センスもないためポンポンと矢継ぎ早に魔術の詠唱はできない。それに比べて、マーリーは魔術師の最高峰が集まる魔術特化種族ハイエルフだ。自身も言うように暗黒魔術に対してかなりの自負があるようだ。魔術合戦になれば間違いなく殺られるだろう。かといって肉弾戦も不利だ。種族的な身体能力の差異が大きすぎる。となると、俺に残された道は一つだけ。俺は、魔術陣の形成が完了したのを確認すると、乳酸がたまりきった両足に力を込めた。

丁度その時、カチリという時計の針が時を刻んだような音が聞こえた。

「ぬわ! 貴様がすぐに死なぬせいで、呪いが発動してしまったではないか。これは呑気にはしておれんな」

 マーリーにも聞こえていたようで、急に慌てだした。右手を天に向けて「サモン。『晦冥の書』」と叫ぶ。すると、マーリーの手の平のすぐ上部に鉄紺色の分厚い書物が出現した。表紙には、ペンダントと同じような紋章が刻まれている。続けて、「フローティング」と詠唱する。一般的な浮遊魔術だ。『晦冥の書』と呼ばれた魔導書が空中で静止する。

「さぁ、わしの為にその命を差し出せ」

 マーリーが叫ぶと同時に、晦冥の書が空中で開きぱらぱらとページを刻む。やばい。俺はそう直感し、方向転換をして走り出した。

「ダークネスネイル」

 後方で先ほどと同様の詠唱が聞こえて、咄嗟に身をかがめる。数センチメートル頭上を暗黒の円錐が通過し、目先の地面に着弾して床ごと抉り取った。

「これは、本当にやべぇ」

 たらりと冷や汗が垂れる。こんなものが直撃したら、ひとたまりもない。だが、次弾までは魔術陣形成の為の時間が必要なはずだ。その間に、できる限り距離を稼ぐ。俺は、再び足に力を籠める。だが、

「ダークネスネイル。ダークネスネイル。ダークネスネイル」

 あろうことか、マーリーはスパンもなしに暗黒魔術の詠唱を連発した。俺は「ひぃぃぃ」と、引きつった声を発しながら、奇跡的に全弾をよけきる。どういうことだ。どれだけ高尚な大魔術師であったとしても、これほどぶっ続けに魔術を放つことは不可能なはずだ。呪いなどの特殊な魔術を除いて、その発動までには、『魔術陣の形成』、『魔力の集約』、『魔術名の詠唱』の三段階を経る必要があり、その後にやっとのことで、魔術の発動、いわゆる『魔術展開』が行われるのだ。最低ランクの第伍級魔術を使用するにも、世界最高位の魔術師で三秒はかかると言われている。恐らく、あの晦冥の書なるものに何かしらのからくりがあるのだろう。俺は、ちらっと後ろを振り返り、マーリーの履く靴に向かって「グラビ」と詠唱をする。その間もマーリーは「ダークネスネイル」を繰り返し詠唱し、俺を殺しにかかっていた。

「くそぉぉぉ。こんなところで死んでたまるかぁぁ」

 俺は、ほとんどがむしゃらにマーリーの猛攻を回避し、目の前の真っ白な壁に向かって走り続けた。

「ぐぬぬ。小賢しいやつじゃ。人族の分際でこのわしから逃げきれると思うたか。すぐに、追いついて。うぬ?足が重い。封印の影響か。体も大分訛っているようじゃのう」

 マーリーは、そこで俺の追跡を開始したのだろう。止むことのない暗黒魔術の詠唱の嵐に混ざって足音も聞こえてきた。

「うおぉぉぉ」

 俺は、その間もひたすらに走り続け、何とか壁まで辿り着く。体中マーリーの魔術で切り傷だらけになってはいるが、まだ致命傷は負っていない。この空間に入ってきた時と同じようにぎゅっと硬く目を閉じそのまま走り抜ける。案の定、衝突の衝撃はなく数秒の後に見知った通路に出た。そう、ベクトゥムに嵌められたアンデッドの巣窟だ。上手く巻いたはずのヘルハウンドの群れのおまけつきで。後方に狂った人殺し女。前方に複数の殺戮猛獣。どちらをとっても地獄だ。

「くそう、どうする」

 自らに問う俺。その時、再度カチリという音が響いた。

「二つ目の針の音。急がねば。そろそろ本当に死ねぇ」

 明らかに余裕をなくした様子のマーリーが、怒りの表情を携えてぬっと壁から現れ、「ダークネスジャベリン」と唱えた。その瞬間、ぞくっと今まで以上の危機を感じすぐさま通路の端に飛び丸くなる。コンマ遅れて、ごおぅっという重低音と突風が俺の肌の数ミリメートル先を撫でながら通過した。そのまま激しい衝突音が響いた。

 俺は、荒い息を吐き出しながら、顔をあげる。

「ありえねぇ。まじでありえねぇよ」

 前方の通路がぼっかりと埋没していたのだ。底が見えないくらいの大穴が出来ている。一体、どれほどの威力の魔術弾を放ったら、こんな芸当ができるというのだ。もちろん、ヘルハウンド達は強大過ぎる魔力により跡形もなく蒸発してしまったようだ。大穴の周りには、うねうねとした生物のような暗黒属性の残留魔力が蠢いていた。魔力弾の通過時の影響で、衣服の左側半分は破れ吹き飛んでしまっていた。もし、咄嗟に通路の端へ寄っていなかったら。そう思うと、鳥肌が立った。

「くそう。なぜ避ける。ダークネスネイル」

 とっておきの魔術であったのだろう。マーリーは非常に悔しそうにしていた。だが、諦める様子はなく、間髪入れずに次弾を打ち込んできた。

「くそっ」

 俺は、前方の大穴に飛び込む程の勇気はなく、すぐ先の分かれ道に身を投げた。マーリーの魔弾が左肩を抉り、大量の鮮血が噴き出すが、今は気にしている暇はなかった。止まれば死ぬ。分かりきっていたからだ。直進は不利だ。先ほどの一撃でそう判断し、極力分岐路を選択して逃げる。

「なぜじゃ。はぁ。いくら訛っているとはいえ、こうも体が重いのは。わしが人族ごときに、追いつけないなんて言うことが。はぁ。はぁ。あって、たまるものか」

 マーリーの苛立ちは最高潮のようであった。魔術の標準も最初の頃よりは荒くなっており、傷だらけの体でもぎりぎり避けられる。そのまま二回ほど時を刻む音が鳴った。その度に、マーリーの怒声が迷宮内に鳴り響いた。このまま逃げ切れるかもしれない。そんな淡い期待が芽生え始める。

 だが、現実というものは非常に残酷で、ついに俺は選択を誤った。

「行き止まりじゃのう」

 背後から、マーリーの嬉しそうな声が聞こえた。俺が最後に曲がった先に道は存在していなかった。例の見えない通路かとも思い突き当りを叩いてはみたが、今回ばかりは正真正銘の壁のようであった。ふぅーっと、深く息を吐き出してから、壁を背にしてマーリーの方に体を反転させる。

「ぜぇ。はぁ。げほっげほ。そろそろ、げほぅ。観念せい。下等種族が」

 マーリーは息も絶え絶えと言うふうな様子であった。もともと、ハイエルフの中でも体力が無い方なのかもしれない。死の恐怖に晒されながら逃げ惑っていた俺よりもはるかに大きく肩で息をしていた。

「なぁ、取引しようぜ」

 俺は、敵意が無いことを示すために両手を頭よりも高く挙げた。頭をフル回転させて、状況を打破する方策を考える。

「はぁ。はぁ。取引、じゃと」

「そうだ。気にならないか? なぜ俺みたいな最弱種族が、こんなアンデッドの闊歩する迷宮を通って、お前の元にたどり着いたのか」

 俺は、とりあえず時間稼ぎをするために思いついたことを片っ端に口から吐き出す。今の立ち位置で逃走劇をこれ以上続けるのは不可能だ。それなら、ここでできる最大の悪あがきを実行するしかない。それに、マーリーは、先ほどから定期的に鳴る謎の音を気がかりにしているようだ。ということは、何かマーリーにとって不都合な出来事があるに違いない。それは、もしかしたら、俺が生き残る唯一の糸口になるのかもしれない。

「うむ。確かに。言われてみれば気になるが。それが、取引とやらに関係しておるのか?」

「あぁ、大いにな。なぜ俺が危険を冒してまでお前の元に現れたのか。お前はその理由をベクトゥムから聞いたか?」

「いや、何も」

「そうか。それは非常に残念だな。それを聞いたら、お前は俺と取引せずにはいられないだろうに」

 なるべく不自然にならないように、出まかせを紡いでいく。このまま俺の話に食いついてくれれば、かなりの時間が稼げる。

「何じゃと」

「聞いといて損はしないと思うぜ」

「ふむ。手短に話せ」

「そうこなくっちゃな。でもその前に、お前が俺の命を狙う理由を教えてくれよ」

「貴様、知らなかったのか。この呪いのことを」

「呪い?」

「わしが封印される前に生きていた時代の強力な呪術じゃよ。わしの唯一人の友にかけられた裏切りの呪いじゃ」

 マーリーの表情に陰りができる。

「それは」

 俺が、続きを聞こうと口を開くが同時にカチリと五回目の刻音が響いた。

「そろそろ、時間切れのようじゃ。話の途中ではあるが終幕じゃな」

 空中に浮かぶ晦冥の書が薄く発行する。何かしらの魔術を展開するつもりだと、すぐに直感した。だが、俺はこの時を待っていた。「ダークネス」とマーリーが詠唱を始めた瞬間に、俺は彼女に向かって走り出し同時に早口で詠唱をした。

「グラビ」

「っ!」

 ごとんっと鈍い音を立てて晦冥の書が地面に落下し、マーリーの詠唱が止まる。仰天したように目を丸くするマーリー。それもその筈だ。俺の詠唱した第伍級魔術『グラビ』は、対象物の質量をほんの少しだけ増加させるという最低位の付加魔術である。あまりの使い道の無さから、これを習得している人間は、下手をしたら世界に俺くらいしかいないかもしれない。それほどまでに底辺のクソ魔術なのだ。だが、俺はその魔術の効果を最大限に発揮できる特異スキルを保有していた。

 特異スキル『付加魔術の極致』。生を授かったときにくっついてきた先天性のもので、その能力は付加及び妨害魔術の効果を極限まで上昇させるという超高性能スキルである。補助系の魔術を専門にする魔術師ならば、喉から手が出るほどに手に入れたいスキルであろう。残念ながら、最低ランクの魔術である第伍級魔術、しかもその中でもごく一部の魔術しか習得できない俺にはこのスキルを使いこなすことはできないのだが。いわゆる宝の持ち腐れである。

晦冥の書に対して発動したグラビは、このスキルのおかげで通常の何十倍もの効果をもたらした。空中に浮かぶ魔導書は浮遊魔術で支えられる重量以上の重さとなり墜落したのだ。俺は、次の魔術の展開のために魔術陣を形成しながら、唖然とするマーリーの隣を走り抜ける。

「貴様。なかなか面白いスキルを持っておるようじゃのう」

 マーリーは、すぐに俺の隠し玉の存在に気付いたようで、「ハイフローティング」と先ほどよりも強力な浮遊魔術で晦冥の書を宙に持ち上げる。そして、俺の背中に向けて狙いを定めた。

「ダークネススパイク」

「ジャックル」

 マーリーの詠唱に被せて魔術を発動する。マーリーが連発していたダークネスネイルよりも一回り大きめの暗黒の円錐が形成されるが、それは俺の背中を貫くことはなく、あらぬ方向へと飛んでいってしまった。

「ぐぬぬぬ。貴様ぁ」

 ジャックルは、第伍級魔術の中でも即時魔術と呼ばれるほどに魔術陣の形成が短時間で可能な妨害魔術だ。そのため、次のジャックルを発動するまでにはある程度のクールタイムが必要になるのだが、俺にはこの一発だけで十分の効果が得られる。本来は、瞬きをするくらいのほんの一瞬だけ対象の視界をブラックアウトさせるものであるが、俺が使用すればその効果は何倍にも跳ね上がる。視界を奪われたマーリーは、目をごしごしと擦っていた。

 この数秒で、ある程度の距離を離せた。これまで、俺がどれだけの死地から逃げてきたと思っている。逃亡に関しては一流なのだ。改めて、デッドチェイスの再開といこうか。

だが、マーリーは俺の読みを更に上回る魔術のレパートリーを所持していた。

「もう許さん。ダークネススネイクバインド」

「なっ!」

 マーリーの腕から蛇のように細長い漆黒の鞭が高速で伸び、完全に油断していた俺の足首を絡めとった。俺は、バランスを崩し転倒する。すぐさま立ち上がろうとするが、足首に巻き付いた拘束具により上手くできない。

「くそっ離せ!」

 俺は、両手でそれを引きはがそうとしたが、するすると透過して掴むことさえできなかった。そして、

「ダークネスネイル」

 マーリーの冷たい声が耳に届いた瞬間、俺の体は後方に吹き飛ばされた。

「・・・!」

 何が起こったのか全く理解できなかった。背中に地面と液体の感触が広がる。上半身を起こそうにも、体が言うことを効かなかった。はぁはぁという、自らの荒い息だけがやけに大きく聞こえる。首も上手く持ち上げられなかった為、右腕を動かし、きちんと下半身が繋がっていることを確認する。だが、すぐに気づいてしまった。俺の体の不自然な部分に。

 臍の右側から脇腹にかけてが、ごっそりと抉り取られてしまっているようであった。いくら触っても、そこにあるはずの肉が存在しない。ごほっと口から大量の血をこぼす。遅れて、激痛が体を駆けた。

「うぐっぐぁぁぁぁぁぁ」

 痛みにより意識を手放せれば楽なのだろうが、それさえ許してもらえない程の焼けるような痛み。熱い熱い熱い。痛い痛い痛い。俺の思考が埋め尽くされる。

完全に死んだ。そう確信した。どう転んでも、助かる見込みはない。そう確信した。生き残れなかった。サンとの約束を守れなかった。大事な約束を。そう、確信した。

痛みからなのか、悔しさからなのか。俺の瞳から涙がこぼれる。ごめん。サン。ごめん。兄貴。

「今、楽にしてやる」

 霞む視界の先に、俺を見下ろすマーリーの姿が映る。マーリーも、俺の死を確信したようでその表情には歓喜と安堵が混ざり合っていた。晦冥の書が薄く発行する。俺は、ゆっくりと目を閉じた。

「人族にしては、なかなか見所のあるやつであったぞ。さらばじゃ」

 勝利を確信するマーリー。これで、俺の人生は終わり。俺の物語は終幕。

『誰にも知られることもなく』

 それは別に構わない。

『何の偉業も為すことなく』

 それも別に構わない。

『家を持ち、多くの友人を作ることもなく』

 それも別に構わない。

『可愛い彼女を作って、幸せな家庭を作ることもなく』

 それは少し残念だが、まぁ仕方ないと割り切れる。

『まだまだ沢山の人々を助けることができたかもしれない』

 結果的に何人かの手助けはしてきたが、もともとその為に生きていたわけではない。

『俺に盗みを働かれた被害者への謝罪がすんでいない』

 いや、謝罪するつもりは毛頭ないし、俺なんかに盗まれるくらい間抜けなのが悪いと思う。

『まだ、英雄になれていない』

 そんなの、くそ喰らえだ。


『友との約束を果たしていない。何があっても生きると誓ったのではないか』

 それは・・・


 それは、やっぱり我慢できない。


 俺は、重い瞼を無理やりこじ開ける。マーリーが開口しようとするのが見えた。ばっちりと目が合う。それを確認して、俺はにやりと不敵に笑った。

「何してたんだよ。遅すぎだろ。ベクトゥム」

 掠れ切った声を絞り出して、視線をマーリーの顔のさらに奥へと移した。

「何じゃと!」

 マーリーは、反射的に頭上を見上げた。無地の天井だけが広がる何もない空間を。はっとして、マーリーはすぐに俺の方へと視線を戻した。

「貴様、この期に及んで」

 マーリーは拳を握りしめ、振りかぶる。

「その愚かなる勇気を讃えて、わしがこの手で息の根を止めてやろう」

 どうだ。俺の悪あがきは。偉そうなハイエルフに、一泡吹かせてやったぞ。サン。お前にこんなことできるか。兄貴でもここまではできないだろうな。すげぇだろ。でも、まだまだだ。

「ダークネススピア」

 マーリーの振り上げた拳に黒い魔力が集約し、巨大なランスが形成される。それと同時に、俺も魔術陣の形成が完了した。

 さぁ、正真正銘。最弱種族の最低位魔術による最後の悪あがきだ。

「グラビ」

 音になったのかもわからない程の小さな声で詠唱する。

「嘘じゃろ!」

 対象は、振り上げた腕に装着された金属の腕輪。マーリーは、バランスを失い大きくよろける。腕から伸びるランスは、通路の床に深くめり込み腕の重さと合わさって容易に抜くことはできないだろう。

「やばい。やばい。やばいぞ。鳴ってしまう。こんなことはありえぬ。六度目の時を刻む呪いの音。くそ。くそぉ」

 そして、カチリ。

 一際大きな音が響いた。と、同時に巨大な魔術陣が俺とマーリーの間に形成される。マーリーはそれを見て、完全に断念したようにだらりと脱力した。

「完成しおった。六刻同化の呪式が。完敗じゃよ。小僧」

 魔術陣が強烈に発光しはじめ、俺達を瞬く間に包み込んだ。

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世界の深淵を巡る大冒険は最弱種族と鬼畜ハイエルフのボディシェアから おま風 @omakaze

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