01第一章3
「あれぇ。おかしいなぁ」
あの慌ただしい夜から数日が経った。俺はファーストキスを少女に奪われたという事実から何とか立ち直り、ベクトゥムと一緒にダムディリアス帝国の南門の前にいた。道中、地図の話を熱心に聞く俺に、現在までに完成している段階のものでよければ複製を譲ってくれると言うので、すぐさま飛びついた。ただ、機材等の関係で複製は帝国内にある自宅でしか作成できないとのことらしい。帝国内にはまだ足を踏み入れたことも無かったので、良い機会だと思いここまでついてきたのだが、
「こんな通行許可証は見たことがないだってさ。変だなぁ」
御覧の有様であった。自信満々で門番の兵士の前を通り過ぎようとしたベクトゥムは、あれよあれよという間に兵士に囲まれ、帝国の敷地の外へと放り出されたのだ。勘弁してくれよ。
「もう一度、抗議してくる」
ベクトゥムは諦めずに再度門番の方へと向かっていったが、あまり良い成果は得られなさそうだった。
それにしても、相変わらず立派な城壁だ。ダムディリアス帝国は、大陸最大の城郭都市でありその面積は約三十平方キロメートルにも及ぶ。帝国の一番外側をなぞる様に高さ五十メートル程の巨大な城壁が囲っており、帝国内の各層の境目にも同じように城壁が設置されている。帝国内の六割以上が貧困層の土地であり、残りの三割が平民層、一割が富裕層とのことだ。中心に向かうほどに標高が高くなっており、その頂上にはこれまた立派な帝国城が存在するという。そして、最も驚愕なのが、帝国の公共の建造物はほぼ全てが壱級対魔術鉱石であり世界一硬いと言われるヴィルライト鉱石で建造されている点である。巨人族の腕力でも破壊することが不可能で、すべての魔術に対して絶対的な耐性を持つ最高峰の鉱石。それを惜しげもなく使用した、難攻不落の要塞都市なのである。ここ数千年の間、一度も敵国の侵入を許したことがなく、百年前の魔人族との全面戦争の際に周辺の平原が最終決戦地となりながらも、無傷で耐えしのいだという歴史がダムディリアス帝国の無双さを証明していた。その際に『帝国の七英雄』として活躍した『大英雄』ジングと、『至高の鑑定士』ルーシュが戦争後も帝国に残り、今もなお国政の重要人物として君臨しているらしい。
そんな、自分のちんけな人生とはまったく関わることはないと思っていた輝かしい歴史を持つ帝国内部に入国できると聞き、若干、いや控えめにいってもかなり期待をしていたのだが、その望みが叶うことはないようであった。
「ええい。いい加減にしろ。怪しい奴め。たたき切るぞ」
ひと際大きな怒鳴り声と同時に、ばちぃぃんと空を割く破裂音が響く。どうやら、しびれを切らした門番がベクトゥムの頬を思いっきりビンタしたようだった。渾身のビンタを放った門番は恐らく小型の巨人族だろう。四メートルを超える巨体、その逞しい巨腕から繰り出される張り手である。俺であったら、首が胴体からさようならをしていたことだろう。それほどではないにしろ、元々か細いベクトゥムは数メートル後方へと吹き飛び、着地と同時にずざぁぁぁとそのまま何回転も転がった。門番はやりすぎたかと心配そうにベクトゥムを見ていたが、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がるベクトゥムを見て、ほっと胸を撫でおろしていた。さすがのベクトゥムもこれ以上喰ってかかることはなく、離れところで様子を伺っていた俺の方へととぼとぼと歩いてきた。
「いたたたた。首が吹き飛んでいくかと思ったよ」
「大丈夫かよ」
「まぁ、タイタンに巨木で殴られた時の方が痛かったかな」
「お、おぅ。そうか」
さらっと、とんでもない体験を語るベクトゥムに、若干引く俺。
「で、どうするんだよ。入国は諦めるか」
「いや、諦めないよ。せっかく君とここまで来たんだからね」
ベクトゥムはその柔らかい雰囲気からは想像できない程度には頑固のようだ。あれだけの仕打ちを受けてもなお、諦めていないとは。
「姿消しでも使うのか」
「それは、無理だね。門番の一人に龍人族がいる。そんなことしたら、本当に切り殺されてしまうよ」
「他に方法があるのか」
「あるよ。でも、少し遠回りになるからあまり使いたくなかったんだけど」
そこまで言ってベクトゥムは、きょろきょろと辺りを見回し、門番がこちらに背を向けた瞬間に、「こっちだ」と俺の手を引っ張った。
「お、おぅ」
俺は、ベクトゥムに導かれるままに道を外れ、草むらをかき分けていった。
―――
「ここは」
俺達が辿り着いたのは、先ほどベクトゥムを張り飛ばした門番が立つ城門の真下であった。帝国の城壁の外側には高さ十メートル程の堀が存在し、南北にそれぞれある城門と街道は一本の橋で繋がっている。俺達がいるのはその橋の下であり、街道からはちょうど死角になっていた。
「ここから侵入する」
ベクトゥムは自信たっぷりにそう告げたが、どう見てもヴィルライト鉱石で出来た世界一丈夫な城壁だった。
「お前。ついに頭が」
おかしくなったのかと、続けようとしたがやっぱりやめておいた。ベクトゥムは、そんな俺の呆れた表情を見ても何も気にした様子はなく、壁にそっと手を当てた。
何をするつもりかは知らないが、俺は何が起きてもすぐにこの場から逃走できるように準備をしておいた。
「行くよ」
ベクトゥムはちらりと俺の方を向く。
「なんで、クラウチングスタートをしようとしているんだい。」
「気にしないでくれ」
「そうかい」
ベクトゥムは、俺の不自然な体勢を指摘したが、すぐに視線を自分の手に戻し、小さく何かを唱えた。
すると、がちゃりっという何かが外れるような音がして、目の前の城壁がいつの間にか木製の扉へと変化していた。
「なっ。」
驚愕して目を見開く俺の手をぐいっと引っ張り、「さぁ、早く入って。すぐに元に戻るから」と、一言。
俺は、言われるがままにその扉をくぐり、続いてベクトゥムが入ってきた。扉の中は高さ二メートル、幅一メートル程度の通路となっており、光源がないため数歩先は見えなかったが、雰囲気からしてかなり先まで続いているようであった。
「ライトネス」
背後でベクトゥムがそう詠唱すると、俺達を中心にぼわぁっと淡い光が広がる。背後を振り返ると、いつの間にか扉は消えていた。
「本当、だったんだな」
「僕は絶対に嘘はつかないよ」
まだ、半分信じられず呆然とする俺の肩をとんとんと叩いて、前に出ようとするベクトゥム。
「ここから先は、かなり道が入り組んでてね。正解の道を進まないと一生外に出られなくなってしまうから絶対に僕から離れないでね」
「分かった。離れない。絶対」
俺にはベクトゥムのその言葉が、冗談には聞こえなかったため素直に後ろについていくことを決めた。壁際によって道を譲り、離れないように三十センチ程度後ろにぴったりと張り付く。足場はあまりよろしくなく、時々地面の起伏に躓きそうになる。ベクトゥムの言う通り、少し進むといくつもの分かれ道が現れた。それを見てもベクトゥムは全く戸惑う様子もなく、一歩も止まることなくずんずんと進んでいった。正解の道というやつを知っているのだろう。まさか、ここでお約束を披露するなんてことはやめてくれよと心から願うばかりであった。しばらく無言で歩いて、大分この環境にも慣れてきたため、前を行くベクトゥムに声をかけた。
「こんな通路誰からも聞いたことなかったんだが、知る人ぞ知る隠し通路か何かなのか」
「うん。まぁそういうところだね」
ベクトゥムはこちらを振り返ることなく答えた。狭く長い通路に俺達の声が反射してこだまする。妙に寒いのは、日の光が当たらない為か。奥に進むにつれて、さらに外気が寒くなっていくように感じた。
「こんな道が他にもあるのか」
「いや、さっきの橋の下だけだと思うよ。後は、ご存知の通り、北門と南門、そして貧困層の例の出口かな」
ベクトゥムの口調は、やけに淡々として聞こえた。この閉鎖的な環境も相まってか、俺は少しばかりの不安を覚えた。
「ちょっと、というかかなり驚いたぞ。こんな隠し通路があったなんて。あの扉は俺でも開けられるのか」
とりあえず、この何とも言えない不安を和らげるために話を続ける。だが、自慢では無いが俺の悪い予感は今まで外れたことがない。その記録は、今回も更新をされることとなった。
「はは。だろうね。ずっと昔に、敵国の侵攻によって帝国が陥落したときのために備えて皇帝専用の緊急脱出路として作られたんだ。まぁ、その用途で使われることは一度もなかったんだけどね。ここのことは帝国でもほんの一部の人しか知らない筈だよ。多分、今知っているのは皇帝とジング、ルーシュの三人くらいじゃないかな。あと、あの扉は特殊な魔術がかかっているから君には開けられないよ。残念だったね」
「え。お前今なんて」
ベクトゥムの口から語られた予想もしていなかった大物達の名前に、自分の耳を疑った。この通路は、あの帝国の七英雄の二人と、皇帝しか知らないだと。なぜお前がそれを知っているのだ。というか、その三人とは一体どういう関係なのだ。こんな状況でなければ、即座にベクトゥムから距離を置いていただろう。ただの旅人ではないとは思っていたが、まさかここまで深い謎を秘めた人物だったとは。
「ん。どの話だい」
ベクトゥムは、尚もこちらを振り向く様子はなく、それどころか、歩みを止める素振りすら見せない。俺の中の危険探知機が急激に警戒レベルを引き上げた。こいつは、何か重大な情報を隠している。体の奥底からどすどすとした黒い胸騒ぎが込み上げてくるような感覚がした。
「いや、さっき話したことだよ。お前、帝国の七英雄と親しいのか。なんで、ここの事を知っているんだ」
俺は可能な限り平静を装うが、ベクトゥムには全て見透かされているのだろうと思った。ここまでの出来事が全て偶然ではなく、必然であったのではないかとさえ感じ始める。こいつは最初から、俺をここに連れてこようとしていたのではないか。どこまでが俺の勘違いで、どこからがベクトゥムの計画なのか。様々な予測が脳内を反復し、疑心暗鬼を生ずる。
「あぁ。それもそうだね。いきなり彼らの名前を出したら誰だってびっくりするよね。でも、安心してよ。彼らとはただの古い友人だ。古い古い、とても古い友人だよ。たまたま教えてもらったんだ。ちなみに、今の皇帝とは一度も話したことはないよ」
安心だと。この状況でそんなことをよく言えたものだ。俺は脆弱な最弱種族だぞ。ちょっとした判断のミスですぐに命を失う。常にびくびくしながら日々を生きているんだ。そんな俺を、こんな意味の分からない、やばそうな所に連れてきやがって。俺の中でぽつぽつと怒りの感情も芽生え始めた。心なしか、俺達を包む発光魔術の明るさが弱くなったように感じたのは気のせいではないのだろう。ベクトゥムは恐らく、このような展開になることを知っていて、わざと彼らの名を出したのだ。
「お前は、一体何者なんだ」
『たまたま』で、ただの友人にこんな重要な施設を教えるはずがないことは、誰だって分かる。魔人族の大軍をたった七人で退けた、あの伝説の戦士達だぞ。いくら何でも、そこまで馬鹿だとは考えられない。
「僕かぁ。そうだな。君はどう思う」
ベクトゥムは、数日前と同様に、その答えを上手くはぐらかす気なのだとすぐに悟った。
「質問を質問で返すなよ。俺は真剣だぞ」
そういって、かちゃりと腰に下げた探検に手を伸ばす。金属音をわざと立てて、自分には敵意があることを示した。脅すつもりはない。脅しなんかが通用しないことは、俺が最もよく知っている。ただ、少しでもベクトゥムのペースに飲み込まれないための苦肉の策だった。
「ごめんごめん。怒らないでくれ。そういえば、君はあの時、僕のことをエルフと言ったね。それは紛れもなく正解だ。でも、百点満点の回答ではないね。あくまで、君の立場から見た部分的な答えだよ」
「どういうことだ」
「なぜあの時僕をエルフだと思ったのか。それは多分、僕の体形や魔術とか、その時得られた情報のみをもって、君の持つ狭い知識の中だけで考察した結果なんだろう。確かに僕はエルフ族だ。でも、実際はそれだけではないんだ。ある意味僕は獣人族であり、巨人族であり、ドワーフでもある。もちろん、人族でもあるし、そして、それ以外の全てでもある」
「何が言いたいんだ」
ベクトゥムは急に何を言い出すんだ。全く意味が分からなかった。様々な種族に分類されながらも、そうではない。そんなものがこの世に存在するのか。
「ちょっと分かりづらかったかな。そうだなぁ。少し面白い話をしよう。この世界の話だ。歪に歪んで歪曲した可笑しな世界の話だよ。君にも興味を持ってもらえると嬉しいな」
「・・・」
ベクトゥムは、こちらを一瞥さえすることなく続けた。
「君は、昼が明るい理由を知っているかい」
「それは、太陽があるから」
「半分正解だね。なぜ太陽があると明るいんだい。太陽は一体何で出来ている」
なんで、そんな当然の質問を投げかけてくる。俺は、ベクトゥムの真意が理解できず、警戒を強める。
「確か、上空にあふれた魔力の流れが北と南で逆になっていて、その関係で魔力の塊が一点でぶつかるところで魔力膨張が生じて強力な熱と光を放つっていうのが太陽の原理だったよな。魔力の流れは北の方が強いからそれに引っ張られて衝突点が移動していき、ちょうど十二時間で南側の流れが完全に侵食されて夜になるんだろ」
「さすが、博識だね。毎日それの繰り返しだ。でもね、かつて太陽は世界の外に存在していたんだ。恒星としてね。その周りには惑星が無数に存在していてね。夜になると空には月やら星やらが美しく輝いていたらしい。晴れた日の夜はその光でとても明るかったらしいよ。僕も他人から聞いただけで、実際には見たことないんだけどね」
「・・・」
惑星? 星? 月? 一体何なんだそれは。夜空に輝くだと。夜に自然の光源なんて存在しない。広がるのは数歩先も見渡せないほどの暗闇だろう。それは、はるか昔、何千年も前から変わることない世界の常識のはずだ。
「反応が薄いね。まぁ僕も初めて聞いたときは、何を言っているのか全然理解できなかったよ。でも、あとになってから、この話の重大さに気付かされたんだ。君もいつか理解できる時が来るよ」
ベクトゥムは、どこか楽しそうであった。最初の淡々とした受け答えとは打って変わって、明らかに声色に興奮が混じっている。それに、『君もいつか理解する時が来る』という言葉が引っ掛かった。そんな風にわざわざ言うということは、ベクトゥムは俺を殺すつもりはないのだろう。少なくとも、俺がその作り話か妄言かと捉えられてもおかしくないようなべクトゥムの話の、重大さとやらに気付くまでの間は。
「じゃあ、続けて別の話をしようか。何が良いかなぁ。死んでも体が消滅しない特別な個体の話とか、ダムディリアス帝国建国の秘密とか、魔人族との戦争に隠された真実とか、帝国の地下に眠ると言われる暗黒の魔女グラミーの御伽話とか。最近のことなら、救世主ファントムの話題なんてどうだい。ふふ。君には、知ってもらいたいことが沢山あるんだ」
少しずつ、ベクトゥムの口調が早口になっていく。それは、先ほど俺が彼の声色から感じとった興奮によるものなのか。それとも。
「そうだな。暗黒の魔女グラミーの話はなかなか面白いよ。サスクワ地方で長く住んでいるなら、話くらいは聞いたことがあるだろう」
「あぁ」
「有名な話だよね。悪さをする子供に対して帝国に住む大人は決まってこう言うんだ。『悪いことばかりすると、地下に住んでいる暗黒の魔女グラミーが誘拐しに来るぞ。』とね。そこまでは、何の変哲もないお話なんだけどね。面白いのは、この話を知っているのは平民層以上の住人だってこと。同じ帝国に住んでいるはずの貧困層の人々はこの有名なお話を知らないんだ。不思議だと思わないかい。なぜなんだろうね」
「さぁな。知らねぇよ。それよりも、早く俺の質問に答えろよ。お前は一体何者なんだ」
俺は、ベクトゥムの目的が一向に見当つかなかった。ただ、ベクトゥムのペースに巻き込まれることだけは絶対にいけない。それだけは本能的に理解していたため、俺は無理やりにでも話を元に戻そうと試みた。
「そんなに焦らないでくれよ。それじゃあ、とっておきだ」
ベクトゥムは、そこまで言ってから急に足を止め、小声で何かを詠唱し始めた。
「っ」
俺は、その様子を見て咄嗟に後ろに飛ぶ。何かをする気だ。短剣の柄を握りしめいつでも抜けるように身構える。
《例えば、『世界の深淵』についての話とか》
「な!」
俺の頭に直接鳴り響くべクトゥムの声。即座にあの日の親友の言葉がよぎった。
『世界の深淵で君を待つよ』
忘れかけていた、大事な記憶だ。サンの言い残した、俺が生きるための道標。まさか、ここでその手掛かりに出会うとは。俺は、今までの警戒心など忘れてベクトゥムに詰め寄った。
「知っているのか。世界のしっ」
そこまで言って俺の唇にピタッとベクトゥムの右手の人差し指が押し当てられる。いつの間にか俺の方を振り返っていたベクトゥムが、空いている左手の人差し指を自分の唇に押し当ててこちらを見ていた。そこで、俺は自分が我を失い不用意に近づきすぎたことを悟った。
「しーっ。不用心だね。もし僕が君の敵だったら殺されていたかもよ」
ぞくっと、背筋に悪寒が走る。確かに、今のはあまりにも考えなしの行動であったと反省をした。敵だったら云々、という言い回しを使ったということは単なる忠告と同時に少なくとも『敵』ではないということも示唆しているのだろう。ただ、『味方』かどうかは非常に怪しいところだ。
ベクトゥムは、わざとらしく周囲を見渡した後、さっと俺の耳元に顔を近づけた。
「やっとで、食いついてくれたね。嬉しいよ。」
そう言って、俺の口元に当てていた人差し指を、すーっとそのまま横にスライドさせた。それと同時に、俺の上下の唇がぴたりとくっつき離れなくなった。
「ん!んんー。んーー」
驚き無理やり声をあげようとするが、いくら口を開こうと顎に力を入れても、まるでコンクリートか何かで固められてしまったかのようにびくともしなかった。
《ごめんごめん。この単語を口にするのは、あまりにもリスクが高いからね。少しばかりお利口にしていておくれ》
焦り抵抗しようともがく俺の脳内に再び声が響く。俺は、身の危険を感じ、ここはほとんど命令ともとれるベクトゥムのお願いに従っておいた。
《『世界の深淵』は多分君が予想している物とは全く違うだろうね。それは、『場所』ではない。『道具』でもないし、『概念』でもない。『闇』そのものって言う研究者もいるけど、どちらかというと僕達と同じ『生物』っていうのが一番正しいと思うよ。それは生きているんだ。君が知る生の形とははるかにかけ離れてはいるけどね。そして、君が最も知るべきは、それは神に近しい力を持っていながらも、どの生物よりも弱い。『最弱』だということだよ》
『世界の深淵』は、『最弱』の『生物』。サンは、あの日確かにそこで待つと言い残して消滅した。そのため俺は、それをずっと特別な『場所』なのだと思っていたが、ベクトゥムは違うと言う。思考と情報のミスマッチが甚だしく、それに対するやんわりとしたイメージさえ沸いてこなかった。
《あと、この単語は絶対に口にはしないことだ。彼らの耳がどこに潜んでいるやら。彼らに目をつけられたら御仕舞いだよ。だから、約束してくれるかい》
俺は、こくこくと頷く。
《ありがとう。嬉しいよ》
ベクトゥムは、そんな俺の仕草を見て安心したようで、ゆっくりと俺から離れると、先ほどとは逆の方向に人差し指をスライドさせた。それと同時に、解放される俺の口。
「ぷは。なぁ。彼らって」
すかさず、疑問を投げかけようとしたが、「安心してほしい。急がなくても、すぐに知ることになるよ。」とベクトゥムに途中で制止された。
そのせいで、俺の中では何一つ確固たる解答が見つからない。『世界の深淵』とは。『彼ら』とは。そもそも、お前は何者なのかという当初の質問の答えもまだ曖昧なままだ。
「はは。大分混乱しているみたいだね。ごめんね。本当は、ゆっくりと昼食でも食べながら話せればいいかなと思っていたんだけどね。南門に龍人族が配置されているなんて、予想外だったよ。ファントムを警戒してのことだろうね。おかげで、この隠し通路を使うことになってしまったんだけど、これから先はあまり纏まった時間が取れなさそうだから、急ピッチで話を詰め込ませてもらったよ」
「何を伝えたかったのかは知らねぇけど、正直何も理解できてないぞ」
「ははは。今はそれで良いんだよ。全部君には必要な情報だ。嫌でも、理解する日が来るさ。そうだねぇ。どの話にも共通することは、『本質』を見極めることが大切だということかな。この世界はトマトみたいに、外も中も同じ色の物ばかりではないんだ。サツマイモみたいな物だってあるんだよ。っていうことさ」
「さっぱり意味が分からねぇ」
「はは。肝心なのは、『見方』ではなく『捉え方』だよ」
そして、ベクトゥムは乾いた笑いをこぼしながら右側の壁に右手を添えた。俺は、すぐにここが出口なのだと察した。
「最後に一つお役立ち情報。現在、ジングとルーシュはとある理由で、帝国から遠く離れた土地に調査に出かけていてここを不在にしているんだ」
「それが、どうした」
「僕が、この道を通ることを決心した理由さ。それでは、覚悟はいいかい」
「覚悟も何も、もう何が何だか分からねぇよ。ただ、いつの間にか俺は、まんまと取り返しのつかない所まで連れてこられてしまったみたいだ。お前の目的が何なのかは全く予想もつかねぇけど。これだけは言える。俺はこれから先、何が待っていたとしても絶対に生き残る。友との、サンとの約束だから」
ペネパロは、こいつのことを悪い奴では無いと言っていた。それは、古代龍人族の強力なスキルによって裏付けされた紛れもない真実の筈だ。俺は、それに賭けることにした。ベクトゥムを信じるという選択肢に。
「うん。さすがはリオンだ。僕の見込んだとおりだよ」
そして、毎度の如く小さな声量で呪文を唱えるベクトゥム。
「さぁ。行こうか」
ベクトゥムが右手をどけると、そこには木製の扉が現出していた。
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