椿とサムライ

伊古野わらび

椿とサムライ

「おさむらいさま!」


 見慣れた背中が遠ざかっていく。その現実が受け止めきれなくて、慌てて店から飛び出した。

 わたしの声が聞こえていたらしく、あなたさまは然程遠くない位置で立ち止まり、いつもと変わらぬ笑みをわたしへと向けてくれた。とても「最期」の挨拶に訪れたとは思えないほど穏やかな笑顔に、わたしは思わず錯覚してしまいそうになった。明日もあなたさまがまたここへ、父の店へと来てくれる日常が続くのだと。

 でも、あなたさまは言った。他ならぬ、あなたさまご自身が言った。間もなく戦が始まると。この国の行く末を賭けた最後の戦いが始まり、あなたさまはその戦に赴くと。そして、それが自分にとって「最期」になるからと、手持ちの金子を全部父に預けて───今まで世話になった礼と、この後の戦で迷惑を掛けることへの慰謝料とのことだった───今こうして、わたしにまたその背を向けようとしている。もう二度と、わたしの手の届かぬ所へ行ってしまおうとしている。まだ、わたしがこの胸の内にある気持ちに名前を付けられずにいる、その間に。


「おさむらいさま、か……あんたくらいだな。今もこうして俺のことをそう呼んでくれるのは」


 あなたさまは、ご自身の腰の左側をそっと見下ろして、ため息を一つ漏らした。

 かつてあなたさまのその腰の左側には、朱塗りの鞘に納められた立派な一振りがあった。初めて本物の刀を間近に見たわたしが、怖くてつい取り乱し叫んでしまうほど立派な刀が。

 そんなわたしの態度に、あなたさまは気分を害したり、怒ったりすることなく、刀の下緒を鍔に通して刀を抜けないようにして、腰から下ろした。


「こうすりゃ、すぐには抜けねえ。これなら、怖くないだろ?」


 そう言って、あなたさまは穏やかに笑った。今日見せてくれたものと同じ、あの優しくて、穏やかな笑顔だった。

 刀を持つおさむらいさまは怖いものだと思っていたわたしの価値観を、あっという間に塗り替えてしまったあなたさまは、それ以来、父の店に食事をしに来る際は、必ず下緒で刀を抜けないようにしてくれた。不用意に刀身を晒さなくていいように。


「刀は侍の魂だからな。傍には置かせてくれ。その代わり、あんたの父の店では絶対抜かねえ」


 愛刀のことを、あなたさまはそう言っていた。

 それなのに、その刀は、もう既にあなたさまの傍にはない。形見として故郷へ帰したと、先程父にそう言っていた。もうあなたさまは、見た目はおさむらいさまではないのかもしれない。

 それでも、わたしにとっては、心優しいおさむらいさまであることに変わりはない。刀がなくても、もう会えなくなってしまう遠い存在になってしまうのだとしても。

 分かっていた。わたしのような町娘では、あなたさまのようなおさむらいさまの辿る道を遮ることなどできはしないのだと。いや、きっと誰であっても、あなたさまの歩みを止めることはできない。それだけ、あなたさまの決意は固いのだと、わたしでも分かったから。

 あなたさまが、逝ってしまう。もう二度と、会えない。

 そのことを改めて自覚してしまった途端、思わず視界が涙で滲んだ。

 駄目。泣いちゃ、駄目。あなたさまの旅立ちを、こんな悲しい顔をして見送っては駄目。

 案の定、あなたさまは、少し困ったように首を傾げた。「まさか、こんな北の地に来てまで、女を泣かすとはな」と呟きながら、あなたさまは、ゆっくりわたしの方へ近付き。

 しゅるり、と。耳元で何かが通される音がした。次いで、何処か名残惜しそうに離れるあなたさまの白い指先が見えた。


「───やっぱり、あんたには赤が似合うな」


 気付くと、わたしの髪に赤い紐が結ばれていた。見覚えのある赤い色。あの朱塗りの鞘に刀を閉じこめていた下緒だった。朱い鞘に赤い紐と不思議に思ったことを覚えている。わたしの刀に対する恐怖を和らげてくれた下緒が、今わたしの耳元で揺れていた。まるで、わたしの心を体の中に閉じこめてしまうかのように。


「どうして……」

「どうしてだろうな。この下緒だけは、故郷に送り返せなかった。予感があった訳じゃねえが、こういう縁だったのかもしれねえな」


 椿。あんたの名前の色だ。


 初めて。

 初めて、あなたさまに、名前を呼ばれた。もう二度と会えないという時になって初めて。

 わたしの名前を呼んだその声の中に何かを見つけ出したくて、わたしは息をすることも忘れて、あなたさまの唇を見つめた。

 椿。

 またあなたさまは、わたしの名前を口にして。


「赤は、俺の好きな色なんだ」


 きっと生涯忘れられない言葉を、紡いだ。


「俺のお古で申し訳ねえが、散々世話になったあんたに何も渡さないのも不義理だからな。どうか、これで勘弁してくれ」


 そんな。勘弁だなんて、そんな。

 思ってもみない贈り物に、そして、それ以上に思ってもみない言葉を賜って、わたしの涙は結局止まることはなかった。落ちて、落ちて、足下を静かに濡らす。

 何か言わないと。そう思うのに、口は無様な嗚咽を吐き出すだけで、わたしの想いを何一つ言葉にしてくれない。溢れるのは、ただ涙だけ。


「俺のために泣いてくれて、ありがとう───と、言っていいのか分からねえが。今の俺には、勿体ない涙だ」


 わたしにとって誰よりも優しい指が、そっと涙を拭って。

 それが、最後の触れ合いとなった。


 でもどうか、これからは。

 祈るように、あなたさまは言った。


「あんたが本当に思う人のために泣いてやってくれ。あんたは、これからも生きて、母になって、命を繋いでいくのだから」


 そのために、この地で戦えることを、誇りに思うよ。


 あなたさまは、最後にそう言った。そう言ってくれた。

 あなたさまは、最後の最後まで、わたしにとって心優しいおさむらいさまだった。心優しくて、それでいて、わたしを生涯あなたさまからは逃がしてくれない。赤い下げ緒でわたしを閉じ込めて、それでも去ってしまう。狡くて、そして「愛おしい」おさむらいさま、だった。



【了】

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