終わりに咲く花

氷取沢 圭

終わりに咲く花


 帰宅する人でごった返した夜の横浜駅構内を、俺は緩慢な足取りで歩いていた。

 仕事を終えたばかりの俺の身体は、使い古された玩具の人形のようにクタクタだった。

 今すぐにでも、自宅の冷蔵庫で眠る冷えたビールを喉に流し込みたい。そして買ったばかりのベッドで眠りにつきたい。

 安っぽい庶民的な願望を胸に、俺はがむしゃらに足を繰り出し続ける。


 ―――そんな時、であった。


『生きとし生けるすべての生命へ』


 低く重い男の声が、頭の中に響いた。

 幻聴?

 その考えは、周囲の困惑を孕んだざわめきによって、即座に否定される。

 男の声は続けた。


『地球という星の容量は、年々宇宙を圧迫しています。故に二時間後、地球内生命の一斉削除を行い、この星をリセットします……どうか、良い最期をお過ごしください』


 言葉が途切れ、数瞬。

 男の怒号を皮切りに、駅は狂乱に包まれた。


「なんだよこの声はァ!」

「誰の仕業だ、この野郎!」

「私が知るわけないでしょ!?」

「皆さん落ち着いて、きっとこれは神の天啓なの!」


 何かのドッキリかと疑い虚空に罵声を浴びせる者、突然の事態に困惑して固まる者、戸惑いながら携帯を忙しなく操作する者。構内はさながら、パニック映画の様相を呈していた。

 そんな騒ぎの中、自分でも不思議なぐらいに落ち着き払っていた俺は、視界の端に出現した違和感に気づく。

 それは、絶え間なく変動を続ける数字の羅列であった。


「……これって、タイマーか?」


 見た限りだとこれは、時間、分、秒を表しているらしく、先の男が告げたタイムリミットの二時間を切って、刻々と数字が減少していた。

 しかし、そのタイマーをじっくりと見ている余裕はない。既に周辺で、平静を失った人たちによる乱闘が勃発している。

 巻き込まれない為にも、とりあえず俺はこの場を早急に離れることを優先した。




 町中では何条もの煙が上がっている。

 謎の声による終末勧告から一時間、人々は思い思いの行動に走っていた。ヤケになって建物に火を放つ者もいれば、道端で涙を流して天に懇願する者までいた。


 不思議なことに、その勧告自体を嘘だと思っている人間は、俺の見た限りでは誰一人としていなかった。


 ノストラダムスの大予言。マヤ文明の人類滅亡説。確かにそれらの終末論も世間的には騒がれていたが、ここまでの暴動を起こすまでには至っていない。

 しかし、仕方の無いことかもしれないな。脳内に直接語りかける、なんてSF作品じみた突飛な方法をとられたのでは、例え信じたくなくても信じるしかない。


 SNSでは、これは神様からの啓示だの某国の兵器による精神攻撃だの、色々な考察が呟かれている。まあこんな考察をたらたらとしたところで、一時間後には否が応でも真実かどうか知ることが出来るのだ。そこに悩む必要はない。


 問題なのは、この後に迎えるであろう最期に向けて、俺がどう臨むかという点だ。

 電車やタクシーなどの交通網は機能していないので、自宅に戻る選択肢は潰れた。


 この場合は、自分にとっての大切な存在に別れの言葉を告げるのが一般的かもしれないが、生憎、俺には俺の身を案じる家族も、軽口を叩ける友人も、愛を注ぐ恋人もいない。

 世界の終わりが訪れ、改めて己の空虚さを痛感させられた。

 そしてそれを悲しいと、まだ思える自分がいたことに驚いた。


「最初っから、選択肢なんて一つしかないよな……」


 結局俺は、独りで最期を迎える事にした。場所はなるべく静かで人気のないところがいい。そこでこの惨めな人生を寂しく振り返ることにしよう。


 となると、まずは酒が必要だな。アルコールは孤独なときにこそよく効く。

 そのため、俺は近くのコンビニに足を運んだ。


 こんな状況なので当然のことではあるが、店内は酷く荒らされており、惨憺さんたんたる有様であった。

 目当ての酒は軒並み切れていたので、残っていた中から適当に瓶のカクテルと缶ビールを数本取る。店員も不在であったため、レジ横にお金を置いておいた。


 出来れば煙草も少なくなっていたので補填しておきたかったが、いくらこの状況下でもレジ内に無断で立ち入るのは気が引けるため、断念した。


 さて、後は場所を決めるだけだ。





「ここでいいだろう」


 そう呟いて、腰をおろす。

 俺が来たのは、川に架かった橋の下。

 買ってきた缶ビールを開け、からからに乾いた喉に流し込む。コンビニからだいぶ歩いたためよく冷えているとは言い難いが、仕事終わりということもあってたまらなく美味い。

 ビールが身体に染み渡るのを感じながら、俺は眼前の川に映る月をじっくりと見つめた。

 水面に浮かぶ綺麗な三日月は、まるで惨めな人間を見て笑う夜空の口のようであった。

 そうして俺が月に見入っていたその時、


「あれ、先客?」


 ついと背後から女性の声が聞こえた。

 振り返ると、スーツ姿の女性が俺を見下ろしていた。

 涼しげに揺蕩たゆたう長い黒髪に、雪のように儚げであでやかな肌。年齢はおそらく俺と同じぐらいか。

 見たところ、連れはいないようだ。


「すまない、まさかここに人が来るとは思っていなくて。邪魔ならすぐにどくよ」

「いえ、大丈夫ですよ。それより私こそ相席いいですか?」

「相席? ……ああ、俺は別に構わないが」


 てっきり場所を移すのかと思っていたので、相席という言葉に俺は少々驚いた。

 女性は地面を軽くはたいて、俺の隣にちょこんと座った。


「……あの、よかったらどうぞ」


 間がもたないので、俺は買ったお酒を女性に勧めた。


「じゃあお言葉に甘えて頂いちゃいますね」


 そう言って彼女は瓶のカクテルを一本だけ取った。


「で、なんでこんなところに一人で?」


 軽く落ち着いたところで、俺から切り出す。


「たぶんあなたとおんなじ理由ですよ」

「まあ、そりゃそうだよな」

「でも、ひとまず安心しました。街はカタストロフって感じでしたし。自暴自棄になった人に襲われないか冷や冷やしてたんですよ」

「そう言う割には普通に俺に話しかけてきてたけど……」

「それはなんて言うか、あなたは私と同類な気がしたんです」


 そう言って女性は相好を崩した。


「なんだそれ」


 その曇りのない無垢な笑いに、俺もつられて笑った。

 実際、俺も彼女から自分と非常に似た空気を感じ取っていた。

 きっと俺と同じように無為な学生生活を過ごし、同じように分かり合える存在に出会えず、同じように惨めな人生をおくってきたのだろうと。ただ幾つかの言葉を交えただけで、何故か俺はそれを悟った。

 お互い、地球最後の日に一人でこんな薄汚れた橋の下に来るぐらいだ。通ずるところがあるのもうなずけるだろう。


「……さっきの脳内に響いた声、君はどう思う?」

「正直なところ、どうでもいいって思いますね。失って困るもの一つもないですし」

「確かに。俺も失って困るものはなんにもないな。ただ自分で死ぬのが嫌だから仕方なく生きていたようなものだし」

「やっぱりあなたって私と同類ですよ。間違いありません」

「そうかもな」


 数本の酒をカラにしたあたりで、お互い酔いが回り始めた。

 酔いでたがが外れた俺達の会話は、当たり障りのない空虚な世間話から、今の今まで必死に胸中に留めていた愚痴の吐露へと変わる。 


「高校の頃にあったヒエラルキーってやつ、ホントにうんざりしました。自分の意見を通すことは許されないし、かと言って黙ってると『いつも笑ってて自分の意見は言わないよね』って……横暴にも程がありますよ、まったく」

「わかる。そもそも学校のヒエラルキーってのは、社会を知らないガキが勝手に作り上げた、欠点だらけの酷く不合理なランク付けなんだ。そんなものを同調圧力で押し付けられるなんて、ホント理不尽極まりないよ」

「でもそんな学生が作る理不尽なヒエラルキーが、見事に社会の縮図を表しているんだから、嫌な話です」

「全くだ。それは俺も大人になって実感した。社会ってのはとことん弱者に理不尽だ」

「まあもっとも、今の状況ほど理不尽なことはないですけどね」


 俺達は他人事のようにへらへらと笑いながら愚痴をこぼし続けた。


 酒が切れたことに気づき、俺は胸ポケットにしまった煙草の箱を取り出して一本口にくわえた。百円ライターで火をつけて、白い煙を吐く。

 すると、「私も一本いいですか」と好奇心旺盛な子供のような目で彼女が言った。

 女性からは既に遠慮というものが消えていたが、不思議と俺はその態度が嫌ではなく、それどころか出会って一時間すら過ぎていないのにも関わらず、彼女とは昔からこんな関係性だったかのように錯覚した。

 隣にいる彼女の存在に、違和感がない。


 煙草の残りは少ないが、視界端のタイマーを見る限り、全ては吸いきれないだろう。

 俺は一本取り出してライターと共に女性へ渡した。


「ありがとうございます」


 しかし彼女は喫煙経験が無かったらしく、吸っては咳き込んでを繰り返した。


「ごめんなさい。どうせ最期ならしたことないことに挑戦してみたくて……」


 恥ずかしそうに頬を紅潮させて俯く彼女の横顔は、とても可愛らしかった。


「なら肺に入れずに、口の中で留めてそのまま吐いてみて。ふかすだけでもきっと雰囲気は味わえるよ」


 照れながら彼女は頷く。

 そんな平和なやり取りを俺達は続けた。



 

 気づけば右上のタイムリミットは、残り五分といったところまで迫っていた。


「気づいてますか、周りの騒がしさが消えたこと」


 彼女に指摘されて初めて気づいたが、確かにさっきまでの喧騒は嘘のようになりを潜めている。


「きっともうみんな諦めてるんですね」


 夜風が前髪を揺らす。

 同時に置いていた空き缶がカラカラと間抜けな音をたてて転がっていった。

 彼女は飛ばされる空き缶を目で追いかけながら、消え入りそうな声音で、


「今から言うこと聞いて、変な女って思わないでくださいね?」


 と前置きをする。

 そんな気は毛頭ない。

 俺は頷いた。


「あなたって私の運命の人だと思うんです」

「奇遇だね。俺もそう思っていたんだ」

「じゃあ、間違いないですね」


 そうなんだろうな、と思う。

 こんな状況下だから、ということを差し引いても、俺達はお互いが運命の相手であると直感していた。


 きっと、ずっと探していた。

 それはまるで長い間見つからなかったパズルの最後の一ピースを探すように、言い知れぬもどかしさを内に抱えて、ずっと、ずっと。―――運命の、理想の、完璧な相手を。


「まさか地球最後の日に運命の相手と出会うなんてな……皮肉なもんだ」

「皮肉なものですね」


 終末が訪れたからこそ、俺達は出会えた。

 もしあの声が聞こえず、俺が家に帰っていたら、俺達は出会えていなかった。出会うことなく、そのまま空虚で孤独な人生を続けていた。


 ……だからこそ、こんな理不尽な世界の終わりに感謝する。

 終末が俺達を引き合わせたのだから。


「俺、君に出会えて良かったよ」

「……はい、私もです」


 彼女が優しくはにかんだ。

 

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終わりに咲く花 氷取沢 圭 @hitorizawanoshisya

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