するすみ

すはまにてよめる


こゆるきの いそしみつらし するすみに

そむるかたへの そてのうらかな


はまにて詠める


【一】

小余綾こゆるぎの いそ清水しみづらし る墨に

染むる片方かたへの 袖の裏かな


【二】

小動こゆるぎの いそしみつらし 匹如身するすみ

染むる片方かたへの 袖の裏かな


【通釈一】

小余綾こゆるぎの磯に湧く清水であるらしい水で墨をったら、着衣の片方の袖の裏が墨に染まって汚れてしまったよ


【通釈二】

些細な出来事に動揺し、あなたのために尽くすことが辛くなってしまった。独り身に染まって慣れてしまった私が拭う涙で着衣の片方の袖の裏が濡れてしまったよ


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 次の文章は和歌文学研究者の小宅おやけ時継ときつぐ(以下、小宅)と文藝評論家の秋山枯樹かれき(以下、秋山)による、「こゆるき」の歌についての対談の一部である。


小宅:まずは「すはまにてよめる」という詞書ことばがきですが、「こゆるきのいそ」と「そてのうら」という二つの「濱」を詠み込んでいるという点で、変則的な題詠だいえいということにもなるんですね。


秋山:なるほど。「濱」という物名もののなを詠み込んだ物名歌ぶつめいかということですね。「こゆるきのいそ」は歌枕うたまくらとしても有名な現在の神奈川県大磯の海岸のことですが、「そてのうら」というのは千葉県の袖ヶ浦のことでしょうか?


小宅:「そてのうら」と聞くと私など和歌文学をやっている者は直ちに山形県の袖の浦を想起します。最上川河口の左岸一帯を指して「袖の浦」と言っていまして、弘法大師の伝説とも絡み合って歌枕として古来から和歌に詠まれています。ただ、そうなると大磯と位置的にどういう関係があるのか不明瞭ですよね。かといって、秋山さんが挙げられた千葉の袖ヶ浦も、そもそも「袖の」と「袖が」で相違しているし、山形よりは近くなりましたが、やはり神奈川と千葉ですとどうにもわからない。


秋山:わかりませんね(笑)


小宅:はい(笑)。そこで調べてみると、実は大磯の近隣に「そてのうら」という名を持つ場所があるんですよ。


秋山:本当ですか? 私は寡聞にして存じ上げないのですが……。


小宅:大磯を東に行くと江ノ島があって、さらにその東に七里ヶ浜しちりがはま稲村ヶ崎いなむらがさきがありますけれども、この七里ヶ浜しちりがはまの異称が「袖の浦」なんですね。もうちょっと調べてみると、例えば近世の『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』にも「この地の光景、長汀曲浦、さながら袖の形に似たるゆゑに名とす」と書いてある。


秋山:ああ、七里ヶ浜しちりがはまなら大磯まで近いですね。同じ海岸線といったイメージが持ちやすいかも知れません。なるほど。


(中略)


秋山:では次に、この歌で用いられている技巧と解釈についてお聞きしたいのですが、なかなかこれも一筋縄ではいかないようですね。


小宅:はい。この歌を詠んだ亡原行人なしはらのゆきひとという人は歌壇史上でも殊に衒学的な作風を特徴とする歌人の一人として知られていまして、とにかく言葉遊びが多いんです。そのことを念頭に置いてまずは虚心に一読してみましょう。そうすると恐らく、差し当たって「大磯海岸で湧いた清水であるらしい水で墨をっていたら、着衣の片方の袖が墨に染まって汚れてしまったよ」といったような解釈が穏当だろうと思うんですが、ちょっと問題もあります。


秋山:あれ、推定の助動詞「らし」が誤用されていませんか?「らし」は終止形接続が原則で、直前がラ変形用言の場合のみ連体形に接続しますけれど、この歌では「らし」の直前が「磯清水」という体言になっています。


小宅:そうですね。「らし」は現代の「らしい」の直接の先祖になりますが、現代の「この人が犯人らしい」のように「らし」「らしい」が体言に接続する用例の出現は江戸後期まで待たなければなりません。致命的な誤用ではないものの、この事実をそのまま援用すれば、この歌は近世に作られたことになりますから、それでは作者と時代が合わなくなる。


秋山:偽作ですか?


小宅:そこは私もまだよくわかりませんので後考を期したいと思います。その一事を取ってもかなり難儀な歌ということになりますが、他にもこの歌の解釈を妨げる要因の一つとしては、無用とも思えるほどの掛詞の頻用がありますね。そこで最初に私なりの結論から申し上げますと、これは失恋の歌として詠まれているのだと思うんですね。


秋山:恋の歌ということですか? 私には墨りに失敗したという自嘲の歌のようにしか見えません。あ、でもそうか、「するすみ」には確か「独り身」という意味がありましたね。


小宅:さすが秋山さんです。ではちょっと煩雑になりますがそのことも含めて見ていきましょう。まず「小余綾こゆるぎの」は枕詞として直後に「いそ」を導き、掛詞として「磯」「急(ぐ)」「五十」などに用いられます。一見すると磯付近の湧き水という意味の「いそしみず」という成句が続いてあらわれてきそうですが、ここに掛詞が仕掛けてある。難解なのはこの「いそしみつらし」の掛詞をどう解釈するかなんです。「磯清水らし」は先ほど申し上げた通りですが、他に「いそし」「つらし」に充てて「忙しい」「眉目みめ良くない」などと取ることもできます。ただ、これではちょっと意味がよくわからない。そこで「するすみ」です。この「独り身」という意味の語に触発されて、ちょっと想像を逞しくすると次のように解釈できるのではないでしょうか。つまり「いそしみつらし」と。恋人への「勤しみ」が「辛く」なった、恋人に尽くすことが嫌になったという意味ではなかろうかと。


秋山:なるほど。ただ、私は小宅先生が最初に仰った「いそし」「つらし」の方にも惹かれますね。前者は「忙しい」で良いのですが、後者を「眉目みめ良くない」でなく、「恋人に会うのが辛い」「恋人に会いたくない」と解釈するんです。確か「見る」という古語には「恋人に会う」という意味もありますね。そもそも古代では「目合まぐはい」などのように、視線や目の繊細な表現で性的な事柄を表すこともありました。


小宅:いま秋山さんが仰った「恋人に会う」の意味で「見る」が使われているという説は大変面白いですね。その可能性もあるのか。


秋山:いやいや、お話の腰を折ってしまいすみません。先生のご解釈をぜひ。


小宅:秋山さんの説にも大いに惹かれてきてしまったんですが(笑)、私の解釈もちょっと似ているのでお話ししましょう。実は亡原行人なしはらのゆきひとがこの直前に詠んだとされる、いわゆる「のちくゆ」の歌というのがあって、折句おりくの一種である沓冠くつかむりという技法が用いられている、行人ゆきひとらしい言葉遊びの歌なんですが、その内容が今回の「こゆるき」の歌の解釈を考える上で参考になるような気がしております。


秋山:「のちくゆ」の歌は「豊饒なる語彙世界」に収載されていますね。確か、夢の中に現れた恋人が、自分ではなく見知らぬ男のことを想っていたようだ、あの男は誰なんだ、といったような内容でしたか(笑)(※https://kakuyomu.jp/works/1177354054888143292/episodes/1177354054890623172


小宅:そうです。夢の中とはいえ恋のライバルが出現したことに動揺する、といった情況への感慨が一般論のていで詠まれています。ただ、これが仮構ではなく行人ゆきひと自身が見た夢に根差す歌だとしたら面白いことになる。つまり、その直後に詠んだ「こゆるき」の歌こそ、他でもない行人自身の「小動こゆるぎ」、動揺と解釈する余地が出てきます。


秋山:ああ、そうか。そうするとそれに続く「いそしみつらし」は自分がこれまで恋人に尽くしてきた「いそしみ」がこれからは「つらし」、辛くなるというわけですか……待てよ、とすると私の解釈も「忙しい」という理由にかこつけて、実は恋人に会うのが辛い、「みつらし」ということで破綻はなさそうですね。


小宅:面白いですね。あと、いずれにせよ、両説とも枕詞の「こゆるきの」で「いそ」を導きつつ、意味的には実は「するすみ」に掛かっていることに変わりはないようです。つまり「小動こゆるぎの」「匹如身するすみ」、動揺する独り身だと。そう解釈すると、後に続く「するすみ」が俄然生きてくる。


秋山:「するすみ」、そうか、独り身ですもんね。しがらみのない気楽な独り身というのもあるでしょうけれど、恋人に尽くすのが辛くなってしまったら、もう別れるしかないのかな……あるいは仕事が忙しい忙しいと言って恋人に会おうとしないから振られちゃったとか(笑)


小宅:後者かも知れませんね(笑)……だからこその「するすみ」。


秋山:それで「すみにそむる」くらい、つまり着物の袖の色が涙で変わってしまうくらい「そてのうら」を濡らして泣いているわけですね。なんだか可愛そうになってきたな。


小宅:いつの世にもありそうなことですよ。この歌は「こゆるき」の歌ではなく「するすみ」の歌とこそ呼ばわれるべきでしょうね。

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