逃げたい男

桑原賢五郎丸

第1話

逃げ足には自信がある。ここでいう逃げ足とは、足が速いという意味ではなく、精神的に逃げることだ。

2017年の1月に、実家から逃げるようにして東京の大田区へ引っ越した。決めた理由は得にない。蒲田の事務所にほど近いというだけだ。

今まで何度か一人暮らしは経験しているので、計画性のない引っ越しはしんどいだけということは知っている。しかし今回は恵まれている。なぜならばお金が少しあったので。アパートの初期費用を払い、引越し代を捻出してもなおちょっと余った。スタートから洗濯機や電子レンジあるというのは、大変に恵まれている。冬場、風呂場で洗濯物を洗うわびしさを、賞味期限切れの冷たい半額弁当の味を、普通の方はご存知あるまい。

最初に「実家から逃げるようにして」と言ったが、その感情をおわかりの方もあまりいないのではないだろうか。40過ぎて結婚もできない次男は、テレビに子供が映るたびに、赤ん坊の泣き声が聞こえるたびに、何もそこまでと思うほどに肩身を狭くしていたのである。緊張がピークを極める前に家を出る決意をしたのは、正解だったと信じている。


 しかしもうどうにもならねえ。

 半年で3通目となる結婚式招待状を睨みつけつつ、腰を痛めないようゆっくりと畳にうつぶせる。ため息を吐きつつサントリーレッド4リットルのペットボトルをちびちびとストレートで飲む。こいつは安くてでかいだけでなく、ボトルのふたが多少大きいため、おちょこがわりにもなる実に頼もしいやつだ。

 それを飲みながら招待状を睨みつける。別に招待したいわけでもなかろうが、と思う。それとも、おれに幸せを見せつけたいのか、いや、思い出してみればそういう奴だった。酔いが考えをネガティブな方向に向けている。悪酔いなことは自覚している。自覚しているということは酔っているわけではない。だからまだ呑める。

 そろそろ40歳になるので、周囲が結婚するのは分かる。だがそうなると、ずっと一人のおれに対してかわいそうだとは思わないのか、結婚していく奴らは。もしそう思っているのならば招待状など送りつけるなと再び紙切れを睨みつけるが、すぐに気づく。これほど空しく浅薄な逆恨みもそうはあるまいと。ただ単に、自分が直面している問題から逃げ続けた結果がこの有様だ。


 こんな時間がもう2時間以上経過している。チェイサーは東京の水道水。このアパートは多摩川の下流のほど近いころにあるが、蛇口を捻れば出てくるそれからは、当たり前だが多摩川の匂いはしない。灰皿は吸い殻とこぼした塩昆布で山盛りになっている。窓を開けて換気する。

 もうどうにもならねえ。

 淀んだ空気とともに独り言が夜の曇り空に流れていく。カネが無い訳ではなく、孤独に追いやられると精神的にきついのである。腰が痛くなってきたので仰向けに寝返りを打つ。その拍子にボトルのふたが畳の上で転がった。幸い空っぽだった。ボトルのふたは転がり転がり、三和土まで転がっていった。不思議な余韻を引きずりながら転がっていったふたの軌跡は、悪酔いを自覚させるには充分すぎる効果を発揮した。1Kの天井を仰ぎ見る。頭がむずがゆい。さっきつぶやいたもうどうにもならねえ、の、ならねえが窓にへばりついている。



呼び出し音で目が覚めた。

結局酒に飲まれ寝落ちしたようだ。玄関のチャイムはおれを起こすために何度鳴ったのか。時計の針は22時を指している。どうせいつものやつらだろう。この部屋にテレビはない。

「テレビ持ってません」。

使い慣れたフレーズを、ドアの内側からいつものように言い放つと、野太い男の声で返答があった。

「世田谷警察署です」。



狭い部屋の中に二人の警察官が立っている。ただでさえ狭い部屋がものすごく狭く感じるが、恐らくは彼らの発する雰囲気がおれを圧倒しているのだろう。

だが圧倒されたところで、こちらは何も悪いことをしていないので、何も恐れることはない。部屋に招いた理由は、警察とやりとりしていることを近隣の人たちに知られたくなかっただけだ。走って逃げたいが、20メートルで足をもつれさすだろう。


「ええと、何を言われているのかさっぱり分からないのですが」

水道水を飲みながらおれは言葉を絞り出した。警察が言ったことを理解できなかったのは酔っているせいだろうか。さすがに勤務中の警察を肴にウイスキーを飲む勇気はない。

「ご近所からの相談でこちらに来ました」。

警察は相談というやわらかい言い回しをしているが、「あいつやべえから見張れ」という要請があったのだろう。

しかし、何がやべえのか皆目検討がつかずにいる。昼間は普通に勤めに出ているし、休日でも昼間から酒を飲むようなことはない。できれば周囲から煙たがれるようなことは起こしたくないし、何しろそんな波風立てるような勇気を持っていない。

「窓の外に怪しげな文字が浮かんでいるとの相談を受けています。日によって内容は変わるようなのですが」

警官はそう言って窓に目をやり、窓に貼り付いたのち、空に向かってゆっくりと立ち上っている黒いもやもやを指で示した。


ならねえ


花火の蛇玉を思い出させる黒いそれは、一見するとひらがなの「ならねえ」を型どろうとして失敗したものではないかと推測できるが、再度目を落とすと、もはや「ならねえ」以外の何物でもないということが判明した。


「これはなんなのですか」

おれは警察に問うたが、同時に彼らも

「これはなんですか」

と尋ねてきた。

「これはおれのせいなんですかね」

それには答えず警察は続けた。

「地域の方が言われることには『もうダメだ』『逃げたい』『金がねえ』などのメッセージ日常的に表示され、非常に不安を掻き立てられるようです」

「まあ、それはそうでしょうが」

「それだけならいいのですが、時にはひどくわいせつな言葉も」

「それはおれのせいなんですかね」

「今の状況的に見るとそういうことになりますね」

「状況的に」

「極稀にいるそうです。心底から吐いた言葉が、なんかこの、変なもやもやになってしまう人が」

「もやもやに」

「故意にやっているわけではなさそうですし、確たる証拠もないので、今回は注意という形で」

「注意で」

相手の言うことをオウム返しにするのが精一杯だった。良いか悪いで言えば自分のやったことは良くないことなのだろうということは分かるが、そもそもおれのせいなのかという疑問がある。自分が悪いと思っていない以上、反省しようにも何に対して省みれば良いのかがわからない。恐らく3分ほど固まっていたのだろう、気がついたら警察は帰っていた。



「困ったな」

口に出してみた。何も起きなかった。おそらく、本心から出た言葉か、心の底から感じたことのみがもやもやとして発言するのだろう。よくわからないが、それで納得するしかない。

しかし、外に出てそこまで赤心からの言葉をべらべらと吐露することってあるのだろうか。ころす、とか、しね、とか本気で思ったことがないので想像がつかないが、もし仮に、くたばりやがれとか、わいせつな言葉を頭上にもやもやさせていたら、仕事どころか外出すら普通にはいくまい。

まかり間違えてこのもやもやのせいで逮捕され、裁判にかけられたとする。その時の様子のイラストを想像しただけでぞっとする。おそらくずっと頭上に?マークが浮かんでいるのだから。

コメンテーターたちはこぞって「まったく反省していませんね」と叩くだろう。おれが見ても「こいつ全く反省してないな」と思う。

けれど、心を穏やかにさえして外出を控えればいいのだ。必要以上に不安に感じることはない。



しかし本心が漏れてしまうということはやっぱりある。それは職場である。

電話で客先と打ち合わせをしていたら、納期の短縮を申し渡された。32ページものの納期が3週間から13日にカットされ、もちろんお値段はそのまま。おまけにもっと短納期で安い他社もあるとかなんとか。なんで納期を短くされた上に嫌味を言われないといけないのか。冗談めかして笑いながら軽く言い返した。

「ならそちらでお願いしますよ、ハハハ」

頭頂部がむず痒い。見ずとも分かる。おれの頭上にもやもやが発生した。「ならそちらでお願いします」が出た。電話をしているおれの周りがざわついてきた。触ろうとする者がいる。携帯のカメラを構える不届き者もいる。視界の隅っこで、社長が表情を崩さず手招きしていた。



長い時間、厳重注意を受けた。まずは言葉がもやもやになってしまう社員の精神状態等を気にして欲しいものだが、売上左肩上がりを突き進む会社にしてみれば、さながら獅子身中の虫。仕事なんかいらんと物理的に言葉に出しているのだから、裏切り者扱いである。どう考えてもおれが悪いので、ひたすら平謝りするしかない。

「そもそもなんだね、その、その、なんかもやもやしてるのは。ふざけてるのか」

社長は目を吊り上げつつ攻撃を続ける。

「自分にも分かりません。わざとやっているわけではないのです」

本心からの言葉がもやもやと出てきます、はい、とは説明できない。すみませんと謝って、すみませんのもやもやが出なければそれは大変よくない。逃げたいし、逃げるのだけは得意だが、ここで逃げたら、もれなく無職になる。ただひたすらに腰を折り床を見つめ続け、怒り疲れてくれるのを待ったのだった。

だが残念なことにおれの頭上には「逃げたい」のもやもやが発生。

当然社長の怒りはかえって激しくなり、感情的な罵詈雑言がぶつけられる。それはそうだ。本気で怒っている時に、相手が漫画の吹き出しのような形で本心を言っていたら誰でも激怒する。

そしておれは逃げた。社長の説教が続いている間に走って逃げた。大の大人が、怒られている間に走って逃げた。無職の道を選んだ。



どうしたらいいかわからないから、とりあえず逃げた。飛んだともいう。つまり「辞めます」も何も言わずに会社に行かなくなったのだ。社会人失格である。決して元職場の人間に会わないよう、平日の外出は徹底的に控えた。

もちろん会社からの連絡もあったし、玄関の外まで同僚の誰かが来たこともあったが、無視を徹底した。精神的な逃げの完成形といえよう。



しかし世の中は狭いもので、ついに会社の人間に見つかることになる。

会社から脱走してからわずか1週間後、真夜中に酒を買いに行った時に肩を叩かれた。反射的に逃げる体勢をとったが、コンビニで走って逃げたりしたらそちらのほうが面倒なことになる。仕方なく、店外の喫煙所で話をした。

曰く「そんなに社長怒ってないし、戻ってきてもらえると助かるんだけど」。

ネットで調べればそれらしき症例はいくつか出てくるらしく、相当レアな病気(?)ではあるが、「根本的な解決策は特に無いし、周りはただひたすら困っちゃうけど、本人が一番かわいそうなので優しく見守るしかない」との結論めいたものに至っているらしい。



口利きもあって、社長と会わせてもらえることになった。

ひたすら頭を下げ続けた。おれの頭上に「申し訳ございませんでした」が表示されていたからなのか、休んだ日の分だけの減給という形で許してもらえることになった。



そうして無事職場に復帰できた。周囲の理解に助けられたおれは、二度とこの会社を辞めないと誓うのだった。

しかし、若干のブランクがあるせいか、周囲に気を使っているせいか、前よりも仕事をこなすスピードが明らかに落ちていた。

その状態が3日ほど続いた時、社長に飲みに誘われた。もちろん断れる道理がない。



瓶ビールを差しつ差されつしながら調子はどうだね、と問われた。迷ったが、正直にあまりうまく行っていない旨を伝えた。

そうか、頑張れと少しだけ励まされた。おそらく、プレッシャーをかけないために強く言わなかったのだろう。おれの仕事ぶりに対しての話は3分ほどで終わった。

その後ガソリンを入れたことでエンジンがかかったのか、会社を設立した時の話や一番苦労をした時のこと、手塩にかけて育てた社員を引き抜かれたこと…といったよくある自慢話が延々と続き、気づけば話は社長のおじいさんの生い立ちや、小学校の時の初恋の話にまでさかのぼっていた。



ある程度スッキリしたのかガソリンが切れたのか、お開きが近い雰囲気になってきた。そして社長はおれの目を見つめ、「もう逃げたりするなよ」と言った。

「はい、逃げません」と答えた。もやもやが出る気配は無かった。酔うとどうでもいい話が膨れ上がるが、この人は悪い人ではない。少なくとも、前回のように逃げて不義理を働くつもりは起きなかった。

おれの返事に気を良くしたのか、社長は赤ら顔で熱燗を追加。

新たなガソリンが投入され、話は大きくなって政治のありかた、少子高齢化へ飛び、必然40歳過ぎ独身のおれがターゲットとなる。酔ってきたこともあるが、相槌を打つのさえしんどいほどの苦痛だった。なんとなく頭をかいた。話は加速し、自分がいかにして今の妻と出会ったか、妻の実家の庭の素晴らしさにまで及んだ時、周囲が少しざわつき始めた。客の視線がおれの頭上に向いていた。もう見なくてもわかる。今、おれの頭上には例のもやもやが出ているのだろう。そこには間違いなくこう書いてあるはずだった。


「逃げたい」

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