三十と一夜を向かえて一 我が生は駄作なれど

白川津 中々

第1話

 筆が進まなくなってどれほど経ったかもう忘れてしまったのだが、私は未だに何者かになりたがっているのだった。




「初詣に行きましょうよ」


 多恵はそう言うと、まだ酒が残っている猪口をひょいと取り上げ意地悪く歯を見せた。先まで寝息を立てていたとは思えぬ快活ぶりに、幾らかの羨望と煩わしさを覚える。


「正月くらいゆっくり飲ませてくれよ」


「居候が人並みの事言っちゃ駄目よ。さ、外行きを用意してありますから、早く着替えてちょうだい」


 神社へ行く事は決まっているようであった。

 私は神道ではないし、多恵の生家も真言宗だと聞いているが、それでも多恵は鳥居をくぐりたいらしく、一張羅を私に渡すと、「早く早く」と急かすのであった。

 気は進まぬが、行かぬわけには行かなかった。愛や情というよりも、歯車と歯車が噛み合うように、彼女が何かしたい。行きたいと言えば、それに私が付随するような構造ができてしまっているのである。これは、私が彼女の家に転がり込んだ時からそうなっていた。






「お話は書けたの?」


 身支度が済んだのを見計らったようにして、多恵は私の顔を覗き込みそう言った。私が「まだだ」と伝えると、興味あるのかないのか分からぬ様子で「ふぅん」と答えるだけであった。「まだだ」と、言う前に「お前のせいで」と、付けなかったのは、自尊心の為か、はたまた、堕落を他人のせいにするほど落ちていないからか、それとも単なる小心故の日和見なのか、私自身の中でも判断しかねる。


「やめてしまってもいいんじゃないかしら。もう、若くもないんですから」


 筆を折れと、多恵はそう言った。


 それはもっともな話で、実らぬ花を永遠に愛でていられるほど女は狂ってはいないし、男にしたって、凡そまともと言われる者であれば、いつまでも文学などという幻想に取り憑かれたままにはならず、生活の為であれ、家族の為であれ、享楽の為であれ、いずれの為であれ仕事に就き、金子を得んと額に汗を流すだろう。従し生を育む。それが普通といわれる正しい慣いであり、また、最も分かりやすい死への道程なのだから。


 だが、私にそれはできなかった。


 落第した私の生活は困窮に瀕していて、日銭を稼ぎ、その金で酒を買って帰り、宅に帰せばしばらく物を書き、キリがついたら手酌で適当に酔い、空腹を覚えればいただいた漬物などを食べて眠るというものだった。そうして目覚めた時の鬱屈は筆舌に尽し難く、大変な苦痛で、一刻も早く脱したいと思いながらも、自分にはこんな生活しかできないのだと、だから文学に固執し、人並み以上に何かを得ようとしてきたのだった。だが、その行為自体が悦を与えていたのも確かであり、不自由に依存していたように思える。不健全な愉悦は筆を走らすに充分なエネルギーを有していた。しかし、ただ、それだけだったのだとも思う。


 しかし多恵と出会ってそれが変わった。飲んだくれ倒れていた私は多恵に拾われ、しばらくは同じように生きていたのだが、日銭を稼ぐついでに、いつの間にか、食事を作り、掃除をするようになって、物を書く時間が、余裕がなくなっていった。

 最初は些細な恩返しのつもりだったが、いつしかかそれが日課となり、彼女の為に何かする事が喜びとなっていったことに気付く。稼いだ金も、酒から、彼女への贈り物へと使われるようになって、私はこれが愛なのだろうと自覚するようになった。

 初めて人並みの感情を、私は持てたと思った。しかし、それと同時に文が書けなくなっている事に恐怖していた。いつものように原稿用紙とペンを用意してもちっとも筆が進まないのだ。無理をして書いてもそれは随分とお粗末なできであり、縋っていた文学が遠ざかっていくような錯覚に陥るのである。

 話が浮かばないのは辛く、文が書けないのは苦しかった。そして、それが多恵に起因しているかもしれないと思う事が、一番堪えた。

 私は、愛により夢を失わなければならないのかと神を呪い、次第に、選ばなければならないと、どちらかを捨てなければならぬと、思い詰めるようになった。

 だが、本当に諦められるのだろうか。ここまで恋い焦がれ、目指してきた道を今更変える事ができようか。幾万の文字を書き、幾万の物語を紡いできた自分を、今更否定できるであろうか。それが例え、実らぬ花であったとしても。





「考えておくよ」




 私はそう言って、袖を通した一張羅の襟を正した。多恵は「無理しなくともいいんだから」と柔らかな笑みを見せたが、その瞳の奥底には、一抹の悲哀が宿っているのだった。


「結婚しましょうよ。それで、私は赤ちゃんを産むの。そしたら貴方は、一生懸命働いて、私も、しばらくしたら使ってくれる所を見つけて、2人で一緒に生きていくの。そうしましょうよ。幸せよ。きっと」


 多恵の言葉が、痛む。私はまた、「考えておくよ」と口にした。


 叶わぬ望みを求めるか、何者にもなれぬ生を享受するか、どちらを望んでも、虚無感が胸にあり続けるだろう。だが、それでも選択しなければならぬ時が訪れる。その時、私はいずれの道を選ぶのか。


 答えは、まだ出せそうにない。

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