漫画みたいな日々――または、ひとさし指カッターの学生時代

黒岡衛星

漫画みたいな日々――または、ひとさし指カッターの学生時代

「バオーみたいでかっこいいじゃん」

なにそれ。

 思わず、喉、掻っ切ってやろうかと思った。


 ある朝起きるとわたしのひとさし指はカッターの刃になっていた。ほら話だと想うならそれでいいけど、信じてくれると嬉しい、とは思う。

 親は不気味がった。先生も、クラスメイトも。もともと、友達なんてネットにしかいないけど、そういう人たちにまで、わざわざ写メする気にはならなかった。

 もっと、ありのままの、ひとさし指がカッターのわたしを、愛して。

 バカバカしい。自分でも思う。もともと誰もわたしを愛してなんていないのだ。わたしですら。

 そう思っていた矢先のことだった。

 放課後の、夕日がきれいな教室で、ああ帰るのやだな、だるいな、とか思いながらぼうっとカッターの刃を眺めていたら、突然声をかけられた。

 荒屋組子(あばらや くみこ)はクラスの一番やかましいやつで、見た目めっちゃギャルで、いつも人に囲まれている。

 羨ましいわけではない、と思う。住む世界が違うだけ。

「わたし、漫画めっちゃ好きなんだ」

「へえ」で?

「パパがさ、いやこんな見た目だから誤解されるけど父親だよ? めっちゃ漫画好きでさ、棚いっぱいにみっちり置いてあんの」

「だから」それがなんだって。

「そっか、知らないか、バオー」かっこいいんだけどな。「ちょうどさ、そんな感じで、いやそんなみみっちいカッターの刃じゃなくてもっと腕にこう、こうさ」

「ひとの悩みの種をみみっちいとか言うな」

「いやでも、普通のひとは刃とかないからね。すごいよ」かっこいい。

「馬鹿にしてんの?」

「え? 全然」

 わたしこんなだから、誤解されやすいんだよねやっぱ、とは言うけど、どう考えてもそういう問題じゃない、と思う。

「漫画とか読まないの?」

「読まない、わけじゃない」

「どっちさ」

「……少女漫画とか」

 話したくない。早くどいてほしい。

「いいじゃんいいじゃん! なんでそんな恥ずかしがるのさ」わたしも好きだよ。

 恥ずかしがってるわけじゃない。

「萩尾望都とかさ、竹宮恵子とか」

「全然知らない」

「えー! じゃあさ、貸したげるって」

「……いらない」

「じゃ、遊びに来る?」

「行かない」

 えー、じゃあじゃあ、と諦めずに何か言いかけたところで、スマホが鳴った。……なんだっけ、昔に聴いた、子供向けアニメの曲。

「ああ、ごめん」もう行くね。

「うん」はよ行け。

 またね、と行って彼女は去っていった。

 どう返事すべきだったんだろう。ただ鬱陶しくて引き剥がしたいのに、頑固にこびりついてて、油汚れみたいなやつ。

 最悪。


 なんでいま、わたしは、ここにいるんだろう。

 唐突に哲学に目覚めたっていうわけじゃなく、流されるまま来てしまったことを冷静に悔やんでいるのだ。

 荒屋組子の家に、泊まりに来ている。

 例によって絡んできたある日の放課後、荒屋が話していた漫画の話にうっかり食いついてしまったのがまずかった。

 あれよあれよと話が膨らんで、気付いたら泊まることにまでなっていた。っていうか話を膨らませたのは向こうで、それを止めなかったのが悪かった。

 帰りたくなかった、っていうのも、あるんだけど。

 もう、わがままは言ってられない。油汚れの取れないキッチンだろうとかまうものか。

「汚いとこだけど、ごめんね」

 なんて、うちよりよっぽど綺麗な家で言われても。油汚れなんて見当たらない、ピカピカのキッチンを横目に荒屋組子の私室に移動する。

 荒屋組子はなんだか嬉しそうににやにやとしている。わたしは真顔だ。この温度差のまま一晩過ごすのか。不可能ではないだろうけど、あまりよろしくない。

 何を飲むか訊かれたので、いや別におかまいなくと返したものの、そういやこれから一泊するのか、と思い、じゃあお茶、温かいの、と続けた。

 荒屋組子の部屋に一人で残される。

 棚いっぱいに詰まった、たぶん、漫画。なんで断定できないかって、わたしの知識では本だとしかわからないようなものも多いから。

 いくつかある棚には、わたしが暇つぶしに読むような漫画は一つもなくて、なんか、名作、って呼ばれてて本屋とかネットとかで名前だけ見かけたことのあるようなものばかり並んでる。

 荒木飛呂彦『バオー来訪者 (1)』これか。

 つい、手にとってしまう。許可を取るべき部屋の主はわたしにお茶を淹れているというのに。

 ぱらぱらとめくる。普段読まないような絵柄で普段読まないような話をしていて、きっと、本来わたしとは一生交わることはなかったんじゃないだろうか、と思うような古い漫画。

「あっ、そうそうそれ!」

 湯のみを載せたお盆を持って戻ってきた荒屋組子がわたしの手元に気付くやいなや、ぐっと詰め寄ってくる。お茶!

「面白いでしょ」

「わかんない、普段こういうの読まないから」

「そっか、なんか共感? とかするんじゃないの」刃あるある、みたいな。

「やっぱ馬鹿にしてるでしょ」

「してないよお」

これが素か。なんとなくわかってきた。別にわかりたくないんだけど。

「いいから、読んでみてよ」

 仕方なく、一からページをめくる。荒屋組子も机の上に置いてある本を手にとって読み始める。

「わたしさ」

 読んでる最中に話しかけないでほしい。って思うってことはまあ、そのぐらいには熱を入れて読んでるってことか……。

「こうやって、誰かが部屋でぼうっと漫画読んでるシチュエーション、ちょっと憧れだったんだ」

「どういうこと?」

「なんて言えばいいんだろ。普段、外でわちゃわちゃやってるじゃん。家帰ってきてひとりで黙々と漫画読むじゃん。で、どっちも好きだけど、ひとりで漫画読んでるとたまに寂しくなるんだよね」

「ああうん、それは」なんとなくわかる。

「でもさ、別にまた外に出てわちゃわちゃしたいとか、そういう体力もなくて。若いのに。夜遊びが好き、っていうキャラでもないし」

 それはまあ、なんとなくわかってきた。

「こうやってさ、隣で誰かが、ただ本を、わたしの好きな漫画を読んでてくれる、って、なんかいいな、って思ったり」

「そういうもの……あっ」

 やってしまった。つい、話している最中に指のカッターで『バオー来訪者』の単行本の端を切ってしまった。

「あー、いいよいいよ」

「ごめん、本当に」

「いいって。ほら、ちょっと貸して」

 言われたとおりに本を渡すと、机からセロテープを取り出してくっつけてしまう。

「わたしもさ、昔よくやったっていうか、本を大事にしない子供だったんだよね」

 照れたような、恥ずかしいような表情。

「でも、パパがね。『大丈夫』ってだけ言って今みたいにくっつけてくれた。……それで、もう少し本のこと、大事にしようって思ったんだ」

「そうなんだ」

「うん……そういえば、お腹空かない?」

 言われて壁の時計を見る。けっこうな時間だ。ってことはやっぱり熱中してたってことか。

「わたし、夕飯遅いから」

「そっかそっか。リクエストとかある?」

「えっ作るの?」

「まあ、……簡単なものなら、だけどね」

 何も出来ない自分が恥ずかしくなる。

「……手伝おうか」

「いや、いいよいいよ。お客さんだからー」

 食べられないものは? とか、じゃ、とっておきの得意料理で、と喋って、勝手に自己完結して部屋を出ていく。

 なんだよ、いいやつかよ。

 なんかちくちくする。いやな感じ。相手はいいやつで、超のつくぐらいいいやつだから、原因はわたし。

 目の前にある棚。単行本の山を、棚ごと、このカッターで切り裂いて、めちゃめちゃにキレさせてやりたい。

 糾弾されたい。ぼこぼこにしてほしい。なんか、ギャルなら怖い兄さんのひとりふたりグループごと連れてこいよ。

 わかってる。なにも、なにもしない。

 居心地の悪くなったわたしはまた『バオー来訪者』に目を落とす。2巻だ。

 読み終わった。

 まさか、2巻で終わりだとは思わなかった。もっと、続いてるのかと思った。

 涙が出てきた。

「ごはんできたよー」

 脳天気な声。

 返事ができずにいたわたしの様子を見に、荒屋組子が来た。

「どうした」

「ごめん、……ちょっとだけ」

「……うん」

 少しのあいだ、わたしにとってはほんの少し、だけどあとで振り返ってみたらちょっとだけ長かったかもしれない。

「……『バオー』、そんなに泣けた?」

「違う」

 荒屋組子のしょうもない冗談に、顔を合わせてちょっとだけ笑う。

「よし、ごはん食べよ。……ごはん食べたら元気でるって」

「……うん」

 荒屋組子が作ってふたりで食べた夕食はそこまで特別、なメニューではなかったけどたしかに美味しかった。さすがに、皿洗いだけは無理を言ってさせてもらう。カッターの刃が当たらないように気をつけつつ。汚れはさっと落ちて、皿もぴかぴかになる。

「今度はね、漫画で泣かせたいね」

「わたし、漫画とかで泣いたことないな」

「そうとくれば意地にでも」

 今日は寝かさないぞ、と言われて、勘弁してよ今すぐにでも寝る、と返す。

 もう少しだけ、夜が続く。

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