それはビスケットよりも甘い
トントントン、とポケットを叩く音。
懐かしい音に僕は心地よさを覚えた。
「門田くん、戻ったんだね!」
「あ? なに変なこと言ってんだよ」
相変わらず眉間に皺を寄せ世界を睨みつける門田くんは、もうビスケット無限製造機ではなくなっていた。
そこにはただのなんちゃってヤンキーがいるばかりである。
もちろんポケットからビスケットが
僕はほっと胸をなで下ろした。
世界は通常運転に戻ったようだった。
見る限りチカラの影響も見受けられない。
一安心だ。
「影響はどこにも残ってないみたいでよかったね、
「はい、先輩」
自転車置き場へと赤いフレームの相棒を置き、トートバッグを手に戻ってきた先輩が僕の隣に立ち微笑んだ。
僕は彼女からさりげなく視線を逸らしつつ答える。
うっかり先輩のほうを見てしまうと、目線の高さが同じなのであの綺麗な瞳と真正面から向き合うことになってしまう。
心の準備もなしにそれはきつい。
「ところで、私はどうして今日ここに呼ばれたの?」
隣でしゃらりと髪が鳴った。
どうやら三咲先輩が小首を傾げたらしかった。
僕は「あ」と音もなく言った。
そうだ、これから門田くんが三咲先輩へ愛の告白をするのだ。
そして僕はそれを見届けなければならない。
一気に気が滅入ってきた。
「ん? 今の声は?」
門田くんイヤーが先輩の声を聞きつけ、彼はこちらを振り向いた。
視力の悪い彼でも赤い上半身に白い下半身というシルエットは確認できたのか、「げっ!」と待ち人を迎えるに相応しいとは思えない声をあげた。
「おい、おいおい、胡桃田!」
つかつかと歩み寄ってくると僕の肩をがっしりと掴みその勢いのままに三咲先輩から距離を取った。
僕の耳に口を寄せて声をひそめながら、それでいて怒気を
「おい、どうして先輩がここにいるんだよ!」
「どうしてって、君が呼んでくれって言ったんじゃないか。三咲先輩に告白をするからって」
「ばっ!」
続く漢字はおそらく「鹿」だろうとは思われたが、門田くんはそのままフリーズしてしまった。
どうしたのだろうと目の前で手を振ると、正気を取り戻した門田くんが噛み付いてきた。
もちろん実際に噛み付かれたわけではない。
「誰が白藤先輩に告白するって言ったよ! 俺の思い人はみさき先輩! 学生会副会長の
「え」
学生会副会長・岬穂乃果。
栗色の腰ほどまである髪は緩やかに波打ち、穏やかな表情を常に崩さず、気品溢れる立ち姿で三流大学の阿呆な男どもを骨抜きにしている、あの学生会副会長のことか。
熱血バカを地で行く学生会会長の後ろに三歩下がってついていき、あらあらうふふ、と口元に手をあてお上品に笑うあの人のことか。
「だいたい白藤先輩のことを三咲先輩だなんて呼ぶの、胡桃田だけだろう。なんで間違えるんだよ、ったく」
「ご、ごめん」
額に手をあて、あちゃーと言わんばかりのポーズをする門田くんに、僕は謝るしかなかった。
まさかの「みさき」違い。
みさき先輩と聞き、なんの疑いもなく三咲先輩のことだと思い込んでしまった。
確認しなかった僕のミスだ。
申し訳ないと思いながらも、僕はほっとしていた。
よかった、門田くんの好きな人が三咲先輩じゃなくて。
いや、なにがよかったのかわからないけど。
「なになに、なに男の子たちだけで楽しそうにしてるのよ。お姉さんも混ぜなさい」
「いや、白藤先輩、なんでもないっす、なんでも」
あはは、と門田くんが乾いた笑いをあげる。
三咲先輩はどうしたのと僕に視線を送ってきた。
僕も曖昧に笑うしかない。
「なに、ふたりだけの秘密? あ、やらしい話?」
「いやいや、そんなんじゃ……ねえ、門田くん」
門田くんを見ると、意地の悪い顔をしていた。
あ、なにか悪いこと思いついたな、こいつ。
「なんかこいつが白藤先輩に言いたいことがあるって言ってました!」
選手宣誓をするように右手を天にびしりと突き出し、門田くんは声高にそういった。
そうなの? と三咲先輩が僕を見る。
好奇心の強い黒い瞳にくりくりと見つめられ、僕は「うっ」と声を詰まらせた。
「というわけで、俺はここらで退散しますね! そいじゃ!」
そう言うがはやいか、門田くんは風のように去っていった。
かと思えば、足早に戻ってきた。
「胡桃田、これやる。だから、また頼むな」
ぽいっと僕に
大ぶりのやつ。
味はメロン。
「相変わらずね、門田くんは。……それで、話って何?」
門田くんがいなくなってから、三咲先輩が言った。
風が吹いて先輩の黒い髪がさあっと踊った。
まるで宝石でも散りばめたようにキラキラと輝いて見えた。
僕はその姿に
すると先輩がそのシャープな顎に手を当て「もしかして」と言った。
「もしかして、伝説を確かめようと思ってる?」
「で、伝説?」
「私もいつか確認したいなって思ってたの」
桜の伝説――いわく、桜の木の下で愛の誓いを交わすと、その愛は永遠のものになる――。
「もし、胡桃田くんが手伝ってくれるなら、私嬉しいな」
そう言って微笑んだ三咲先輩は、とても綺麗で。
先輩は桜の伝説を僕と一緒に確認したいと思ってくれている。
それって、まさか。
心臓がとくとくと音を立て、心をくすぐるような期待を全身に運んでいく。
僕は熱に浮かされるように口をぱくぱくと動かしていた。
体温がみるみる上昇していく。
舌が動き方を忘れたように、ぎこちない。
三咲先輩はそんな僕の様子を、優しい眼差しで見つめていた。
「三咲先輩、僕、す、す……」
ん?と先輩が小首を傾げた。
そして、なにかに気付いたように表情を明るくした。
「ああ、スコップでしょ! 大丈夫、私ふたり分持ってきたから!」
「す、すこっぷ……?」
三咲先輩が片手に下げていたトートバックを漁っていたかと思うと、中から青と赤二色のスコップを取り出した。
ついでに軍手もふたつ。
「どうして、スコップなんか?」
「え、だって桜の伝説を確かめるんでしょ?」
当然のように先輩が言う。
嫌な予感がした。
「ちなみに先輩。桜の伝説ってどんなのでしたっけ?」
「忘れちゃったの? この桜の木の下を掘れば温泉が湧き出るってやつ」
がっくりと僕の肩が落ちた。
溜息も盛大に出た。
まさかこんなところにチカラの影響が出ているなんて。
期待した分だけ落胆は大きい。
先輩はそんな僕を不思議そうに見つめながら、いそいそと軍手をはめて桜の足元にしゃがみこんだ。
いや、これでよかったんだ。
僕は先輩に対してそんな気持ちは持っていない。
僕と先輩なんて釣り合わないじゃないか。
なんて、僕は自分の心を励ましながら、軍手を手にはめ先輩の横に座った。
「ねえ、胡桃田くん」
「なんですか、先輩」
先輩が下から僕の顔を覗き込み、目を細めて楽しそうに笑った。
「前の伝説も検証してみる?」
「えっ」
「よーし、掘るぞー!」
「ちょっと先輩、いまのはどういう」
「こらこら、胡桃田くん。口を動かさずに手を動かしたまえ、手を」
「は、はい。すみません」
どうせチカラが暴走するなら先輩と――と思わないでもないけれど。
でも、まあ。
こんな時間も悪くないかもしれない。
スコップを忙しなく動かしながら、そんなことを僕は思った。
ちなみに伝説の検証は途中で用務員さんに見つかってしまったために中断となった。
ふたりしてしこたま怒られたのは、いつか良い思い出と呼べるようになるのだろうか。
ビスケットをとめて 芝犬尾々 @shushushu
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