サクッと終わり

「インディーのコンテナを漁ってたらいきなりビスケットが押し寄せてきてびっくりしたよ」


 三咲先輩はそう言ってケラケラと笑った。

 インディーとは先輩行きつけの中古屋で、そこには一枚十円の投げ売りDVDが入った処分品コンテナがある。

 先輩はそこから知る人すらいない、愛すべき無名映画をサルベージすることが専らの趣味なのである。

 そして、先輩の嗅覚は非常に鋭く、ピックアップされたものはどれも見事にB級なのだ。


「それでたぶん今回もキミの仕業だろうと思って探してたんだけど、なにせこのビスケットの量だからさ。なかなか前に進まなくて、大変だから船作っちゃった」


 三咲先輩はそう言って自らの乗った船のへりをポンと叩いて見せた。


「作っちゃったって、どうやって」

「どうにも前回キミのチカラに触れたおかげで耐性ができたみたいでね、想像力をフルに使えば胡桃田くるみだくんの真似事ができるようになったみたいなの」

「僕の?」阿呆あほみたいな顔で僕は自分を指差す。

「そう」三咲先輩は嬉しそうに頷く。「だから、頑張ればこういうこともできるわけ」


 そう言うと先輩はカップを投げ捨てた。遠くでパリンと割れる音がした。

 先輩はそれも意に介さずに集中力を高めるように目を閉じた。無駄のない、それでいてふっくらと柔らかそうな頬に長い睫毛まつげが影を作る。

 それから人差し指でこめかみをむにむにと押しながら「むむむむ!」とうなり始めた。

 いったい何が始まったのだろうかと僕がぱちくりと見つめていると「ほい!」と先輩が右手を差し出した。

 するとそこには湯気をあげる青色のカップが握られていたのだ。


「どう?」


 先輩が言った。全力のしたり顔だった。


「カップを持ってますね」

「そう、これを作り出したわけ」

「さっき捨てたやつは?」

「あれは本物。家からもって来たやつ。あ、カップどこにいったかわかる?」

「向こうで割れた音しましたけど」

「……お気に入りだったのに」


 先輩がしょんぼりと肩を落とした。

 だったら何故投げ捨てたりしたのだ。

 先輩にはこういう無鉄砲なところがある。

 目先に面白いことがあると後先考えずに突っ走ってしまうのだ。

 まるでおやつを目の前にぶら下げられた犬のような人である。


「ま、この世界が元に戻ったらすべて元通りだから大丈夫。でしょ?」

「たぶん……でも、三咲先輩。僕はいったいどうしたらいいのでしょう?」


 話は紆余曲折うよきょくせつを経てようやく本題へと戻ってきた。

 先輩は僕を驚いた顔で見た。


「どうしたらって、前の怪獣の時とおんなじようにしたらいいのよ」

「でも、怪獣みたいにビスケットは倒せません」

「倒さなくてもいいの。要はいまのこの世界は胡桃田くんの妄想の種から発芽はつがして立派に育った花みたいなものでしょう? だから、その根っこの部分から引っこ抜けばいいのよ」


 先輩は当然でしょとばかりにあっさりと言った。

 僕はいまいち理解しきれず首をかしげる。

 先輩は出来の悪い生徒にも律儀に付き合う個人家庭教師のような包容力をもって説明を続けてくれる。


「つまり、妄想の種となった部分を取り除けばいいわけ。それを取り除けば一件落着」

 

 そう言うと先輩は船から一枚ビスケットを剥がすと、カップの中の牛乳にちょいちょいとつけてから前歯でかじった。


「ま、ちょっとは影響残るかもだけどね」

「……ですよね」


 そう、完全にすべてが元通りというわけにはいかないのだ。

 幼いあの時、僕らの街にツチノコがいるという噂が広まったように、消え去った妄想の影が現実世界にうっすらと残ることもある。


「まさにいまのこの牛乳のように、というわけね」


 先輩がカップを突き出して見せてきたので、僕はそれを覗き込んだ。

 カップの中にはホットミルクが入っていたが、先ほどビスケットをつけたためか、ほんのりとベージュ色に見える。

 なるほど、わかりやすい例えかもしれない。


「さて、胡桃田くん」と三咲先輩はホットミルクを一口飲む。「今回の妄想の種はいったいなんだったの?」

「ビスケットです」

「もっと具体的に言うと」

「ビスケットの歌、ですか」

「そう、それ」


 三咲先輩はビシリと人差し指で僕を指さした。

 指の先にちょこんと乗った爪は細長く、綺麗な桜色だった。


「キミ、あの歌をちゃんと聞いたことないでしょう?」

「は、はい」


 どうしてそれを。

 たしかに僕はあの歌をきちんと知らない。

 というか、知っているのはあの一節だけだ。


「やっぱりね、どうりで増えるのが早すぎると思ったのよ」


 先輩は納得したように頷いた。

 僕がどういうことかと説明を求めると、先輩は「少し照れるけど」といって喉の調子を整えるとおもむろに歌いだした。


 ――ポケットの中にはビスケットがひとつ。

   ポケットを叩くとビスケットがふたつ。

   もひとつ叩くとビスケットはみっつ。

   叩いて見るたびビスケットは増える。


「ね?」


 そこまで歌うと三咲先輩は恥ずかしそうに笑みを浮かべて同意を求めてきた。

 僕はといえば先輩の天使のような歌声に耳と心を奪われ、肝心要かんじんかかなめの歌詞をきちんと聞いていなかったが、満足げにホットミルクをすする先輩にそんなことをいうわけにはいかず、懸命に記憶を遡った。


 ――ポケットの中にはビスケットがひとつ。

   ポケットを叩くとビスケットがふたつ。


 ここまではいい。知っているところだ。

 問題はその先である。


 ――もひとつ叩くとビスケットはみっつ。

   叩いて見るたびビスケットは増える。


 ん?

 そこで僕の頭に引っかかりが生まれた。

 ちょっとまて、ふたつの次はよっつじゃないのか?

 僕は知っている歌詞だけで単純に一回叩けば二倍になると思っていたが、この歌詞では「叩いた数だけ増える」ということになっている。


「増え方が違う」


 叩いた数だけ増える場合と、叩くたびに倍になる場合とでは天と地ほどの差が生まれる。

 叩いた数だけ増えるならば十回で十一枚。百回で百一枚。

 だが、倍になる場合だと十回でおよそ千枚。百回では二の百乗であるので、えっと……計算できないくらいになる。


 そう気付いた瞬間に我らが三流大学を除く世界中からビスケットが音もなく消えた。

 僕の妄想に訂正が入ったのだ。

 大学正門前のビスケット間欠泉かんけつせんもぱたりと止み、いまではポケットからぽろりぽろりとこぼれるばかりになっていた。


「これで一歩前進だね」

「でも、先輩、残りのビスケットはどうしましょう」


 大幅に数が減ったとは言え、まだ大学キャンパスに敷き詰めるほどビスケットはあるのだ。

 これらをすべて食べてしまうわけにもいかないし、なにより門田という名前のビスケット無限製造機がいる限り、ビスケットは少しずつ増え続けるのだ。

 根本的な解決にはいたっていない。


「そうだなぁ。いっそのことこのビスケットを売っちゃうってのはどう? 元手タダだからボロ儲けだよ」

「ダメですよ、そんなのは。このチカラで世界を変えてはいけないんです」

「わかってる。面白そうだからちょっと言ってみただけ」


 ぺろりと赤い舌を覗かせて三咲先輩がウィンクを飛ばしてくる。

 そうしていれば許されるとでも思っているのだろうか。

 僕はロデオばりに暴れる心臓を抑えながら、懸命に呆れたような表情を作ってみせた。


 先輩はぺりぺりと船からビスケットを剥がしては食べ、剥がしては食べを繰り返していたが、不意にその手をぴたりと止めた。


「ねえ、胡桃田くん」

「なんですか?」

「ずっと思ってたんだけどさ、これって」


 先輩の真剣な目が僕を射抜いた。

 いったいなにを言うつもりなのか、僕は固唾を飲んで見守った。


「これって、ビスケットじゃなくて、じゃない?」

「え?」


 先輩の言葉に僕はぽかんと口を開けた。

 きっととんでもなく阿呆あほな顔になっているに違いないが、しかし僕はそのふたつの違いについて知らないのだから仕方がない。


「ビスケットとクッキーてなにか違うんですか?」

「うん、糖分と脂肪分が四十%以上のものをクッキー。以下のものをビスケットっていうんだけど、これたぶんクッキーだよ。口に残る感じがそう」


 うん、間違いないと先輩が頷く。

 僕はそれをほうけた表情で見ていたが、あの博識な先輩がそういうのだからそうなのだろう、と親を信じきっている幼子のように納得した。


 途端、大学キャンパス内のベージュ色が一気に消え、ビスケット無限製造機KADOTAかどたの電源も落とされた。

 先輩のビスケットの船も消え、彼女のかたわらには赤いフレームのスポーティーな自転車が停められていた。

 三咲先輩はビスケット――いや、クッキーをもっと食べたかったのか、少し残念そうな顔をしていた。


 こうして、三流大学の桜の木の下から始まった世界ビスケット問題はあっけなく終わりを迎えた。

 その事実を僕と先輩以外の誰も知ることもないままに。

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