偽りの記憶と本物の涙
倉田京
偽りの記憶と本物の涙
背中を丸めて歩く男がいる。
男は生まれてからずっと、女性と付き合ったことがなかった。学生時代も社会人になってからも、異性との思い出は常に空っぽだった。
三十四歳を超え、男は思った。人生はあと半分しか残っていない。ときめきが無いまま、俺は一生を終えるのだろうか。焦りと不安が男の胸を、
男は人生のパートナーを見つけようと思い立った。
あの手この手で女性と会った。お金を払い、飛行機に乗り、時に飲めないお酒を飲んだ。
しかし、いざ女性を目の前にすると、
男はそれまで、恋に背を向けた生き方をしてきた。好きになる前に自分から諦めてしまう人生を送っていた。男は失うことを恐れていた。初めから持っていなければ、失う心配はない。そう考えて生きてきた。その後ろ向きな選択の積み重ねが、男から自信と勇気を奪っていた。
パートナーを見つけようと思い立った日から半年が経った。
六人の女性と出会った。食事の誘いに十四回失敗した。
男は背中を丸めながら歩いていた。
ふと視線を向けた先の電柱に、看板があった。
『思い出が人生を
それは記憶を売る会社の広告だった。
これだ。自分に足りないもの、それは記憶。女性と付き合った思い出だ。
記憶を持っていないから、自信が持てない、だからモテない。
全ては記憶から始まるんだ。
男はそう考えた。
男はその足で、記憶を売ってくれる会社を訪ねた。
「いらっしゃいませ。メモ・リアルにようこそ」
受付の女性が
これから俺は変わる。美しい思い出が俺のこれからを明るく照らしてくれるはずだ。
男はまず、病院の待合室のような場所に案内され、
問診票の第一声はこうだ。
『どんな思い出に
そこで男は気付いた。そう、これは記憶を『作る』ことなのだと。
旅行の計画を立てるのとは違う。旅にはトラブルが付きものだ。天気予報が外れて雨が降った。うっかり忘れ物をした。イライラする交通渋滞に巻き込まれた。いろいろある。でもこれから作る記憶からは、それら不快なものを全て消し去ることができる。完璧な思い出を作ることができる。
どうせお金を払うのだ。いちから作る記憶なのだ。世界で一番
男は理想の全てを映した女性を頭に思い描いた。
アーモンドのような、ぱっちりとした目。サラサラした長い髪。しなやかでハリのある体。
見た目だけではない。彼女の性格にも、ありったけの想いを
彼女と過ごした日々も、ダイヤモンドよりキラキラしたものにしよう。
男は問診票を五十枚使い、バラ色の思い出を
記憶を作ってくれる担当者にも熱く語った。その担当者はにこやかに男の話にうなずいた。そしてこう言った。
「記憶を作ることはできます。でも消すことはできませんよ」
一週間後、男は記憶を手に入れた。夢の彼女と過ごした、甘く
記憶を手に入れた帰り道、男の足取りは軽かった。
俺は素晴らしい女性と付き合ったことがある男だ。どうだすごいだろう。通り過ぎる他の男たちが小さく見えた。道行く全ての人々に自慢話をしたくなった。
しかし三日後、男は苦しんだ。自分の思い出に。
どんな女性を目にしても、記憶の中の彼女には遠く及ばないと気付く。欠点ばかりに目がいってしまう。好きになる前に背を向けてしまう。
今までと変わらないじゃないか。
そればかりか、キラキラした思い出が男の心を刺した。電車でつり革をつかんでいる時、一日の終わりに布団に入った時。ふと目を閉じると、彼女のことばかり浮かび上がってきてしまう。抱きしめたぬくもり。かけてもらった優しい言葉。
もう一度、ただ一度だけでいい。彼女にまた、会いたい。
でもそれは無理な願いだった。記憶の中の彼女は作られたもの。名前はあるが住所は無い。思い出はあるが電話番号は無い。
彼女は二度と会う事のできない星より遠い存在。それを一番分かっているのは自分なのに。
クローゼットの中身を全部出しても、ゴミ箱を目茶苦茶にひっくり返しても、彼女はどこにもいなかった。
男は痩せ、背中はますます丸くなった。
男は気付いた。
彼女と別れた思い出が無いのがいけないのだと。
思い出を何度再生しても、最後はいつもぼんやりとしていた。
俺は彼女とどう別れたのだろうか。彼女は死んだのか。彼女が浮気をしたのか。取り返しがつかないケンカをしたのか。分からない。
理想だけを詰め込んだために、彼女との最後の痛みが、男には無かった。
先に進むためには決別が必要だ。
男は彼女をあの世に送る決意をした。どうせ会えないのだから、永遠に手の届かない存在にするしかない。そう考えた。そうすることでしか彼女を忘れられないと思った。それほど彼女の存在は男の中で大きくなっていた。
男は再び記憶を売ってくれる会社へ向かった。しかしいざ会社を前にすると、もう一人の自分が語りかけてきた。
「本当にいいのか?記憶を消すことはできないんだぞ」
「さよならを言えば、もう二度と彼女との思い出を作れなくなる」
「つらい記憶をわざわざ作る必要なんてあるのか?」
男は会社の前を何度も行ったり来たりした。ぶつぶつと独り言を吐きながら。
やがて男は決意を固め、受付の女性に言った。
「彼女に、別れを言いに来たんだ…」
それは笑顔の少ない思い出。目を背けたくなるほどの悲しみ。
デートの最中に彼女がみせた
痩せ細った指を握り、彼女の命が薄くなっていく感触を確かめることしかできなかった日々。
もっと一緒に過ごしたかった。出かけたい場所もあった。もっと笑顔にしてあげたかった。なんでだ。神様、不公平じゃないか。どうして俺のような人間でなく、彼女を選んだんだ。こんなにいい子の未来をなぜ奪うんだ。
一ヶ月かけ、問診票を百枚使い、男は書き終えた。
そして、男は震える手で別れを掴んだ。彼女は遠い遠い星になった。
男はまた背中を丸めて歩いていた。
手に入れた彼女との別れが男の心を重く重く押しつぶしていた。
作り物だと分かっているのにどうして。
背負いきれない重み。いっそのこと彼女のことを嫌いになってしまいたい。男はそう考えた。
男は再び記憶を売ってくれる会社の前で立ち止まった。
またこの会社に頼ればいいさ。記憶に
目茶苦茶にしたって構わないさ。
やがて男は覚悟を決め、目を閉じた。
「ごめん……俺がバカだったよ……」
震えるまぶたの向こう側から、彼女との思い出が
初めて手を繋いだ昼下がりの商店街。旅行の計画を立てた雨の日。一緒に買い物袋を持って歩いたアパートへの帰り道。少しおどけて前を歩く彼女の後ろ姿。
そして、彼女がかけてくれた最後の言葉。
「ずっと一緒にいてあげられなくて、ごめんね……。私のこと忘れないでほしい。でも前に進んでほしいよ……」
男は星に向かって彼女の名を叫んだ。届かない彼女の名を何度も。
涙と鼻水で、男の顔は人生で一番ブサイクになった。その顔のまま、男は背筋を伸ばして歩き出した。時々星を見上げながら。
そして二度とその会社を訪れることはなかった。
それから二年後、ある本が出版された。男が綴った問診票から生まれた一冊の本。数えるほどしか売れなかったが、それは読んだ人の心を少しだけ変えた。
偽りの記憶と本物の涙 倉田京 @kuratakyou
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