街角の兄弟

光圻(みつき)

相席

「ご相席、よろしいですか?」


近くで聞こえた声に、は、とスマホから顔を上げた。ただでさえ短い昼休みの最中に、チームメンバーや取引先とのやり取りを確認しなければいけないのは、それが出来てしまう情報化社会の弊害だろうと常々思っている。と、仕事に埋まっていた思考を切り替えて、「あ、はい、構いません。空けますね」と返しながら困惑顔の店員と、その後ろに立つ青年二人に目を向けた。目が合うと、彼らは少し微笑んで会釈をし。ガッチリと固まってしまったのを自覚した。


「では、お邪魔します。…おや?」


耳に響くどころかそのまま柔らかく身体に染み込むような錯覚を思わせる深いバリトンボイス。「…あれ? ……お姉さん、大丈夫? ……ですか?」と覗き込むように伺ってくるもう一人は少年のような無邪気さが見え隠れするテノールボイス。はっと我に返って「すみません!」と頭を振った。ばくばくと音を立てる心臓に今更気が付いた。落ちつくために紅茶を一口飲み込んで。くすくす、と小さく笑う声と、それを窘める声を耳の端で聞く。恥ずかしさで埋まりたいとはこの事だ。


ちら、と恐る恐る二人組を見やった。

顔立ちはよく似ていて、テナーボイスの方が頭半分程低かったから恐らく兄弟。兄であろう方はさらりとしたショートの黒髪の、少しばかり長い前髪をソフトワックスで顔に掛からない程度に上げている。メニューを見るために視線は下がっていて、お蔭で眼鏡の縁に見え隠れする伏し目が一層こちらの鼓動を速めた。余り上向いていないせいか、長く思える睫毛が柔らかく影を作っている。恐らくはハーフだったりするのだろう。すっと切れ長の瞼の下では秋晴れの空の色を暗くしたような透き通った瞳が文字を追ってゆっくりと動いていて。冷たさを思わせるその瞳はきっと、焦ることなんてないのではとも思ってしまう。

固く重い印象を抱かせがちな黒縁眼鏡も、金属製らしい太いツルは繊細な模様が透かし彫りされていて、髪と共にその耳に掛けられて理知的な横顔を作っている。さりげなくその耳朶を飾る赤い石のシンプルなピアスも、社会人としては推奨されないことが未だ多いものだけれど、不思議と遊んだ雰囲気とは対極に、エレガントな佇まいでそこに嵌っている。

椅子に掛ける姿勢も、力は入っていないのに背筋は自然に伸びている。店員にオーダーを伝える指先ひとつとっても、その小指の先にまで神経を行き渡らせていることが見て取れる。顎は引かれ、肩は開いていて、ゆったりと座っているこの喫茶店の特に高い訳でも無い椅子までもが上等なものに見えてしまう。

十中八九、彼はこれら全てのことを、自らの魅力を最大限に引き出すために計算して、更にそれを無意識下でも行えるように体に叩き込んでいるひとだ。なんて凄い人と同席になったことだろう、と小さく感嘆の息を吐いた。


「ふふ。兄さんの観察は終了?」

「へぁっ!!?」

「いやぁ、ちょっと見る、ってところからガン見になってて面白かったよー。お姉さんも人間観察が趣味の人?」

「え、っと、それは……その…職業病みたいなもので…すみません、ご気分を害しましたよね…」

「……。いえ、構いません。此方も見られることには慣れておりますので」

「ええ、そのようにお見受けしました。けれど不躾なことには変わりません。無作法をいたしまして、」

「仕事ならしょうがないよ、ねえ?」

「……こちらこそ、愚弟が言葉と常識を知らず申し訳ございません。長らくモラトリアム気分に浸っているようで。躾をし直す為に連れ出しているのですが、ね」


ひたり、と小春日和に凩が吹き込んだような寒気が一瞬。きゅ、と口を閉じた弟さんはこちらに向き直って「無遠慮にしすぎました。…ごめんなさい」と頭をぺこりと下げた。さっきまでのへらりとした笑顔が嘘のようにしゅんと背を丸めて眉を寄せ、お兄さんよりは大きな瞳を揺らがせている姿は耳を伏せた大型犬を思わせた。つい、手を伸ばして頭を撫でてやりたくなるような。

自分の手がとんでもなく失礼なことをしでかす前に、「大丈夫です!」と気持ち大きめな声を出した。


「大丈夫です、あの、お気になさらないでくださいね?」

「ほんと?」


その時の、ぱぁと花綻ぶような笑顔はきっとずっと忘れないだろうと思う。まるでこの世の僥倖に見えたような、悪いものなんて何一つないとでも言うような、本当に幸せそうな笑顔だった。あ、とこちらがたじろいでしまうくらいに無防備で無邪気な笑顔。「うん」と、釣られて自然と笑顔を浮かべながら頷いてから、しまった、と顔を引き攣らせる。

なんだかこの青年には格式張ったものを根こそぎ取られてしまうのだ。思えば、敬語を使わない初対面の年下に苛立ちを覚えなかったのは初めてのことだ。今も、打って変わってにこにことしている彼にはなんだか憎めないものを感じている。いもしない自分の弟を見ているような、不思議な親近感。お兄さんの方とは違ってくるくると変わる表情や仕草に計算は見当たらない。顔立ちは似ているし、気負わない姿勢は同じかもしれないけれど、顔に掛かった前髪も奔放な態度も気安い様も長い睫毛も、お兄さんと似た部分は実は余りないのかもしれない、とちらりと思った。


「あ、お姉さん」

「な、んですか?」


なに?と普通に返してしまいそうになって言い直した矢先に。


「もうすぐ1時だけど、時間は大丈夫?」


こてん、と小首を傾げながら問われた意味を理解して。蒼白になりつつ腕時計を確認して、きゃあと叫んだ。

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