第18話
通学路を気の抜けた足取りで遡る。家からそう遠くない場所であり、もうずっと前から知っているはずの景色なのに未だどことなく違和感がある。
あんなことがあったというのに、森井の町はちっとも変わらない。
まあ当然と言えば当然だろう。
自分にとってはとんでもない出来事が、実は取るに足らない些事だなんてのはよくあることだ。
あの日あの夜に起こった出来事は世間からしてみれば、もう廃棄される音楽室が”何故か”燃えて灰になったに過ぎず、なんなら大抵の人間は知りすらしないのだろう。
その証拠に工事は三日と待たず再開されていて、既に校舎の一部は瓦礫と化している。
茂は交差点で立ち止まった。
本来左に曲がるべき所だ。左に曲がればすぐに自宅がある。しかしそちらを一瞥だけして、茂は直進を選んだ。
直進した先にあるのは森井中学校旧校舎だ。
……あの後なにがあったのか、正確なことは分からない。
夜が明ける前に学校と裏山の境界あたりで目が覚めた。
気を失った記憶すらなかったが、恐らく一酸化炭素中毒という奴だったのだろう。火事の死因としてはこれが一番有力らしく、朧気な記憶と照らし合わせてみても症状が合致する。
ならば今こうやって不自由なく生きていられるのは他でもない――伊莉栖が手当てをしてくれたのだ。
お陰で火傷も軽く、当然痛みはするし風呂なんてまるで地獄だがどうにか医者には掛からずに済んでいる。
狭い町であるし、もし医者になんて行けばあの火災の当事者と疑われるやも知れない。
真犯人は誰にも見つけられないのだから、端から見れば僕こそが犯人だ。
無駄な面倒ごとは可能な限り避けておきたい。
これからも普通に生きていかねばならないのだから。
茂は高くなった空を見上げる。
澄んだ、秋らしい風がその傍らを吹き抜けていく。
――いりす、りこ。漢字で書けば伊莉栖梨子。
フルネームさえわかれば彼女に関する記録は案外あっさりと見つかった。
森井中学第27期生で、僕が63期生だからつまり36年も前の人間で、享年は14歳。死因は屋上からの転落。当時の捜査によれば争った形跡はなく、数週間前に両親を失っていることからも自殺である可能性が高いと判断され、事件もそういう風に処理されているらしかった。
なんとなくだが、真相は違うのではないかと思う。
気を病んでいたとしても伊莉栖が身投げするというのはどうにも想像が出来なかった。だからもっと別の流れでこうなってしまったのだろうと思うのだ。
例えばもたれたフェンスが破損して落ちた、とか。
本当のところはわからない。全ては憶測でしかない。真相がわかったところでなにかが変わるわけでもない。
鮮烈な赤が目に入る。
旧森井中学校の校門前に咲き誇るは、彼岸花の大群だ。
かつて自分が壊そうとした石橋を渡り、校門の前に立ち尽くす。
視界の奥ではいつもと変わらず、怪物のような鉄の塊がごろごろと唸っている。
あれから、伊莉栖とは会っていない。
今日だって別に会いに来たわけではない。工事のせいで中に入ることなんて出来ないし、そもそも伊莉栖が出てくるはずの夕暮れにはまだ早すぎる。そのつもりならもっと遅い時間に来るべきで、なんのためかと問われればたぶん墓参りに近い。
去年も彼岸花は咲いていたが、こんなに多くはなかった。
だからこれらの花達は、長きを寄り添ったこの土地から伊莉栖への手向けなんじゃないか、なんて茂は考える。
伊莉栖はきっと、あの夜に行ってしまった。
確証はどこにもないが、しかし不思議な確信があった。
宛のない視線があちらこちらをさ迷う。秋に片足を突っ込んでも衰えぬ常緑樹の群れ、高く腕を振り上げた工事用重機、もう何度も読んだ校門の張り紙を今ひとたび目でなぞり、真っ赤な花の上でまるで蜜蜂の軌跡を描く。
茂の視線がある一点で静止した。
地蔵だ。さすがにお地蔵さまを廃棄するなんて罰当たりなことはできなかったのだろう、かつて中庭にあった地蔵は橋の破壊工作をしているときにはすでにここに移設されていて、ちょっとした祠もその時にはできていて、だからそこまではなにもおかしくはない。
首に巻かれた、赤い風呂敷のようななにか。
……あんなもの前からあっただろうか。
大体赤い前掛けを身に付けている地蔵はよく見るが、目の前のあれはどこからどう見ても鞄の形をしているし、布にしても普通はもっと鮮やかな赤であれほど青みは強くない。質感も異なる気がする。更に加えてどこか見覚えすらあった。
自分はあれをどこで見たのだったか。
十歩足らずの距離をゆったりと詰めていく。一歩毎に霞のような記憶は形を取り戻し、もう手の届くという距離で――
――思い出した。
自分はこれを音楽室で見たのだ。間違いない。これはピアノのキーカバーだ。
考えるより早く手が延びていた。
全くもって罰当たりな行いだとは思うが、それは躊躇う理由になり得なかった。
包みを、開く。
中には手織りの封筒が一つ。
伊莉栖らしい静かな文字が整然と縦に並んでいた。
――もしこの手紙を若松茂以外の方が見つけられた場合はお手数ですが、中身を見ずに森井中学校の若松茂まで届けてもらえるとありがたいです――
自分のフルネームをこうも改まって書かれるとなんだかくすぐったい。
茂は封筒を開いて、その紙が楽譜であることに気がついた。中にはやはり数枚の紙もとい楽譜が入っていて、しかし無地の裏面に書かれた文章にはずうっと取り消し線が引いてある。
読めないことはないので最初から読むことにする。
――この手紙を茂くんはいつ読んでいるのでしょう。あれからまだそんなに時間が経っていないのか、それとももう何年も経っていたりするのでしょうか? わかりませんがきっと届くと信じて手紙を遺しておきます。なんかおかしな文体になってますよね。でも手紙であんまり砕けた言葉を使うのも変な気がするのでこのままの調子でいこうと思います。
まずお礼を言わせてください。ありがとう。
君のお陰で最後に楽しい時間を過ごせました。
終わり方があんなだったのはごめんなさい。
言い訳がましいですが、あのままいけば私はとんでもないことをしてしまっていたかもしれなくて、それだけは嫌だと思ったのです。
元々私は一人で消えていくつもりでした。
誰にも見つからず、一人静かにこの世を去れればそれで満足だと思っていました。
楽しい話ではないので詳しくは書きませんが、他人と関わるのが恐ろしかったのです。
度々突き放したような態度をとってしまったのもこれのせいです。ごめんなさい。
今となってはあの数日のことを少し悔いています。初めからもっと素直に遊んでおけばもう少し時間もあったのにな、なんてことを思います。
まあ後悔したところで過去は変わりませんし、実のところ心残りはあんまりないんですけどね。やりたかったことは大抵やってしまったように思います。特に肝試しなんかは楽しかった。
強いて言うなら私のレパートリーを披露しきれなかったことくらいでしょうか――
取り消し線はここで終わっている。
なるほどこれは火葬の前に書いた手紙だったのだろ
う。線は何度も途切れたりうねっていたりして、伊莉栖が迷いながら筆を走らせる様が脳裏に浮かぶようだった。
茂は続きに目を落とす。
――ところで黒檀という木を知っていますか? ピアノの黒鍵に使われる木です。次のページにこの黒檀で作ったリングを縫い付けてあります。我ながら結構綺麗にできたと思うのでよければ使ってください。大きさはたぶん問題ないはずです――
確かに小さな膨らみがあった。ページをめくると赤い糸で器用に留められたリングが姿を見せる。
紙の方を小さく破き、茂はそれを手に取った。
自画自賛するだけある。確かにリングの見栄えはすこぶる良く、緻密で艶やかな様は彼女の演奏さながらだ。性格なのだろう。
周囲の無人を三度も確かめてから茂はリングを指に通す。
ぴったりだった。
――さっき「まず」だなんて書きましたが、案外書くことってないものですね。最初はいくらでも書ける気がしていたのにもう書くべきことを思い付きません。
なのでこの辺りで締めようと思います。
月並みな言葉ですが病気と事故には気を付けて。あと屋上のフェンスにも。個人的にはもたれる前に揺らしてみるのがおすすめです。
最後にもう一度だけ、ありがとう
それではお元気で
伊莉栖梨子より――
一旦ここで手紙は終わっている。一旦としたのはまだ続きがあるからだ。今までよりずっと荒っぽくて、飛び出してきそうな文字がでかでかと記されていた。
――もう一つ指輪を作っておいてください。
材料は象牙、サイズは9号で!
またね!――
涙はでなかった。
だって泣く必要なんてのはどこにもない。
紙を握りしめたまま茂は空を見上げ、考える。
――象牙っていくらぐらいするんだろう。
彼方より黄昏にて @kazuythor
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