第17話
とん――、かん――、とん――、
金槌でノミの頭を殴り付けるとその古ぼけた切っ先が石を砕き、零れた礫が水面に波紋を作り出す。
それは何百、もしかするともう何千と繰り返した動作だった。振り下ろした数だけ右手は衝撃に蝕まれ既に感覚はほとんどなく、何度も手を滑らせたせいで左手は今までに経験のないぐらい腫れ上がっており、潰した豆やらなんやらで血塗れの道具達はどう見ても何人か殺った後に相違ない。
懐中電灯が照らす手元を見つめながら茂はぼんやりと考える。
既に七日が経過しているが、あれ以来伊莉栖とは一度も会えていなかった。
いつものかくれんぼとはワケが違う。今回はどうやら本気で避けられているらしく、幽霊である彼女が本気になれば生身の人間である茂に探す術などありはせず、事実どれだけ探し回ってもその気配を感じ取ることさえ出来なかった。ならばと叫んでみたがこれも駄目。そもそも声が届かぬほどに距離を開けられているようでなんと言おうとうんともすんとも返ってこない。書き置きの類も全て無視され、真っ当な手段は思い付く限り使い果たした。
故に――故にだ、橋をぶっ壊す。
元々森井中学の敷地は川と森に分けられた陸の孤島であり、あちらとこちらを繋ぐのはコンクリで補強さえされていなければ文化財にでもなれそうなこの石橋ただ一本のみなのである。だから橋を壊せば人はともかく重機なんかは渡れやしないし、廃材を運び出すことさえ出来ず工事は確実に一時中断されるだろう。そしてそこまでやれば伊莉栖は絶対に気付く。なにしろ自身の存在を左右するのだ。工事の動向が気にならないはずはない。
つまりこれは、覚悟を示す為の狼煙なのである。
もちろん犯罪行為だというのは重々理解している。バレればただじゃ済まないのは簡単に想像が付くし、迷惑なんて生やさしい言葉では足りないほどの迷惑が四方八方に降り掛かるだろうこともわかっている。
だがヒト一人の存在が掛かっているのだ。まさか存在が命より軽いなんてことは誰にも言わせはしない。
気付いた伊莉栖が姿を見せてくれれば良し、会えたなら「重機を破壊しろ」と伝えるつもりだ。鉄のガワは難しいかも知れないが操縦系のような繊細な部分であれば容易く破壊できるだろう。1台数千万もする重機類をぶち壊されては向こうさんも工事なんて言っていられまい。しかも犯人は見つからず、新しいモノを持ち込んでもまたぶっ壊される。カメラを付けるか監視でも置いてくれれば最高だ。見えざる脅威に現場は混乱必至、やはり中止とせざるを得ないはずである。それが一つハッピーエンド。
しかしもしかしてもしかすると、彼女は他人に迷惑を掛けたくないと言い出すかも知れない。ああ見えてなにかと遠慮しがちな伊莉栖なら十分にあり得ることだ。正直その時のことはあまり考えていないが……まあ要望通りに飛び降りるのもアリだと思う。会えなかった場合も同じだ。これだけ未練たらたらなのだから僕だって幽霊にぐらいなれるだろう。
覚悟は出来ている。
嫌なのは、このまま――こんなうやむやなまま終わってしまうことだけだった。
周囲の音に耳を澄まし、近所の廃材置き場から拾ってきた脚立に跨がって、茂はひたすらノミを打つ。川のど真ん中に立てているので安定性なんてものは存在せず、下手に体重を移動させるだけで転けそうになるし、実際もう3回転けて全身がぼろぼろだった。腕をふるう度にどこもかしこも痛みが走る。それでも休んでいる暇はない。汗が目に入ってキリリと痛む。それでも休んでいる暇はない。拭おうとして槌を落としそうになって、また脚立ごとひっくり返る。それでも――
そこで気付いた。
なにかが焦げるような匂い。
こんな時期に、しかもこんな時間に誰か畑でも焼いているのか? ……馬鹿な。であれば火事か? 一体どこで。
脚立を動かして橋の上にあがってみる。
眼前に立ち上る黒い煙と、窓から噴き出す赤き炎。
火元は、――音楽室。
気付いたら走り出していた。
校門を飛び越え、キャスターゲートをよじ登り、校庭を突っ切って窓から校舎に突っ込む。階段の上。音楽室の前。
まるでそこから先は別世界だと言わんばかりに引き戸までが燃えている。
がらり、と触れてもいないのに戸が開いた。
「キミって奴はほんっっっとうにバカだなあ。わざわざ来なくなるのを待ってたのに。今ここにお巡りさんとか来ちゃったらどうするのさ。言い訳出来ないよ。どう見てもキミが犯人だ」
炎を抜けて現れた伊莉栖は、苦笑いと共にそう言った。服はちっとも焼けていないし、髪の毛はいつも通りふわふわだし、もちろんどこにも火傷はない。
彼女はやはり幽霊なのだと改めて実感させられ、同時に少しだけほっとする。
しかし分からない。
「どうしてこんなことを」
「ここだけは持って行きたかったから。ここはわたしが数十年過ごした場所で、わたし以外に壊されるのは嫌だったから。……今までは開かないように内側から工夫してたんだけどね。校舎ごと壊すとなったらそうもいかないし」
伊莉栖はゆっくりと翻って、音楽室が燃えていく様を眺めている。炎と煙が激しすぎて中はまともに見えないが、なにかしらの崩れ落ちる音だけが聞こえてくる。
ここに火を点けるということはつまり、彼女は今の状況を受け入れているということなのだろう。
「伊莉栖」
そんなのは駄目だと思う。まだ可能性は十二分に残っているのだ。諦めるには早すぎる。それを伝えねば。
「……なに?」
「外の重機を壊そう。ショベルとかダンプとかさ。そうすれば工事は止まる。出来るでしょ?」
伊莉栖が背で手を組み、不意に弾けた炎がその全身を包み込む。触れてもいないのにぞっとするほどの熱気だった。伊莉栖はしれっとしているが生身の人間ならそう長くは保つまい。
ぽつり、と伊莉栖が言う。
「出来るけど、しない」
「ッ――どうして!?」
「キミの言う通りになったとして、わたしがずっとここにいるとして……、その後キミはどうするつもり? 毎日ここに来てくれるの? 大人になっても? もしわたしとキミが喧嘩したら? キミに別の恋人が出来たら? そしたらわたしはどうなる? また独りぼっちだよ。今度こそ本物の独りぼっちだ。…………消える方法も知らないんだよ、わたしは」
真っ黒く焼けた戸が自重を支えきれなくなって手前に崩れてくる。激突の拍子に砕けた燃えカスが足下を転がっていく。
伊莉栖の勢いに気圧されたのか、一瞬だけ躊躇ってしまった。
だが、躊躇っただけだ。
「毎日ここに来る。十年後も二十年後も、死ぬまでだ。喧嘩なんてしないし、万一しても絶対に戻ってくる。独りにはしない」
思考を挟まず、言葉は滑るように口を衝く。
「そんな言葉信用できると思う? 突然親が死んだり今度は自分が落っこちて死んだりさ、なにが起こるか分からないのがこの世界だよ。今日はそう思ってても明日は違うかも知れない。特に今なんて気持ちが昂ぶってるでしょ? そんな状態ならなんとだって言えちゃう。大体キミとわたしは出会ってまだ1ヶ月そこらだし、一生の話なんて出来るわけがないんだよ」
脳ミソを殴られたような気分だった。確かに伊莉栖の言い分は道理が通っている。明日自分が他所で死ぬ可能性はゼロじゃないし、今興奮しているのは間違いなく、たった1月ちょっとの間柄だというのも本当だ。なにを言おうと事実は変わらず、であれば言葉の重みも変わりはしない。
「どうしたら、」
伊莉栖が振り返った。
「どうしたら証明出来る?」
言葉が信じられないというのなら、行動で示す他にない。
茂は固く拳を握り、既に傷だらけの皮膚に爪が食い込み、鮮やかな血がじわりとにじむ。しかしそこにあるはずの痛みが茂の意識にまで上ってくることはなかった。いつもなら大騒ぎだって出来るぐらいの苦痛だったのに、だ。痛みなんてものはどうでもよかった。
次に少女が紡ぐ言葉以外の一切は、どうでもよかった。
そして当の伊莉栖は、言葉の代わりにつかみ所のない笑みひとつを残してゆらり炎の向こうへ消えてゆく。
茂はその様子を呆然と眺めている。
それから何秒が経過したのか、
――ここまで来れたら信じてあげる。
火花が弾ける音に紛れて、確かにそう聞こえた。
続きピアノの旋律が炎を越えて廊下にまで響いてくる。音が鮮やかさを欠くのは、やはりピアノまでが燃えているからなのだろう。
1度目を閉じ深い呼吸と共に見開くと、さっきとなにも変わらぬはずの景色がまるで別物に感じられた。
眼前に在る2メートル四方の穴は紛う事なき怪物の口だ。紅き牙は1つ1つが猛虎の如く、黒い吐息までもが死を予感させる。飛び込んだが最後、自分もそこらに転がる燃えカスと同じ末路を辿るのだろう。
覚悟は……、してきたはずだ。
足に力を込めた。
――ッ!?!
一歩踏み込むだけで炎に全身を舐められる。熱いなんてもんじゃなかった。こんなのはズルい。想像の数十倍だ。まともに目も開けていられない。あまりの熱さで身体が勝手に引き返そうとする。なにやってんだ馬鹿が。戻るな止まるなとっとと行け。この炎の中じゃお前の寿命は後いくらもないんだぞ。明らかに過剰な力を込めて次の1歩を踏み出す。カンマ1秒毎に水分の飛んでいくのが分かる。死ぬほど熱いし頭が痛い。煙と炎のせいでほとんど前が見えない。負けじと音に向かって歩を進める。なにか熱い棒切れがすねに触れて、皮膚がジュッと音を立てる。一瞬頭が真っ白になる。なにに当たった!? 反射で後ろに跳んで尻餅をつく。倒れた椅子の足を蹴ったのだ。床の熱が手に伝わってくる。熱い熱い熱い!! 堪らず飛び起きる。
正直今すぐここを飛び出してそこらの冷えた床の上を転げ回りたい気分だった。ちょっとやそっと覚悟してみたからといってなにも恐ろしさを忘れられるわけではないし、増して痛覚を除けるわけでもないのである。今この瞬間にも恐怖が本能を蹴飛ばしてくる。落ち着け、こんな恐怖は前にも体験しただろう。ついこないだの屋上でだって感じたはずで、お前はそれを耐えきったんじゃなかったか。しかしあの時と全く同じというわけでもない。あの時は主導権を伊莉栖が握っていて、自分は終始震えているだけでよかったのである。恐怖に打ち勝つ必要なんてのはどこにもなかった。生きるか死ぬかは伊莉栖が決めてくれた。だが今回は、そう今回は――
そこで茂は息を吞んだ。
一つ欠けていたことに気付いたのである。他でもない、伊莉栖についてだ。
彼女の行動原理は一体何なのか。
今まではただ漠然と、自分に死んで欲しいものだと思っていた。その裏になにか理由があるだろうことはわかっていたが、それがなんなのか詳しくはわからなかったのである。伊莉栖が本当に望んでいたのなら、それはいつだって叶えられたはずなので、なのにどうして実行に移さないのか。それがわからなかった。
花火の夜を思い出す。伊莉栖から好きだと言ってくれたあの夜に、しかし彼女はなんと言って僕のことを拒絶したか。忘れはしない。あの時彼女は「わたしもう死んじゃってるからさ」と言った。
結局あの言葉こそが全てだったのではないか――茂はそう思う。
伊莉栖はつまり、”生者と死者の道は交わらない”ということを知っていて、信じているのだ。
いつも一歩引いたような態度だったのも、何度も縁を切ろうとしたことも、そう仮定すれば説明が付く。
確かに、一つの真理なのかも知れない。
正直なところいまいちわからぬ考えではあるが、わからないのは当然だ。死んだことなんてないのだからわかるわけがない。何十年も幽霊として孤独に過ごしてきた伊莉栖の気持ちなんてわかろうはずがない。
ただ少なくとも、自分のこれまでの人生の中には誰とも話さぬ日など一日たりともありはしなかった。
もし自分が伊莉栖の立場だったとしたら……、果たしてどうなっていただろうか?
なるほど、言葉では足りないはずである。
理由がわかっただけで随分と身体が軽くなった気がした。
やるべきことは単純だ。
伊莉栖の心底に染みついた事実を、別のなにかで塗り潰してやるのだ。
やり方は伊莉栖が示してくれている。
自分はこの炎の中をあと数歩進むだけで良い。
進んだ。
さっきまであんなに鬱陶しかった熱は全身に麻酔でも回ったみたいにすっかり輪郭を失っていて、目的の場所にはいつの間にか辿り着いており、耳の傍から聞こえてくる涙声で抱きつかれていることに初めて気が付いた。
彩度を失った意識に少女の声が流れ込んでくる。
「ごめん。……ごめん。まさかほんとに来てくれるとは思ってなくて……、わたしなんか勘違いしてたみたいだ。…………ありがとう」
伊莉栖の言葉に茂はなにかを返そうとする。しかし口は動かず、意味のない音が生まれるばかりで言葉にはならない。もはや立っているのすら奇跡に等しかった。
意識がまるで吸い込まれるように落ちていく。
それを察した伊莉栖は最後の言葉を紡ぐ。
「わたしの名前リコって言うんだ。忘れないでね」
……茂の意識はそこで途絶えた。
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