それはある日のホームで

北海ハル

時には曇天で明朗と

「ちょっと、お話をさせて貰っていいかな?」

 駅のホームのベンチで電車を待つ私にそう告げたのは、初老の男だった。黒いスーツに身を包み、頭にはハットが被されている。気品のある雰囲気で、私は少し緊張してしまった。

 どうぞと私が言うと、男は慇懃に頭を下げて私の隣に座る。

「いやあ、しかし嫌な天気ですなあ。せっかくの……なのに……。」

 上手く聞き取れなかったが、今日は男にとって特別な日だったのだろう。確かに今日は雲が厚く立ち込めており、さっきまで小降りの雨だった。

 私が何か返事に詰まり、男はそれを察したのか自ら話し出した。

「そうだ、お話なんですがね……。」

 一拍ほど置いて、再び男が言った。


「……沢山の人を、殺めてきてしまったのですよ。」


 ────────────────


 一体全体、今日は何という日なのだろうか。

 駅に来るまで小雨に打たれ、ようやく落ち着いて電車を待てると思えばとち狂った老人に絡まれる始末である。

 だが、それを聞き流し、無視する事は出来なかった。待っていた電車が来る。人が降りる。電車が動き出す。本当ならさっさといなくなりたいのに、まるで何かに縛られるように席を立つことが出来なかった。

 男は続けた。

「殺人衝動なんてものは、いつ起こるか分かりやしませんね。初めは妻を……今でも覚えています。手元にあった硝子の灰皿をね、妻の後頭部に叩きつけたんですね。」

 淡々と述べられる、真偽の分からない言葉に私は息を飲む。嘘と笑い飛ばすにはあまりに現実的すぎた。

「人間、殴られても中々死なんもんですね。私が殴っても妻は生きていましたよ。あぁ、だかえぇ、だか訳の分からない事を喚いてね。でもそれも数秒です。少ししたら事切れましたよ。」

 息の仕方が分からなくなってきた。何だ、この苦しさは。まるで海に溺れた時のような、そんな不安と恐怖に包まれる。

 男の方は生き生きとした笑顔を浮かべて嬉しそうに語っていた。

「まあそれからですね。親類を様々な手でやりました。ガスコンロに頭を突っ込んだり、四肢を一本ずつ切り取ったりもしましたよ。勿論、一筋縄では行きませんから睡眠薬やちょっとした薬も使いました。でも一番すごかったのは私の兄を殺した時でした。私の兄はね、〇×県の山間に別荘を持っているんですよ。そこでテレビなんかでやっているような薪割りをして生活しているわけです。そこでね……」

 電車が来る。人が降りる。電車が動き出す。私はもう、息をすることそのものが辛くなっていた。

「頭を地面に固定するんですね。地面というか、切り株なんて言うんですか。そこに頭を固定するでしょう?それで斧を振り下ろすんですよ。まぁ……見事に赤黒い血が切り株と兄の頭を覆う訳です。それはもう、凄く綺麗でしたよ!」

 私は気付いた。この男は狂ってなどいない。狂っていたら私の方だけを向いて話すはずがない。こんな嬉々とした表情で狂言を述べているのに、その声は私にだけ届けられている。この事実が、男が正常である事をただ純粋に証明していた。

 狂ってしまいそうなのは私の方だった。いっそ狂ってしまった方が良かったのだ。

 それでもなお、男の話は続く。

「……結局その事実が他の親類に咎められるわけです。それで私はされました。そして今日がの日なのです。」

 ────ここで狂えてしまえばどれだけ楽だっただろう。

 なんという事だろうか。狂っていたのは男ではない。いや、男だけではない。、狂っていやがる。

 親類が殺されても、誰一人として警察に走らない。これは一体なんと形容すべきなのだ?

 私は正誤の判断が怪しくなってきた。そもそも、この男は誤った事をしているのか?分からない。何が分からないのか、分からない。

 男はそれまで浮かべてきた笑顔を不意に引っ込め、私に言った。

「こんな話を、なぜ貴方にすると思いますか?───特にわけはありません。何だか話したくなったから、しただけ。ただ、それだけなのです。忘れて下さって結構ですよ。……まあ、全て本当かは言わないでおきましょう。」

 私は背中のじっとりとした汗を感じながら、男が立ち上がるのを呆然と見ていた。

 最後に、と男が思い出したように言う。

「私は今までは────。」

 もう、聞きたくなかった。電車の扉が男の前で開き、男は電車に乗る。私は乗らなかった。否、乗れなかった。


 ────『今まで


 今日は男の釈放の日だと言う。

 それが何を意味するのかは分からない。

 分かったところでどうしようもないだろう。そして私は今日、このホームで聞いた物語を生涯背負って生きていくことだろう。

 それが嘘であろうと、本当であろうと、私には常に恐怖が息巻いているのだから。


 電車が動き出す。

 いつしか曇天は雷を轟かせ、重たい雨を降らせていた。

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