第4話
今日という一日は、始まりから歯車がずれていた。起きても元気が出なくて、ジョギングをしなかった。学校はないのに制服を着てしまった。そのまま先輩の家に向かえば、先輩は既に目覚めていた。
互いの朝食を済ませて、食後のコーヒーを飲む。机を挟んだ向かいにいる先輩は、今日はいい天気だな、なんて前置きをしてから口を開く。
「デートに行こう」
でえと。先輩は確かにそう言った。聞き慣れない単語に、脳の理解が追いつかなかった。
「先輩、どこかに頭でもぶつけましたか?」
「失礼な後輩だな」
可愛げのないわたしの口は、反射的に悪態をついてしまう。先輩は慣れたものだと笑って返す。
「いつも世話になってるし、日ごろの礼とでも思ってくれないか」
「……そういうことなら、まあ、ありがたく受け取っておきましょう。で、デートと言っても、どこに行くんです?」
尋ねてみれば、先輩はあらかじめ考えていたのだろう。よどみなく口にする。
「遊園地とかはどうだ?」
「先輩の口から遊園地だなんて、似合わなさすぎてちょっと引きます」
「とことん失礼だな。それとも遊園地は嫌だったか?」
「まさか。遊園地に行くのが嫌いな人なんて、いるわけないでしょう。でも、どうして突然?」
「……前に、いつか遊園地に行こうってお前の方から言ってきただろ」
「そう、でしたっけ?」
そんなこと、先輩に話したことがあっただろうか。
思い出せない。思い出そうとすると、頭が割れそうになる。そういえば最近は人の名前を思い出すことさえ億劫だった。
「大丈夫か?」
いつの間にか、先輩に手を握られていた。恥ずかしくて、けれども、その手を離せない。あったかくて、離せない。されるがままに手をつなぐ。
「今日はやめておくか?」
「いえ、行きましょう。先輩と行きたい、です」
「……そうか」
頭が朦朧とする。それでも口が勝手に動いていた。先輩はそれ以上言わない。
家に帰って、お出かけ用のワンピースに着替える。家の前で再び待ち合わせて、歩いて向かう。
「あの、手……」
「ああ、さっきはすまん」
「ち、違うんです……握っていて欲しいんです」
「お、おう、そうか」
手を握られたとき、頭痛は止んだ。それと同時に、先輩を食べたときみたいに、胸が満たされた気がした。
おずおずと、先輩は再びわたしの手を握ってくれる。
また、胸が満たされた気がする。
遊園地には、誰もいなかった。
機械で無人化されているから、閉園というわけでもない。ただ、客は一人も見当たらなかった。遊園地に来るまでの時間も、すれ違うことはなかった。
待ち時間がないのもいい。それに先輩と手を繋いでいる姿を、人に見られるのは、ちょっとどころじゃなく恥ずかしい。他に人がいないのは、先輩と手を繋いでいられて好都合だった。
学校では、誰にでもお人よしの先輩。
今は、わたしだけの先輩だ。
それでも、こうしてデートしてくれたのも、先輩からしたらお人好しの範疇かもしれない。そう思うと、少し、怖い。
「先輩は、どうしてそんなに誰にでも良くしているんですか」
回るコーヒーカップ。ジェットコースター。フリーフォール。お化け屋敷。
アトラクションをいくつか回り、ベンチで休んで手持ち部沙汰なとき、つい聞いてしまった。
「良くしてって、別に、人にやさしくするのに理由なんてないだろ?」
「そうじゃなくって……」
こういうことを当たり前のように言うのだから、この男はたちが悪い。
「何度も斬られたり、死んじゃうような薬を飲むなんて、どう考えても、お人好しを越えてます」
確かに、などととぼけたことを言うこの男。ムッとしたわたしに気づかずに、彼は話す。
「二人がああなったのは、俺のせいだから。だから、それは仕方ないって、諦めてるかな」
自罰的な顔。嫌な顔だ。人のデートの最中に、他の女のことを考えないで欲しい。
話を振ったのはわたしなので、我ながらなんとも身勝手な欲求だ。
「わたしをデートに誘ってくれたのも、その一環ですか?」
「それは違う」
「えっ、は、はい」
当てつけに発した言葉は、即座に否定されてびっくりしてしまった。先輩も自分で少し照れている。
「わたしは、先輩がデートに誘ってくれて、嬉しいです」
こんなときじゃないと、口にできない言葉を思い切って言う。そしたら、今度は先輩が驚いた顔をしている。
「お前に素直にされると、なんか、違和感があるな」
「へ、変な意味に受け取らないでくださいよ! ……本を、読んだんです。昨日、食事についての」
「……食事の?」
「食事をおいしく食べるには、いくつかの要因があるみたいなんです。味だけじゃなくて、食感とか、見た目とか」
――あるいは、一緒に食べる相手とか。
「食べるときの雰囲気も、大切みたいなんです。なので、普段とは違う場所で食べたら、よさそうかなーって」
照れ隠し半分に言えば、先輩は失礼なことに、腹を抱えて笑い出す。
「な、なんで笑うんですか!」
「いや、昔から食い意地が張ってたよなって、思い出して」
「そ、そんなこと、ない……ような……」
「初めて会ったときのこと、忘れたのか? ほら、購買のパン」
「あ……」
思い出した。先輩と初めて会ったのは、中学生の頃。
購買に売っているパン、その最後の一つを目の前で取られてしまった。消沈していた私に、パンを譲ってくれたひと。それが先輩で、彼との出会いの始まりでもあった。
その先輩は、偶然にも、隣の家に住んでいる男の子だった。
わたしは中学に上がると同時に引っ越してきたから、友達も全然できなくて、先輩が隣の家に住んでると知ってからは、何かと理由をつけて遊びに行くようになった。
どうして、忘れていたんだろう。
めまいがする。頭痛がする。吐き気がする。まるで自分が自分じゃなくなったよう。
目を開けていられずに、先輩が背中をさすってくれる。
「大丈夫、じゃないよな。もう、帰るか?」
先輩の問いに、わたしはかぶりを振る。
「先輩。帰る前に、最後に一つだけ、乗りたいんです」
観覧車に乗るのは、いつ以来だろう。高いところから見る眺めが好きなのだと話せば、きっと子供みたいだと笑われてしまうから言えない。
「空いている遊園地は、少し新鮮でしたね」
観覧車はゆっくりと、時間をかけて昇る。外界から切り離されたみたい。遊園地を見降ろしてみても、誰一人として見当たらない。
「さっきも言ったけど、俺の、せいなんだ」
懺悔のように、先輩は話す。
「俺が失敗したから、みんなの夢とか願いが、よくない方へと叶うようになった。俺は命を賭けてでも止めるべきだったのに、生きたいと思ってしまった。だからみんなあんな風になったし、俺はめでたく死ぬことができなくなった」
先輩の話すことは、よく分からなかった。語られる内容は要領を得ない。いや、そもそもわたしは、あまり聞いていなかった。
先輩の横顔。夕焼け色に染まる横顔。血の赤。肉の赤。さっきまであんなに満たされていたのに、食欲で頭がいっぱいになってしまう。きっと大切な気持ちが浮かんだのに、隠れて見えなくなってしまう。
そうなる前に、伝えないといけない。
「わたしは」
先輩の胸に飛び込む。抱きしめる。
「わたしは、先輩がいれば、それで充分です。だから、安心してください」
「……そっか」
「はい、そうです」
身を乗り出して、目の前の首筋に、歯を当てる。
ありがとう、と言われる。次いで、何かの言葉が聞こえた。その言葉がわたしの名前だと、一泊遅れて気付いた。
先輩はもう一度名前を呼んで、わたしの頭を撫でてくれる。嬉しくなって、わたしは先輩にかぶりつく。
わたしはいま、きっと、世界中の誰よりも満たされていた。
せんぱいは、おいしい 大宮コウ @hane007
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