雪晒しの声
@iwao0606
第1話
しんしんと、それはしんしんと雪が降る。
あたりの音すべてその雪の粒に吸い込まれていくように、とても静かだった。
耳が痛くなるほどの静寂で、 さくさくとまだ柔らかい雪を踏みしめる音しか聞こえない。
寒い。
そう口に出せば、それまでのことで、この先へたどり着かなくなるような気がして、口を閉じた。
それに口を少しでも開けば、ひんやりとした空気が肺を満たし、痛くなる。布で口周りを保護していても、冷気は容赦なく入って来るのだ。
口を開かないこと、つまり、声を出さないこと。
ここで生き残るには一番大事なことなのだ。
慣れた足取りで遥か前を歩く案内人が、大きく手を振る。早く歩けと急かすという手信号に、思わずため息が出た。
お前が早すぎるんだよ。
のろま、とまた返事が来る。
いたずらにやりとりをし続けても、体力がいたずらに消耗されるだけだ。諦めて少し足を早める。
朝になれば、追っ手がやってくる。その前に俺はこの山を降りなければならない。
ここは土地柄、声を発することを厭う。寒さに喉がやられてしまうから、主に手信号で会話する。
そのせいもあってか、声帯が退化し、声を発することが苦手だ。
いや、声を発することを禁じてしまった。
山の神が棲まう聖域を穢すものとして、声は厭われるようになった。
静寂を尊ぶ村へ声をもたらした異邦人は、殺される決まりだ。
殺される可能性があることは、はじめから知っていた。
自殺じみた行為をしてでも、かつて村から逃げ出した母の故郷が知りたかった。
舌ったらずでろれつの回らない母の幼い声。
音だらけの世界は想像した以上に騒がしくて、母はよく寝込んでいた。それでも騒がしい世界を嫌うことなく、 様々な音に耳を澄ませていた。
そんな母が亡くなって、ふと彼女の故郷が知りたくなったのだ。
はじめは遠くから村を見ているつもりだった。
案内人に見つかるまでは。
必死で母から教わった手信号で会話をした。案内人はずいぶんと驚いた様子で手信号を返してくれたものだった。
母と幼いころ交わした秘密の手信号。それが使えることに喜んでしまった。
案内人はたくさんのことをたずねてきた。使える手信号すべて使って、自分の知っているちっぽけな世界を伝えた。
そのたびに案内人は目を輝かせて、手をパタパタさせた。
そろそろだ、と前を歩いていた案内人は、足を止める。息が切れ切れになって、ようやく追いついたときには、あたりがもう青に包まれていた。
やがて夜が明ける。
行け、と強く背中を押される。坂を転がるように落ちていく。
ずいぶんと転がったところで、なんとか止まる。服の中に入った雪の冷たさに身震いがする。
何するんだよ、と文句を言っても、案内人はのろまと返すばかりだ。案内人特有のはぐらかしだ。
ここから先は音を出しても許される世界だ、と案内人が教えてくれた。
お前はどうするつもりなんだ、と最後に聞きたかったことをたずねる。
案内人は答えるそぶりすら見せない。むしろ口布を外している。
喉がやられるぞ、と手信号を出す。
案内人が大きくひと息呼吸した。
「げぇんきぃ、でなぁぁぁ」
静寂を破る声。山々にこだまする、母と似た舌ったらずな声。
案内人は禁を破ってしまった。俺は声を忘れてしまった。
禁を破ってしまうことの意味を、俺は知っていた。だって村のひとに見つかった俺は、本来なら殺されるはずだった。声を伝えてしまったからだ。
こだまに導かれて矢の雨が案内人の体に降り注ぎ、その衝撃で斜面を落ちて来る。
受け止めれば、厚い毛皮の外套からでもわかるほどの血の滑りがした。
村のひともわかっていたのだろう、ここまで降りてくることはなく、踵を返して返っていく。
なんでだよ、と手信号を出しても、案内人は仕草ひとつ見せようとしない。
足らない頭で必死に考えてみる。
わからなくて、悔しくなる。どうして何も伝えてくれないのだろう。
俺を生かすための、村の矜持を損なうことのない方法だったのだろうか。
ひゅうひゅうと漏れる声に耳を澄ます。耳が痛くなるくらいの静けさに、小さな声はよく届く。握る俺の手にわずかな力で手信号を出した。
もっとおしゃべりしたかった、と。
その手が伝える手信号は、声とはまったく違うもので、俺はどうしようもなくて。
嗚咽の漏れる声を殺して、必死に指先で伝える。
雪に晒された声は白んでいき、やがて消えていった。
雪晒しの声 @iwao0606
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