第2話 浴室で二人

 

 ある日、冷たい雨が地面を激しく打ち付けていた。

 服も髪も雨に濡れて泥だらけになり、酷い有様である。

 オルディアは薔薇庭園で噴水の水音を横に、本を読んでいた。

 読書に熱中し過ぎて、天候の変化に気付かず、雨に打たれてしまった。人魚になり、歩く事が出来ず、地面を這っている。

「誰かいませんかー!」

 本も身体もびしょびしょだ。激しい雨の中に人の気配もなく、惨めな状況である。

 何度か叫んでみたがしわがれた低い声は容易に雨音にかき消される。

「オルディア様!」

 近くで自分の名が叫ばれる。激しい雨の音で近くに来ていたのも分からなかった。

「お怪我はありませんか」

「はい、平気です」

 助かった。オルディアは安堵した。

 第二王子付きの従者だ。ミラーの傍にいるのを何度も見ている。

「失礼します」

 従者はオルディアを抱き上げて、足早に歩き出す。いつも人魚になった時に運んでくれるのはミラーだったので、なんだか落ち着かない。抱き上げる腕が不安定な訳ではないが、ミラーの時とは何かが違う。

「オルディア!」

 建物の中に入る手前で後ろから声が掛かる。駆けつけたミラーと共に建物の中に入った。

「ミラー様」

 駆け寄って来たミラーに腕を伸ばすと当然であるようにオルディアを抱え直す。

 オルディアは従者からミラーへと譲渡され、ミラーの腕が頭に回り、胸の中へと導かれる。

 ミラーの腕に収まるとようやく安心する事が出来た。

「良かった。怪我はないか?」

「はい・・・・・・ありがとうございました」

 集まっていた人達とミラーにお礼を言う。そして、オルディアは更なる安心を求めてミラーの胸に頬を摺り寄せる。

「探したぞ。バカ」

 安堵したのはミラーも同様で、叱る声すらもオルディアの耳には甘く届く。

「ミラー様、他の人魚達も無事です」

 雨が降った時、ミラーは必ず動けなくなった人魚がいないか確認し、保護して真珠館に送り届けてくれる。

 人魚達の事を思って行動してくれる事がオルディアはとても嬉しかった。

                                         

「気持ち良い~」

 第二王子専用の浴室にオルディアの声が湯煙の中で静かに響く。お湯は入浴剤で白く濁り、赤い薔薇の花が浮かんでいる。

「そうか。なら良かった」

「もうっ!お風呂は入って来ないでって言ってるじゃんか!」

 胸元を隠してお湯に深く潜り、文句言う。

「どうせ下半身は魚だろうに」

「上半身は人間だよ! バカ!」

「おい、口が悪いぞ」

「知ってる事でしょ!」

「あんまり暴れるとお湯が逃げるぞ」

 浴槽のお湯が大きく波打ち溢れ出てしまう。

「お湯足すか」

 ミラーが鈴を鳴らすと、メイドに椅子とお湯の追加を頼んだ。本格的に居座すらしい。

 今日のように雨に打たれて身体が人魚になってしまった時は一度この浴室に通され、お風呂に入ってから真珠館に戻る。そして今回のように浴室まで押し掛けてくるのである。

 ミラーは別の部屋で入浴と着替えを済ませて来たようだ。浴槽にお湯が追加され、ミラーは浴槽に平行に並ぶように椅子を置いて腰を下した。

「私といる時はよく喋るな。口も悪い」

「ダメなの?」

 しわがれた声を人に聞かれたくない為、オルディアの口数は比較的少ない。何も気にせず話が出来る相手は限られている。

「構わない」

 静まり返った空間にミラーの声が優しく響く。この言葉にオルディアはほっと胸を撫で下ろした。

「美しいな・・・・・・お前の黒髪」

 バスタブに手を入れ、お湯に浸る黒髪を一房掬い上げて弄ぶ。

 一瞬、視線をミラーに投げたが抵抗せずにされるがままにしておく。少し恥ずかしいがミラーに髪を触られるのは嫌じゃない。

「本当は魔女かもって言われてますけどね」

「人魚姫に足を与えて声を奪ったという魔女か」

 人魚姫は悪い人間に捕まっていたところを王子に助けられ、お礼に王子へ歌を贈った。

 毎晩のように海に現れる王子をしつこく思った仲間達は二人の仲を引き裂こうとする。     

 仲間は声を失えばその恋は破れると姫に言う。その声を利用しようとしているだけだと。美しい声を利用して富と名声を得れば捨てられてしまう。心を踏みにじられ、一生消えない傷になる。命も危ぶまれるとも。          

 しかし姫は魔女と取引をして声と引き換えに足を手に入れた。声を失っても姫を愛した王子に感服し、魔女は足はそのままに、声を返した。姫は喜び、その歌声で国に祝福を与え続けているというのが王族とオルディアの先祖の昔話だ。

 物語通り声を奪うならまだしも、何故しわがれた声なのか理解に苦しむ。

「私は魔女が男だったのではないかと思う」

「男? どうして?」

「真実ほど歴史に残らないものだ」

 顔は見えないがすぐ横にいるミラーの声に憤りのような感情が混じっているのを感じる。

「ふーん……」

「この間から何だか悩んでいるように見えるが、気のせいか?」

 この人は私をよく見ている。私だけでなく、他の人魚達にも親切で優しい。人魚達が過ごしやすいようにと心を砕いてくれているのが伝わる。

「……私は、この声はこのままでも良いって少しだけ思ってる」

 以前よりもその気持ちが日に日に強まっているように思う。ロイスに会って嫌味を言われた日から特にだ。

 今の王も人魚達にとても親切だ。穏やかで優しい人柄で動物や子供にも好かれている。

 口には出せないがロイスが即位するのが不安なのだ。特に酷い事をされた訳ではない。

 しかし、あの冷えた瞳に自分達がどんな風に映っているのか、考えると怖くなる。  

彼が即位した時、国の繁栄と祝福を願って歌が歌えるのか妖しいものだ。妖しいというより確信に近い。

「私は……祝福を願えない」

 オルディアは口に出してはいけない事を口にした。戸惑う心を示すように湯船に波紋が広がる。

 顔を強引にミラーの方に向かせられ、頬に手を添えられる。温かいお湯を手で掬い、露出している肩や首、頬にかける。お湯に濡れた手のしっとりとした感触が気恥ずかしくも気持ち良い。

「王子の祝福など願わずとも。私がいる」

濡れた親指がオルディアの唇を撫でる。指の腹がしっとりと吸い付くようで、確かな感触を残して離れて行く。

「ゆっくりしていろ」

 ミラーはそう言ってバスルームを出て行く。

「自分だって王子じゃん」

茹でたタコのように紅潮した顔を見られずにすみ、オルディアは安堵した。

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