第4話 人魚姫は恋を知る
冷え冷えとした場所に重い鎖が擦れる音が響く。
暗く湿った空間の中、鎖で手足の動きを封じられたミラーの姿があった。
「まだ生きていたのかい? しぶといね」
ロイスは檻の外から鎖で繋がれた弟を見下して言った。ロイスの立つ場所はミラーがいる場所よりも背丈分高くなっている。
「私には姫の加護ある。誰かと違って」
ミラーの余裕のある態度がロイスには鼻につく。
「ふん、そちら側に行って殴ってやれないのが残念だよ、愚かな弟よ」
服装も髪も汚れて乱れているのにかかわらず、ミラーの持つ洗礼された雰囲気は崩れていない。もっとみっともなく喚いて、叫んで、自分に許しを請う無様な姿を想像していたのに。
その姿を見て嘲笑うのを楽しみにしていたというのに。
ロイスはギリギリと奥歯を噛み締める。
「ミラー様に何たる侮辱!」
「この方がどれ程立派なお人か分からず!」
「止めろ」
牢のなかにはミラーだけでなく、従者七人が鎖で繋がれている。数日前、急に半日ほど視察へと出なければならなくなり、帰える途中で突然ロイスの部下に拘束された。
「この空間はいずれ沈む。お前の顔を見るのも今日で最後だ。姫に遺言があれば伝えておいてあげるよ」
勝ち誇った笑みを浮かべロイスは言った。
部屋の一角は海へと通じる大きな穴があり満潮になる頃にはこの空間は海水で満たされる。満潮の時刻が近付き、水位が急激に上がり始めていた。
「だからあの時言ったんだ。王子の愛などたかが知れていると」
呟くような声はロイスの耳には入らない。
「わざわざ伝えに来なくてもいいですよ」
空間を裂くようによく通る声が響き渡ると同時に海面から何かが飛沫を上げて現れた。
「本人がここにいるので」
黒い髪を鬱陶しそうに払い、はっきりと言い放った。その声はしわがれた老婆のようなものではなく、透き通るような美しい声だ。
しかし、その美声には壁を突き通すような鋭さと岩をも震わせるような怒りが滲んでいる。
「ひ、姫……何故ここに……それに、まさかその声は……?
」
「オルディア……」
「ミラー様……無事で良かった」
オルディアの目が大きく見開いたかと思えば、泣き出しそうな表情に変わる。しかし、すぐに毅然とした態度でロイスに対峙する。
「何故こんな事を?」
「貴女達人魚を良いように使うにはこの男が邪魔だからですよ、姫」
その言葉にオルディアは嘆息する。
「聞くな! オルディア!」
「人魚は少量でも莫大な資金を生み出す。髪、皮膚、鱗、血の一滴まで、一匹で城が建つほど。しかも容姿の良い者がほとんどで下半身は都合良く人間の女になる。また、一匹買って孕ませれば芋づる式に増やせる」
「それ以上オルディアの耳を汚すな!」
手足を拘束されたま鉄格子に体当たりでもしそうな勢いでミラーはロイスに言い放つ。
「しかし、国の象徴たる貴女はこの国に必要。どうせなら声は美しい方が良い。そう思い調べたら過去にも貴女のように声がしわがれた人魚がいた」
「え?」
「その人魚はある日突然、声がしわがれた。しかし、恋を成就させると元の美声を取り戻している。今の貴女のように。それはミラーも知っていたはずだ」
「え!?」
オルディアが驚嘆の声を上げる。ミラーに視線を向けると表情なく沈黙していた。
「ミラーは声を取り戻す方法を知っていながら、貴女にそれを教えなかった。何故かは知らないが、それでは都合が悪い。そして考えたんだよ。その恋を成就させて声を取り戻すよりもミラーを亡き者にし、私に気持ちを向けさせて声を取り戻せばより都合が良いと」
「……そう」
「随分と、落ち着いていますね。姫様」
顔色を変える事無く黙っていたオルディアにロイスは言う。
「驚かないよ。私の想像力の方が遥かに上だったみたいだし。それに、貴方の都合の悪い展開に持ち込めた事を喜べる余裕がある」
「強がりを。ミラーはここで死ぬよ? 鍵は海に放り投げたからね」
海水が満ち、胸の辺りまで迫っている。
今日は一か月で一番潮が高くなる日だ。長いは出来ない。
「放り投げないと安心出来ない程余裕がなかった訳?」
「……声が戻ってご機嫌なようだね。今日はよく喋るじゃないか」
「オルディアは元々饒舌だ、貴方が知らないだけだ」
「来た」
気付くと上に続く階段を複数の足音がこちらに向かって降りて来る。それは王直属の兵士達で地下に降り立つとロイスとその従者を一瞬にして取り囲んだ。
「ロイス、これは何の真似だ」
「へ、陛下、これは……」
鎖で繋がれ、水責めに遭っているミラーと従者を目にして状況を瞬時で悟った国王は険しい表情でロイスを一瞥する。
「ロイスを捕えよ」
「陛下! お待ち下さい! 私は彼らを助けようと……」
蒼白した顔のロイスにミラーが言った。
「だから言った。私には加護があると」
ミラーは水中でこれ見よがしにオルディアの身体を引き寄せ、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「錠の鍵はない! 生きて出れるものか!」
激昂したロイスを兵士達が拘束する。
「姫様、時間がありません」
リズや他の人魚達が現れ、囚われた従者達に寄り添う。水が首の辺りまで迫っていた。
従者達も生命の危機に動転している。
「陛下、私共がお助けしますので、陛下もここから離れて下さい」
不安そうな顔をして、この場を離れない国王にオルディアは言った。すると国王は驚嘆したような表情を見せる。
「鍵ならあるのでご心配なく」
リズが順に手足の戒めから解放する。
鍵は真珠館に届けられた光物の中にあった。
その様子を見た国王は大きく頷き踵を返す。
オルディアはミラーの身体を支えて水中へと潜水した。
「お前、私の事が好きだと自覚がなかったのか?」
入浴と着替えを手早く済ませたミラーが浴室に現れ、おざなりになった話の続きをしていた。
「だって、男性は貴方しか知らないんだから他と比べられないでしょう」
「私がいない間に誰かに求められた訳では」
「違うってば。それよりも声の事、知ってたのに何で教えてくれなかったんですか?」
オルディアが不満そうにミラーを睨む。
「私はどんな声だろうとお前を愛せる」
真摯な言葉がオルディアの胸に突き刺さる。
「美しい声などなくとも構わない。なのに何故、群がる虫を増やすような事をしなければならない」
独占欲に塗れた台詞にオルディアは目を剥いた。これは幻聴なのではと錯覚しそうだ。
「好きだと言ってしまえば恋は成就し、声が戻る。そう思い、気持ちは言葉ではなく態度で示していた。長い間ずっと」
独占欲が強い上に、告白すれば恋は成就すると確信しているとは大した自信である。
「そこまで自信があるのにどうして、私が他の人との恋を成就させたと思うんですか?」
「不安だって当然ある。正直、お前の声を聞いた時は気を失いかけた。他の男の入る隙などなかったはずなのに、私のいない間に他の男と結ばれたのかと」
「違うって。私の恋はまだ成就していない」
大体、この人が特別な存在だと自覚したのも先程の事だ。愛されている自覚はあった。しかし、愛しているという実感は薄かったかも知れない。そういう意味ではオルディアが自分の気持ちに気付いた事によって恋は成就したと言える。
「ならば、成就させても良いか?」
ミラーがお湯に浸かるオルディアに覆いかぶさり、顔を近づける。オルディアはお湯で濡れた手でミラーの頬を撫でた。
「溺れても知りませんよ」
「構わない」
ミラーの瞳が熱を孕んで揺れている。
オルディアはミラーの首に腕を絡め、そのまま浴槽に引き摺り込んだ。
一冊の文献にはこう記されている。
“変声、恋成就せば美声へと変わる”
そして注視すべきは最後の文。
“黒き髪の姫、愛し慈しめば国乱れず平和なり。銀糸の髪を持つ者、魔力の鱗片あり。決して不興を買うべからず”と。
変声人魚と無自覚な恋 千賀春里 @zuki1030
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