2. 浮かぶ泡は時とともに
第14話 前も今も不意でした。
季節の変わり目はいつも不意に訪れる。
心地よかった秋の陽気がいつしか雪の降る寒空に変わっていたり。体の冷える春先の雨模様が気づけば肌を焼く炎天になっていたり。
日本人である限り四季を感じるのは当然だろう。気候の移り変わり程度で驚きなんてしない。断じて驚かない。寒暖差の激しい今日この頃ではあるけれど、凍てついていた風も痛くないほどに和らいできたかな、なんて思うぐらいのはずだ。
だから、声を大にして言いたい。僕が今この瞬間に驚嘆しているのは春の訪れを感じたからでは決してないのだと。
『さつきちゃんが帰ってきたよ』
全てはこのメッセージが原因だった。春とともに送られてきた、目を疑うようなメッセージ。そんなものを見てしまったせいで僕は驚いている。
ニガさんから送られてきたLINEのメッセージは、恒例のセールスメッセージなどではなかった。ましてや、鬱陶しいまでに送られてくる今朝の自撮り写真でも、今何してる? メッセージでもない。
『さつきちゃんが帰ってきたよ』
この一文は誰へ向けられたのものなのか。何を伝えようとしている文章なのか。一瞬、理解できなかった。
時が止まった。いや、時間が止まるなんて妄想の世界だけにしてほしい。身体の動きが止まっただけだろう。
窓の外でカラスの群れが騒々しく鳴きはじめて、ようやく自分が寝起きであることを思い出した。
ベッドの上をちらりと見やる。スマートフォンの画面が薄暗がりの中で淡く光っている。驚きのあまりベッドの上へ放り投げてしまったのだ。
再び手に取り、覚めきった目を何度も入念に擦った。
『さつきちゃんが帰ってきたよ』
浮かぶ文字には何一つ誤りがない。驚きは次第にざわめきへと移り変わる。
四年前のホワイトデーをふと思い出した。そうか、もう四年も経ったのか、と物思いに耽りたくもなる。
あの日から雨籐紗月は僕の目の前から姿を消した。
雨籐さんは何の前触れもなしに突然告げたのだ。そのときの顔が今もまぶたの裏にこべりついて離れない。
『今日の夜、フランスへ発つの』
決意と期待と憧れと、不安と寂しさと悲しさと。
震える声には目に見えない何かが詰め込まれていた。
数えきれないほど多くの感情が彼女の頬を伝う涙に含まれている気がしたのだ。
雨籐さんは静かに泣いていた。発散するように喚き散らすのではなく、溢れ出る感情を大切に咀嚼するように。
彼女はフランスへ発つ理由を決して話そうとしなかった。聞き出せなかった。理由を知ることができなかったことよりも、彼女の心に踏み込めなかったという事実のほうが僕の心臓を抉った。
だからせめて、想いを込めることだけはした。
きっと僕の知らない場所で、何かを成し遂げて、必ず戻ってくる。
何の根拠もない。期待混じりの妄想でしかないのかもしれない。
それでも僕は、魅力の増した雨籐さんが再び目の前に現れることを想像して。
笑顔で彼女を見送った。
あれから四年と少し。待ち焦がれていたことは言うまでもないけれど、それ以上に怖気づいている自分がいる。
どんな顔をして彼女の前に立てばいいのだろう。連絡はすでに途切れていてどれくらい前なのかも覚えていないほどだ。顔見知りとはいっても数か月の間だけで、忘れられている可能性のほうが高い。
会って後悔しないだろうか。自問自答を繰り返す。そのたびに彼女の姿を思い出してしまう。あの豊満で柔和な弧を描く胸さえも鮮明に想起させるのだから、手に負えない。あれは本当にけしからない。
ゆっくりとクローゼットのほうへ足を踏み出した。途中、一冊のライトノベルが視界に入った。『カコカラカコカ 2巻』だ。
止まっていた過去の続きは過去じゃない。今この瞬間に繋げてしまおう。
特別な一日を忘れてしまわないように、繰り返し心の中で唱え続けた。
――雨籐紗月が帰国した。
男子高校生がカフェめぐりをするとこうなりそう 八面子守歌 @yamasho
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