第13話:『紫陽花』『恋人』『代用』

 大好きなお姉さんが亡くなった。


 それは、私が小学校二年生の六月のことだった。幼かった私はただ頭が真っ白になるばかりで、涙を流すことすらできなかった。


 優しくて、綺麗なお姉さん。近所に暮らす高校生の彼女は、私にとても良くしてくれた。勉強を教えたり、手作りのお菓子を振る舞ったり。私が学校で嫌なことがあった時には、甲斐甲斐しく慰めてくれた。まだ制服に身を包んでいたお姉さんだけど、その優美な立ち居振る舞いは、私の知るどの大人よりも凛々しく、親しみ深く感じさせた。


 私は、そんなお姉さんが大好きだった。彼女のような立派な女性になれたらどれだけ素敵だろうと夢見ていた。


 それなのに。



 通り魔の犯行だと言われた。

 お姉さんは亡くなった。犯人は未だ捜索中で行方が知れない。何も、無い。だから私は、何一つとして実感を得ることができなかった。


 私は事件の現場に幾度となく足を運んだ。歩道の端、無色なアスファルトの上にご両親の黄色の献花が供えられていた。私はいつもそれを眺めていた。うんと息を詰めて、涙を流そうとしたけれど、悲しみが雫になることはなかった。


 あるとき、重く垂れ込めた灰色の空から、雨が降り始めた。梅雨の雲は、私なんかよりもよほど素直だ。私は持っていた赤色の傘を開き、献花の上に被せて置いた。

 お姉さんを雨から守ったという自負がなかったかと言えば嘘になる。だけど、その光景は、まるで私からお姉さんへの最後の贈り物が使い古した傘になるようで、何だか嫌だった。


 もっと綺麗なものをお供えしたい。私は辺りを見回し、生け垣に咲く薄青の紫陽花あじさいを見つけた。雨に濡れた茎を折り、私はその紫陽花を摘んだ。

 傘の下、献花の傍に紫陽花を添える。私はお姉さんのことを想った。笑顔と、優しい声音、柔らかい手のひら。同時に、折ったばかりの紫陽花の茎の感触が思い起こされた。お姉さんと花の姿が重なって映り、命の終わりという共通項を子供ながらに感じ取った。

 雨に打たれて冷える身体と相反するように、熱い感情のうねりが胸の芯に広がり始めていた。


 あと数刻の孤独があれば、私は涙を流していたと思う。


 けれど唐突に現れた人物に声をかけられたために、私はその機会を失ってしまった。


「死んでから花を欲しがる人なんていないよ。ただの一人もね」


 落ち着き払った低い声。振り向いた先には、詰襟の学生服を着た男性が立っていた。傘を持たず、私と同じく雨に打たれていた。男性は花に被せられた私の傘を取り、そっと閉じた。


「彼女は雨が好きだった。こういう天気の日には、よく歌を口ずさんでいたよ。風邪を引くからってこっちは止めるんだけど、彼女は全く構わないみたいだった」


 それは、私の知らないお姉さんの姿だった。


「お姉さんのこと、もっと聞かせてください」


「いいよ。でも、その前に」


 彼は傘を私に差し出した。


「これ、君のだよね」


 私はそれを受け取った。しかし手に提げるだけで、雨から逃れるために使うことはなかった。そんな私を見て、彼は微笑んだ。


「君は彼女のことが好きなんだね」

 私は頷いた。

「彼女のようになりたいんだね」

 再び、私は頷いた。

「それは素敵なことだと思う。花をあげるよりも、ずっと」


 彼が笑って、私も笑った。



 それから私は、お姉さんの軌跡を追った。

 彼女と同じ学校に通い、同じ嗜好を身に着けた。話し方も、表情も、髪の長さも、彼女に揃えた。


 もうすぐ、私は結婚する。

 相手は、生前のお姉さんと恋人だったという男性だ。あの日、紫陽花を供えた私の前に現れた彼のことである。

 彼に教わった通りに、私はお姉さんの影を求めて成長した。まるで彼女の代用品だと揶揄する人もいるけれど、知ったことではない。


 そういえば、紫陽花の花言葉は「移り気」や「無常」だと言う。けれどもやはり、知ったことではない。



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感想・振り返り


 紫陽花の花言葉は「移り気」「無常」「浮気」で、妙にネガティブ寄り。時期によって花の色が変化することに由来しているとか。ただし色によってはポジティブな意味が追加されるよう。

 小学生のくせに堅苦しい言葉使いやがって! ってわけではなく、大人の「私」が回想してる設定です。幼い子供の一人称で文章を書ける人はすごいと思う。自分には難しいと悟った。

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